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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 「そふてにっ」 5→6

 個人的には充分楽しませてもらった、たいへんくつろげる一作。世間的にはあんまり話題になっていないようなのが残念至極。大量消費の世の中で、どうしてもこういう押しの弱い(セールスにお金がかかっていない)作品は不利益を被っている気がします。

 ちょっと話題がそれるが、私は「質アニメ」という言葉が嫌いだ。どこに生まれてどんな経過を経て育った言葉なのかは知らないが、どうやら某大手アニメブログあたりでDVDの売上についての話題が登ると持ち出される言葉のようである。端的に言えば「クオリティが高く、一部の蘊蓄好きや通ぶりたい人間が評価するが、売上が伸びずに期待はずれに終わる作品」くらいの意味になるのだろうか(あくまで私が見たところの判断だが)。

 確かに、世の中にはアニメを評価する大きく2つの基準があり、それが「売上」「質」と分類されやすいことは事実だろう。もちろん、この2軸に相関性はあるわけだが、「ショボいくせに売れてるよな!」とか、「あんなに面白くて素晴らしいのに何故売れない!」という、主観と売上の齟齬を埋めるためにはこの2種を同値にしない方が良いのである。そして、実際にソフトの売上だけがアニメの出来を評価する軸にすることは出来ないので、この2軸は存在していると見ていいだろう。

 そして、現状では「質アニメ」は揶揄の言葉として用いられることが多い。「散々持ち上げていたのに売上が伸びないなんて大したことのない作品だ」と。売上による評価というのは、売り手側からすれば当然必要な基準であろうし、1つの成否判断として正統であるが、それを受け手側が評価するのはどこか不当である。「何枚ソフトが売れたか」はあくまで多数決の原理でしかなく、多数決だけが正しさでないことなど、誰もが知っていることなのだから。商売でアニメを作る側が結果を見るときに参照する軸として存在しているものを、受け手側が「売れたから面白いのだ」という風に再解釈するのは、一切意味のない行為なのである。

 そして、更に「質」という基準も非常に曖昧である。例えば最近でいえば「STAR DRIVER」「まどかマギカ」なんかは「質」が高いと評される作品だろう。つぎ込まれた予算が大きく、関わったスタッフの数も莫大。そういう「手のかかり方」が「質」と表されるものである。また、スタジオごとの性格もこの「質」に分類されやすく、ひょっとしたら「ムント」なんかも質アニメに分類されるのかもしれない。もちろん、そこに明確な分類基準はない。

 では、話を戻してこの「そふてにっ」は「何アニメ」なんだろう。現時点では、どうも売上が伸びるようには見えないので、「成功例」とは言われまい。更に、XEBEC制作の作品は「質アニメ」とは言われにくい。「もっとTo LOVEる」や「れでぃ×ばと」などは売上もボチボチだったが、そういう場合にはむしろ「萌えもの好きの固定客がいるから」と判断されるため、「作品自体のクオリティが高いスタジオ」という認識ではない。となると、売上も「質」も高くないこのアニメは「駄作」と言われるのか?

 もちろん、私はそんな風には考えたくない。かかった予算、割かれた人員がどの程度かは知らないが、おそらく話題になるような作品(今期なら「タイバニ」や「いろは」など)に比べたら期待値は低くて、そこまで充足したバックアップは得られていないだろう。その上で、限られた枠を飛び出し、アニメ独自の面白さを出そうとする製作側の意気込みは充分に感じられた。上坪監督の駆使する奇妙なアートワークや、脱力したシナリオラインをきっちりと1クール運びきるシリーズ構成、そして見やすさと楽しさを優先させたシンプルな画面構成など、この作品は、充分にオリジナリティがあり、見るべき点の多い「佳作」だった。もちろん、新規なチャレンジもあるし、いわゆる「萌えもの」に傾いた作品ではあるので客層を選ぶ部分もあるだろうが、見せたい部分を切り取り、それを十全に活かした状態で画面にのせようという意気込みは評価されて然るべきだ。多分、こんなところでこんなことを書いていても誰も賛同はしてくれないかもしれないが、今期の作品の中でも、屈指の「良いアニメ」だったと、改めて記しておきたい。上坪監督、ありがとうございました。

 そして、この作品のキャストの充実っぷりは、これまた今期の作品の中では屈指。伊藤かな恵、喜多村英梨と揃えたメインの布陣を、伊藤静、矢作紗友里、明坂聡美の中堅層で囲み、ゲストキャラにも井上麻里奈や沢城みゆきが投入されている。あとはほら、最終話ではsphere全員集合とかしてるし。実は、かなり贅沢な使い方だったりするのである。そういう客層がもうちょっとついてもいいんじゃないかと思います。そんな中でも地味に気になったのが、みっしー役の松本忍という人。今まで認識したことがなかった男性キャストなんだけど、すっごい自然に入ってきたので調べてみたら、それなりにベテランと呼べる経歴の役者さんのようである。これを契機に停滞し続ける男性声優業界の風通しを少し良くしてもらえないもんかな。

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 「まりあほりっく あらいぶ」 5→5

 シャフト中毒者憩いの場。今期はコレの他に「電波女」があるわけだが、こちらの方が純正シャフト風味が強く、何にでもマヨネーズをかけたがるマヨラーの味覚と同様に、とにかく新房演出が入っていないと落ち着かないシャフトホリックな人間にとっては、禁断症状を抑えるための大切な補給地点となっていた。

 改めて振り返ると、この作品はかなりシャフト演出との相性が良い作品だったことが分かる。もともとのギャグのメタレベルが高くて捻くれているので、普通の学園ものっぽい演出にしてしまうとどうしても齟齬が生じてしまう恐れがあるのだが、はなからメタ勝負をホームグラウンドにしているシャフトなら、この作品のネタを全て拾いきり、100%の状態でアニメ化することが可能である。実際、2期だけを取ってもかなこがペナルティで発言権を剥奪されるエピソードとか、ひたすら注釈が連打される鼎神父の台詞の使い方とか、言ってしまえば「原作のネタをそのまま持ってきただけ」の部分も、いかにもアニメらしいエキセントリックな現れ方になっているのは、シャフトとの親和性の高さが分かりやすい部分ではなかろうか。

 そして、本作は特に安心して楽しめるシャフト成分が多かった。最近は放送本数も増え、マンネリズムを打開する意味でも様々な方向性にチャレンジしているシャフトは、その過程で「まどマギ」のような爆弾を生み出すことに成功しているわけだが、拡散と浸透が起こればその根本はどうしても揺らいでしまうもの。そんな状況下で、たとえ「いつも通り」と言われようとも、「らしさ」が前面に現れる作品がちゃんと作れているという状況はファンにとっては嬉しいものだ。

 本作は1期とスタッフが入れ替わったので龍輪さん・宮本さんという代表者2人がはずされているのだが、それでもちゃんと新房演出の遺伝子は受け継がれている。チーフディレクターを務めたところともかず氏が良い働きを見せてくれたおかげだとは思うが、個人的な手応えとしては、多くのコンテ・演出を務めた森義博氏の功績が最も大きいのではないかと思う。「ひだまり」無印の頃から新房・尾石・龍輪・宮本といった手練れと繰り返し作品作りに携わってきた森氏は、スタッフのメインの部分にこそクレジットされないものの、今となってはシャフトの申し子とも言える伝統の後継者となっているように思われる。この「まりほり」を見ていると、「ひだまり」「絶望」「夏のあらし」「ef」など、過去のシャフト作品のエッセンスがそこかしこに感じ取れる、いわば一大歴史資料館のような仕上がりになっているのは、そうしたスタッフの蓄積と実績から得られるものだったのではなかろうか。……まぁ、興味のない人にはこれほどどうでもいい要素も無いだろうけど。

 あとは、毎度毎度のことだけどやっぱり「シャフト声優」たちの競演の場としての存在感だろう。驚くべきことに、次の夏クールはシャフト制作の作品が1本もない珍しいシーズンとなる。この間に「化物語」の劇場版を粛々と進めてくれるとありがたいのであるが、その間、「シャフト声優」たちが集まって馬鹿をやる光景が見られなくなるのは寂しい限りだ。こっそり「絶望」のOVAとか出してくれないものだろうか。

 小林ゆう・井上麻里奈・沢城みゆき・松来未祐・後藤沙緒里・新谷良子(あと杉田)といった素晴らしき案牌が居並ぶ鉄壁の本作であるが、なんと言ってもMVPは真田アサミしかいないだろう。唯一無二の存在感を放つ、最低の女性主人公宮前かなこ。そのかなこさんのえげつなさ、どうしようもなさを遺憾なく発揮出来るのは、アサ姉の紙一重の演技プランがあってこそ。息も絶え絶えにしゃべり続けるアサ姉を、アフレコスタジオにいる「妹」沢城みゆきがどんな顔で見守っているのかが気になるところです。

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 30歳の保健体育」 2→3

 べっ、別に1話放送時点で散々あきれ果てた割には最後までちゃんと観て「案外悪くなかったかな……」とか思ってないんだからねっ! ……うん、ごめん。

 1話時点でこき下ろした最大の理由は実写パートだったのが正直なところで、製作陣の間でどのような判断があったかは知らないが、あまりの不評っぷりに対応した結果だったのか、きっちり2話目からは削除。おかげで毎週再放送という間抜けな構成になったものの、減点要素は綺麗に削減することに成功した。あとはまぁ、ふつーの「質の悪いラブコメアニメ」程度になったのであった。ちっ、おおっぴらに叩く要素が無くなったらつまらねーな。

 もちろん、減点要素が減ったからって特に褒めるべき作品ではない。フラッシュアニメに毛が生えた程度の内容とか、ギャグとしても対していじり甲斐のないネタ部分とか、視聴を辞めても一切後悔しなかったであろうことは断言できる。それでも、誰もやろうと思わなかったであろう中身だったからこその奇特さというのはあって、15分×12話でここまで愚直に、妙なテーマ性を持って1つの恋愛話をやるというのは一応のセールスポイントになっていたのではなかろうか。唯一の疑問点は、「原作者はアニメ化されて嬉しかったんだろうか」という部分くらいである。そこそこ内容のある話だったなら、もっと真剣に作れば作れただろうと思うのだが。……あー、でもやっぱりそんなに真面目に取り扱う作品でもないかー。

 個人的視聴モチベーションとしては、やっぱり中の人パワーが偉大。キタエリの2役はなにげに贅沢な使い方だし、置鮎も水を得た魚のように楽しそう。立木さんの放送規声も冴え渡ろうというものだ。そしてメイン2人となった下野紘・名塚佳織の絶妙な役作り。下野お母さんの冴え渡る童貞感とか、今や人妻となったかもさんの押し引きの巧みさは、今となっては「ここしかない」と思える素晴らしいキャスティング。かもさんボイスで「私、赤ちゃんが産みたいです」とか言われたらどうにかなるぞこの野郎。

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Dororonえん魔くん メ〜ラめら」 5→6

 馬鹿なことって素晴らしい、そう教えてくれた作品。何事も突き抜けるというのは非常に大事なことで、この作品も徹底して、徹底し抜くことによって得られた何かが間違い無く存在している。ただ、そのために払った犠牲も大きいとは思うが……

 あまりの密度と無体なネタ回しのおかげで、個人的にはNGとも言える「本気で観ない」という視聴体勢を取ることになってしまったのは汗顔の至り。でもね、これね、本気で真正面から視聴しようとすると、翌日の生命活動に支障を来しそうなレベルだったんですよ。とにかくすごいんですよ、良い意味でも、悪い意味でも。去年も「ミルキィホームズ」「パンスト」などの「観ててキツくなるレベル」のギャグアニメはあったけど、この作品の場合、それらとも違って、本当に体力が削られる何かを持っていた気がする。それが何だったのかは定かでないが、再視聴する勇気と力を手に入れた時に改めて考えてみたいものだ。

 作品コンセプトが「昭和70年代」ということで、掘りだそうと思えば12話のシリーズからはみ出るくらいの大量のネタ要素が転がっている。それを出し惜しみすることなくとにかく詰め込んで詰め込んで詰め込んで詰め込んで、そして作品として破綻しないレベルに収める。これだけでも脚本家にはとんでもない作業量。監督構成を全て切り盛りした米たに監督の辣腕には惚れ惚れするばかり。そして、ネタがひどいものなのだからその話題性だけで突っ走る作品作りというのも可能だったはずなのだが、それだけで妥協することなく、画作りの側面からも積極的にチャレンジを仕掛け、並み居るライバル作品の中でも屈指の高品質を実現させた。改めて考えれば、これほどまでに贅沢な出来上がりはなかなか見る機会もないのではなかろうか。

 永井豪作品という土台は、絵に要求するレベルはあまり高くないものだったろう。適当に描いても「味があるね」とかいえばごまかせるレベルだし、この作品を好んで見るような視聴者層は、そこまで画質自体には拘泥しない人間が多いと思われる。その上で、ブレインズ・ベースの無駄遣いとすらいえる全力投球。永井豪漫画+キムタカによるコテコテの現代エロ絵柄という夢のコラボレーションは、アニメにおける大きな1ピースを必要以上の満足度で埋めてしまった。基盤が安定したからこそ、数々の「遊び」を好き放題画面に放り込めたし、最終話のあまりに酷すぎる画面のカオスなども導入できた。やりたいことが明確だったからこそ、それを表現するために必要だったパーツを全て集めきることが出来たのだろう。

 でもまぁ、本当に疲れる作品だった……アニメ視聴は体力勝負とはいえ、ここまで露骨にHPが削られる経験もなかなかない。体力がありあまる若い時に観ておくべきだな。良識が疑われそうな発言だが、「昭和ネタが分からない若い人にこそ積極的に見て欲しい」作品といえるかもしれない。永井豪を観て育った子供は、きっと立派な大人になるに違いない。

 そして、最大級のお疲れ様はやはり中の人に贈られるべき言葉だろう。作品が「昭和」ということもあり、毎回のゲストキャラも含めてあまりに贅沢すぎるラインナップを取りそろえた本作キャスト陣。メインを張った山口勝平、能登麻美子、(あと子安)の3人はもちろんのこと、加藤精三、大塚周夫、銀河万丈、若本規夫、飯塚昭三、家弓家正などのプレッシャーが半端じゃない。大オチに野沢雅子・坂井寿美江というのも仰天である。まさに世代を超えた夢のコラボレーションだ。こういう遊びがあるからネタ作品というのはやめられない。

 そんな中で、今回敢えて敢闘賞を贈りたいのは、ハルミ役の川澄綾子である。既にベテランの域に到達した我らが川澄であるが、今回は久し振りにその存在感をフル回転させてくれた。この手のギャグ作品は突っ込み役の善し悪しで生き死にが決まると言っても過言ではないが、その重責をたった1人で乗り越えてしまったのは圧巻。やはり私のような世代は、彼女の声から逃れることは出来ないのであろう。川澄フィーバーに時代の終わりは無い。

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 「Aチャンネル」 4→4

 今期最初のゴールインはこの作品。簡潔にまとめるなら、「何かあるかと思って観ていたけど、結局何も起こらなかった作品」。現代アニメの立ち位置としては象徴的な一作ではあると思うのだが、最終的にそこに大きな存在意義を見いだすことが出来なかったのはちょっと残念。

 先に断っておくと、最後まで特に不平不満があったわけではない。小野監督の画面作りは「萌え」特化の作品性にマッチしていたと思うし、過度のデフォルメを受けたキャラクターたちの動かし方、画面の品質については、一定以上のものをキープしていたと思う。色々と実験的な試みもされていたし、30分をダラダラ見続けるのに足るだけの内容であった。ただ、その上で1段上の要求をしようとすると、それが返ってこなかったのが勿体無いと思うのだ。

 この作品を「あんまり楽しんでないなぁ」と思うにつけ、これが「けいおん」とどう違うのか、ということをよく悩む。おそらく見る人によっては「ダラダラした日常生活を描くだけの山もオチも無い話だし、女子高生の日常とかいいながら、萌えオタに都合の良いだけの気持ち悪い内容でリアルとか片腹痛い」という感想が出ているはず(実際に「けいおん」の否定派の意見はそういう主旨が多いはずだ)。その上で私が「けいおん」を強くプッシュ出来たのは、京アニ品質の有無を言わさぬ迫力もあったが、日常に潜む何気ない出来事の「ドラマ」を十全に引き出すことに成功していたと考えたからだ。大きな事件など起きずとも、学園生活における青春というのは、諸々の日常生活、イベントの中にこそあるもの。そうした等身大のドラマ性が、アニメにする価値を含んでいたと考えた。

 一見すると、この「Aチャンネル」も同じ評価を受ける権利を持っている。事実、掲載誌は同じジャンルだし、原作漫画の主旨はほぼ同様と考えられるだろう。アニメーション自体の画質についても、スタジオ五組は充分にその任を果たしたといえるだけの丁寧な動画が実現していた。しかし、そこまで分かった上で、この作品はあまりに物語性が希薄だったように思う。

 致命的にやりづらい要因は、1話の時のもぼんやりと不安視していたのだが、メインキャラ4人の中でトオルだけ学年が違い、4人の共通領域が確立しない点。部室や教室などでの対話が日常のドラマ設定に固定できず、それ故に交流の種類が限定的になる。通学路や自宅での勉強会、季節のイベントなどでの4人が主に描かれるわけだが、大上段に構えられた「コミュニケーションの基点」が存在していないので、この4人の関係性をどう固定していいのかが最後まで分からずじまいだった。例えば物語後半にはトオルが受験や進路との絡みでるんとの関係性に色々と頭を悩ませるドラマがあるわけだが、これが「4人のドラマ」ではなく、あくまで「2人のドラマ」にしかなっておらず、大きな心の動きを表現しづらい。「トオルが他の3人と出会える機会」があまりに限定的で、日常系とはいいながらも、あまりにパターンが特定されすぎた、本当の「惰性」に繋がってしまっていたのも痛い部分。

 また、やっぱり個々のキャラクターの設定が中途半端だ。るんは歴代「日常系」主人公の中でも突出した異常性を有するキャラだと思うのだが、あまりにトビ過ぎると「日常性」は落ちる。そして異常性の描写に力が入りすぎたのか、彼女の回りに人の輪が出来上がる不思議なカリスマのような要素の描出が薄くて、「トオルはまだしも、よくこいつらはこんな面倒な奴の相手するよなぁ」という不信感が拭いきれなかった。他2人の突っ込み側についても、「ありがちな要素」をとりあえず切り貼りした典型的なキャラ造形だが、それらのファクターがるんの持つ異常性と共鳴する部分が少なく、「個々にやりたいネタをやり散らかしている」という印象が強い。「4人のお話」に期待しているのに、各話の小エピソードで「これはナギの話」とか「これはユー子の話」とかいう隔絶が起きてしまっては、女の子のきゃっきゃうふふを観たい側からすると破壊力に欠けてしまうのだ。

 そして、最後まで分からんかったのは、そうした「ブツ切り感」を助長する謎の挿入歌パートである。最後の最後まで初志を貫徹して毎話挟んできたのは立派だと思うが、正直言ってあのパートの存在意義がよく分からない。基本がギャグ漫画のはずなのだから、無声劇のシーンを増やすよりも、とにかく会話劇を展開させて繋ぐ方が正道だと思うのだが。「売れるアニメに歌は必須」という分析をどこかで観た気がするし、それも一理ある考え方とは思うが、こういう使い方のことを言っているわけではないだろうに。

 とまぁ、色々と難点はありつつも、諸々とっぱらってトオルは可愛かったな。悠木碧による中の人補正も大いにあったとは思うが、最後の最後まで「トオル可愛い」だけで走りきった感はある。作中で一番身近に、丁寧に書き込まれてたのがトオルだったので、そこだけを観ればそれなりの密度も維持できていたし、いっそもう1〜2キャラ減らしてトオルオンリー作品になっていれば、もう少しモチベーションも上がっていたかもしれない。

 その他の中の人評としては、与えられた仕事を与えられた通りにこなした福原香織は通常加点、若手の内山夕実についても、初めてのレギュラーとしては堂々たるものだったろう。特別強く印象に残ったわけではないが、今後も頑張って欲しいと思える仕事であった。そして、作中でも台詞の数が多かった寿美菜子には努力賞。何故か相変わらず彼女の関西弁を聞くとどこか不安な気持ちになることもあったのだが、普段と違った被虐性質のキャラクターなので、新鮮な印象はプラス要因である。あと、地味に各家庭のおふくろさんが存在感のある声だったのが忘れられません。水谷優子の母親声を聞いて、「あぁ、この人の正統後継者は野中藍なのかもしれない」というよく分からない悟りが得られました。

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  わずか2週間という短期決戦を終え、新番チェックから番組感想までの最短記録を樹立した番組。この形式はなかなかまねできるものではなさそうなので、今後この記録が抜かれることは無いだろう。もちろん、この作品の後を受けて同じような放送形態の作品がガンガン出てくれば分からないが、おそらくそれは無いと思われる。なにせ、この作品がアカンかったからだ。

 上の点数を見てもらえば分かる通り、個人的にはがっかりと失望の連続で幕を閉じた作品であった。製作陣に期待があったからこその初期配点だったと思うのだが、シナリオ面、映像面ともに、一切の加点要素が見付からず、ただダラダラと2週間を歩き続けただけ。何故こんな妙な放送形態にしたのかがよく分からないし、わざわざこれをアニメ化した意味も分からない。1話を見た後に「作品として中途半端なものなのだから、見たいなら原作や原典を当たればいいんじゃないか」というコメントを書いたのだが、終わってみれば、アニメとしては中途半端というか、明らかに駄目な部類に含まれるだろう。

 シナリオが駄目なのは仕方がない。何度も言うように、「マネジメント」という一種の学術書、啓発本を、更に啓蒙しようとして書かれたフィクションという媒体自体が特殊すぎて、それを他の媒体に移植するのは並大抵の労苦ではないはずだ。教科書としても座りが悪く、お話としても目新しさのないもの。アニメにしたら、そんな中途半端な状態が改善されるわけもなく、話の筋の単調さ、陳腐さだけが浮かび上がるのは避けられない。ただ、やはりそれにしたって酷かった気がするのだが。最大の売りであるはずの「高校野球+ドラッガー」という新規さが欠片も感じられず、やってることは凡百の「野球漫画」である。しかも、そこに「マネジメント」が絡んでいるというニュアンス自体が弱く、努力をするでもなし、飛び抜けた発想力があるでもなし、単に理想論だけを振りかざして練習して、試合にでる不気味な高校球児の姿があるだけ。「ノーボール作戦」を標榜していたくせにピッチャーが映るシーンでは大体フォアボールで歩かせていたあたり、笑うしかあるまい。

 別にありきたりな物語だからといって文句を言うつもりもないが(あだち充なんて何十年同じことをやっているか分からないが、別に「クロスゲーム」に不満は無かったのだが)、それが面白いものにならないことくらいは、分かりそうなものだと思うのだが。最も見せなければならない各部員達の特性や、各々の人間関係など、「野球もの」に必須の魅力の出し方が感じられない時点で、感情移入して見守ることなど出来やしない。

 そして、そんな腑抜けた野球漫画を、アニメーションの動画、演出が後押しせず、更に足を引っ張っている有様。世間では作中で登場した球場の造形がおかしすぎることが話題になっていたが、その他にも選手の動きや打球の弾道、観客の描き込みにいたるまで、とにかく「野球を面白く、アツく見せよう」という意識が感じられない。最終回のピッチャーの力投シーンなんて、まさかの同じ話数内でのバンク使い回しまで発生し、「どこまで野球描写に力を入れたくないんだよ」と呆れてしまう。この作品は内容の9割が野球なのだから、そこを魅せられなければマネージャーもドラッガーもクソもないと思うのだが。一体どういう製作体勢だったのだろうか。

 本当に「手間をかけていない」出来には、様々な邪推も可能だ。元々2週間限定の10話というスタイル自体が珍しかったし、スタジオ側はよっぽど無茶なスケジュールで制作を任されたのかもしれないし、金が出なくて人手を確保仕切れなかったのかもしれない。だが、昨今のアニメ制作事情の中で、それは言い訳にすらならないだろう。はっきり言って、この作品の腑抜けた動画面は、プロダクションI.G.の看板に泥を塗ったと言っても過言ではないと思う。最近は「おおきく振りかぶって」(A-1 Pictures)のように見ていて充分に「真摯さ」が伝わってくる野球アニメがあっただけに、その対比はあまりに明らかである。何故こうなってしまったのか、制作スタッフの本音を聞いてみたいところだ。

 せめてもの救いは、終わった後に「結局、ドラッガーって、マネジメントってなんなんじゃい!」というのがさっぱり分からなかったおかげで、ひょっとしたら「マネジメント」自体の売上は伸びるかもしれない、ということくらいだろうか。確かに、あそこまで適当な扱いを受けた「名著」というのはなかなか無いだろうし、ちゃんと読んで改めて「これで野球……キチ○イの所業か」と突っ込みを入れる作業は必要な気もしてくる。ドラッガーさんも幸いだったのか災難だったのか……

 結局、こんな妙なスタイルで走り抜けた意義もよく分からなかった本作。例によって中の人の話をしようとも思うが、まぁ、ぴかしゃの代表作にはあんまりなりそうもないのが残念至極。9話のみなみご乱心のシーンとか、もう単に「この子は本当にどうしようもねぇな」という哀れみの目で見るしか無く、演じる方もあんな無茶苦茶な心理状態に肉薄するのは大変だっただろうと同情するばかりである。

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 ○「魔法少女まどか☆マギカ」 5→8

 ようやくほとぼりも冷めてきたので、ボチボチこの感想を書いていきたいと思う。長きに渡った1月期番組感想も、ここでやっと終わりだ。

 まず、この作品が今シーズンのアニメの中で最大の話題をかっさらっていたことは間違い無く、それにふさわしい出来であったことは断言できる。その上で点数を8で止めたのは、今現在においても、作品本来の盛り上がりと、その周りを取り囲む騒乱の区別が付けられないためだ。アニメを取り囲むムーブメントも含めて1作品と見てしまうというやり方もあると思うのだが、個人的には、この12本のアニメの中に、過去のアニメ史を塗り替えるほどの最大級のインパクトがある、という風には捉えていない。10点満点の10点は事実上空位にしているくらいなので据え置くとして、9点を冠した作品群に列するものになるかどうかは、現時点で決めかねるのが実情だ。今後のアニメ業界の変遷を見て、「やはり『まどか』は時代の分岐点であったか」と言われるようになれば話は別だが、今のところ、そこまでの影響は無いだろう、というのが近視的な見方である。

 とはいえ、冒頭でこんな注釈を書くくらいなので、ぶっちゃけると9点でも10点でもいいんじゃないか、というのが内なる感想だ。その上で意固地になっているのは、多分「こんなん俺の知ってるシャフトと違う」という気持ちが大きいのだろう。長年キワモノの代表として扱われてきた制作集団シャフト。「化物語」でブランドとしての地位を確立させた異端児は、オリジナル作品でついに頂点に上り詰めた。そこに現れた制作スタイルは新生シャフト流と言ってしまって良いものだろうが、万人に受ける作品を打ち出せたということは、そこに本来残っていたアクの強さが無くなってしまったということ。個人的には「化物語」の方がイメージしてるシャフト的作品なので、この作品が面白くなったのが、少し悔しいのである。

 「シャフト的」とは一体何なのか。個人的には、その答えは独特のエッセンス描出にあると考えている。尾石達也、森義博、武内宣之といった面々がその代表格だが、アニメーションの目的を「動かすこと」そのものに見いだすのではなく、「時間軸を持った映像の集合」として大きく捉え、その中で与えられた脚本の要素が伝わる方法を様々な方向から模索するスタイル。それがシャフトのシャフトたるポイントで、それこそが新房昭之の生み出した1つの文化である。もちろんこの作品にもそうしたエッセンスは詰め込まれているのだが、細かく刻んだカット構成や、独特のカメラアングルによるいわゆる「シャフト角度」などは、あくまで過去の作品の蓄積によって生み出された様式であって、この作品のために生み出されたものではない。そう考えると、この作品はあくまで「これまでシャフトが関わり続けた様々な作品で培った技術の総合展示場」であり、「新たな一歩」とは言いにくいのである。常に無茶とも言える挑戦を続けてきたフロンティアスピリットは、この作品ではちょっと物足りなかった。

 とはいえ、「これまでの技術の総合展示」であるとすれば、やはりその規模はとんでもないものになっている。シャフトの技術の粋が、一体どんな目的に使われたかといえば、この作品で最も顕著だったのは、完全に非整合であるはずの諸要素の融和である。具体的には、蒼樹うめ画と、イヌカレー演出と、虚淵脚本。この3点を結ぶラインなど、過去に存在してるはずがなかったのだが、そこに極細の繋がりをみせた奇跡こそが、シャフトの最大功績となった。その上で、「動かすこと」というアニメーションの基本原理においても必要充分な品質を維持し、全ての要素を1本のアニメシリーズの中に抱き込んだ。大抵のグルメ漫画だと悪役が使って負けるパターンの「最高食材を集めまくって混ぜ込んだ料理」を、それに見合った器を用意したことで、名実ともに「最高料理」にしてしまったのである。こんな非道は、普通のスタジオでは実現し得なかったことだろう。

 話題の中心となるのは、やはり虚淵脚本である。ただ、冷静に見返してみると、「魔法少女」というテーマの扱い方が斬新である部分を除けば、残りの見せ方はごくオーソドックスなものである。物語の中心となるのはまどか・ほむら・さやかという3人の少女で、ほむらの物語として見た場合には、最近のラノベやSF小説では割とありそうなライン。シンプルな友情物語としての骨格が最も強く、作品の軸となった基本に忠実な内容。それをエキセントリックな後味にしたのは、ほむらの物語を更に上の視点から観察したまどかの物語。こちらはオチの付け方が突飛で、ともするとトンデモ系のネタにも見られる危険性があるのだが、ほむらの物語との接点が周到に配備されていたおかげで、1本の友情物語のサブテーマとして、こっそりと着地に成功した。そして、まどかとほむらという2人の物語の裏返しとなったのが、中盤を盛り上げたさやかの物語。こちらもシンプルな悲愛であり、なおかつ作品の根底をささえるキュゥべえというシステムの描出に最大限の効果を発揮した。「小メリットを得るために、後の大リスクを背負う」という構造は文学作品などでも多く扱われるジレンマの1テーマであるが、それを「魔法少女」というタームに結びつけて、悲哀として構築したことが、ここまでの新鮮さに繋がったのだろう。分解してみれば何とも理知的なシナリオ配分。けれん味の付け方といい、やはりけちの付けようもない。加えて、地味な要素ではあるが、各エピソードのサブタイトルの捻出も、この作品のインパクトを一段上に押し上げることに貢献した。個人的にベストエピソードだと考えている「あたしって、ほんとバカ」など、何気ない一言にも神経を遣った脚本の見せ方が、細やかな売り方に反映されているのだ。

 そして映像部分では、蒼樹うめ先生と劇団イヌカレーという、水と油の2つの要素による融和が見どころ。うめ先生の絵は、序盤に看板としての魔法少女を売り込むのに効果があったことに加え、最終的なシナリオの中心が「2人の少女の友情物語である」という部分に大きな影響を与える。現代アニメとしてのセールスを考えた上で、「起点と着点はやっぱりうめ絵で」という決断は、実はものすごい英断だったのではなかろうか。そして、その「蒼樹うめの世界」を一時的にぶっ壊してこの作品のメインテーマである「魔法少女システム」を現前させるのが、イヌカレー空間である。「絶望先生」で初めてアニメとして世に現れたイヌカレー空間は、その異質さから「とにかく意味の分からないもの」を描くのに最適なツールであると判断されたのだろう。「これまで一切無かった魔法少女の世界を描く」という無理難題を見事にこなしてみせた創造力には頭が下がる。そして、こうした要素を全て巻き込んで、1本の流れを作り出したのが、シャフトの力だったわけだ。改めてみると、このボーダーレスな多層世界の結合の難度がどれだけ高かったかが分かるだろう。

 そして、やっぱり最後は中の人の話。この作品を評する上で、中の人たちの功績を語らずに終わるのは片手落ちの誹りを免れない。基本的には「3人の少女達の物語」であるから、やはりそのキャストが最大功労者といえる。美樹さやか役、喜多村英梨。彼女無くして、12話を完走するだけの持久力を得ることは出来なかった。鹿目まどか役、悠木碧。多層世界に現れる幾人ものまどかと、最後に人の理念をも越える概念存在へと昇華したまどか。これが「生きている」ように聞こえるというだけで、それはもう事件であろう。そして暁美ほむら役、斎藤千和。これこそが千和、これでこそ千和。やはり本物の持つ風格は、他を寄せ付けない。もちろん、その他水橋かおり、野中藍、後藤邑子といった面々も良い仕事をしてくれました。何一つ不満はありません。

 全ての要素において、不満の出る部分はなく、ただひたすら溜息だけが漏れ続けた。色々と悩みの尽きないアニメ業界であるが、オリジナル作品でここまでの結果が出せたのだから、まだまだ表現技法としての可能性は残されているはずだ。さて、次の地平は一体どこになるのか。今後も、シャフトに限らず、多くの制作者たちが「次なるまどか」を作り上げることを期待してやまない。

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 「夢喰いメリー」 5→4

 放送終了から、この感想文を書くまでに随分間が空いてしまったのは、この作品の評点をどうしたものかをちょいと悩んでいたためだ。あと、新番が多いからうっかり忘れていたためだ。どっちかというと、後者だ。

 誰しも、向き不向きというものがある。個性が強い人間ならば、その差はより顕著なものになるだろう。今作の監督を務めた山内重保は、そうした「個性的な」人間なのは間違い無い。彼の武器となるのは、その独特の感性から繰り出されるコンテワークであり、常人とは時間感覚が違うのではないかと思える不可解なタイムスケールの計り方と、思いもよらないカメラワークから切り出される構図の妙は、快不快の軸では説明出来ないような、曰く言い難い後味を残す。そうした「味」は、時に長所となり、時に短所となる。

 さて、この「夢喰いメリー」の場合、彼の味は武器だったのか、足枷だったのか。答えは両方としか言いようがない。まず、長所としての側面は、この作品の舞台が「夢」という独特の背景を持っていることに関係する。アニメというフィクションの中の、そのまた奥の非現実である「夢」。その世界を表現するのに、山内コンテは並々ならぬ効果を発揮した。重苦しいカット割りがどこかフワフワした夢の不安定さに繋がったし、妙なアングルから妙なモーションに入る動画面でも、何か「普通と違う」感じが醸し出され、「これは確かに白昼夢かもしれない」と思わせるだけの世界を作り出した。この番組のタイトルに「夢」という言葉が冠されているのだから、その部分に力点を置き、独自のフィールドを展開出来たことは、文句無しで手柄といえるだろう。また、そんな個性の主張と同時に、この作品が「まんがタイム」系列の萌え漫画であるという意識もきちんと持っていた。具体的にはメリーのヘソとか、あとメリーのヘソとか……とにかくそういうところだ。妙なコンテ割りなので、多少阿漕な見せ方を足し合わせても、それが「奇妙な味」の上塗りとなるだけで、媚びた絵に見えにくかったのは面白かったところだろう。

 他方、短所となってしまったのはどこだろうか。残念ながら、それもやはり、彼独特のコンテワークなのだ。山内監督の前作「キャシャーン Sins」は、荒廃した世界を舞台にした、どこか退廃的な臭いのする作品。その中はいわば「どこを切り取っても山内世界」であることが容認され、一貫した空気が世界を覆うことが十全にプラスに働いたのだが、残念ながら、この作品はそうはなっていない。夢の世界も、夢路たちが暮らす現実の世界も、同様に存在していた。そして、そんな世界を舞台に行われる物語は、あまり深いテーマ性などを求めない、「普通の漫画」なのである。メリーの活劇、夢路の少年魂。そうしたものを見せる必要がある「シンプルな」作品に、どうしても独自の味はかみ合いにくい。結果、バトルシーンなども「もっさりした」印象になってしまうことが多く、そのすべてが機能しているとは言いにくい状態になってしまった。

 また、単純にシリーズ構成もあまりよろしくなかった。特に終盤のミストルティン戦でのグダグダっぷりは流石に看過できるものではなく、アニメシリーズとしては失点になっているのは確定的だ。映像作品としての面白さを追求してくれるのは嬉しい限りなのだが、やはりその前提として、1クールのシリーズアニメとして、筋は通して欲しかったところである。この流れでは、残念ながら原作に興味を持ちにくいし、「続きがみたいな」という気にもならないのである。総合的に見ると、やや失点多めでちょい下げ気味、というのが結論か。でもまぁ、やっぱりこの世界観はすごく好きなので、是非とも次作でリベンジをはたして欲しいものです。

 最後はキャストの話。今作MVPは(どさくさに紛れて美味しいところを持っていった中田譲治を除けば)岡本信彦になるだろうか。夢路は最近じゃ珍しい、真っ直ぐで男の子らしい男の子。それを嫌み無く演じられるだけでも、やっぱり岡本君は裾野が広い。あとは……秋谷智子がどうなんだろう、っていうポジションだったのがちょっと気になるかなぁ。彼女はもう、山内作品以外には出ないんでしょうかね。ちなみに、メリー役の佐倉綾音だが、やっぱり後半の大事な話数になってくると、どうしても拙さが目立ってしまったか。ヒロインデビュー作としてはそこそこのレベルだが、まだ同じ事務所の竹達の方がデビュー後の仕事ぶりは安定していた。要精進である。

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 「放浪息子」 6→7

 「アニメわ〜く」(ノイタミナ)内では、「フラクタル」というアクの強い作品の後に放送されていたために、「色々と悶絶した後の一服の清涼剤」みたいな扱いを受けていたこの作品だが、実際のところ、こちらの方が作品としての立ち位置はよっぽど特殊である。ここまで異形の作品を、しれっと「普通ですよ」とばかりにまとめあげ、完成させてしまったことについては、本来ならばもう少し話題にすべきことなのではなかろうか。

 この作品の最大のポイントは、なんと言ってもその「アブノーマルさ」にある。女装男子と男装女子というモチーフは今の世の中には掃いて捨てるほど溢れているが、この作品ほど徹底してその禁忌としての存在に肉薄し、ギリギリの日常レベルにまで深度を落として描いた作品というのは無いように思える。主人公の修一にとって、「女の子になりたい」はごくごく普通の願望であり、周りのにもそれを否定する人間は少ない。同様に、高槻よしのの男装願望についても、それは「あって然るべきもの」として認識され、「それがあり得る世界」として、すべてが描出されている。そうした一種異様な世界を、モノローグの導入、独特の色彩、細かな人物配置、台詞の間による関係性の見えなどから、「日常世界」として成立させてしまったのが、この作品のぶっ飛んだところなのだ。水も漏らさぬ完璧な世界構築は、おそらく原作の純度に依拠する部分が大きいのだろうが、1本の「爽やか青春アニメ」というステータスを付与されたのは、間違い無くアニメスタッフの力である。あおきえいの手による「キャラクターの産出」は、本当に頭を抱えたくなるくらいに完璧だ。

 以上の論旨は、一応の評価軸として用意したものなのだが、この作品の場合、本当にディティールの集合として巧さが表れるために、なかなか説明が難しい。そこで、多少卑怯な手段だが、同時期に放送された「君に届け」と比較して見るというのはどうだろうか。どちらも「青春ラブストーリー」であり、視聴後には軽やかな爽快感が残り、一つの物語を見た満足感が得られるのは同じ。個々の人物の心情描写が実に丁寧で、キャラクター達と一緒に泣いたり笑ったり出来る近しさも同じだ。しかし、この作品は「君とど」とは決定的に違う。爽子と風早は「普通の高校のクラスメートどうし」であるだけの、いわば「普通の世界」。しかし、この作品における面々は、全てにおいて性の概念が倒錯している。言い方は悪いが、周りにこんな連中が居たら、間違い無くドン引きだろう。しかし、アニメを見ていると、そんな異物感がどんどん薄れ、最終的には「青春ラブストーリー」に帰着できるのである。これだけの「毒抜き」「ごまかし」は、よほどの注意力が無いと出来ない荒技なのである。本当に、お見事でした。

 最後は中の人の話。終わってみれば、修一役のリアル中学生・畑山航輔君は、立派に与えられた仕事を全うした。今後の活躍を期待してみたい気もするのだが、あんまり声優志望じゃない気がする。とにかく頑張れ。あとは周りを取り囲む豪勢な面子にも満足でした。南里侑香が久し振りにメインを張ってくれていたのは嬉しかったし、豊崎・水樹・堀江といった花形が独特の白い画面を賑わせてくれたのは眼福もの。でも、一番楽しかったのは、千葉紗子が作中でしょっちゅう「千葉さ〜ん」って叫んでたこと。「お前や」って何回も突っ込んだ。

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