最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
鬱への直滑降、第8話。今期のノイタミナは雰囲気が重すぎてついていくのが大変である。おちゃらけアホアニメばっかでも生産性がないとは思うけど、こういう重たくて正座が必要なアニメは時間帯を分けてもらわないと身が保たないぞ。
金融街の破綻がどのような影響を持つか、という、これまであまり明確に描かれていなかった事象が、突然明確な姿を持った。なんと、あのカリブ海は金融街破綻の結果ぶち開けられた、「国のなれの果て」らしい。確かに、1つの家庭から子供を3人消し去ることが出来る金融街の「未来担保」の力を考えれば、規模が大きくなれば国が「無かったことに」なる場合もあるのだろう。そして、その巨大なダメージは東南アジアを経由して日本にも向かい始めている。あまりにも巨大な絶望を前に、公麿は、三國は、どのように対峙していくのか。 ネガティブイベントのみが折り重なった今回、軽めのダメージで済んでいたとばかり思っていた江原の未来も、気づけば大きく大きく削れていた。様々な方策で失われた未来を補填しようと抗った江原も、最後には「無くした未来」に絶望し、考えることを放棄した。「未来」とは、あまりに漠然としているために軽んじて見られる「物」だが、失って初めて、それが無いことの絶望感が理解出来るのである。金融街の策略に丸め込まれて易々と取引してもいいものではなかったのだ。 「金」を巡る価値観と同じように、「未来」を巡る価値観もなかなか一致した見解は無い。公麿が手探りで求める「未来の代償」を竹田崎は「信用」というこれまた不確かなものを取り出して価値を比べているし、かの三國にしても、「未来」を得るための「今」に拘泥し、たくさんの小さな未来を犠牲にする選択をとった。以前宣野座とぶつかり合った時にはどちらが正しいかを選びきれなかった公麿だったが、江原の最期を見てしまった後には、少なくとも三國の方策が正しいとは思えなくなってしまっている。しかし、そこに答えはない。 全ての原因は金融街。それはみな、分かっている。三國は出来る範囲で諸悪の根源に抗おうとしているし、竹田崎など、一般的な住人は自分に利用出来る限りは利用し続けることを目論んでいる。それが最終的にどのような形に至るのかは、既に明らかになっているはずなのに。 この期に及んで、ようやくこのアニメがぼんやりしている理由が判明した。それは、最大の悪であるはずの「金融街」に意志が見いだせないことだ。真坂木という顕現した姿こそ存在しているが、彼の飄々とした態度からは腹の底は見えず、現実に存在しない不気味な道化師には、世界を滅茶苦茶にして人々を困らせる理由は無いように見える。にも関わらず、誰かが金融街に関わってしまうと、その人間は必ず不幸になってしまう、確実にマイナスの取引を強いられているのだ。そこは明確なはずなのに、金融街には意志が見えない。悪意があるのに意志が見えない。今回、東南アジア金融街の崩壊シーンでは、ようやく真坂木の顔を借りて不可解な「悪意」が見て取れるようになったが、それでもまだ、目的が分からないことにかわりない。見えない敵を前に、公麿は何らかの答えを見いだすことが出来るのだろうか。 残すところあとわずかとなってきたこの作品だが、今回一番のインパクトは、意外にも公麿の密かな思い人、羽奈日のシーンだった。金融街とは関係していないはずの一般人の彼女が、「楽しい」と嘯いていた教育実習の想い出を暗い面持ちで廃棄するシーンは、何とも言えない不気味さを持つ。単に「日本そのものが停滞した空気を持っている」ことを描出したシーンだったのだろうか。だとしたら必要以上に重たいシーンだった。そうでないとしたら……何が起こるというのだ? 三國が繰り返す、「C」とは一体なんなのだ? corrupt? collapse? それともcatastropheか? PR
ナイス真朱アワー、第7話。これまでの「分からない」バトル展開とはことなり、今回はAパートが三國の自分語り、そしてBパートが真朱による公麿観察という、視点が思い切りズレた1本になっている。こういう広げ方はちょっとダレてきていた本編のガス抜きには丁度良いですね。
正直言うと、Aパートはあまりピンと来ないお話だった。これまで完全に闇に包まれていた三國の成り立ちを描いたエピソードになっていたわけだが、父親や妹との関係性を語られたところで、現在の三國の姿には重なってこない。これまで培われてきた三國の人物像は「金融街で圧倒的な力を持ち、更に現実世界への影響を極力抑えるという無理難題に挑戦し、ある程度の成功を収める聖人君子のような人物」である。前回までで語られた公麿との絶妙な距離感も、一筋縄でいかない善悪観も、曰く言い難い三國の立ち位置を描出するための一手法として用意されたものであり、引いては最大の謎である金融街そのものの体現者として立ちはだかっていたと見ることも出来ただろう。 しかし、今回描かれた三國は、単なる「人」でしかない。躍起になって金融街で権力を増そうとしているのも父親への反感が動機であったし、卓越したディールさばきも、単なる父親の帝王学の影響。妹への執念が原動力なので決して悪人のカテゴリに入るような人間でないのは間違い無かろうが、だからといって、純粋な善でもないし、視聴者が想像出来ないような超越性も見えてこない。わざわざ時間を割いて描かれた割には、せいぜい「フーン」というレベルのお話。もちろん、今後の展開でこうした三國の人となりが関係してくるからこその設定なのだろうが、今までの方向性とかみ合っていないような気がしたのは、どうも勿体無い部分である。 他方、Bパートの真朱担当分は、特に難しいことを言っているわけでもないし、大きな新事実が明らかになったわけでもない。その上で、これまで少しずつ積み重ねてきた公麿と真朱の関係性の中間決算となっており、意外に面白い要素になっていたことに気づかされる。公麿は真朱を「人として」扱っているし、そんな公麿を、珍獣でも見つめるかのように、真朱が事細かに観察する。そして、今回の「時間差ブチキレ」で表されるように、公麿もアセット同様に、充分「妙な人間」なのだ。 二人の関係性は「道具とユーザー」でも「ペットと飼い主」でも、ましてや「男と女」でもない。あくまで「なんか分からないもの と なんか分からないもの」だったのだ。へんてこではあるが、考えてみりゃ当たり前のことなのかもしれない。もちろん、そんなスタート地点だったからこそ、少しずつ距離を縮め、いつの間にか(画面上では)寄り添うようにして同じ方向をみる2人の関係性が微笑ましく見えるのである。真朱が自然に公麿に並び立った画面は、これまで特徴的だったこの作品の「分割画面」を上手く使った面白いカットである。 ただ、1つだけ気になったのは、結局アントレとアセットの関係ってのは何が普通なのか、というのがはっきりしていなかった部分。今回のお話である程度「真朱と公麿」については提示されたわけだが、例えば無理矢理飯を食べさせようとして公麿に切れられていた連中とかが、はたしてこの世界においてどれくらい普通なのか、もしくはどのくらいスタンダードなのかが分からなかった。真朱が言うように、「たまたま真朱が人型だから公麿がああいう風に接している」というのが真実だったとしたら、公麿と真朱の特殊な関係性に何の価値も無いことになってしまうわけだが、現時点でそれを否定する材料が与えられておらず、唯一「公麿は特殊なアントレである」ことを保証するのが、件の「無理矢理飯喰わせコンビ」なのだ。でも、普通に考えたら、アセットが人型だったらみんな公麿くらいの接し方になりそうな気がしてしまう。あのコンビの方が、単にヤな奴なだけに見えてしまう。そのあたりの「一般的な金融街の風景」をもう少し細かく設定しておいてくれれば、今回のほのかなラブストーリー(もどき)にもより味が出たと思うのだが……まぁ、これまではそういう部分に筆を割きにくかったからなぁ。 とりあえず、公麿と三國という、2つの極がくっきりと浮かび上がることになった。あとは、このあてどない物語にどのような決着を付けるかだ。現時点では、まったく予想も付かないだけに、これからもしっかりと見ていかねばならないですわ。
モヤッとがもっと、第6話。前回までの流れで「なーんかすっきりしないから応援しにくいなぁ」と思っていたのだが、今回の展開でそれが少しずつ「見える」ものになってきた。この作品、本当に難しいっすわ。
「ディールで何が起こっているのか分からない」「何が強さなのか分からない」「公麿のスタンスが分からない」「何が正しいのか分からない」。分からないことだらけの作品だ。そして、「わからねぇよ」と文句を言うのが当然の流れだと思っていたのだ。ただ、今回のエピソードを見る限りでは、「わからねぇんだよ」というのがこのアニメの主張であるように見えた。ただでさえ何が正義なのかが分からず、主人公の公麿が金融街で何をすべきなのかがはっきりしないという現状。少しずつそれが解題されていくのかと思いきや、今回追加されたのは、椋鳥ギルドにも相容れない、更なる勢力である。おかげで公麿は、ますます何をしたらいいのか分からなくなってしまった。 この流れで、敵対した宣野座が単なる悪役として描かれていれば問題ないのであるが、公麿はあくまで第一印象で「感じが悪い」と言っただけであり、別れの顛末をみる限りでは、最終的に宣野座の主張が「間違っていた」という結論は出されていない。陳腐な言い方をすれば「それぞれの正義」が施行されたことが示されただけで、結果的にはいつの間にか公麿が勝ったコトになっているが、少年漫画のように大逆転の瞬間が描かれるでもなく、一気に時間が飛んだかのように結果だけが示されたのである。「時間の切断」は以前も触れたこの作品の特徴的な演出方向ではあるのだが、今回も様々なパートに用いられ、「わからなさ」に拍車をかけることになった。この、飛び飛びで、しかもみっしりと詰め込まれた窮屈なシナリオラインは、まさに公麿が体感している「訳の分からない金融街」の存在そのものではないのか。 また、「いつの間にかディールが終わっている」「何かしたらいいとは思うけど、思っていることがそれぞれ違うし、何が正解かも分からない」という状態は、実際の「金融」「経済」というテーマを大胆に表した結果であると見ることが出来る。経済はゲームに例えられることが多いが、国家規模、世界規模で見れば、誰がいつ、どこで勝ったかなんてことは分からないものだ。金融街においては、更に「未来」なんて訳の分からない担保までかかるわけで、そうした「勝ち負け」「正誤」がどんどん分からない状態になっていく。そうした「わからなさ」そのものが、このアニメの全体像なのではなかろうか。 結局、今回だけで公麿はジェニファーに出会い、宣野座に出会い、三國と対話をした。これだけで3つのスタンスとの交流が行われており、正解を見いだすことなんて不可能な状態だ。その上で、三國のいう「戦って勝つことが真摯さである」という論調は、特別優位なものとも見えてこない。今現在与えられている明確な行動指針など、真朱に伝えた「勝ちたくもないが、負けたくもない」という、結局いつも通りの公麿の経済観念だけなのである。これがジェニファーの言う「金のこと以外も見える目」の結果だとしたら、今後はますます、分からないことが生み出され続けていくのだろう。 ふむ、このモヤモヤした感じも、それでいいと分かれば絶妙な味である。とても綺麗に着地できる状態にはみえないが、一体どんな形で蹴りを付けられるのか、お手並み拝見と行きましょう。
なんかもう、逆に普通な気もしてきた第5話。今後はしばらく静観していた方がいいかもしれないなぁ。
すごく簡単にまとめると、今回のお話って結局「三國すげぇ」ってこと。「国を一人で支える経済力」「影響力を考えて椋鳥ギルドと金融街をマネジメントする統率力」、そして「事態を把握してすぐに経済的なサポートに周り現実の被害を押さえる判断力」など、とにかく一個人としてはあり得ないレベルの才能のかたまりが三國壮一郎という男なのだと。それに比べると、アセットの真朱との関係性も未だにちぐはぐな公麿は、本当に何故三國があそこまで肩入れするのかがさっぱり分からないレベルの主人公。特殊な能力があるわけでもなし、志に見どころがあるわけでもなし。結局のところ、公麿が何者なのかが分からないというのが、このアニメを捉えどころのないものにしている最大の要因であると思われる。 加えて、「何故三國壮一郎は強いのか?」というファクターも分からない。単純に現実世界における資産の量が多ければ強いのだろうか? しかし、もしそうだとするならば、金融街のディールは現実のマネーゲームと同様に、持たざる者が勝ち得ない、全く面白くないギミックになってしまう。鷲頭麻雀や誠京麻雀ならば一応「富める者」を倒す理由にはなるのだが、おそらくこの作品にそうした要素を期待するのはお門違いであろう。となると、やっぱり「三國は三國だから強い」ということになるのだが……もしくはQがものすごい優秀だったとかね。それじゃぁちょっと見ている側も盛り上がれないんですよね。 今回も多数のアセットが登場してディールの見た目だけなら色々と楽しい要素もあったのだが、そうしたアセットの「異質さ」が理屈で説明出来ず、単に見た目の迫力だけになってしまっているのは非常に勿体ない事態だと思ってます。今回も菊池を倒したアセットの鍵の能力とか、何が起こってるかよく分からんし。公麿の対決なんて、結局アセットじゃなくてアントレ本人同士の殴り合いだし。 というわけで、今ひとつ盛り上がれないこの作品。最終的に「なんだか知らんけど真朱が可愛かったな!」なんて感想で終わってしまったら勿体無いです。ここまでのお話でようやく「下地が出来た」くらいの状態で、ここから想像もしないエキセントリックなネタがばんばん出てくることを期待したいと思います。まぁ、真朱は可愛いんですけど。
そっち方向に行くのか、第4話。回が進むごとに謎が解けていくっていうのが普通のお話だと思うのだが、このアニメの場合、回が進むごとによく分からん部分が増えていくのよね。
前回の引きで登場した公麿の大学の講師、江原。知り合い同士での対決には逡巡する公麿だったが、真朱の頑張りと三國のフォローで今回もいつの間にやら勝利。その結果、現実世界において江原の「担保にした未来」であった子供が失われるという現象を目の当たりにしてしまう。自分に迷惑をかけて死んでいった父親を反面教師にし、出来る限り周りに迷惑をかけないことをモットーとしてきた公麿にとって、その事実は受け入れがたいものだった。自分が勝ってしまったがために、知り合いの家庭が全てを失ってしまったのだ。しかし、それでも仕方がないと江原は語る。自分も覚悟をして挑んだ金融街。負けてしまった者も、自己責任で生きているのだから恨む筋も無い。もしも江原が勝っていたら、公麿の方も同様に何らかの損失が発生しているはずだったのだから。 一体何を目標にして、何を守る為に戦えばいいのか。目的を定められない公麿が金融街の三國のところにいくと、丁度彼のディールの日。巨万の富を持つ老人との派手なディールは、試合巧者の三國のマッチメークにより、なんだかよく分からないが神がかったフィニッシュを向かえ、三國が勝利したらしい。「極力現実に影響を与えないようにするために相手を破産させない」ことを厳守する三國の戦い方は、周りを取り囲む金融街の人々の目にも素晴らしいものに映るようだ。公麿は、そんな三國のスタンスから何かを感じ取り、改めて金融街で戦っていくことを決意するのである。 とまぁ、一応主人公が前を向くためのエピソードであったが、正直言って公麿が何をどう前向きになれたのかはさっぱり分からない。「戦わなければ滅ぶだけ」という崖っぷちにいるのは間違い無いのだろうが、それでも江原の様子を見れば、むしろ逆に「負けても命までは取られない」という解釈も出来る。金融街が疎ましいのなら、三國に相談して「致命傷にならない程度の傷で金融街を追放される方法」を聞いた方が早いような気もするのだが。それが出来ないなら、とりあえず「椋鳥ギルド」とやらにだけでも入っていくべきなんだろう。 「未来を担保にする」という、金融街の最もほんやりしていた部分が、今回江原という具体事例が現れたことで少しだけ判明した。「未来」とは、かなり具体的な「将来的なプラス要素」であり、江原の場合、未来の象徴は3人も授かった子供達。それを一気に失ったことにより、三國の未来は確実に「失われた」ことになるわけだ。 ただ、誰も彼もが江原のように明確な「未来の形」があるわけではなく、ディールで負けて素寒貧になったときにどうなるのかはよく分からない。公麿の父親はすぐに自ら命を絶ったようだが、彼は一体何を失ったのだろうか。 奇妙な因果律へ影響する金融街の「取り立て」だが、なんだかイメージしていたものと違うのが気になる。あくまで「金と経済」の概念で成り立っている金融街のくせに、取り立てる未来が随分観念的で、感情的な気がするのだ。それとも、江原がこれまで子供を育てるのに費やしてきた費用が全て失われたことを意味するのだろうか? しかも、過去からの記憶を含め、江原の子供についての全ての事象がごっそりと抜け落ちていたということは、金融街の負けには、世界中の全てに関わることが出来る影響力があるということだ。黒い紙幣をばらまいたり、現実世界の財政状態をいじるくらいなら関連分野だと思っていたのだが、思っていたよりももっとどでかい何かのようである。真坂木は公麿に「あなたの未来は大きく価値がある」と言っていた気がするが、もし負けたら、公麿は一体何を失うんだろう。 で、そんなよく分からない力を持つディールであるが、今回の三國VS老人(菊池)の試合も含めて、またよく分からないルールが増えた。公麿対江原の試合では三國が「株を買う」という形でサポートしていたし、菊池翁は「株式を公開する」というアクションで地力を増強させていた(そして、それでも負けた)。ルールがあるのはいいけど、公麿が参戦する前に教えておいてくれよ。今回公麿は株の存在を一切知らなかったわけで、三國が「買い」に走ったのは完全に独断。つまり、株の発行主の了承無しで取引が成立していたということだ。それって、株をコントロールするときに大問題になりそうな気もするんだけど……大丈夫なんだろうか。 うーむ、ますます分からない方向に突き進んでいるこの作品。一体何が最大目標で、どこに着地しようとしているのだろうか。気にはなるが、不安である。
結局どないやねん、第3話。うーむ、なかなか動きが見えないですなぁ。後半には一気に加速していくのかどうか……考えてみりゃ、中村健治作品ってこれまでオムニバスばっかりだったから、長編を観るのが初めてなんだな。ちゃんと流れを作れるのかどうか。
今回の主人公は公麿でもなければ、三國壮一郎でもない。突然現れた金融街の住人、ジェニファーである。IMFに所属して金融街やそれを取り巻く人々(特に三國)の調査をしていたジェニファーは、何の因果か分からないが金融街にアントレとして参入することになっていた。そして、彼女は特にそこで稼ぎをあげるでもなく、淡々とディールだけをこなし、金融街での出来事を報告するだけの仕事をしているらしい。 特に望んでいない状態で金融街に参加したのならばそのスタンスは分からないものではないのだが、視聴者として首をかしげざるを得ないのは、「小さく勝ったり、小さく負けたりしている」という彼女の立ち位置自体である。そもそもディールが一体どういうゲームなのかがよく分かっていないので、「小さく負ける」ってどういうことやねん、というのが分からない。見たところディール中は互いのアセットとは別にオーロラビジョンみたいな巨大な画面に数字が表示され、それを車輪のようなビジュアルのなにかが押し合いへし合いしつつ、相手の数値をゼロにするように戦っているように見えた。てっきりあれがいわゆる「ライフカウンター」だと思っていたのだが、前回の公麿のディールの時にも、実際に勝敗を分けたのはアントレ自身の直接的な身体状況であった。結局アセットが何をどうしようが、直接アントレを突き刺すことで勝負が付いたのである。それならば命を取るか取られるか(実際は「未来を担保にしている」のだから「未来を失うこと」を表しているのだろうが)が勝負を決める要因になっているはず。結局奪うか失うか、オールオアナッシングな気がするのだが。「小さく負ける」っていうのは、どの段階で勝負がついたことになるんだろうか? 何をもって「勝ち」「負け」が認められるのかが分からないため、単なる肉弾戦ではないディールというシステムの機微が、今ひとつ楽しめないのである。それにジェニファーも言ってたけど、結局「強いアセットがもらえるかどうか」って、運次第なんだよね。 次回のディールは、父親の呪縛から少し抜け出せた公麿が、知り合い(大学の先生か)と戦うことになるのだが、今のところあんまり興味が湧かない。負けてもそのまま即破産というわけでもないらしいし、現時点で公麿は戦うことの意味を定められていない。三國によって父親との関係を清算し、これまで考えもしなかった「金の使い方」に衝撃を受けたようだったが、正直言って、三國の言っていることだって単なる詭弁であり、年若い健全な青少年をディールに向かわせるための大義名分としては働いていない。「親の会社を乗っ取った後は日本のために金を使っている」というのが三國の言であるが、それを確認する術もないし、そもそも「国のために金を使う」とはどういうことなのか。ミダスマネーの現世流出って、通貨の流通量が変わったら何らかの経済的な失調を起こしそうなもんだけどなぁ。 とにかく、せっかく「お金」というテーマが絡んでいるのに、その部分での見せ方がどこか的を外している気がする、というのが現時点での感想。画面自体もそこまで目を引く要素が無く、このままでは「なんか盛り上がりにくいバトルもの」としてフェードアウトしてしまうかもしれない。ここらで一つ、次回当たりに目を見張る展開が欲しいところである。 一応画面の特徴で1つだけ言及しておくと、中村監督が過去の作品でも使っていた、「画面の時間経過が切断され、飛んでいるのに、音声がそのまま繋がっている」という奇妙な画面効果が今回多用された。具体的には公麿が倉庫から荷物を出してきたカットなんかで確認出来るが、この「時間の切り落とし」は、普通のオブジェクトを並べながら、どこか歪んだ異物感を出す役割があり、そこだけは「あぁ、やっぱり中村監督の画作りだ」ということが確認出来る。過去の作品のエキセントリックな画面だと時間を切り飛ばされても演出の1つのズレとしてあまり気にならないレベルで受け入れられたが、この「C」は画面の構成要素が割と普通のものばかりなので、時間を切り落とされると違和感が大きく感じられる。その辺まで狙ってやってるんだろうけどねぇ。
進むかと思ったら意外に進まなかった、第2話。ふむ、ここで引っ張られるとちょいとキツイか。
金融街に強引に巻き込まれた公麿による、初のディール。相手はいかにもかませっぽいでっかい奴だ。「アセット」と呼ばれるパートナーのごときメインウェポンは、巨大な球状の武器を扱う牛をモチーフとしたもので、ただひたすらビリヤードのように球による物理攻撃だけを行う。まぁ、それだけなら分かるのだが、実際はそのコントローラー(アントレと呼称される)もライトセーバーみたいな武器を出して斬りかかってくるのよね。てっきりアセットの強さを競い合うスタンドバトルみたいなフィールドだと思っていたのだけれど、仮想空間であるためか、そのマスターたるアントレも何らかの属性を付与されるのかもしれない。 で、そんなこんなで目覚めた公麿のアセット、マシュ(真朱)。単なるツンケンした女の子だが、それなりにフィジカルが強くて、ついでにやる気を出すとよく分からないけどものすごい衝撃波もぶちかませる。結局、それまで蓄えてきた相手方のダメージなどぶっ飛ばして、一瞬の気合い勝ちだ。正直、何が何だかさっぱりである。もう少し理知的な何かが行われる空間なのかと思っていたんだけど、真坂木も全然その内情を説明してくれないし、公麿がどのように力を発現させたのかもはっきりしない。中村監督の作る画面が「訳の分からないもの」になるのは一向に構わないと思うのだが、今回の『分からない』はそういうことではない。単に説明が不足しており、バトルとしての爽快感に欠けるのだ。次回以降、少しずつ公麿が金融街に絡んでいけば追々明らかになることなのかもしれないが、2話目の繋ぎとしては、ちょっと物足りなかったか。 画面のエキセントリックさも、1話目に比べると随分大人しい。金融街の画面にあまり説得力が無かったので、どちらかというと現実世界に戻ってきてからの異物感の方が強烈だ。狭い公麿の部屋で現れたり消えたりする真坂木の動きは奇天烈で面白いし、画面にスッと混じってくる「ミダス紙幣」の違和感もなかなか目を引く。こうして、丁寧に構築された「リアルな現世」に、少しずつ金融街の異物感が混ざっていく描写の方が、この作品の真骨頂なのかもしれない。 あとはまぁ、新たな戸松キャラである真朱の表情を見て楽しむだけですかね。やっぱり戸松キャラの発揮するエネルギー量は半端じゃないよな。
なんだか分からないけど大戦争、第9話。盛り上がることには盛り上がっているみたいです。
なんだかんだ言いながら毎週それなりに入れ込んで見ているこの作品なんですが、それでも今ひとつ入ってきてない中身がある。それが単なるこちらの見逃しなのか、それとも描かれていないだけなのか、判然としないのだわな。一番気になるのは、「結局フリュネの目的って一体何だったんだろう」という部分。最初に僧院を抜け出した意味は分かる。あれだけ過酷な人生を与えられたら、誰だって逃げ出したくなるだろうし、そうして逃げ出してしまったら、右も左も分からない状態になってしまって知らない男の子の家に転がり込むのも仕方ないだろう。そこでネッサを手渡したのも、とりあえず現段階においてフラクタルシステムの「鍵」たる自分に対する嫌悪感を示したとすれば分からないではない。 が、結局彼女は僧院に戻ってしまった。彼女の中で大切なのは、「生みの親」であるバローたちの思い通りにならないことであるということなのか。ただ、普通に考えたらやっぱり自由の身になったのだから逃げ切りたいと思うのが普通な気がするんだけど。そして今回、彼女は自らの意志で再び僧院に帰ることを決意して旅立ってしまった。ま、今回はグラニッツとの触れ合いなどから志が変わったのだと理解出来るわけだが、どうにも行き当たりばったりな行動で、クレインでなくとも怒りたくなるのは仕方ないように思う。どうにもキャラクターに感情移入しづらい作品だ。 それでもまぁ、クライマックスに向かっての決戦の雰囲気なんかは理屈抜きで盛り上がっている気もするので、何とか最後にきれいな着陸を見たいものです。 でもさ、今回ものすごく気になったんだけど、Aパートのキャラクター作画がやたらおかしくなかったか? いや、崩れているってわけではないのだが……作監の個性が出すぎじゃなかろうか。クレインが女の子みたいになっとったがな。逆に面白かったわ。 うん、それが言いたかっただけ。あとはどっちかっていうと裏番組だった「GOSICK」の特番の記事が書きたいです。あおちゃんが! あおちゃんがヤバイくらい可愛いよ! 江口君のものまねで必死に振りだけ付いていこうとするあおちゃんがヤバイよ! 身長半分くらいしかないがな! 以上、作品すら飛び越えた感想でした。
カマトトチョップ! 第7話。でもさ、「筋肉バスター」がキン肉マンの技で、「ベアハッグ」が熊の技なら、「カマトトチョップ」はカマトトがやる技であって、カマトトを対象とした技ではないよね。
すっかりグラニッツに溶け込んだクレインとネッサが、なんかよく分からないけど2人で街へと繰り出すエピソード。ネッサに感染したウイルスの影響で小型艇を墜落させてしまったクレインは、お尋ね者として狙われているともしらず、フラクタルの加護の下にある街、ザナドゥに保護される。そこで出会ったミーガンは、ドッペルは妖艶な女性だがその中身は高等遊民を気取るおっさんという一種のネカマ。更にミーガンが連んでいたコリンというイケメン風も、実際は集中治療施設の中で生活する身で、どちらもフラクタルの中でしか活動できない存在であった。偽りにまみれた街の中で、ネッサはクレインのために力を暴走させ、ザナドゥを覆い隠していたフラクタルを吹き飛ばすほどの能力を発揮。しかし、それを快しとしないコリンによって、クレインは狙撃されてしまう。折悪しく、僧院の追っ手であるバローもフリュネを発見し…… 色々と混迷してまいりましたな。今回のテーマは、前回のフラクタル難民達やロスミレの面々とは対照的な、「フラクタルの恩恵を最大限に受ける人々」である。「家を持たず、個々の関係性を重視しない」というこの世界の住民たちであるが、ドッペルという存在を介して「都市」は存在している。そして、そこはどこまでも「偽物」にまみれた、文字通りの「虚飾の街」。ドッペルの正体が全て嘘にまみれていたこともそうだし、ベッドから降りたら絨毯を突き抜けてしまったり、彫像に触ろうとしても一切触れられなかったりと、アンティーク趣味のクレインで無くとも嫌気がさしてしまいそうな、何とも空虚な世界である。この世界の住人たちはフラクタルを恩恵として享受していることになっているはずだが、本当にこんな世界が幸せなんだろうか。 当然、この物語の方向性としては、「偽の情報なんかよりも本当の人と人との触れ合い」というテーマ性になっていくのだろうが、そのためにきれいな対比として出ているのが、「本当にいる人間なはずなのに触ることが出来ないミーガンたちドッペルの存在」と、「本当はいないはずなのに触れることが出来るドッペルとしてのネッサ」という対比。イメージとはいえ、ウイルスに冒されて病床に伏すネッサの方が、二重生活を送り続ける住民達よりもよっぽど現実味があるように描写されている。最後にネッサの力が暴走した後は、荒涼とした廃ビル群だけが残ってザナドゥの実体が何も伴っていないことも強調されていたし、ザナドゥの住民であるはずのミーガンの中のおっさんが、実際は二重生活で遊牧民として生きていたことも、フラクタル至上主義にかげりがあることを仄めかしている。シナリオも既に中盤を越えているわけで、このあたりで、何が正しくて何が間違っているのか、というストーリー全体の方向性をイメージづけていくのは大事な作業だろう。 ただ、相変わらず「基盤となるべき価値観」が見いだせないために、なんだか説得力が無いのがこの作品の悩みどころである。確かに虚飾にまみれた街は疑問視すべき存在であるが、そもそも「その生活を享受する人々」という、クレインやグラニッツと対比的に描かれるべき存在が希薄であるため、「本当にフラクタルに感謝している人間がいる」という構図が見えにくいのである。特にミーガンは今回腐敗したフラクタルの象徴として描かれるべき人物だったはずなのだが、結局本体は隠遁生活を続けているわけで、あまり対比が上手く現れていないのだ。そもそも、ちょっとキチピーの入った自称芸術家なんてものはサンプルとして特殊すぎて、あまり参考にならないのである。一応、実体としては不自由しながらもフラクタル内での生活を謳歌しているコリンの方は、それなりの説得力があるとは思うのだが、それならコリンの方をメインにしてストーリーを構築すべきだったのではないかねぇ。今回の脚本、吉野さんなんだけどね。分かりやすさよりもムチムチ美女の出番の方を優先したのかしら? 色んな意味でけしからん話だ。 でもまぁ、ネッサとクレインの関係性も次第に濃密になってきたし、狙撃で次回へ続く展開も気になるといえば気になる。流石にこれで本当にクレインに死なれるとちょっとどうしようもないけど、せいぜい生死の境をさまよって悟りでも開いて戻ってきて欲しいものだ。あとはフリュネとエンリっていう組み合わせが次第に馴染んできているのもいい感じ。フリュネはまだまだ謎な部分が多いのだけど、歯に衣着せぬ物言いのエンリと絡むことで、もう少し親しみやすいキャラになってくれればいいとは思う。 今回の必聴ポイントは、なんと言ってもミーガン役の豊崎愛生だろう。こういう役をやるのは珍しくて、途中で「あぁ、豊崎だ」と認識できたのも、「クェイサー」や「プラネットスフィア」でのドラマを聞いて馴染んでいたおかげである。アンチ豊崎の人って、こういうのを聞いても「馬鹿の一つ覚え」っていうのかなぁ。これが識別出来るレベルなら、充分ファンだと思うんだけどな。 |
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HN:
Thraxi
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声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧
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