最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
現れ出でたる黒幕、第十話。分かっちゃいたことなのかもしれないが、この作品でこうしてあからさまな「悪意」に出会ってしまうと、やはりどこか物寂しい。阿呆で自分勝手な狸たちに、こういうもめ事はあってほしくなかったものであるが。 いよいよ始まる偽右衛門選挙。矢三郎は、海星が漏らした「ごめん」の一言がひっかかり、矢一郎にも注意を促すが、彼女が警告した夷川の謀略は、下鴨の兄弟が想像した「最悪」の更に上を行っていた。家族が泣き濡れたあの総一郎の最期の一幕には、未だ明かされなかった悲劇がもう一面隠されていたのである。過去の偽右衛門選挙で敗れた早雲は、どこまで言っても追いつけない兄・総一郎との軋轢を最後の最後まで清算することが出来ず、最悪の形で決着を付けることにした。彼が結託したのは鈴木聡美。彼女の前だけではどうにも化けた姿を維持出来ないという総一郎は、弟の罠にかかり、あの夜、いともたやすく弁天の手に落ちた。金曜倶楽部に入りたいという弁天の思惑と、総一郎を亡き者にしたいという早雲の思惑が重なり合い、総一郎に非業の死をもたらしたのである。最悪の形で兄に「さよなら」を告げることに決めた早雲の胸中はいかなるものかと望みを賭けて見てみるものの、彼の別れの一瞥には、残念ながら人の、いや、狸の暖かみは感じられなかった。負け続けた弟は、兄を恨みの果てに謀殺したのである。狸界にあってはならない、混じりけのない純粋な殺意。総一郎は、弟のそこまでの覚悟と、自分たちで作り上げてしまった修復しようのない関係性を見て取り、全てを投げ出して一切抵抗せずに檻へと収まった。彼なりの、弟へのけじめの付け方だったのか、はたまた、逃げようのない状況でじたばたする見苦しい姿を見せぬためか。何にせよ、早雲の計画は成功してしまったのである。 早雲の犯した罪について、全てを目撃していたのが海星だった。彼女は自分の家族を愛しながらも、そのような非道な行為に出た父をどうしても認めることは出来なかった。これまでは身内の恥と知ってか何とか胸の内に押さえ込んでいたが、この度、新たな偽右衛門選挙にあたって、早雲は予想通りにあのときの再現とでも言うべき謀略に出た。矢一郎も、矢四郎も、そして母さえも、全員が捉えられて絶対絶命の下鴨家。次週のタイトルは「捲土重来」とあるわけだが……はたして、この状況から起死回生の一手はあるのだろうか。そして、もしこの危機を脱したとしても、つつがなく偽右衛門選挙が行われるものだろうか。本当に、早雲は取り返しのつかないことをしてしまったものだ。 今回は、後半のクライマックス、次第に高まる不穏な空気のピークに向けて、それに立ち向かう下鴨一家の繋がりが前半で紡がれた。早朝の矢一郎と矢三郎の会話は、矢一郎のくそ真面目さ、そして、なんやかんやと文句を言いながらも矢三郎を愛し、信じている誠実さが描かれている。この長男と三男の関係性は傍目から見てもなかなか良いものだ。水と油のように性格が違うはずなのだが、お互いに無いものがあるが故に、2人は不思議な信頼感で結ばれている。ただ、いかんせん矢一郎の器量がなかなか成長しないために、彼に「任せておけ」と言われても心配が無くならないのがもどかしい。結局、「気をつける」はずだった矢一郎は、割とあっさり敵の手に落ちてしまったし。 そして、今回時間的にはかなり長めに描かれたのが、矢三郎と、井戸の底の矢二郎の会話。何故か知らないけど、私はこの「矢二郎と井戸を通して会話する」というシーンがお気に入りで、毎回矢二郎がなにやら悟ったようなことを言ってくれるとしんみりしてしまう。今回も、彼は彼なりに状況に対応はしていたようで、矢三郎同様の警戒状態にまではたどり着いていた。「いわば宇宙的規模の蛙さ」っていうくだりが非常にシニカルで、彼の人生観を如実に表しているようで面白い。また、海星の名前が出たときにちょっと動きを止めてしまう様子や、話が核心に迫るとおもむろに水に飛び込んでみせる姿なども、1つ1つ、彼なりに何かを考え、そして、考えてしまうが故についやってしまう行動だと思うと愛らしい。 こうして兄弟3人が1つの問題にあたろうとしていた矢先に、父親の所業に耐えきれなくなった海星が、ついにあの夜のことを打ち明けにやってくる。彼女もさぞ悩んだことだろう、言うにもはばかられるような早雲の悪行である。当日の夜の様子が改めて描かれていたわけだが、早雲と総一郎という兄弟の1つ1つの会話の繋がり方が、非常に示唆的に2人の関係を表しているように見える。総一郎は早雲を信じ切っている(もしくは信じようとしている)ために、彼の言うことを全て二人にとって良いことであるという前提で話をしているが、早雲のしゃべっていたことのほとんどは恨み言であった。そこにあまりにはっきりと2人の内面の差が出ており、何となく成立しているように見えた会話も、実は全く会話として成立しておらず、総一郎の話は早雲の表面を上滑りしているだけである。最後の最後、総一郎が「お前はこれでいいのか」と問うた時だけ、早雲は「無言で去る」という、たった1度の「心からの反応」を示していた。総一郎は、そうした弟の姿を見て、この場所こそ、自分が死ぬべき場所、もしくは、死ぬことに意義がある場所だと悟ってしまった。もう、どうにも復元出来なくなってしまった悲しい兄弟関係。自分の息子達だけには、そんな悲劇を再び起こしてもらっては困る。だからこそ、彼は抵抗もせずに、ただ殺されることを選び、今際の言葉も、息子ではなく恩ある薬師坊にのみ残していったのである。いつみても、この下鴨総一郎という男の生き様は全てにおいて意味があり、思慮がある。存命ならば、さぞ楽しい偽右衛門の采配をふるっていたに違いなかろうに。 しかし、総一郎は今や過去の人。そして、再びあの夜の悲劇が早雲の手によって引き起こされようとしている。下鴨一族のためにも、そして、完全に道を誤った早雲のためにも、矢三郎は、ここで阿呆の本領を見せることが出来るだろうか。是非とも快活な「捲土重来」のお話を見せて頂きたいものである。 PR こいつが海星かぁ、第9話。ここまで全然姿を見せなかったし、今回も思わせぶりなカット割りでなかなか顔が分からないようになっていたので、このまま最後まで正体不明のままでいくのかと思っていたのだが、なんか、すげぇ半端なところでへろっと出てきた。うん、ぱっつん可愛い。まぁ、久米田絵だけども。 前回までで父親との記憶については一区切り。後は物語の終盤に向けて、偽右衛門選挙が物語の焦点になっていくことになるだろうか。争う勢力は、総一郎の直系である下鴨矢一郎、そして、弟であり、事実上下鴨家に離反した夷川早雲。一体何を巡っての争いなんだろう、とこれまではぼんやり見てきたものだが、今回、選挙前の会合が行われ、そこには京都の山から多数の狸が押しかけていた。なるほど、確かにあれだけの数を取り仕切る元締めともなると、大切な役職なのは間違いなさそうだ。しかし、司会の人物(狸物)も含めて、集まったお歴々には割と年配のお客もいたように見えるのだが、偽右衛門の座に矢一郎のような若造が就任するのは構わないものだろうか。海星の言葉じゃないが、流石にまだ「器じゃない」と言われても仕方ない気がするが。父親の死が早すぎた影響は、こういうところに出てしまっているのかもしれない。 今回、矢三郎に与えられたミッションはざっと分けて4つ。1つ目は、久しぶりに登場した淀川先生への見舞い。どうやら次の金曜倶楽部のための狸が見つかっていないとかいうお話で、わざわざそれを聞きに行った矢三郎が、母上に心配されていた。流石に旦那を食われただけじゃなくて息子まで食われてしまっては、いくら自然の摂理とはいえ、人間を恨まないわけにもいかないだろうからね。淀川先生は狸を前にしても相変わらずのマイペースぶりで、なんだか困っていることまで含めて楽しそうだった。憎めないおっさんである。この人はなんで金曜倶楽部に参加してるんだろうなぁ。あの会合、何が楽しいのかよく分からんのだけども……弁天様かぁ。じゃぁ仕方ないかぁ。 2つ目のミッションは件の選挙前会合であり、相変わらずの夷川のこすっからさが素直にイラッと来る。今回、早雲という人物が下鴨家にとっては因縁浅からぬ「敵キャラ」であることが語られ、今後の対立構図も分かりやすくなった。おそらく総一郎の弟である早雲は一角の人物なのではないかと予想されるが、どうもあの馬鹿息子どものせいで小物の印象が強い。アニメではまだあんまり活躍してなくて、船合戦の時にちょろっと出てきたくらいだからよく分かりませんね。 そして、そんな早雲との選挙にかり出されそうになって駄々をこねている薬師坊を説得するのが、3つ目のミッション。……このじいさん、駄々こねて面倒かけるの何回目だよ……いや、なんか可愛いから憎めないんだけども。どうも、我々視聴者目線だと矢三郎の見た赤玉先生ばかり印象が強いので、矢一郎を含む他の狸どもが怯え敬っている「大天狗」としての薬師坊が全然ピンと来ないね。今回も単に構って欲しそうにしてるだけだったし。狸どもは大事な偽右衛門選挙の決定権をあんなじいさんに与えてしまっていいのだろうか。ただでさえ下鴨家の三男とつるんでることが知られているのだから、どう考えても中立のオブサーバーにはならないと思うのだけどね。まぁ、天狗はアンフェアなジャッジなんかしない、っていう判断なのかね。ちなみに、今回は姿が見えなかったが、先生よりもえらそうな天狗になってしまった弁天様ならば、その力は存分に見せつけている。既に「薬師坊を上回る」という話もあったし、あの下鴨総一郎が射すくめられたように化けの皮を剥がしてしまうというのも衝撃的なエピソードである。山1つに化けられるほどの、文字通りの「化け物」すら飲み込んでしまう弁天という存在。一体どこまでの器だというのだろう。 そして、4つ目のミッションが、今回のサブタイトルにもなっていた、海星との銭湯対話である。今作では2度目の「お風呂回」ということで、時間をたっぷり取ったサービス回(?)だ。前回はお風呂回にも関わらず野郎でジジイで相撲取りだったが、今回はちゃんと女の子の入浴シーンも描かれてます。まぁ、あんまり色気とかエロとは繋がらないお話でしたが、意外に「可愛らしさ」は出てたんじゃないでしょうか。そういや一体何歳なのかはさっぱり知らなかったわけだけど、あの阿呆兄弟よりも確実に年下なのだから、実は案外ロリっ子だった。矢三郎と同い年くらいの勘定か、それよりもちょっと下くらいか。夷川の家の中では明らかに良識派の海星は実の兄を「馬鹿」と呼んでいるが、それでも他人に罵られるとかちんとくる部分もあるという。その上で、何となく矢三郎のことも悪くは思っていないことも伝わってくる。なかなか複雑な乙女心である。今後の展開で、彼女が選挙戦にどのように絡んでくるのかは気になるところだ。矢三郎に対してもう少しあからさまにデレてくれると可愛らしさも増すんだろうけど、この作品ではあんまりそういう露骨なシーンが見たいというわけでもないし、バランス感覚が難しい。今くらいの「触れられない」立ち位置が丁度良いのかなー。 ちなみに、前にも一度書いた気がするが、海星のCVが佐倉綾音というのは個人的にお気に入りのキャスティング。あやねるはデビュー直後の見事な棒っぷりの印象がまだまだ強いが、最近は落ち着いてきて、役によっては非常に良い物を見せるようになってきている。そして、個人的にはとても「いい声」だと思っている。ちょっと強めに出したときの何とも言えない「強さ」と「幼さ」の配分が良い。海星も、そうした二面的なあやねるの良さが出ている声だと思うのです。中の人の残念さはいったん忘れて、海星の良さを今後も探っていきたいところだ。 止まらぬものか、阿呆の血よ、第8話。1つの節目、下鴨総一郎の最期の、その一部始終。涙無しでは語られぬ、一匹の狸の物語。 前回明かされた矢二郎の真実。父の末期を引き起こしたのは次兄の矢二郎であったことが夷川によってもたらされ、矢一郎と矢三郎は衝撃を受ける。自他共に認める「京都一怠け者の狸」である矢二郎だが、当時はどうにも片付かぬ色恋の悩みを父にだけは漏らしていた。問題のその夜、総一郎は全てを任せよと言い放ち、姿をくらます。しばらくして鍋に落ちたことが報された時点で、矢二郎は全てが自分の責任であると思ってしまうのは仕方ない。この世の全てに嫌気が差し、怠け者の次兄は狸であることすら捨ててしまった。もちろん、そんな事実を家族に告げるなど、出来るはずもなかったのである。 しかし、その夜の記憶は、矢一郎が思い描いたような「過失の物語」でもなく、矢二郎が悔いたような「失意の物語」とも少し違っている。末期の姿を観たのは実は矢二郎ではなかった。山一つに化けてみせるだけの大狸は、死してなお、恩義を受けた薬師坊への挨拶を忘れなかった。狸の姿を残して訪れ、全てが終わった旨を伝え、最後に三男のことのみを託して一足先に冥土へと発ったのである。そこには後悔もなければ寂寥も無い。ただ望むがままに生き、最後に息子たちのために自分の人生を費やした父親の背中があるばかりである。本来ならば繋ぐことの出来なかった散り散りの兄弟。実にいびつな形ながら、父親を喪失し、肩に別々の荷を背負わされることで、総一郎が望んだ形での「家族」を産みだすことになったのである。 矢一郎は責任感を受け継いだ。矢二郎の告白に最も「常識的な」反応を示した矢一郎は、今回唯一涙を流した人物である。偉大な父の全てを背負わねばならぬという責任感。そのために矢二郎を責めもするし、矢三郎を叱咤もする。それでも、父の遺志をどこかに感じ取らずにはいられなかったのだろう。母の顔を見ることも出来ずにただただ子供のように泣きじゃくることで、父の面影への別離を果たす。 矢二郎は呑気を受け継いだ。彼と海星の関係性こそが、総一郎に最後の一仕事をさせた直接の原因である。全てを失うことになった矢二郎は、息をすることすら面倒臭くなり、ただただ生きるのみの蛙に成り果てた。この次兄の末路を総一郎がどこまで予期していたのかは知るよしも無いが、彼の悩みは、此度の告白を持って全て霧散した。蛙の身故、涙を流すこともままならぬが、彼は間違いなく泣いていたはずである。はき出すことで、彼の「面倒」は軽くなったのだろう。 矢四郎は純真さを受け継いだ。父が去ったあの日も、今現在も、おそらく矢四郎は物事を全て分かっているわけではない。変身すら上手く出来ない幼い末弟は、偉大な父の姿を兄の口から聞くことが精一杯であり、父の影に思い悩まずにこれからの日々を育っていく、真っ白な存在である。 そして、矢三郎は阿呆を受け継いだ。彼こそが、彼だけが、総一郎の演じて見せた、一世一代の阿呆の行く先を知っている。何の因果か、父を食った人間から話を聞かされ、父に最後を任された薬師坊にも父の遺志を伝えられた。阿呆を解し、阿呆に励む矢三郎だからこそ、父の死の真実を知ったとしても涙を流さず、そのあっけない最後に意味を見る。それが本当に正しい行いだったかどうかは分からないが、少なくとも、どれだけあがいても届かぬような、阿呆の大きな大きな手本になったのは間違いない。これこそが、阿呆の血のしからしむるところである。 結論が出たような気もするし、やっぱりどこまで考えても総一郎の行動は想像が及ばないような気もする。どれだけ自分の生に満足がいったとしても、こんな奇妙な形で矢二郎の悩みに答えるために、「食われてしまう」ことが正解だとは思うまい。しかし、何故そうしたのかと考えて、「それは阿呆だったからだ」と言われればなるほどという気もしてくる。「天狗が人家の屋根に落ちることがあるならば、狸が鍋に落ちることもあながち間違いとはいえなんだ」ということ。総一郎は、せっかくの愉快な人生の最後に、人に食われてみたくなってしまったのかもしれない。それを邪魔することなど、子どもたちには出来るはずもなかったのである。自分の引き際までもを息子達のための舞台設定に用意して見せた下鴨総一郎の決して長くない一生。実に見事なものである。 「家族」というテーマについては本当に弱い。これで単に矢二郎が「うっかり父親を殺してしまった」という悲劇であるならば納得もしようが、この話の場合、総一郎の死は悲劇なんて安易な言葉を受け付けない。父の狙いは家族の行く末にあり、そのために1人1人の息子を思いながら、愉快と笑って死ぬのである。こんな頓狂な父親像を、涙無しで見られるものだろうか。小さな毛玉となって別れを言いに来た総一郎の1つ1つの仕草が本当に何気ないところであまりにも普段通りのもので、彼にとっての死の意味を思うと、訳も分からずに泣けてくる。最後まで泰然自若として悠々と去るのかと思いきや、最後のシーンではいかにも狸らしく、ちょろちょろと駆けていくのだ。彼は最後の最後までただの狸だったし、ただの父親だった。なんだかもう、それが愛おしくてしょうがない。 下鴨総一郎の名前は、理想の父親像として、刻み込んでおきたいと思う。 今期櫻井は狸をやったり牛になったり犬になったり大変である、第7話。季節は現実に先駆けての秋模様。京都と言えば紅葉、ってことで、一面に燃える赤が実に鮮明な世界でございます。早く涼しくなーれ。 サブタイトルにもある通り、今回は「風呂回」である。そりゃね! やっぱり現代のアニメはこの辺りの話数で風呂回を入れてサービスしないとね! ってなもんですが、残念ながら登場する肌色は野郎オンリーとなっております。今回女性キャラの出番はというと、冒頭で弁天が高笑いして飛び立つところだけ。まぁ、先週までたっぷりと妖艶な魅力を見せつけてくれていたので、今回からはしばらく我慢しろ、ってことでしょうかね。その分、男の子達だって大変なんですから。 最初のミッションは「天狗を風呂に入れろ」である。こんなことでも難渋してあの手この手を費やすあたりがこの作品のアホらしく愉快なところであるが、それにしたって薬師坊のじいさんは本当に面倒な奴である。あの歳になって風呂嫌い、幼子に諭されても大人げなくそれに抗い、いざ手慣れた矢三郎に説得されると、尊大な態度は崩さず、そのまますとんと風呂に落ち着いてしまう。この気まぐれな面倒くささは実に年寄りである。そのくせ、自宅で「臭い」でも言われようものならファブリーズ連射だ。そこは天狗の神通力で何とかしろよ。なんでそこだけ現代の神経質な主婦みたいな対策法やねん。そもそもじいさんの一人暮らしでファブリーズつかわねぇだろ。掃除洗濯こまめにやりましょうよ。あんな状態で仕事を押しつけられた矢四郎君が本当に可哀想。矢四郎の細かい仕草にいちいち性的なものを感じてしまうのって、多分中の人のせいだよねー。 結局、矢三郎のいつも通りの丸め込み方で、いつの間にか兄弟総出で銭湯に出撃した下鴨家。……まぁ、裸のつきあいもよろしいのじゃないかしら。何も問題が無ければ、ちゃんと大阪から戻ってこられた矢三郎が、一時的に仕事を押しつけていた矢四郎からバトンを受け取る良い連絡行事になったところだったのに。 そんな団欒を邪魔してくるのが、この作品では最も純粋な意味での「阿呆」の称号を持つ夷川の兄弟。様々なキャラが小憎らしい中にも愉快さが入り交じっている今作のなかで、純粋に苛つくだけの貴重な阿呆コンビ。今回も小物感を遺憾なく発揮させながらも、的確に下鴨家のどこか後ろ暗い部分に突っ込んで新たなBROTHERS CONFLICTを産みだしてしまった。話を聞いている分には、「そもそも何で矢一郎はこれまで父親の死に対して疑問を持たなかったのだろう」という方が不思議だったのだが、とにかく阿呆兄弟がつついた過去の事実は、矢一郎にとっては寝耳に水の辛い事実であったという。確かに、「偉大なる父親の死の片棒を担いでいたのは弟だった」という事実はそれなりにショッキングであるが、おそらく、兄弟にとって一番ショックだったのは、そうした事実を矢二郎は事件以降も口にすることなく、墓の下ならぬ井戸の下にまで持っていってしまったということであろう。確かに考え方の違いで袂を分かった兄弟であるが、矢二郎の隠遁生活のきっかけには、あの父親の死が関係していたことを、察しの悪い兄も弟も、今更知ることとなってしまった。そして、よりにもよってあの憎らしい夷川の口からその事実を聞いてしまったのである。事実に対して怒るとか困惑するというよりも、そうした奇妙な情報の流れについて、矢一郎は混乱していたのではなかろうか。 ただ、視聴者にとって、矢一郎の受けた衝撃はそこまで共感出来る部分ではない。一番の原因は、下鴨総一郎の死が、あまり悲劇として描かれて来なかったことである。前回までの思い出話の結果、「食べられること」は「愛」であり、最も濃密な関係性であると定義されたし、淀川先生の口から、総一郎が自分の死に際して一切臆することなく、堂々と「与えられた」最期を全うしたことも伝えられている。確かに総一郎の死は「喪失」であり「さよなら」ではあるが、本人の意識の中では、それは「悲劇」ではなかった。だからこそ、矢三郎は今回の一件をまだ客観的に観察することも出来るのだろう。しかし、当事者たる矢一郎や矢二郎にはそこまでの景色が見えているかどうかは定かでない。誰の視座に立つかによって、ことの顛末は様々な意味を持つようになるだろう。 総一郎の死は「悲劇」なのか「終わり」なのか「愛」なのか。そのどれが事実だったとしても、「喪失」であることに変わりはない。そこを埋めるためには、生きている人間が代わりを務めねばならぬ。さて、次の狸の総大将は、一体誰が選ばれ、登り詰めることになるのだろうか。ふむ、矢一郎は真面目だから何とか頑張って欲しいし、夷川の兄弟は心底馬鹿なのでさっさと痛い目を見て欲しいとは思うのだが……こっちの兄弟も阿呆は阿呆だしなぁ。 今週は特に染みる、第6話。ホントにホントに不思議なお話。ず〜っとじいさんが一人語りをしているだけの話なのに、何故こうも色々と見えてくるのだろう。こんな感覚に陥るアニメ、そうそう無い。 前回の情緒たっぷりの幕引きからスイッチするかと思っていたのだが、まさかのアーケード街屋上からお話が続いていた。相変わらず奔放に飛び回る弁天を追いかける矢三郎と、布袋様こと淀川先生。足下も覚束ないような文字通りの「天上世界」を、3人はあてどもなく飛び回り、気付けば目を見張るような紅葉の眩しい屋上庭園にたどり着いていた。あんな風に目を奪われる紅葉が生い茂る屋上が本当にあるのかどうかは知らないが(ちょっと探して見たけれど流石に寺町界隈には見つからなかったが)、弁天がふいと消えてしまう「一夜の夢の終わりの舞台」としてはこれ以上無いセッティングである。先週も触れたが、「京都一の賑わいを見せる繁華街のアーケード上」というのは実に不思議なステージになっており。無機質なビル群の並び、しかも人目に触れないおかげですすけて、華やかさの欠片も無いような「舞台裏」のはずなのだが、京都の町並みの一部であることは間違いなく、彷徨っていると瓦屋根などの歴史的な建築様式も平然と混ざり込む。京都は景観保全のために建物の高さが制限されており、そのせいで繁華街と言っても目立つ建物は1つもなく、歴史的な平屋の屋根と、薄汚れた雑居ビルの上層階が均一に肩を並べている。それを覆うアーケードの上は、そんな京都の雑多な文化を全て飲み込んでいる闇鍋の蓋みたいなもの。そんな奇天烈な場所に、ふいと現れるのが「日本の景色」を代表する一面の紅葉なのである。どこへ行っても季節感を残す日本の原風景とでも言うべき舞台。そこで、弁天は文字通り「煙に巻いて」矢三郎たちに別れを告げた。 弁天という女は、今回冒頭で紹介された通りに始めは「人間の代表」であるはずだったのだが、天狗に師事し、いつの間にか追い抜いてしまい、気付けば天狗・狸・人間のどこにも属さぬ中途半端な境界領域になってしまった。この度の金曜倶楽部で矢三郎が積極的に(父の敵であるはずの)人間と交流を持ち、狸と人間の近さを感じれば感じるほど、弁天は孤独にもなっていく。鈴木聡美だった「昔日の面影」は無いと言われているが、前回から引き続いてぺたぺたと素足で歩く彼女の姿は、どこか幼く、木訥だった田舎娘の風情を残しているようにも見える。人から離れきれず、かといって天狗にも狸にもならない彼女だけの孤独が、後に井戸に注いだ涙になっているように見える。 弁天が繋いだ縁は「食う側」と「食われる側」という不思議な関係性を浮き彫りにした。何とも妙な人間である淀川先生は、気付けば弁天への愛ではなく、狸への愛情、それも、過去にたった一匹自分と腹を割って話してくれた下鴨総一郎への愛情を語っていた。狸としての生を全うしたと語る総一郎の生き様を受けて、彼は「食べる」「食べられる」という自然の摂理から抜け出してしまった人間の寂しさを漏らす。受け取りようによっては非常にエゴイスティックな物言いであるし、ことが「捕食」であるから、思い描けば実にシビアで、救いようの無い話をしているはずなのだが、彼の嘆願も懐古も、どこか物寂しげに聞こえてくるのが不思議なところだ。「狸に食われてしまいたい」という彼の願いも、表面的にはこんな倒錯した話も無いのだが、総一郎との交流や、彼なりの美学を謳われてしまった後には、その憧れも分かるような気がしてしまう。「愛を持って食う」という主張がまかり通るこの世界であるならば、下鴨総一郎は、何とも幸せな末期を迎えたものである。 そして、そんな話を聞かされているのが、総一郎の血を最も強く受け継いだ矢三郎であるというも実に倒錯的。淀川先生の思い描く「食うということ」を聞かされてしまい、矢三郎は今まで以上に父の思いを考え、悩むことになる。これまであらゆる局面で飄々と逃げ続けた「逃げの矢三郎」が、此度の談話についてだけは逃げを打つことが出来ず、最終的に矢二郎のところへ悩み相談に行ったのも、なんだか奇妙な風景であった。結局、父親の死について全てを受け入れたと見えていた矢三郎も、未だ父や淀川先生のような老練の「達観者」には至っていないのであろう。 「阿呆の血の然らしむるところ」というキーワードは、総一郎の口から現れ、淀川先生の、人としてどこかずれたような生命観へと流れ、再び息子の下へと戻ってきた。食われた阿呆は檻の中だったが、食った阿呆もまた「井の中の蛙」であると自嘲して見せた。思い悩んだ矢三郎が相談に行ったのも井の中の蛙であるし、当の矢三郎自身も井の中で頭を抱える。井戸の外、いやさ井戸の上におわすのは弁天だた1人であるが、彼女とて井の中に涙をこぼすくらいしかやりようがない。かくも世の中は分かり難く、だからこそ美しくもある。此度の屋上庭園は、そんな阿呆を煙に巻いた、世界の見え方の一端であったのだろう。 悩んだところで宴は終わり、淀川先生もまた普通の人間として日常へと帰って行く。狸の方はと言えば、「どっこい生きてる」それだけで重畳。蛙の姿でこの台詞を言うあたり、まだまだ矢三郎も余裕があるのかもしれませんな。 あのすき焼き屋の中ってあんな風になってるのかー、第5話。店の前を通ると、割と目立つところにどさっと肉のディスプレイがあるのでやたら目立つ店である。当然、入ったことなどあるはずがないけども。すき焼きってほとんど食べたこと無いし、あんまり食べたいとも思わないのだが、今回はちょっと食べたくなった。出来れば弁天さんと一緒にね。 前回は京都の夜空を舞台にした船合戦の大活劇。それに対して、今回はおっさん共がだらだらと酒を飲みながら鍋をつつく飲み会の様子を描くだけという、現代アニメに対しての挑戦じゃなかろうかと思えるほどにそそられないシチュエーション。「日常もの」アニメは数あれど、萌えキャラもなくここまでの「どうでもいい」光景が描かれるというのはなかなか無いことだろう。しかし、それこそがこのアニメの真骨頂といえる部分なのかもしれない。「森見節」とでも言うべき飄々とした会話劇は、特に奇抜な部分があるわけでもないのにどこかクセになる気持ちの良さがある。ひたすら「引っかかる」言い回しのみを多用して視聴者を煙に巻く西尾維新あたりとは全く趣の違う味わいである。シナリオ上も、ごく普通の会話を続けながら、「はたしてこの次のシーンでは何がどうなっているのか?」と気になってしまう誘致要因があるのだ。こればかりは理由を掴みかねるが、おそらく「小説」ってのはそういうものなんだろう。そして、「アニメ」というのもこういうものがあるわけだ。 「金曜倶楽部」なる謎の集いの面々は、なかなか筋の通ったしょうもなさである。話している内容は単なるおっさんの無駄話だし、それなりに富裕層の集まりのくせに、すき焼きの肉を奪い合うようなみっともない姿も平気で見せる。「あの下鴨総一郎を食ってしまった憎き仇敵」という集まりのはずなのに、まったくそんな大役は似つかわしくない庶民的な顔ぶれである。気付けばその中に母君の恩人が混じっていたり、単に「父の敵が憎い」という分かりやすい筋立てにはなってくれない。そもそも、総一郎自身が「狸と生まれたならば、鍋として食われることもあろう」と受け入れてしまったらしいし、阿呆息子の矢三郎にしても、このモットーは受け継いでしまっている。更に相手があの弁天と来れば、もう仇も何もあったもんじゃない。あくまで「弁天を飾り立てる装飾品の一部」といった程度の扱いだろう。狸を食う弁天、天狗を手玉に取る弁天、そして人間界でも奔放に振る舞い、地元名士を翻弄する弁天。結局、この作品はどこまで行っても彼女に帰結する。だらだらと続いていた飲み会にも飽きが来た彼女がふいと抜け出してアーケードの上に降り立ってからが、今回の見せ場である。「月を持ってこい」とどこかで聞いたようなリクエストをする弁天に、へらりと返す矢三郎。2人で酌み交わしたカクテルグラスは、それまでのすき焼き屋のビールグラスとは全く違った距離感になっている。「食べちゃいたいほど好きだもの」という今回のキーワードを矢三郎に漏らす弁天の本心は相変わらず見えてこず、常に命の危機に直面し続ける矢三郎は、緊張感の中にも、弁天の心情を探る突端を見つけたような気がする。布袋こと淀川氏が「愛です、愛」と語っていたわけだが、この「愛です、愛」というフレーズは、「四畳半神話大系」で小津が毎回繰り返していた殺し文句でもある。相変わらず、この人が描く情愛というのは計り憎くて面白い。 前回に引き続いて夜の京都がクライマックスになったわけだが、らんちき騒ぎだった前回とがらりと変わって、目立つものは大きな月だけ、という寺町アーケード上の秘密の会合。難の飾り気もない雑多な「舞台裏」で、裸足のままぺたぺた歩く弁天というギャップがまたそそられれる。どこまでも気丈に、完璧に見える弁天だが、茶目っ気がにじみ出る上に、子供じみたところが多く、気取ってマティーニを干しながらもなんだかだだっ子のように手のかかる面もある。そりゃまぁ、この人に食べられるなら、それもまた面白いかも、と思わせてしまう女性である。3話では現実感の乏しい時計塔でのバカ騒ぎが目立ったが、今回はまごうことなく実在するはずなのに、誰の目にも触れない文字通りの「天上」での一幕。こういうシーンがさらっと描けて、そこに不可思議な幻想性が出せる作品作りこそが、最大の見どころなのかもしれない。間違っても聖地巡礼とかしちゃ駄目だぞ。 そういえば、今回久しぶりに夷川のご息女である海星が再登場したが、相変わらず姿は見えていない。丸まってあの箪笥の中に入ってしゃべっている彼女(狸)の姿を想像すると、なんだか可愛らしい。「出られない」って言ってたけど、あの後大丈夫だったんだろうか……。 大文字の日に花火はあがらねぇなぁ、第4話。それにしても、ホントに色んな事がある町だな。 頑張って借り受けた奥座敷が空を舞う大文字当日。下鴨家の船ならぬ座敷にやってきたのは、薬師坊のじいさんだけ。矢一郎は色々頑張ってしきたり通りの船を望んでいたようだが、どうにも恰好が付かぬ。それでも世話になった先生を呼び込めただけでも、ひとまず満足といったところだろうか。ワインを燃料に空を飛ぶシュールな座敷で団欒しながら、遥か下界に灯る送り火を見る。なるほど、確かに五山全てが見渡せるビューイングというのはなかなかに贅沢である。しかしまぁ、よくもあれだけの船が空を飛んでいるものだ。しかも、最初の座敷の離陸シーンを見る限り、割と物理的な力で強引に飛んでるようにも見えたし、当日は至るところで青い炎を吹き上げて離陸する船が見られるに違いない。今年も京都の空は狸の船で埋まることになるのかなぁ。下鴨と夷川以外の一族って、一体どんなのがいるんでしょうね。 座敷で語られる昔話は、主に偉大なる父、総一郎についてのものだ。くだんの「偽如意ヶ嶽事件」での活躍を中心に、四兄弟の父親がいかなる人物だったのかが英雄譚として語られる。誇らしい父を覚えている兄弟もあり、物心つかぬたんぽぽの綿毛のような毛玉だったものもあり。誰の口からも悪い話の聞こえてこない総一郎の偉業は、狸や天狗の垣根を越えた実に見事な阿呆であったようだ。実際、すっぽりと山を覆い、木を走らせてだるまを転がす様子は実に痛快である。果たしてどれだけの力があればあのような特大イベントを仕込むことが出来るのかは想像も出来ないが、少なくとも、狸を下に見る傾向の強い天狗の鼻をあかすには充分だったようである。 しかし、そんな父の存在も今は昔。守る盾の無くなった下鴨家はいささか頼りなく、2年連続で夷川の攻撃に晒されてしまう。あげく赤玉先生は弁天の不在に駄々をこね、祝いの席であるはずの座敷はてんやわんやである。夷川の好きにさせていていいものか、ともやもやしながら観ていると、やはり狸も堪忍袋はあるようで、真っ先に矢三郎が、そして同時に母狸もキレる。どこから引っ張り出したかよく分からない「乾坤一擲」の大筒で見事な返礼。まさかのアンカーでピンチに陥るも、相変わらずの毒婦ぶりを見せつける弁天からのサジェスチョンで見事な扇舞。「錨打ち込まれてる状態で相手の船扇いだら自分もヤバいやろ」という当然の帰結も気にせずに、結局2つの家族が地上へ一直線である。京都の山中にボロボロの船と座敷が転がっているのかと思うと、これも胸アツである。赤玉先生、「茶釜ごときに酒は飲ません!」と叫んでいたが、元々アンタの持ち物なんだから、そのくらいはなんとか我慢しておくれよ。 わざわざ1週かけて準備した大文字のイベントは、矢三郎の阿呆ランクが1つ上がったところでお開きでございます。次のイベントは何になるんでしょうね。今回、コンテに岡村天斎という謎のセッティングでちょっと笑ってしまった。意外に思ってたら、案外P.A.での仕事も少なくないのね。なんとかDARKERの新作早う。 そうかぁ、京阪電車は天狗も利用するか……今度から乗るときは注意して見てみよう。ひょっとしたら清川元夢の声が聞こえてくるかもしれないしね。 ちょいと気が早いが五山の送り火の準備をするお話。ちょうど先日再放送が終了した「四畳半神話大系」も最終回で五山が印象的に描かれており、森見作品というとやはりこの五山のイメージが強い(まぁ、ほとんど知らないんだけども)。狸の一家はどのように五山で「阿呆」を楽しむかといえば、なんと空を飛ぶ船を使って人混みの気にならない空高くからこれを見るという。何ともうらやましいお話ですね。「四畳半」の小津は、「一度に全ての送り火を見ることは出来ない」とされている五山の全てを彼女に見せるためにわざわざ飛行船をチャーターしようとしていたが、狸たちはそんな苦労をせずに、持ち前の妖力で特等席を確保してしまえるらしい。大体人気スポットは人混みにまみれているわけで、そんなことを聞いたら狸になりたくなってしまうではないか。いや、あんまり真面目に送り火見たことないんだけども。 下鴨の一家は、そんな船を出す手はずに失敗してしまった長男矢一郎の土下座からお話スタート。最初の土下座のくだり、矢三郎が兄に対してどの程度の感情を抱いているのかがちょっと掴みにくいのだが、いざ土下座に入ろうとした時に止めなかったのは割と本気なのか、それとも持ち前の享楽主義のせいで「面白いもの」を見てみたかっただけなのか。幸か不幸かおかあちゃんの手によって阻止されたわけだが、相変わらずこの兄弟のBROTHERS CONFLICTは謎が多い(知り合いに「有頂天家族」と「BROTHERS CONFLICT」はタイトルを入れ替えても意味が通じる、と言われて、このくだりが頭を離れなくなってしまったのである)。ちなみに次男・矢二郎については特に険悪な関係ではないのだが、この次男はどこまで行ってもマイペースなので、あんまり争ってもしょうがなさそう。今回回想シーンでまだ人型だった頃の矢二郎のビジュアルも出てましたね。兄弟の中では一番イケメン風味だったのが面白い。 そして、天狗のお宝「奥座敷」を巡って、矢三郎はまず師匠の下へ。ここでくだんの「大阪でカメラ屋をやっている天狗」が登場するわけだ。天狗の方がやはり妖力は高いのだろう、人の生活に紛れ込むスキルも高そうだ。狸はちょっと油断すると鍋にされる恐れがあるからね。いや、それでも山一つに化けちまうなんて大技が出来るならなんでも出来そうだけども。そうか、京都は山だと思ったら狸だったりするかもしれないのだな。気をつけないと。ちなみにちょっと面白かったのは、あの天狗さん、ちゃんと帰りも京阪電車で帰ってたこと。まぁ、出町商店街にくるなら京阪がベストですよね。その後弁天様を捜していた兄弟2人は六角くんだりまで移動していたのだが、五山の時期(つまり真夏の一番暑い盛り)に川端を延々、出町→六角間歩くのは相当しんどそうである。せめて末っ子に帽子くらい被せてあげた方がいい気が。余談だが、出町近辺→三条界隈というルートは、「けいおん」で唯たちが歩いたことでも有名。ムギはクソ重いキーボードを抱えて平気でこの距離を歩いたのである。 そして、扇屋に入ってからが今回のクライマックス。それまで徹底的に京都の町並みを描いていた世界が、急にだまし絵のような非常にシュールな異世界へと飛ぶ。矢三郎がボートを漕いで訪れた「時計台」の風景は、どう見ても現実感など無いはずなのに、それまでの京都の風景と、連絡通路となった扇屋、食堂の風景に繋がっており、奇妙な存在感を持っている。弁天様はそこで風神雷神の扇を使って雷雨を起こしたり、鯨の尻尾を捕まえてご満悦だったりとやりたい放題だが、この突拍子も無い幻想こそが、いかにも考え無しの「阿呆」らしくて面白い。こういう型にはまらないファンタジー設定ってのは、本当によく出てくるものだと感心するし、そんな突拍子も無い景色をこの質感で映像化出来るアニメスタッフも見事である。 結局、終始主導権を握り続ける人間の弁天様を中心に、何となく命のやりとりをしながらミッションコンプリート。ポートワインを燃料にして空を飛ぶというふざけた奥座敷で、無事に川端まで舞い戻ることが出来た。どうやら次回が五山の本番ということらしい。ふむ、京都の空は色々と騒がしいようであるな。是非機会があったら、真っ暗な空を見上げて狸が泳いでいるところを見つけてみたいものである。 しっぽりする、第2話。なんか色んな要素がじわっと来るアニメ。見慣れた景色しか出てこないというロケーションの問題に加えて、今回はお母さんが絡む家族のお話だから、特にね。タイトルに「家族」って入ってるんだからファミリードラマになるのは当たり前なんだけども。 1話で中心となった弁天様はほとんど出てこなかったが、冒頭の能登ボイスだけで充分過ぎる仕事を果たしていた。なんでこんなにも能登は能登なのだろう。久米田絵のこまっしゃくれた女なんて色気はほとんどないはずなのに、この弁天様は実に妖艶な人なのだろうな、というのが嫌でも脳髄に染みこんでくる。彼女に食われたんじゃ、親父様もしかたあるめぇ。「狸なのだから鍋にされるのはよくあること」っておかあちゃんが言ってたのはすごく切なかったけども。他の女に旦那を寝取られるっていうのなら分かるが、他の女に旦那を食われるってのはやるせなかろうなぁ。 今回は、母上様に加えて初登場の次男が登場。「面白く」をモットーに奔放に人へと化け変わる三男とは対照的に、人に化けるどころかいちいち変化することすら捨て去った完全な世捨て人(狸)であり、何故か選んだのは寺社の古井戸の蛙。「まさに井の中の蛙」と自虐的に笑っていたが、なるほど、自由に姿形と生き方を変えられるということは、こういう選択肢もありなのだな。……俺もこうなりそうな気がするなぁ……面倒臭いものなぁ。次男を演じるのは吉野裕行。こうして家族が出そろうとあまりにも個性が強すぎる一家であるが、それぞれの立ち位置は絶妙で、互いに反目し合いながらも理解し合う部分が根底にあり、互いに気にしながらも不干渉を守るその姿勢は、確かに「家族」のあり方なのかもしれない。自由人のお母様が平時にはそれなりに楽しそうに生きているみたいなので、今はこの状態で良いのだろうね。お母さんに心配かけるのだけは駄目だと思うけどさ。そう考えると一番心配なのは末っ子なのかなぁ。 夷川発電所なる謎の施設で働いていた末っ子は、仲の悪い別な一家からいじめられながらも健気に働く良いショタっ子である。健気なのは大変結構なことだが、そこで頑張って何か得るものがあるのかどうかはちょっと不安。っつうか、あそこの疎水沿いであんな妖怪大戦争が勃発するのはどうかと思う。そこまで人通りの少ないとこでもないし、そもそも回り住宅地やで。日も落ちないような時間帯からライオンやら虎やらが暴れ回ってたら怖くて仕方ないわ。怪しげな人力とかも駆けつけるしさぁ。あの人力の演出は面白かったけども。流石にいくら京都でも、あのあたりまでは人力車は出てきませんね。 結局、兄弟が力を合わせて最後に挑んだミッションは母親探しであった。あのビリヤード場がどこだったのかよく分からないが、鴨川沿いにそんなお店があったのかしら。逃げた方向も分からずに、長兄がテンパリ過ぎである。1話を見た時点だといけ好かないヤツかと思ったけど、今週のテンパリぶりを見たら割と良い奴な気もしてきた。「同志社方面に探しに!」って言ってたけど、そっち商店街とか人通り多いから、多分狸がいたら一発でばれるぞ。結局橋の下で救出された愛らしい姿のお母様。助けてくれたのはこれまた夷川の一家だったらしく。こちらは女の子で、声があやねるなんだな。今回のあやねるの声を聞いて、「あれ、この子ってひょっとして意外といい声してるのかも」と思えた。普段はまだまだ要精進な演技の部分ばっかり気になってたのだけど、今回は姿が見えずにどこか神秘的な声だけが聞こえてくるという演出になっていて、なんだかすごく気持ちの良い声だった。使い方を工夫すれば、案外この業界でも真っ当な売り方で伸びる子かもしれませんよ。 なんの話だっけ。まぁ、今週も綺麗なアニメだったし、良いお散歩コースであった。これさえ見てればクソ暑い夏に外出せんでもそれなりに外に出た気分になれそうな気がする。 |
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