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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 立て続けに劇場へ。こういうのって勢いが大事ですね。ただ、こちらの作品については「えっ、観に行ったの?」と思われる方もいるかもしれない。ぶっちゃけ、普段だったら割とスルーしがちな傾向の作品である。なんでわざわざ足を運んだかというと、理由は「なんかTLで反応してる人がちょこちょこいたから」。Twitter上で評価する声をいくつか見かけた上で、かつては「アイ歌」とか、直近だと「北極百貨店」とか、良い作品なのに宣伝が刺さらずにあんまり評判になってない作品があるのは勿体無いと思い、この度ちょっと重い腰を上げて普段触れないような作品にも接してみたのである。

 折り返し前に端的に感想をまとめると……うーん、ごめん。俺は今ひとつだったかな。いや、決して悪い作品じゃないという話も理解はできるのだが……正直、この文章を書き始めたこのタイミングでも、どう評したものかと悩んでるのが実情です。

 

<一応内容に言及するので折り返し>

 




 まず、こちらの作品の原作は未読である。もちろん幼少期から何度も名前は見聞きしていたが、わざわざ手に取る機会はなかった。しいてチャンスがあったとするなら、確か小学生くらいの時に読書感想文の課題本の1つになっていた気がする。……でもまぁ、複数の選択肢があったからわざわざこの本は手に取らなかったけどね。おかげで大人になるまでどういう来歴の作品かもよく知らないままで過ごし、なんかわからんけど名前の響きから「長くつ下のピッピ」と混同していたくらいである。そんな作品に、作者が御歳90歳を迎えたこのタイミングで触れることになるとはなんとも不思議なものである。

 そういった事情で、「作者である黒柳徹子の自伝的物語である」ってことくらいは知ってたけど、中身はさっぱり知らずに視聴開始。その結果、「この作品が一番やりたかったことはなんなんだろう……」と頭を抱えることになってしまった。正直言って、普段私が触れている圧倒的に商業的で、「なんらかの層」を狙い撃ちしたような劇場アニメとは、あまりに制作理念が違う気がした。

 原作を知らないので勝手な想像も交えることになるが、おそらく原作者に「何がやりたかったのか」と問えば、「過去の自分をみなさんに見せたかったのだ」と答えるのではなかろうか。今回のアニメ化にあたってもちろん原作を100%で取り出すなんてことはできないのでさまざまなパーツを切り貼りして2時間の枠に収めたのだと思うのだが、そのどこを取っても中心にいるのは(当たり前のことだが)トットちゃんである。作者本人が自分のことを回顧して綴った「自伝」であるなら、そこにある目的はただ本当に「自己表現」であったはずだ。そのことに疑問は無いし、文句もない。

 ただ、それが他人の手にわたり、新たな「アニメ映画」になった時、元の目的意識をそのまま保持するわけにもいかない。この2時間の映画にはなんらかの起承転結が求められ、大きな「まとまり」が必要になる。いや、もしかしたら必要なかったのかもしれない。本当にただ、「黒柳徹子は幼い頃にこんなことをしてたんですよー」という事実のみを無心で切り分け、それを垂れ流すだけでも成立した世界観があったのかもしれない。ただ、今作ではそうしたエキセントリックな方向性は狙わず、最低限は「1本のドラマとして」収束することに意識を向けているはずだ。そして、それが本当に「ドラマづくり」に専念したものではなく、「自伝による自己表現」という自由さを残しつつ、そこに商業製品としての性格も上乗せすることが、中途半端な結果を生み出してしまったように感じるのだ。1人の人間の自伝としてはどこかいびつな恣意性が伴い、「トットちゃん」という1人の少女を主人公としたドラマにしてはどこか無軌道でまとまりに欠ける。私の雑感ではそんな印象。

 「戦争」というテーマと切っても切れない内容なのもまた考えさせられる部分で、一部ではこれを「この世界の片隅に」と比較する向きもあるのだが、あれとは全く制作理念が異なっている。いわば「戦争を主役にするか否か」という話で、今作の主人公は間違いなく「トットちゃん」であり、戦争は彼女の人生の軌跡を彩る1つの背景でしかない。しかし、どうしても視聴者の目線は「戦争をどう描くのか」に向いてしまう。そして、おそらく制作側もそういう目で見られることは避けられないことがわかっているので、サブテーマとしての「戦争」を無碍にも扱えないのだ。

 もちろん、本作での「戦争」の取り上げ方が悪いと言うことではない。個人的にグッときたポイントをちょっとだけ上げると、例えばトットちゃんと泰明が雨の中で歌い、すれ違った大人に怒られるシーン。ここでは戦争によって変わってしまった世相の理不尽さを描いているわけだが、怒鳴り声をあげたおじさんは、トットちゃんたちと対話する時には、きちんとしゃがんで目線を合わせ、諭すような穏やかな声で「そんな歌を歌うもんじゃない」と注意をしてくれる。この「視線をトットちゃんに合わせる」という行為は、小林校長が出会いのシーンでトットちゃんに対して行ったものと同じであり、いわば「話がわかる(はずの)善い大人」の所作である。あの雨のシーンでは、そうして「真っ当なはずの大人なんだけど、すでに戦争という世情にまかれ、現代の基準から見るとおかしなことを言っているやつ」に見えるという、徐々に戦争に飲まれていく恐ろしさを演出している。

 ちなみにこちらの雨のシーンはその後リトミックを通して煌めく街のシーンへと遷移していくのだが、この時にトットちゃんと泰明が笑顔で兵隊さんのポスターの真似をするカットがある。こちらはトットちゃんたち子供目線において、「戦争とは嫌なものだ」というなんとなくの理解がありつつも、そこから露骨な戦争忌避の流れを示すでもなく、子供らしい無邪気さで「兵隊さん」という職業を受け入れている様子も確認できる。今のご時世、安易な戦争批判ぽい論調を作るのは楽だろうが、安易な一元論にまとめるのではなく、あくまでも「トットちゃんから見た当時の世界」をそのまま映し出しているという部分は面白いと思えた部分。それこそ「片隅」との対比になるかもしれないが、直接的に戦闘シーンに触れずに「にじり寄ってくる戦争」を描くというだけでも、1つの追想録として成立させられるというのは、もしかしたら今作の狙った1つの形だったのかもしれない。

 そうして細かい部分で「あ、上手いな」「ちゃんとしてるな」と思った部分はあるし、そうした理念のレベルでは価値を認めることはできるのだが……なんだろう、それらがあんまりグッとくる経験に繋がらなかった。作中で「あぁ、このシーンが見せたかったのだな」と納得できる部分がなかった(個人的に一番気に入ったシーンは、徹子が自分の「部屋」に世界で最初に招待した人物が誰だったか分かるシーンだけど)。これこそが、上述した「自伝とドラマの間」の作品になってしまった影響なのかもしれない。日記的な性質があるので、ぶっちゃけどのパートも熱量が似たり寄ったりで山や谷を見出しにくい。もちろん泰明というキーパーソンがいるので彼の死が1つのクライマックスにはなりうるのだが、これが「戦争」と全く関係ない死なので、戦争へ向かっていく最中での事件としてどうにも山場に見えづらいし、視聴者の目線もブレる。

 トットちゃんという女の子が冒頭からすでに突飛で超然としたキャラなので、物語全体を通じての成長物語としてみるのも難しい。ラストの電車のシーンで多少落ち着きを持って、過去の経験から成長したことは示唆されるが(わざわざ冒頭とラストにチンドン屋を出したことで対比を狙っていることは分かりやすい)、それとてあまり大きなうねりの結果ではない。おそらく原作者は本当に過去の自分の経験を1つ1つ思い出しながら、そこに過度な意味を持たせずに記録しているのだろうから、視聴者目線で「糞尿を撒き散らすトットちゃん」も「全裸でプールに入るトットちゃん」も「親友の死に涙するトットちゃん」もそこまで大きな差を見出せないのはしょうがないんじゃなかろうか。

 エピソードの取捨選択も、もちろん制作側が考えたラインナップになっているのだから決して無駄のないスマートな構造ではある。例えばリトミックのシーンが雨のシーンで回収されたり、「尻尾」の件で校長が激怒しているシーンがあって「なんで校長がこんなに感情を露わにしているシーンが入っているんだろう? 彼のキャラを考えると余計なノイズにならんか?」と思っていると、後になって腕相撲で「ズル」をするトットちゃんのシーンにつながってきちんと意図が理解できるようになる。五月雨式に細かいシーンが出されているように見えて、後から確認するとちゃんと理詰めで作られた設計図に沿っていることが分かるのだ。ただ、そうして左脳で理解できる構造は、トットちゃんというキャラクターを主軸に据えた本作の理念そのものとあまり噛み合っていないような感覚もある。

 「戦争による時代の進行」を描く後半パートに至るまで、たっぷりと描かれるのはトットちゃんの人となり。それ以外の子供達の活動も含めて、「無垢さ」みたいなものが今作で最も重要なファクターだと思われるが、正直、「子供の純真さ、真っ直ぐさ」を理詰めで描いてしまうと、どうしてもペテン臭くなる。それこそ「頭では分かるがハートに響かない」みたいなところがある。正直、多少の無茶や不恰好さがあってもいいので、そこに関しては感情に訴えるようなもう1つ違うレベルの作劇が欲しかった。淡々と展開される「史実」の羅列に身を委ねてしまうと、そこに意識するのはどうしても「大人の目線」だし、整然としたものを要求し始めると、例えば「木に登ったトットちゃんと泰明はいったいどうやって下に降りたんだ……」みたいなところで引っかかってしまいかねない。この辺りの「理屈じゃないものを描こうとしてるのに、なんか釈然としない感情が邪魔をする」という袋小路が、今作には多かった気がする。腕相撲の一件の後でトットちゃんと泰明の関係性がどのように改変・修復されたのかもちょっと説明不足だった気がするしなぁ。

 

 とりあえず私が感じたのはこんなとこ。改めて書いとくけど、普段あんまり触れないタイプの作品だったので、単に私の見方が偏りすぎてるだけ、という可能性も大いにあると思う。アニメとしての出来は「ちゃんと劇場作品」にはなっているし、映像制作のこだわりはきちんと見える作品である。

 いっそかつての私の時代のように、読書感想文ならぬ「アニメ映画視聴感想文」を書かせるためにリアル小学生が授業中に見てもいい作品かもしれない。ただ、このアニメを見た小学生に「戦争は怖いです、いけないことだと思いました」とか書かれても、なんかそれも違う気がするんだよな。「単にちくわを煮ただけのやつなのに、やたら美味そうに見えました」とかなら、多分その子はセンスある。

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