水中戦といえばバルキリージャベリンですよね(誤った認識)、第7話。まぁ、今回はウォーターブリージングじゃなくてウォーターウォーキングだったので厳密には水上戦だったけども。あぁ、不憫なソーサラーがぷかぷかしてるのが見える……。
さておき、後半のクラーケン戦のあたりが今作では一番真っ当な「ダンジョン+飯」の展開なのだろうが、どっちかってぇと前半部分に色々と気になる話があったのでそっちメインで考えてしまった。まずなんといっても、復活した不憫冒険者たちのお話。2話前の感想のところに「あの冒険者たちはコイン虫相手に全滅したの変じゃない?」っていうコメントがあって「確かに〜」と思ってなんとなくの想像でレスをしたわけだが、どうやら私の想定もあんまり的を射たものではなかった様子。「ネックレス百足などに不意打ちされたら殺されることもあるんじゃない?」と思ってたわけだが、今回の彼らの様子から、どうやら何故自分たちが死んでいたのかすら定かでない様子。また、コイン虫たちのことを単なる「お宝」だと認識しており、なんならそれらがなくなっていることで盗難の被害にあったとすら考えており、あのコインが有害なものだったという理解は得られていない。いくら不意打ちにあったと言っても、そこまで認識の外から冒険者を死に至らしめることができるもんだろうか。……まぁ、出来たって言われてるんだからその前提で考えるしかないけど……。
あり得るとしたら、虫らしく毒を持っていたという考え方がある。ネックレスにしろその他の装飾品にしろ、肌に直接身につけるものであれば、そこから毒を注入して気付かないうちに死に至らしめることは可能かもしれない。ただ、その場合にもコインは直接肌に触れないだろうからあまり「コインに擬態する」という進化に意味があるとも思えないし、そもそもライオスたちがあんだけバリバリ食ってたんだからあまり強烈な毒を持つ生物だっとも考えにくいのだが。だとすると、例えば「死から蘇った人間は、死亡前の一定時間の記憶を保有できない」みたいなこの世界独自のルールがあるとかですかね。まぁ、蘇生自体が生命の摂理をひっくり返すだいぶ無茶な概念なので、その辺りで納得しておくのが無難かもしれない。
続いて、ライオスたちパーティの「死生観」というか「食べ物観」について。一番わかりやすいのがライオスで、「食えるものはとりあえず全部食べてみたい」というもの。私が最近好きだった漫画の主人公に「旦那が好きなので死んだらその脳を食べてみたい」というナイスな奥さんがいるが、「うまそう」と思えばいざとなればカニバリズムすら辞さないだろう純粋な欲求を持つのがライオス。ある意味で、彼のイデオロギーが最も平等で、一貫している。そしてその対極にあるのがマルシル・チルチャックで、彼女らは「普段自分たちが食物と認識している限られたカテゴリ以外は食品と認めたくない」という、これまた一貫した姿勢。だからチルチャックは必死に「亜人」のカテゴリを説き、あれだけ抗ったのである。イカれた連中との冒険の中でマルシルたちの常識も徐々に歪みつつあるが、おそらく「理屈とか知らんけど、とりあえず気持ち悪いものはイヤ!」という素直な感覚はブレることはないだろう。
そうなると、実は一番よく分からないのがセンシの視点だった。基本はライオス側のスタンスで間違いないのだが、今回のケルピーに対する愛着と、ライオスの反応に対して引いてた姿勢がよく分からん。いや、馬を可愛がるのは別にいいんだけど、それを「食べたい」と言ったライオスを冷めた目で見るのはちょっとフェアじゃないんじゃなかろうか。まー、そう簡単に割り切れないところが面白い部分でもあるんだけどね。ライオスの「モンスターはどこまでいってもモンスター」っていうスタンスも(他の作品のことが頭をよぎると)ちょっと寂しい部分はあるし。それこそ、ちょっと前に「ダンジョンを潜ったら深層で可愛い人魚に出会って助けてもらった」主人公なんてのもいたわけでねぇ。この世界とは随分違うわけですよ。……人魚の歌って歌で撃退できるんだ……。
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