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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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<以下の文章は、放送当時に執筆されたものである>
 
○第17話「藁の中」
 脚本・広真紀  絵コンテ・小滝礼  演出・高村雄太  作画監督・石川洋一


 <あらすじ>
 
 ある老婆から、地獄流しの依頼が入った。あいが依頼人のもとへ向かい、その場で山童が藁人形へと変化する。しかし、依頼人の老婆は、変身前の山童を見て一言「ヒカル?」と呟く。彼女の名前は芦谷富士子。彼女の手に、藁人形が渡された。
 
 山童の奇妙な様子に、残った三藁は芦谷家についての身辺調査を始める。底なし沼に囲まれた山奥の一軒家に住まう芦谷夫妻は、回りの住民からも謎の存在。その年齢は100歳を過ぎているとも言われており、戦前からずっとそこにいることは間違いないようだ。身よりもないが、過去には息子が1人いたという。一人息子のヒカルは、過去に屋敷回りの底なし沼に落ちて命を落としたらしい。しかし、近隣の散髪屋の親父によると、過去にいないはずの息子を見たことがあるとも言う。奇妙な怪談話に、三藁も首を傾げる。一体、何故山童は今回の依頼人の仕事を進んで受けようとしていたのだろうか。
 
 奇妙な思いをしたのは、あいの視界を受けてわざわざやってきたゆずきも一緒だった。意を決して今回の依頼者の説得に挑もうとしたゆずきは、わざわざバスを乗り継いで霧深い芦谷家へやってくる。しかし、彼女が門戸を叩いても、姿を現すのは年の頃30ほどの婦人と、その夫と見られる男が1人。ゆずきの視界に写ったような老婆は、この屋敷にはいないと言われる。依頼人がいなかったことで、ゆずきは首を傾げながら、屋敷を後にする。「何だったのだろう」とゆずきの訪問に首を傾げる婦人。そこに、今度はきくりが訪れる。「ヒカルのお友達なのね」ときくりを歓待した婦人は、きくりを「ヒカル」の部屋へと招き入れる。そこには、ベッドに寝かされた藁人形があった。婦人は今回の依頼人、富士子が若返った姿だった。
 
 山童と2人きりになり、「何やってんだ? わろわろ」と苛立たしく声をかけるきくり。「あのおばさんは自分の息子と藁人形の区別もつかないのか」と悪態をつく。しかし、そんなきくりに、山童は「あの人は、僕の母だった人です」と打ち明け、自分の過去を語って聞かせる。山童は、屋敷の近所の山の中で生まれた。長い間一人きりだった山童は、ある日あいに誘われたが、その時は「一人でいるのが普通のことなのだ」と言ってあいの誘いを断る。しかし、その誘いが好奇心を刺激したのか、初めて山を下り、芦谷家で夫妻とヒカルが楽しげにしているのを見る。そしてヒカルが沼に落ちて、富士子が泣きくれる様子も。その後も、山童はしばしば芦谷家を覗き見るようになる。屋敷の主である芦谷利三郎は粘菌学者で、独自に「永遠の命」を求めている。妻の富士子は、息子が死んだことでずっと悲嘆にくれている。
 
 長い長い年月が過ぎ、芦谷夫妻の頭もすっかり白くなった。富士子は身体を壊し、利三郎が独自に研究した冬虫夏草の霊薬の効果も空しく、命も長くない状態だ。そして、そんな富士子に同情を覚えた山童は、富士子の前に「ヒカル」として姿を現す。「お母さん」と呼ぶ山童を抱きしめる富士子。利三郎は「ヒカル」の姿を見て驚くが、老夫婦の間で、すぐに山童は「ヒカル」としての地位を固める。最愛の息子が帰って来たことで、富士子の体調も回復し、また親子3人の生活が始まった。
 
 ある日、近所にすむ子供(後の散髪屋の親父)とたまたま接触を持った山童に、利三郎が「町の人間との接触は避けた方がいい」と切り出してくる。「それが、人ならざるモノの掟ではないのか」と。やはり、科学者である利三郎は山童があやかしであることを理解していた。「何故、僕のことをヒカルとして迎え入れてくれたのか」と問う山童を、利三郎は自分の研究室に招き入れる。利三郎の研究対象は冬虫夏草。その薬効を期待し、虫以外の生物に寄生させた時には新しい発見があるかもしれないと考える。様々な寄生対象で芳しい結果が出なかったが、「人ならざるもの」である山童は、格好の研究対象である。利三郎は、山童の身体に冬虫夏草を寄生させてはもらえないか、と相談を持ちかける。逡巡する山童だったが、「妻を助けたいのだ」という利三郎の懇願に、首を縦に振る。奇妙な呪文を唱えながら山童に粘液を塗り付ける利三郎。しばらくすると、山童の身体はすっかり菌類に覆われ、そこからは不可思議な「霊液」が摂取された。薬の効果は、想像以上のものだった。利三郎によって山童の霊液を与えられた富士子は、身体が直るだけではすまず、年齢まで若返ってしまったというのだ。
 
 「却下!」。あまりに馬鹿馬鹿しい話に、きくりは山童の昔語りをやめさせる。「人が若返ったりするもんか」と。「でも、さっき若返ったあの人を見たでしょう」と反論する山童に、きくりは「証拠を見せろ」と怒声を飛ばす。そして山童の言うままに藁人形の中を開くと、そこには、奇妙な粘糸を持つ冬虫夏草が詰まっていた。きくりは「逃げよう」と訴えるが、山童はそれを拒否する。過去にも山童は、一度この屋敷から逃げているのだ。利三郎の異常とも言える研究内容を知った富士子は、包帯の痛々しい山童の手を取り、彼を山に返した。山童は、自分がいなくなったら富士子の命が尽きるというので別れを拒否したが、富士子の意志は固かった。その時に、山童は別れの辛さを知ったのだ。
 
 今回の依頼は、もう会えないと思っていた過去の「母」からのもの。山童は、地獄流しなどして欲しくないと思いつつも、流すならば自分が藁人形になっていたい、という倒錯した思いから、今回の依頼を受けたのだと言う。山童の複雑な思いを知ってか知らずか、きくりの怒りが富士子に向かう。「あんたが地獄通信に依頼なんかするから、わろわろが困ってる!」。きくりの言葉を受けて、富士子は自分の目的を思い出した。ヒカルを殺した利三郎が憎い。富士子はそのまま、藁人形を携えて研究室を訪れる。「私はヒカルを殺してもいないし、人体実験にも使っていない。人あらざるものが必要だったのだ」。罪の意識を持たない利三郎は、2人分の不死の霊薬をグラスに注ぎ、富士子に差し出す。「ヒカルも生きていれば、一緒に永遠の命を手に入れられたものを」と。
 
 富士子は藁人形に向かって、「ヒカルはどうしたい?」と問いかける。山童は必死に制止するが、藁人形からの声は人間には届かない。「そうね、もう嫌よね」。富士子は、静かに糸を解いた。
 
 あいが地獄流しに向かおうとするも、山童は同行を拒否する。あの人に地獄流しの仕打ちはしたくないと。代わりに、富士子がどうなったかを確認したいと申し出ると、あいはそれを了承する。だが、一人で山を駆けて再びあの屋敷に向かった山童の目の前で、屋敷は巨大な沼の中へと飲み込まれていった。最後に見えた窓の中には、ヒカルと抱き合う富士子の姿が見えた。
 
 
 <解説>
 文句無しで、「地獄少女」シリーズで最も難解なエピソードであろう。これまでも明確な謎掛けでは「遠い隣室(2期11話)」があったし、ある種の超常現象を扱った話数も「硝子ノ風景(1期17話)」「うたかた(2期2話)」などがあった。凝った構成で時系列が刻一刻と入れ替わる話としては「湯けむり地獄、旅の宿(2期19話)」などがあったが、今回はそれらの全ての要素を複合し、謎掛けをしつつ、超常現象を取り扱い、構成にもあまりに手が込んでいる。見ての通りに1人だけ新入りだった山童の「四藁回」としての意味合いが強いが、この地獄少女という作品の体質を表現する、ある意味最も端的な話数と言えるかもしれない。
 
 この大任を任されたのは、脚本に広真紀、そしてコンテに小滝礼。個人的には最強の組み合わせだと思うが、実は今回が初タッグである。広真紀は脚本の細部にまで気を遣い、非常に緻密なプロットを練る作家、そして小滝はその脚本意図を汲み取り、それを十全に発揮出来る画作りを行うクリエイター。とりあえずこの前提が無いことには、今回の話数を「分析」しようという気は起こらなかったろう。いくつかのポイントを区切りながら、おそらく最長文になるであろう今回の構成を解体していく。
 
 まず、一番の問題となるのが、「時系列」と「現実感」という2つの世界区分である。分かりやすい時系列の話から確認しておくと、今回の話は大きく3つの時代からなる。芦谷ヒカルの死を含む「戦争よりずっと前の時代」と、山童が芦谷家に棲むようになり、富士子と分かれるまでの「戦時〜戦後」。そしてあいに依頼が届き、ゆずきときくりが屋敷に乗り込んだ「現代」。細かな時代区分をしていくなら、明らかになっているのは「ヒカルの死」が戦前であること(近隣住民の証言と、一目蓮が図書館で調べた新聞記事より)。そして山童が芦谷家を覗き、ヒカルの死にうちひしがれる婦人を見たのが戦時下であること(上空を戦闘機が飛ぶ描写がある)。そして山童が「ヒカル」になり、利三郎の研究室に招かれたのが1970年代であること(近所の散髪屋の親父が「大阪万博の時」と証言している)。もちろんゆずきやきくりが訪れたのは現代である(実をいうとこの「現代」も明らかな時代設定は不明であるが、携帯電話の普及などから考えるに、まさに現代か、近未来と考えるのが打倒だろう)(現注:のちのエピソードにより、この物語の時系列は放送当時と一致していることが明らかになっている)。
 
 これで時系列だけを並べられれば話は早いのだが、これをややこしくするのが、「現実」と「空想」の差である。分かりやすい例を挙げるならば、山童の汗を拭こうとした富士子の手を、きくりが横から掴んで「わろわろが困ってる!」と訴えるシーン。きくりの手が介入するまで山童は「ヒカル」の姿であるが、きくりが声を張り上げるカットではベッドの上に藁人形が横たわっているだけ。つまり、これは富士子婦人の視点から見たときの山童の姿が一種の「妄想」であるということ。また、富士子と利三郎の外見も若かりし頃と老人の姿を行ったり来たりするので、この外見についても何らかの「空想」要因が含まれると考えられる。こうして「時代のズレ」と「現実感のズレ」という要素が絡み合うために、今回の読み解きは至難を極める。単純に分類するだけでも「過去の現実」「過去の妄想」「現代の現実」「現代の妄想」という4パターンが組み合わさるわけで、一筋縄でいかないのは当然のことだ。
 
 まず、思考実験として最も単純な読みを試してみる。時代が過去にさかのぼるのは山童の回想中だけで、具体的には回想スタートからきくりの「却下!」までとする場合。この仮定ならば、時系列はすっきりするために読み解きは難しくない。ただ、これは残念ながらアウトである。芦谷夫妻の外見の変化が説明出来ないのだ。これが若返る一方ならば、ぎりぎり利三郎の霊薬、アンブロシアの効果と見ることが出来るのだが、霊薬アンブロシアによって富士子が若返るという現象を是とした場合にも、やはり不都合は出る。ゆずきときくりが初めて見た富士子と利三郎は、若い。ゆずきは老婆の姿が見当たらないために無駄足を踏んでいるし、山童もきくりに「あの姿を見たでしょう」と言っているように、この「若い富士子」は第三者から見ても「現実」のものである。しかし、ラストシーンで対峙する利三郎と富士子は再び老人の姿に戻っている。特に利三郎が若い姿になっているのはゆずきが訪れたワンシーンだけで、他のカットでは全て老齢で描かれている(富士子が若返ったという話題のときも、若い富士子の隣に老齢の利三郎がいる)。この一過性の「若返り」は、とてもではないが単純な時系列のズレでは説明出来ない。
 
 では、不都合な部分を全て「空想」であると仮定するのはどうか。例えば富士子がきくりに腕を掴まれる前のシーンなど、山童が「ヒカル」になっているシーンのいくつかは画面にもやがかかったようなソフトフォーカスが使用されており、そのカットが他のカットとは異質であることを伺わせる。これを「富士子の視点」、つまりは老婆の妄想視界であると考えることができる。が、残念ながらこれでも十全に説明はつかない。結局きくりが介在してる状態は全て第三者が存在を確認している「現実」なわけで、その中で年齢の行き来をしている時点で、やはり必ず矛盾が生じてしまうのだ。
 
 「おかしさ」という点を起点に、さらに「つじつまの合わない点」を列挙していこう。夫妻の外見といった特徴を無視しても、今回の話は時間の歪みが顕著である。例えば今回完全に「外部の人間」であったはずのゆずきの来訪。彼女はいつものようにあいからの視界共有を受けてわざわざ芦谷家を訪れているのだが、彼女が屋敷の最寄りのバス停に降り立ったシーンで、彼女が利用したバスが何とボンネットバスである。誰がどう見ても「古い」バスであるが、一応調べてみたら日本での製造は1971年に終了しており、現在観光資源としての目的以外での利用は皆無である。当然、いくら田舎の賽河原市でもそんなバスを利用しているはずもなく(「兄貴(4話)」参照)、ゆずきがこのボンネットバスから降り立ったことは、完全なる矛盾である。ゆずきが関わるカットはその全てが薄もやのかかったソフトフォーカスで描写されているし、ゆずき自身も屋敷を後にして帰路につく際に「何かが変、何かが」としきりに呟いている。その頭上には赤みを帯びた不吉な月が見える。
 
 また、ゆずきの来訪に対して若い外見の芦谷夫妻が「この家には私たちだけだよ」と答え、追い返したのも奇妙と言えば奇妙だ。これが利三郎だけならば、「若返りの秘薬の存在を隠しておきたい」という科学者としての利己心から「老人としての自分」を隠蔽した気持ちは理解出来るが、ゆずきが去った後、富士子が「何だったのかしら?」と首を傾げるのはおかしい。彼女が「アンブロシアで若返った現代の富士子」であるなら、彼女が尋ねて来た「老婆」は自分であることを理解出来るはずだからだ。富士子の持つ怨みの念についても、一貫性に欠けた奇妙な筋書きである。依頼を受けてあいが登場したのは老人の富士子が臥せったベッドの脇。しかし、富士子の回想では、「ヒカルを殺したあの人が憎い」といって依頼を出したのは若い富士子である。また、依頼の出し方はパソコンではなく新聞の投書欄による方式。これは「煉獄少女(1期13話)」で紹介された過去の地獄通信で、「煉獄少女」で確認されるのは、昭和25年の時点でこの方式が採用されていたこと。現在もこの新聞に依る地獄通信が行えるかどうかは定かでないが、とてもではないがそれ以前の地獄絵馬(「湯けむり地獄、旅の宿」)などの昔のシステムを全て継続しているとは考えにくいので、この依頼の時間軸も不可思議である。
 
 そして、富士子は山童が藁人形となったことで依頼した「怨み」を一時的に忘れていたようなのだが、きくりに「あんたが地獄通信に依頼なんかするから!」と言われたのをきっかけに、思い出したかのように利三郎との対決に挑んでいる。それまでの「藁人形をベッドに寝かせ、実の息子として可愛がる」という行為から一転糸を解こうと決めた心理の変化はどのように説明したらいいのだろうか。
 
 
 さて、ここまでの疑問点を一手に、そして論理的に解決する方法は、果たして存在するのだろうか。結論から言えば、「無い」。私がこの「無い」にたどり着くのには幾ばくかの時間を要した。
 
 基本的に、私はこの記事のため1つのエピソードを3回視聴する。1度はリアルタイム放送で筋を理解するために、2度目は筋を理解した上で個々の演出意図を考えるために。そして3度目は演出意図の繋がりを確認し、あらすじを書き起こしてトピックスをピックアップするために。ただ、このエピソードに限っては、正直2度目の視聴でも頭を抱えるばかりだった。上記のように、何か1つのファクターを固定すると、他の要素に矛盾が生じる。全ての筋が通る話にはなるまいという印象はあったのだが、今回の製作者2人のこれまでの業績を考えるに、ただ投げっぱなしで単に「不可解な」話を垂れ流しただけとは考えにくかったのだ。そして、結論は3度目の視聴、あらすじの書き起こしの時にあっさりと訪れた。何故その時点まで気付かなかったのか、と思えば恥ずかしくもあるのだが、やはり情報を耳で聞くのと文字を見るのでは全然印象が違うということだろう。また、自分の中でそこまで重要な要素で無かった、というのも大きいかもしれないのだが。
 
 今回のエピソードを覆うのは、地獄少女という1つの大きなアニメシリーズの1話としての物語性。そしてもう1つ。今回のゲストキャラの名前が「芦谷」であること。つまり、「アッシャー家の崩壊」である。ポーの描いた幻想小説の一遍である「アッシャー家の崩壊」はあまりに有名な作品だが、私が手に取って読んだのは多分中学生の時。その時にはぶっちゃけ何が何やら分からずに全然印象に残っていなかった。今回、改めてその名前が出て来たことで、奇妙な形での10年越しの再読の機会を与えられた。(以下、一応原典未読の方は注意されたい。ネタバレ(?)を気にする作品でもなかろうが、一応本筋に関わるものである。書店で買って来てから気付いたのだが、タイトルで検索すると簡単に読めるので、そちらを確認してからの方が安全かもしれない)
 
 「アッシャー家」のオマージュ、パロディは日本でも幾つか書かれているようで、ざっと調べただけでも「蘆谷家の崩壊」やら「芦屋家の崩壊」やらの名前が確認出来る。気付いてから改めて見ると、そのオマージュとしての意識は明白だ。沼に沈み込むラストシーンは分かりやすいし、屋敷に棲む利三郎と富士子という2人の存在も、アッシャーとその妹のマデリン姫に対応する。「建物と敷地の辺り一帯に、それらとその周辺の土地に固有なガスが澱んでいることを、また、そのガスが空の大気とは無縁で、朽ちた木、灰色の壁、ひそまり返った沼などからにじみ出てくるもの」と描写されたアッシャー家の様子は、今回ゆずきが訪れたソフトフォーカスの「芦谷家」そのものである。ゆずきが立ち去った後に画面に大写しになった「赤い月」も、普段ならばあいの象徴と受け取るところだが、今回ばかりは「アッシャー家」の中に登場する「赤みを帯びた月」。作中でしばしば現れる「菌類」というファクターも、今回のエピソードとの橋渡し役を果たしているだろう。
 
 「芦谷家」は「アッシャー家」である。ただ単にパロディとしてそうしたリンクを持たせることもあるだろうが、今回のエピソードについては、この「アッシャー家」であるということが読み解きの重要なキーとなる。まず、大前提として「これが幻想である」という、これ以上無いメッセージとなる。「アッシャー家の崩壊」には、理論的な解決も求められないし、たくさんの混沌が残っている。作中の言葉を借りるならば「グロテスク」と「アラベスク」の混交である。この「幻想性」を標榜するための最も端的な手法が、今回の「アッシャー家」とのリンクであろう。
 
 ここで難しいのは、「アッシャー家」と「芦谷家」ではどのように対応関係を生み出せば良いか、という点。「アッシャー家」の主な登場人物は、「私」とロデリック・アッシャー、そしてその妹のマデリン姫の3人。対する「芦谷家」は利三郎、富士子、山童(ヒカル)、きくりの4名。一応ゆずきもカウントされるかもしれないが、門を叩いたゆずきが邸内に招き入れられなかったことを考えるなら、ゆずきは物語の構成員としては外すべきだろう。外部の人間を招いた者、という関係性から最初は富士子=アッシャーという等式を考えたのだが、やはり性別の一致と2人の関係性を見るに、床に伏した富士子はマデリン姫、その面倒を見る利三郎がアッシャーと考える方が自然だろう。とすると、利三郎が招き入れ(正確には介入を黙認し)、妻のことを依頼した山童が「私」のポジションになる。「私」はマデリン姫をめぐる「奇想」と屋敷の崩壊というカタルシスの目撃者でもあるので、この点は符合する。となると、その「私」=山童の誘いによって導かれたきくりが、最後の関係者であるところの「読者」の代表となる(これにはゆずきも入れてしまってもいいかもしれない)。芦谷家の世界観にとらわれずに「若返り」という現象に対して「却下!」と言い放てるきくりは、今回のエピソードで唯一「作品外」の存在。そして、今回の「藁の中」というエピソードにおいては、元来作品外に置かれていたはずの「読者」をもきくりの形で内在させることにより、更なる混迷を極めることになった。
 
 さて、いよいよここで私なりの「答え」の提示に移る。今回のエピソードは「幻想」が前提であるという仮定の下で、今回芦谷家や山童、きくりに何が起こったのかを読み解く、1つの視点を与える。
 
 まず、山童の話したことは全て真実であるとする。利三郎の研究も、アンブロシアの存在も、そして富士子の若返りも。しかし、「私」であるところの山童が富士子の手によって屋敷から解放されたことにより、芦谷家での物語は歪みを見せる。何しろ語り手も、読者もいなくなった物語なのだから、そこに発展性は無く、芦谷家はそこで停滞を余儀なくされるのだ。齢百歳とも言われた芦谷夫妻が現代においても顕在で、老齢とはいえ100歳には見えない外見だったのは、山童の解放(時系列から見て1970年代だろう)を最後に停滞し、30年の時を越えて現代に再び現出した「芦谷家」だからこその現象である。序盤に依頼が舞い込んだ際に、山童が藁人形になることを認めたあいは、ビー玉を眺めながら「ねじれている」と一言呟く。この「ねじれ」は時間を歪めて現れた芦谷家の存在の示唆と考えられる。この「芦谷家の時間を越えた復活」を提示する最も分かりやすい道具立てが「アッシャー家」である。「アッシャー家」では様々な奇怪な現象が起こるが、その中でも一番の怪異が死亡したと思われていたマデリン姫の復活である。作中ではアッシャーは「死んではいなかったのだ」と言っていたので実際の生死については謎のままだが、少なくとも「私」にとってマデリン姫は死の淵からの復活を果たした存在である。これを今回の芦谷家にフィードバックさせると、山童=「私」の体験した「再会」はマデリン姫=富士子の時を越えた復活と符合する。
 
 そしてこの「芦谷家」は間違いなく実在した。これはゆずきが確認している。問題は、停滞の直前直後に何が行われたか、という部分。ここからは根拠の無い妄想になるが、停滞の直前に行われたのが新聞の投書欄を使っての「地獄通信への依頼」だったのではないか。だからこそ、地獄通信はまだ古い形式だった。そして、依頼の発信だけが行われた戦後の芦谷家が山童の不在によりそのまま凍結され、再び現世で時を刻み出す。この「再動」は、今回「三鼎」であいが復活し、その折に山童があいの配下に加わって活動を始めたことに関係していると考えられる。
 
 「山童」という書き手および生命維持装置が無くなった富士子は再び80歳前後の老人の姿に戻る。これが冒頭のあいとの契約シーン。ただ、この契約シーンはシリーズで初めて、夕暮れの丘が現れていない。この時点で既におかしいことが伺える。時空を超えた芦谷家は既にそれ自体が「あちら側」であり、あいは自分のフィールドである丘の現出させる必要がなかったのだ。芦谷家の「異界性」についてはもう1つの傍証がある。それは、きくりが一切ゼンマイを巻かずに活動出来たこと。これまできくりがゼンマイを外せたのはあいの家の中と、異界の門である鳥居の前、そしてコントフィールドくらいのものである。30年以上もの停滞の果てに山童と再会することで、富士子は再びの若返りを果たす。この時、同時に利三郎の時も刻まれだすが、冒頭、ゆずきの訪問時に利三郎が一瞬若い姿を取り戻したのは、既に屋敷の存在そのものとなった富士子の若返りに引きずられての現象だろうか。多少苦しいが、富士子の中で「山童の帰還」が「過去への回帰」を意味するならば、既に屋敷の一部として取り込まれた利三郎の若返りも納得出来る。
 
 そして、利三郎は新たに現れた「2度目の山童」にも、30年前と同じ実験を、妻に内緒で試みる。このことは富士子との対峙の時の台詞で確認することが出来て、具体的には藁人形を見て「しかし何故かな、そいつに冬虫夏草が寄生していたのは?」と不思議がるそぶりがある。富士子の中では30年の時を隔てようとも山童は山童。しかし、利三郎は30年前に「人ならざる物」である山童を逃がしてしまい、今回現れたのはあくまで「奇妙な藁人形」である。まさかそれが同一の存在であるとは気付かずに、山童に再びのメスを入れたことになる。
 
 こうしてアンブロシアは完成を見るが、山童との再会で停止していた富士子の想いが、きくりの一言で動き出す。30年前、山童を解放したあの日に覚えた悲しみ。「ヒカルを傷つけたあの人が憎い」。夫婦の思いは噛み合ない。利三郎にとって「ヒカル」は数十年前に沼に落ちて死んだ唯一の存在であり、山童でも藁人形でもない。冒頭でゆずきに対して「この家に人間は私たち2人しかいないよ」と言って富士子から「あなた、ヒカルもですよ」と窘められているし、「あなたがヒカルを殺した」という富士子の訴えにも、「嘘だ。私はヒカルを殺してもいないし、人体実験にも使っていない。あれは事故だった。悲しい事故」と断言している。しかし、富士子にとって、ヒカル(山童)を傷つけ、失わせたのは間違いなく利三郎であったのだ。30年の間をおいた地獄流しが、現代に至ってようやく遂行された。利三郎という片輪を失い、藁人形の使用という形で最愛の息子と別れを告げた富士子も現世に留まることは能わず、「芦谷家」という存在そのものとともに、ヒカルと同じように沼の底に消えた。最後に窓の奥で富士子が抱いていたのは、山童ではなく、正真正銘の「ヒカル」だった。当然、ラストシーンでは富士子の蝋燭も消えている。
 
 
 メインプロットの分析は以上である。はっきり言って、今回の話はこれでもまだ考えが足りない気がする。一度でいいから脚本の広真紀や小滝礼の考えを聞いてみたいものである。
 
 さて、話を切り替えて残りのファクターを見ていこう。今回はメインプロット以外にもいくつか興味深い点が残っている。その1つが、「四藁回」ということで明らかになった山童をめぐるいくつかの真実。まず、山童は芦谷家近隣の山に生まれた純正妖怪である。他の三藁が憑喪神と自縛霊であることを考えると、この立ち位置は実は特殊。そしてあいがスカウトに来た時期だが、時系列が正しいとするならば、少なくとも芦谷家に関係する以前なので、戦前ということになる。その前に猟銃を持った猟師が山童を見て逃げ出すシーンがあり、早くとも猟師が普通に銃を持って以降の話ということになる。骨女のスカウトが確か江戸時代なのだが、この間、期間に開きはあるのだろうか。
 
 そして山童が四藁として仕事をするモチベーションであるが、芦谷家でヒカルとして振る舞う中で、山童は人間に対して多くの疑問を持つようになる。「人間て生き物は可哀想。辛いことから逃げようと過去にしがみついてみたり、到底叶いそうにない夢を追っていたり」と発言している。その最たるものが芦谷夫妻だったわけだが、そうした人間の妄念のようなものを間近で見られるのが、地獄流しという仕事だったということだろう。そして富士子との生活の置き土産である「別れの辛さ」を知った山童には、自らの手で別れを生み出す復讐者たち、つまり地獄通信の依頼主たちの観察は非常に興味深いものであるのだろう。長らく老夫婦とだけ接していたという家庭環境は、これまで山童が見せた「純朴さ」と「一握りの達観」と符合する。
 
 きくりとの関係性も面白い。きくりを「姫」と呼んでいる理由は未だよく分からないが、新参者の山童にとって、やはり地獄の閻魔の遣い、人面蜘蛛の化身であるきくりは崇高な存在なのだろうか。これまで散々山童を虐げてきたきくりだが、今回芦谷家に入り浸る山童に対し、明らかに苛ついた様子を見せている。富士子の妄執に振り回される山童を救おうという意識もハッキリしていたし、シリーズで初めて、きくりが他人のことを思いやったエピソードと言えるだろう。二人の間の信頼関係が見えて微笑ましかった。そして、地獄流しの手伝いを拒否する山童に対して、きくりは「手伝えー、お前も憎いんだろー!」と問いつめるが、それに対して山童は「怨みなんてありません。だって、人間じゃないから」という返事をしている(それに対し、輪入道はしたり顔で「ほぉー」とレスポンスしている)。果たして、この山童の対応に、人間だったあいは何を思うのだろうか。
 
 そうそう、一番笑ったのは、あいが依頼の相談を四藁としているシーン。「依頼が来たわ、名前は、芦谷富士子」と自宅で紹介するあいに対し、一目蓮が「じゃ、今回は俺が」と挙手し、それを山童が「是非僕にやらせて下さい」と名乗りを上げるという展開なのだが、お前ら、いっつもそうやって担当決めてたんか。いつ決めんの? アクセス時? 送信時? のんびりし過ぎじゃね? それともローテーションでも組んでるの? あぁ、でも「悪女志願(2期16話)」では2回連続で骨女が出動してたしなぁ。全部合議で決めてるのかなぁ。「今回は体調悪いからパス」とか。こいつら、こういうとこだけ妙に所帯染みてるんだよね。そして、今回は初めて「出撃時に輪入道に乗り込もうとするあい」が描かれている。ついでに山童が同乗を拒否していたことも考えると、コントをしにいくときはみんなして輪入道に乗っていたらしいことも明らかになっている。普段車内にはあいしか描かれてないんだけど、他の連中は後部座席かトランクにでも乗ってるんだろうか。よく分からない。
 
 今回のキャストは、芦谷富士子役には押しも押されぬ大ベテラン、藤田淑子。少年役のイメージが強いが、今回は2つの年齢の富士子役を難なくこなしている。流石の一言。そしてその連れ合いである利三郎役は、これまた大ベテラン、御歳80を越える大木民夫。今回はキャストも鉄板で素敵でした。

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