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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 この一週間で映画泥棒の顔を4回観てる。俺に暇を与えるからこうなるんだ……。後は多分WIXOSSは間違いなく観に行くだろう。問題は月末公開のミルキィホームズなんだよ。ミルキィをわざわざ劇場で見る必要も無い気がするのだが……スタッフが1期スタッフなんだよな。1期なみの爆弾作品がくるなら観たい気もするが……。あ、ちなみに「今週で4回」は「傷物語」「ニンニンジャー」「これ」の3つに加えて、「4回目のガルパン」だよ。ぶっちゃけ、ガルパンを安い日に見に行くついでにこれも観た感じである。もう、継続戦を定期的に観ないと禁断症状が出る身体になってる気がする。人生に大切なものが全て詰まってるんだからしょうがない。

 

 

<以下、この映画の本質に触れるかもしれないし触れないかもしれないので、未視聴の方はご注意ください>

 




 先に断っておくと、今回の感想記事はあやふやな部分が多い。何故かというと、私は「映画を観たらとにかくパンフレットは購入する」という宗教の人間なのだが、今回は珍しくレイトショーで視聴したため、視聴後に売店が閉まることを計算していなかったのだ。おかげでパンフが手に入らず、細部のデータはあやふやだし、パンフに掲載されているであろう制作陣の声も手元にない状態、1度画面を流し見ただけの状態で感想を書く事になる。特に情報量の多い映画だったので、それだけで記録を残すことは一抹の不安もあるのだが、見当違いのことを書いていたらご容赦願いたい。

 前置きはこのくらいにして、一言でまとめると今作は色々と「勿体ない」映画だった。普段、劇場作品は「劇場で観られる」という特別さのおかげでどんな作品でもある程度「面白かった」という感想を書いているが(心理学的にも高い金を払ったものに対しては満足したと自分を説得する働きが強いらしいし)、今作に関しては、残念ながら「あまり面白くなかった」と書かなければならない。もちろん、劇場公開するだけのクオリティは充分に維持していたとは思うのだが、「あの作品が劇場で!」というだけである程度満足出来る「テレビシリーズからの劇場版」ではなく、映画オリジナルの作品となると、やはり「わざわざ劇場でやる意味」も考えて、もう一段階上の満足感を求めてしまう。残念ながら、今作は「高い金を払って観る」という対価に見合った満足感は得られなかった。

 そして、感想は「つまらない」ではなくて「勿体ない」だ。今作の来歴を辿っていくと、「アニメ化大賞」という変な企画に行き着く。詳細はよく分からんが、とにかく「アニメ化する企画を募集」して大賞を取った「作品案」が元になっているようだ。この元になったアイディアが興味深いものであることは事実であろう。元々のタイトルは「D.backup」というらしく、「世界のバックアップをとっている超巨大なデータベースと、それをウィルスの侵略から守るワクチンソフトの生活」という設定だけを聞けば、なかなかに興味をそそられるはずだ。さらに作品を煮詰めて行く上で目指した方向性は、なかなか類型に当てはめにくいので苦しいところはあるが、個人的には「灰羽連盟」あたりが近いのではないかと思う。少女たちが自分の目的もよく分からず、不可思議な世界に捕らわれており、その「外の世界」がどうなっているかを思索するというテーマ。目的意識は「外界探求」に向けられ、外の世界の真実を知り、自分たちの存在意義を知ることがカタルシスを産むというデザインだ。

 「灰羽連盟」が傑作だったことからも分かる通り、設定をしっかりと盛り込めば充分魅力的なテーマであるし、本作の「世界のバックアップ」からスタートする物語も様々な可能性が考えられる良いテーマだ。これが1クールのシリーズアニメで制作されていれば、セカイを作る物語として、「まどマギ」のような、「WIXOSS」のような、ちょっとダークで、切なくて、刺激的な物語が産まれていたかもしれない。しかし、残念ながら今作は一時間しかない劇場映画なのだ。はっきり言って、テーマを消化仕切れるわけがなかった。いや、おそらく制作陣はなんとかしてこの尺でけじめを付けようと必死に脚本をこねくり回したことだろう。おかげで表面上は、何となくそれっぽい話にはなっている。しかし、逆に表面を繕う形になってしまったばかりに、それ以上の掘りさげを許容出来ない、何とも怪しげな世界になってしまっている。

 最大の難点は、世界が何一つ決まらないまま、話が進行していくことにある。尺の問題でどうしようもない部分なのだが、初見の視聴者には、どこまでが「真実」で、どこからが「虚構」なのかが皆目見当も付かない。ここでいう「真実」の意味についても考えはじめたらきりが無いのだが、本作の怖いところは、その「きりが無い」問題について、避けようがないテーマである点なのである。記憶とは何か、人の意志とは何か、自己とは何なのか。

 たとえば「ウィルス」という言葉を1つ取り上げてみよう。この世界は最初から「ヴァーチャルなデータの世界で、ワクチンソフトが戦うセカイだよ」ということが明かされているので、冒頭から登場する「ウィルス」とはコンピューターウィルスであることが分かる。そしてそれが、さも自我を持つかのように扱われ、仮想空間で獣のような牙を持つ存在として描写される。そこで「コンピューターウィルスなんてプログラムやんけ」とちょっと考えるとこの世界に違和感が生まれる。コンピューターウィルスはその振る舞いが現実のウィルスをイメージさせることから「ウィルス」という名前を持つが、それはあくまでも人の勝手なイメージである。コンピューターウィルスはあくまで単なるいちプログラムでしかなく、それが人に益をなせば単なる「自動プログラム」であり、害を為せば「ウィルス」と称される。そんな「意志無き存在」と戦う主人公チーム(デュアル&ドロシー)が、あたかも意志を持つかのように存在している「プログラム」であることが、どうにも存在矛盾であるように思えてくる。「あくまでデータの中だから、善悪なんて全部人間が事前に決めたルールなんだよ」とそこに人為の介入を前提として片付けてしまうことも出来るが、その場合に、我々視聴者は「外にいる人間」の存在を定義する必要がある。そして、本作最大のポイントとして、デュアルもドロシーも、「外の人間たち」のことを一切知らないし、知ってはいけないのである。「どういう世界が規定されているのか」を理解しないと話が始まらないのに、「世界の規定」そのものが謎として隠匿されている。どこまで掘りさげても世界の全てが「かもしれない」の集まりであり、デュアルたちは人間達の操り人形「かもしれない」し、自分たちの意志を持つ立派なキャラクター「かもしれない」。この世界のウィルスは悪「かもしれない」し、人間が意図的に生み出した何らかの実験装置「かもしれない」。もちろん、マザーが外敵と判断した人間存在の破壊性「かもしれない」。全ては「何でもありの設定不足の世界に与えられた可能性の1つ」でしかなく、視聴者側は立脚すべき点が無いのだ。

 もちろん、製作側だってそうした「世界の不安定さ」は理解しているはずで、なんとか「観るべき視点」を与えるために作り出されたのが、デュアルとドロシーという2人のヒロインである。彼女達は「自分はあくまで人間に作られたプログラムだから考えることはしない」と繰り返しているが、冒頭から既に自我を持つかのように描かれており、そこに何らかの「人間性」を感じてほしいという製作意図が見える。絶対ではないかもしれないが、彼女達の見ている視点がその時点での「真実」であると受け止めてほしいのだ。しかし、残念ながらそうした「主人公であるが故の絶対性」は、リモという外的対象が介入することで意味をなさなくなる。リモは他の2人に対しては明らかにイレギュラーとして描かれているが、「出自がよく分からない」「プログラム存在である」という点において、デュアルたちと全く同じ。視聴者目線から見れば、デュアルたちもリモも、どちらも「この世界の真実かもしれない存在」であり、その2項が様々な局面で対比的な様相を見せることで、結局は世界が見えなくなってしまう。「デュアルたちが信じる世界を信じろ」と言われても、そちら側に天秤を傾ける積極的要因が無いのである。むしろ我々人間にとってはリモのような「感情と感覚を有する存在」の方が感情移入しやすいわけで、プログラム然としたデュアルたちの方をイレギュラーと見てしまう可能性すらある。そうなってしまうと、この世界の謎は謎として成立しない。何しろ、「世界そのものが分からない」のだから、そこで何が起ころうとも「分からないことがちょっと増えただけ」なのである。

 個人的に一番勿体ないと思ったのは、こうして不安定さを抱えたままの3人が、様々なバックアップデータを旅しながら友好を深めるパートが全て挿入歌の後ろでダイジェスト処理されてしまったところ。クライマックスでのどんでん返しから逆算するなら、この3人の交流をしっかり描き、各々の「見方」を示しながら世界に根付かせることが大前提のはず。尺の関係とはいえ、そこをサラッと流してしまっては、人類がどうなっていようが、リモが何者であろうが、大した驚きは無い。また、バックアップを巡る旅で一番必要な要素は「リモというイレギュラーなプログラムが残り2人に影響を与えていく」という交友関係そのものであり、世界の名所巡りではない。映画的・設定的には「世界の名所が色々とバックアップで保存されてるんですよ」というのが面白い部分なのだろうが、どれだけ壮大な景色を巡ろうと、オチには一切関係無いのだから、今回力を入れて描かれるべきはそこではない。それよりも、もっと小さくまとまった世界で、3人の共同生活を描いた方がクライマックスでの影響力が大きくなったはず。「世界記憶のバックアップ」という設定の興味深さと、そこから話が広がった結果のドラマ部分が、いまいち有機的に結びついていない。まー、結局マザーが何をやりたかったのか、この世界におけるデュアルたちが何を求められた存在だったのかもはっきりした答えが出たわけではないし、リモがああいった形で送り込まれた理由もピンと来ないし、ドラマパートは全てにおいて筆が足りていないのは間違いないので、そこだけを取り上げるのも筋違いなのかもしれないが……視聴中に一番ピンと来なかったのがあの世界巡りのパートだったので、もう少し有効な尺の使い方があったのではないかと。

 やっぱり、理想的にはテレビシリーズにするのが良かったんだと思う。多少間延びするのは避けられないかもしれないが、今風に尖らせるなら、例えば1話目はまるまるスミレちゃんとの記憶世界の話にしてしまい、「がっこうぐらし」のオチみたいに「実はこの世界の方が夢なの」というデュアルの言葉を1話ラストに持ってきたら話題性も出た気がする。アニメの尺があれば世界巡りの話ももう少し膨らませて肉付け出来ただろうし、中盤にそれっぽい(ダミーの)リモの存在理由をくっつけ、それをラストに向けてひっくり返す形にすれば、マザーとのバトルだって見せ方が増えたはずだ。無い物ねだりばかりになってしまうが、この設定、このデザインなら、劇場版にしない方が色々と活かす方法はあったはずなのだ。そういうことを考えて、やっぱりこの1時間で使い切ってしまった素材は、「勿体ない」という言葉でまとめられるのである。奇しくも、本作の監督である石浜真史氏は長尺の作品で溜めて溜めて爆発させた「新世界より」で結果を残した人物。流石に2クールでやれ、とは言わないが、「新世界より」のように序盤に世界の全てを溜めておければ、今作のクライマックスも輝いたんじゃないかと思うのである。まぁ、こればっかりはお金の話とかね、大人の事情もあるからね……。

 なんだかわがままな文句ばかりになってしまったので、最後は中の人の話で締めておこう。そりゃま、見に行った動機の大部分が中の人で占められてるのでね。何はともあれ四月じゃなくて何かな感じの2人の安定感ね。この手のキャラのあやねるの手慣れてる感。「プログラムなんだから楽しいとか悲しいとか分からないんだよ」って言いながらも初期状態からツンデレだけインプットされてる謎。種ちゃんは……いつものように。そして、今回初主演(?)となった花守ゆみり。何の因果か、これを見に行く直前にえとたまラジオ聞いてしまったもんで色々大変だったんですです。良い物を持っている子だと思うので、今後の活躍にも期待だ。キャスト陣の熱演を見る作品としては良い舞台だったんだけども、いかんせん感情移入がままならなかったので、あやねるの絶叫なんかも勿体ない感じに。かやのん、あやねる接続でこのままWIXOSSまで引っ張るかー。

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