「くまみこ」 5→4
最後の最後まで「くまみこちゃん」で締める根性はなかなかのものである。
正直、あんまりハマることはなかった作品。新番チェックのときにも書いたけど、そもそも原作は1巻だけ読んで「悪くはないけど特に興味は引かれない」ってんでスルーした作品だし、そこまで推していく要素もなかったからね。ただ、中盤までの流れでは素直に好きなところもあるんだ。個人的にお気に入りなのはまちとなつが山の中で舞の練習するお話。突然まちが「神楽の練習をする」って言い出して、トンチキな展開になるやつだ。まちの可愛らしさを活かしながら、彼女の自主性にのっとったこれ以上無いくらいに「くま」で「みこ」な話になっていた。他にも炊飯器の話なんかは割と楽しかったイメージがある。
ギャグ漫画のネタをどうこう言うのって凄く難しいので深入りはしないようにしたいが、個人的に「なんか微妙だな」と思ったポイントは、結局まちがどこまで行っても被害者側でしかなかったことに依拠してるんじゃないかと思う。最終話で良夫がなんか大義名分がある風に説明していたが、結局このアニメのネタって、「何も知らない田舎娘を馬鹿にして笑う」ことがネタの中心にある。もちろん、元々はそんなトゲトゲしたものじゃないし、「人間の女の子がものを知らないのに熊はやたらと若者文化に馴染んでいる」っていうギャップが笑いどころになっているのでそこを押しておけばいいはずなのだが、そのうちに、まちは「知らない」ことがキャラの特性に収まらず、回りの人間の行動規定になり、結果的に彼女は理不尽な苦痛を受けて失敗をすることになる。ドラえもんでのび太が失敗するのは彼自身が怠けるからだし、因果応報の物語になるが、まちの場合、(ほとんどの場合)彼女に非が無く、出自と育ちを理由に苦境に立たされてしまうのである。彼女の将来の成長を考えるんならそれは必要な痛みであり、「成長物語」ならばそれは立派にドラマとして成立するはずなのだが、今作は根本に「ギャグ漫画だ」という前提があり、この「成長」要素が否定され、「苦痛」のみがピックアップされて繰り返し展開されるのである。最終回のオチなんて、あまりに分かりやすい「成長要素の否定」だったろう。これはもう、ギャグ漫画なのでしょうがないというところなのか。ギャグってのは強めるためにはその特性、つまりアクの強さをより前面に出す必要があり、今作における「特性」は結局「まちいじめ」なのである。そうなると、次第に笑えない領分にまでお話が入ってきてしまうのは避けられなかったんじゃなかろうか。まぁ、田舎者独特の僻み根性なのかもしれないけどさ。
同じく田舎をネタにした「のんのんびより」の場合、似たようなスタンスにあるのはこまちゃんだったと思うが、彼女は「知らないこと」から苦痛を受けるわけではない。なにせ、回りにいる人間もみんな「知らない」からだ。他の面々は田舎をネタにしながらもそれをポジティブにとらえ、子供独特の目線も活かしてファンタジックな田舎テイストを正方向のエネルギーにした。しかし、今作ではまちの周りの人間は「知っている」人間がほとんどで、まちが1人孤立してしまって「田舎という舞台」ではなく「まちという個体」がネタにされた。果たして原作が今どうなっているのかは定かじゃないが、ひょっとしたら2巻3巻と続くうちに私は合わなくなっていったんじゃないかと邪推してしまう。もっと「可愛い」を押し出して、なつももっと愉快な回し方が出来れば良かったんだけど。結局、「女の子が辛そうな顔をしているだけでは受け入れがたい」というお話です。ここでアニメが終わってしまうと、今後のまちちゃんの人生が一体どうなってしまったのかと気になってしょうがないけども。マジで村から一歩も出ないで人生を終えそうだよなぁ。
そんなまちちゃんの中の人は、幸いにもシティガール(本人談)でしたね。日岡なつみは今作(とラジオ)でばっちりその存在をアピールすることが出来ただろうし、今後の展開があるかどうかは楽しみなところ。
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