今更かよ! 今更だよ! いや、もともと観る気なんて欠片もなかったのだが、なんだか周りにやたらと勧められたもんで、気づいたらなんとか観なきゃいけないことになった。すでにあらかた上演も終わっている状態でどうやってみたかといえば、近所の小劇場でやっている公演にギリギリ駆け込んでの視聴である(ありがとう出町座。いい劇場でした)。ノリと勢いで観に行く劇場視聴ってのはいいもんなんですが、そんなこんなで慣れない劇場に足を運んでの視聴は、なんだか不可思議な体験になりましたよ。
<以下、もう問題無い時期なんだろうけど一応ネタバレ注意>
さて、難しい。何が難しいって、周りにものすげぇファンがいるってわかってる状態で、散々ハードルをあげられた作品の感想を書くのが難しい。やっぱりさ、ハードルあげられると良いことないんだよ。どんだけのもんなんだろう、ってものすごく身構えるやん。そしてそんなしゃっちょこばった状態で受容しても、そうそう素直に観られるわけもなくてさ。いや、面白かったとは思うよ。でもあえて正直に書くなら「そこまで革新的か?」というのが私の感想。いや、だって、普通のヒーローアニメやん。
まず、評価すべき点からあげていくなら、何と言ってもその映像技術については文句なしに唯一無二である。今回は意図的に感想中に日本のアニメ作品との対比を多く出していこうと思うが、アメリカ産の作品でいつもうまいな、と思うのは画面全体での情報統制である。CGを活用すると、なんぼでも画面上の情報量というのは増やすことができるのだが、最近だと一連のGohands作品やサテライトが描くロボCGアニメのように、とにかく細かくなりすぎて、何が見せたいのかよくわからなくなっちゃう作品ってのも増えてきている。あらゆる部分が「省略と簡略の文化」から始まっているジャパニメーションは、なかなかそうした情報量の増大と折り合いがつけられないのであろう。だからこそ偏執的に1点への描き込みと掘り下げを行う京アニ作画みたいなデザインの方が性に合う。
その点、向こうのCGアニメはそもそもの起点が違う。特に今作の場合は「アメコミをアニメにしよう」という働きかけが大きく、すべての場面が「コミックの1コマ」ないし「1ページ」として立脚するものとしてデザインされている。書き文字演出なんてのはわかりやすい要素だが、元がぱっと見の印象を強く打ち出したアメコミのデザイン性が、そのまま動き出すというモチベーションなら、情報量の多さはむしろ武器になる。また、アニメとは異なる「コミックの文法」を画面上に持ち込むことで読者(視聴者)の視線を導きやすくなるという大きなメリットもあり、ごちゃごちゃした画面の中でもしっかりと動線を意識し、ページ跨ぎを想起させるように縦横無尽につないでいく作劇はなかなか日本のアニメーションでは見られない。
考えてみりゃ日本のアニメの多くが「コミックのアニメ化」である部分は同じはずなのにここまで大きく異なったものが出てくるってのは、やっぱり「コミック」の時点で全く違うものってことなんだろうな。うまく説明出来ないが、日本の漫画の場合はコマの1つ1つが本当に「原画」として機能しており、その合間を動画でつないでいく形になっているが、今作の場合は本当に「コミックをそのまま動かす」っていうシームレスで柔軟な接続。「カット」の概念というよりも「シーケンス」の概念なのだろうか。一応、アメコミ風デザインといえば最近では「ヒロアカ」の作劇なんかがあるが、あくまでもあれは「アメコミ風」のガジェットを借りてきているだけで、やはりそもそもの漫画のデザインが異なるところから生まれてくるものは毛色が変わってくる(ヒロアカのアクションは、あれはあれで良いものだ)。どれだけ画面がごちゃついても見せ方をブレさせない、そこに日本のアニメが学ぶべき次世代の姿がある。
そうして、デザインそのものが「コミック風」を意識したところに、あとはレンダリングなどで「雰囲気付け」していく技法の練度の高さ。これはまぁ、日本のアニメとは圧倒的に予算と人手(と時間)が違うことから可能なもので、気の遠くなるような作業量があって初めて実現するもの。こればっかりは真似しようにもできない「大陸の力」である。こういうマンパワーの強さを見ると、偏見含みなのだろうがやはり東西でアニメーションとの向き合い方に差があるよな、という印象を強く抱くことになる。本当に「製品」としての統制が取れているんだよね。
ちなみに、今回は「コミック風」に加えて「ジャパンアニメ風」の味付けもそこかしこに施されているらしいのだが、確かにディズニーピクサーなどで見られるぬるぬるしたモーションとはまた別な風合いがあることはなんとなく感じ取れる部分だが、それを「日本風」と感じるかどうかはまた別な話だ。正直、「日本の萌えアニメを意識した」というあの女の子のシーンは異物感が先に立ってあんまり可愛いとは思えなかったんだけどな。向こうからしたら「異物感」を売りにしたかったんだろうけど、その異物の生まれ故郷の人間には、狙い通りの受け取り方はできない気がする。
とにかく、とりあえず技術的な面ですごいことやってるのはわかるのだが……でもその興味は2時間続かない。情報量の多さはやはり感覚の麻痺を伴う。全編あのテンション、あの情報量だと、中盤以降(特にラストの次元崩壊後の世界)にはすべての要素を捉えることが難しくなるのは致し方ないところ。これは加齢ばかりが原因ではない(はず)。あとはシナリオラインで引っ張ってもらいたいところなのだが、やっぱり普通のヒーローものじゃない? 叔父さんの扱いとか適当だし、相手側の企みもぼんやりしてるし、それを打破するツールも扱いが雑だし、世界の危機の作り方とその解決法は、まじで東映特撮と同じくらいにノリと勢いの勝負だった。
特撮といえば、並行世界を扱った「異種混交の面白み」って、毎年スーパー戦隊がやってるやつだし、違う世界のものを違うテイストで描くことを面白みにするのって、最近だと割と多いデザインな気がする。「ポプテピピック」だってある意味そのギャグの極北だろうし、「おそ松さん」でも(実写まで取り込んで)やりたいようにやってた回があった。最近では「超可動ガール」におけるフィギュアの扱いなんかが「異物」を匂わせる塩梅が面白かったりする。
まぁ、とにかく「同じ画面に異なるテイストの映像が同居する面白み」っていうのが1つのキモになる部分だったとは思うのだが、そもそも、そうやって出てきた「並行世界の他のヒーロー」がそこまで活躍しなかったから注目点が多くないんだよな。白黒の人って、結局何したっけ? あんまり「白黒であること」が有効利用されてなかった気がするんだが。だいたいプリキュアオールスターズにおけるプリキュア5の扱いと似たり寄ったりだったような。
シナリオを見ていてそこまでピンとこないのは、そうした「多重ヒーローもの」は割と馴染みがあるコンセプトだというのが1つ。そうなると、全然知らない蜘蛛男より、毎年馴染んで愛着がある戦隊ヒーローの方が僕は好きだし、余計なことを考えなくていいですよ、というわかりやすいメッセージが早めに出ていた「ニンジャバットマン」の方が楽にみられたので痛快だった。実は「馴染みがない」ってのは思いの外大きな阻害要因になっていて、一番の問題は「知ってるファン向けのネタなのか、一見さんでも見られるネタなのか、伏線の時点で判断できない」ということである。いちいち「わからない人は忘れてください」というサジェスチョンも出来ないので、私みたいな外様は描かれたすべての要素について、「今後関わってくるネタなのかしら?」と神経を割いて覚えておく必要がある。そうなると必要以上に負荷がかかり、後になって回収されない部分については「肩すかし」になってしまうわけだ。今作は「知らなくても楽しめる」という前評判があり、実際そうした部分は大きいのだろうが、それでもやはり、知っている人間との断絶は大きいと感じざるを得ない。結局ボスキャラ(キングピン)とマッドなサイエンティストのおばちゃんの関係性ってなんだったんだろう。その辺も元ネタ知ってたらわかるもんなのか。周りの敵キャラ連中も何かあるのかと思ったら結局全員雑魚のままで終わっちゃったし。
結局、「技術的に恐ろしいことをやっているのは認めるし評価もするが、全体として心にクるかと言われると、まぁ、普通」というのが最終的な感想。多分何の先入観もなければ「まぁ普通のヒーローものだけど刺激が多かったし満足だよ」になったんだろうな。流石に「ボロボロ泣きました」とか、そういう感想には繋がりようがない。だからこそ劇場で泣いたり笑ったりした、という人にはどこがそういうポイントなのかを聞いてみたい気はする。シリーズファンにとって、この作品はどんな記念碑になっているんだろう。世間の評判から邪推するに、今作は我々が「リズ」をみたときと同じような、何か一生引きずっていくような恐ろしいものが隠れて……いるといいな。ちなみに僕は最初にクモの死体を確認しに言った時にいきなりビリッ!ってなった時にびっくりして泣きそうになりました(隣に座ってた男の子が思いっきり「ワッ!」っていうんだもん)。その男の子はすごく熱心に見入っていたので、やっぱりアクションアニメとして、余計なこと考えずに楽しむのが正解なのかもね。
追伸・回想シーンでドラム叩いてるスパイダーウーマン、完全にRASのドラムの中の人じゃない?
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