最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
具志堅うるせぇ、第24話。これはこれで味わいなの? いや、でも明らかに日本語通じてない感じになっちゃってるぞ。やっぱりネタよりも作品全体のイメージを優先させて欲しいもんだが……
さて、いよいよ開幕した「茶の湯天下一武道会」、北野大茶湯。利休は相変わらずの仏頂面であったが、秀吉は無事にイベントが開催出来て得意顔。自分もこの国の美が理解出来ている、ということを大衆に知らしめることが出来たし、あわよくばここであの不気味な利休を上回る大茶人を見付けて、首をすげ替えてしまえば後の憂いもなくなるって寸法だ。どれだけ表面を取り繕ってみたところで、秀吉と利休の間の埋まらない溝については、双方とも重々承知しているらしい。 利休にはやる気がなく、丿貫だって興味は欠片も無い。となると、この茶会でやる気をガンガン空回りさせるのは、やはり我らがフルオリ(あと細川のバカボンとか)。注意深く敵軍を観察し、何とかこの期に数寄者の頂きへと上り詰めようとあれこれ策を弄する。そして、その結果生み出された侘び茶の極み(??)が、トム・ソーヤもびっくりの天高き茶室であった。集まった市民には評判も上々。とにかくぶっ飛んだところを見せれば勝ち、みたいな分かりやすいインパクトが勝負の鍵だ。ただ、これって見る人が見たら勘違いの極致。感激にわななく息子を思いきりブン殴るのは長益。織部といい利休といい、この人の回りの数寄者は救いようのない連中ばかりなので、遊び人の割には苦労するポジション。利休との対話を通して「ヤバいじじい」と漏らしてみたり、この人の感性が視聴者には一番近いですかね。これまでうまいことはぐらかして生きてきた人生だが、そのせいで見なくてもいいものをどんどん押しつけられているのは自業自得か。 そして、得意満面の織部の茶席にもの申したのは、顔面蒼白、堅物の極みである石田三成。三成は、丿貫説得の際にも織部に面子を潰されており、どっちもどっちな関係ながらもあまり良い間柄とは言えない。「高みの茶席など不敬の極み」と声を荒げる三成はさっさと撤収するように織部に食ってかかり、意地を貫かねばならぬ織部とはとっくみあいの喧嘩に。その結果は当然のフォーリング茶室。「頂きへの一歩」は見事にスタートより下のどん底へ急落である。さすがは織部。僕らの期待した通りにやらかしてくれる。 結局、秀吉の自己満足以外の何ものでもない大茶湯は、誰1人得をしない格好で終了するかと思われた……が、最後の1シーンで、秀吉はあの丿貫と出会った。突如番傘を開き、飄々と茶席の準備を始める謎の老人に、秀吉は一体何を見たのだろうか。以下次回。 ……今回のびっくりポイントは、初登場となった伊達政宗のキャラクターだろう。いや、キャラクターっていうか、声が……レッツパーリィ! PR
緊迫の転換点、第12話。さぁ、色々と波紋が広がりそうな、とんでもないことになってきましたよ……とりあえず最初に一番驚愕したことを書いておくと、「石田彰は……小学2年生もそのまんまやるんか……この43歳怖い……」。
前回の時点で既に示唆されていたということを、視聴後にどこかで目にして初めて知ったのだが、この作品のモチーフの一つはあの地下鉄サリン事件だという。今回語られた高倉家の両親が荷担したという「地下鉄の事件」がそれだ。日付が完全に一致しており、舞台背景もそのまま。一応作中では「爆発事件」として処理されており、事件の内実は詳しく掘り下げられていないが、製作側としては地下鉄サリンとの関連性を積極的に否定する意思はないようで、そのつもりで見てしまえば、たしかにそのまんまであるかもしれない。 何故、実際の事件をモチーフとして扱おうと思ったのかはよく分からない。現時点では「架空の何か」をでっち上げてしまってもシナリオ進行上問題はないように見えるし、当然危惧されるのは、被害者たちの心情に何らかの影響がある、という、広い意味での「モラルの議論」が出てくること。実際、これが単に面白半分での用途であるならば、不謹慎の誹りは免れないだろう。ただ、制作側(特に幾原監督)がそうした当然出るであろう議論のリスクを考えていないとは思えない。つまり、何らかの意志があって、わざわざ16年前の事件を引っ張り出してきたのであろう。そして、その意図というのが何かは、今後のこの作品を注意深く見守っていくことでしか分からない。個人的には「モラルの議論」はあまり興味がないし、もしこれによってアニメに新たな意義が生まれるなら、充分に価値のあることだと思う。 そう言えば、あの才人(災人)山本寛が、どこかで「東日本大震災をテーマとしたアニメなども作られるべきである」というような議論をしているのを見かけた。彼の意図が十全に理解出来たとは思わないが、アニメの作り手側としては、ひたすら空想妄想の世界に逃げ込んで「甘受されるもの」だけを作り続けるアニメ作りという方向性には、どこかで風穴を開けたい、という思いがあるのだろう。そして、その端的な一助となるのが、たとえば現実の事件や人物などを扱い、メッセージを込めたアニメ作りというわけだ。どの程度受け入れられる思想なのかは分からないが、個人的には「とりあえずやれることはやってみて欲しい」というのが現時点での意見。この作品も、ヤマカンの言うような「新しい何か」を生み出すことになるのだろうか? 話が逸れてしまったが、そんな事件を背景にしつつも、今回は「陽鞠の二度目の死」という大事件が起こり、番組の雰囲気としてもターニングポイントを迎えたことが伝わってくる。陽鞠が病室で息を引き取ってからの一連の作劇は、今回作画が良かったこともあり、息苦しいほどの緊迫感と、有無を言わさぬ迫力があった。面白おかしく飛び跳ねていたきらびやかな「生存戦略空間」は静止し、暗く寂しく沈んだ世界となっている。晶馬の語る「メリーさんの羊」の物語を背景にし、冠葉は自分に出来る精一杯をやりきろうと奮戦するが、どれもこれもが水の泡。彼の全ての願いを込めた再びの「充電」行為は、あふれ出るインモラルな雰囲気を噛みしめつつも、どこか崇高で、貴い行為に見えてくる。最後には、あのペンギン帽子が力なく床に倒れ、目に光を失うことで、本作では幾度めかになる、「人の死」を実感させるのだ。あまりに残酷で理不尽な女神の采配に、冠葉でなくとも「運命という言葉が嫌いだ」というあのフレーズが口をつく。 高倉家を代表とする「日常の風景」に、ピクトグラムを多用した「広く無機質な現実世界」、動き続けた暗黒の電車、無機質に配管がむき出しになった寒々しい病院、生命の途絶を感じさせる生存戦略空間に、「メリーさんの羊」が語られた御伽話フィールド。よくぞここまで、と溜息が漏れるほどに、多種多様な世界が短い時間に圧縮されて繰り出される脅威の画面構成。これを1つのシリーズとして組み上げていく作業は、一体どれほどの労力とセンスを必要とするのだろう。アニメを見ていて、言葉にならぬ息苦しさに嗚咽を漏らしたのは久し振りのことである。何が作り上げられ、何が伝えられようとしているんだろう。全て抜かりなく、とまではいかずとも、この作品を正面から受け止められるだけの視聴者でいたいものである。
壮絶凄絶最終話。これがこのアニメの「1つ目の」結末。ただの1点に特化させた異形の結末。
正直、意外性のあるどんでん返しなど全く無かった最終回である。既に先週の時点で最大のちゃぶ台返しは完了させており、今回ギモーブ店長文人のモノローグなどで補完されたのはせいぜい唯芳(と小夜)の正体くらいか。それだって、大したサプライズになったわけではないだろう。この最終回の最大の眼目は、伏線の回収ではなかった。 では何が見せられたかといえば、更なる拡散である。そうだ、この作品は元々劇場版に繋がる前振り段階であることが了解済みの状態での1クールだったのだ。この最終回は、何事も丸く収まってはいない。むしろ、より大きな物語へのジャンプ台の役割しか果たしていないのである。そして、どうせ飛ぶなら、そのジャンプは特大の方が面白かろう、というのが今回のコンセプトだったわけだ。 そりゃもう、飛んだ。盛大に飛んだ。投げっぱなしと誹られても文句の言えぬこの最終回で、とりあえずやれることはやりきった。今回は大きく3つに分けてその行き着く先を見よう。1つ目は、先週からの続きである茶番の結末。メインキャストが2派に分かれていたわけだが、文人のゴーサインで、役立たずの異分子は淡々と処理されていった。時真は瞬殺、存在感のかたまりだった双子姉妹も徹底的に残虐に処理されていく。色々あったが、やはり今回最大のハイライトはのの・ねね姉妹の末期だった気がする。下衆であることが嫌というほど伝わるそれぞれの最後には、「双子」という唯一の繋がりすら軽々と踏みにじられる。彼女達の断末魔の絶叫は、他のキャストには無かった魂の叫びである。 2つ目の見せ場は、正体を現した唯芳と小夜による「親子」血戦。お互いに望まざる血の混じり合い。これぞプロダクションI.G.の真骨頂とも言える、笑えるぐらいの殺陣の迫力。鉄拳シリーズでも見たことがない壁バウンドをフル活用し、狭い屋内で飛び回る2人の人外と飛び散る血しぶき。これまでも様々なフィールドで見せ付けられたこの作品の見せ場の1つであったが、最後の最後で初めて「人の形をした者」と正面からぶつかり合い、これまでの全てを清算するような出し惜しみせぬ大迫力活劇シーンだ。 そして3つ目、悠々と退場する文人と、それを追撃する小夜を描いた野外戦の、冗談とも見える地獄絵図。解放された古きものと監視を行う「上層部」による「実験場」の撤収劇は、エキストラとして呼び出された全ての人々を綺麗さっぱり無かったことにしてしまった。無表情に淡々と大衆を惨殺していく管理側の残虐さは、「学園黙示録」などをも上回る救いようのなさ。分裂増加した量産型「古きもの」は、なんだかユルい表情と独特の造形のせいで、最初のインパクトが「うわ、八頭身モナーみてぇ」って思っちゃった。おかげでもう、そこから先は全部モナーにしか見えなくなってしまったのだが、残虐を残虐とも受け取らせぬほどの稚気にあふれた惨殺劇は、ある意味この作品に最も求められた要素なのかもしれない。1つ1つの古きものの振る舞いが細かく「楽しさ」に置換されており、「あ、とんがりコーン喰ってる」とか、「栄養ドリンクか」とか「ミキサーは駄目だっぺよぉ〜!」とか、笑っちゃいけないシーンだと分かっていながらも、奇妙な引きつり笑いみたいなものがこぼれてしまう。この何とも言えない感情は、他のどの作品でも受けられない唯一無二のものには間違い無い。個人的には、ぼかしアリでギリギリレベルですけど。これ、製作側は一切手抜き無しで描き込んでるんだろうなぁ…… 最終的に残されたのは、「劇場版仕様」となるために潰された目を覆った隻眼の小夜と、結局なんだかさっぱり分からないままの犬っころ。敵方は、完全なる悪役として立ちはだかった「罰するもの」七原文人と、「やっぱお前女子高生は無理があったんだな」という衝撃の事実が判明した網埜優花。対決の構図は実に分かりやすくなった状態で、1年後の劇場版を迎えるわけだ……って、長いわ! 1年て! どうやってモチベーション維持したらええねん! ……観に行くだろうけど。このまま終われないのは間違い無い。しかし、「終わらせない」という役割を恐ろしい方策でもって実現させたこの「最終話」の存在感、恐ろしいものである。
「森田さんは無口」 ー→ー
おわっ……? あぁ、終わったか、終わったんだよね……いや、わからねぇよ。どこで終わったんだよ。どう終わったんだよ。何も終わってねぇよ。こうしてみると、同じような枠でちゃんと「終わったっぽい」ことをしていた「にゃんぱいあ」は偉かったのかもしれない。 いや、作品自体に特に文句があるわけじゃないです。5分枠で日常系ユル漫画原作、そりゃ、こんなもんです。それなりの5分間です。すごく懐かしい香りのするクオリティです。個人的に戦慄したのは、この内容で既にコミックスが4巻も出ていると知ったときです。一体どんな話で4巻も続いているのか……ちょっと気になります。いや、買わないけど。 あとはまぁ、中の人的に楽しむだけですよ。花澤・戸松・早見と並んだ年代の近い(ちょっと前までは)リアル女子高生たちの日常会話っぽいのを存分に楽しめばいいんじゃないでしょうか。「あなると知利子もこんな感じでしゃべってればよかったのに……ひょっとしてあの世界に足りなかったのは森田さんだったのか?」とか訳の分からないことを妄想すればいいんじゃないでしょうか。個人的には戸松&花澤の絡みは好きなので、もっと他のメディアでも見てみたいところですね。ただ、今となっては2人とも超がつくほどの多忙っぷりなので、スケジュール的に無理なのかもしれないけど。 あと、作品と全然関係無いところで気になってたのが、実はしばいぬ子さんの方がよっぽど気になってたりします。毎週、あのコーナーだけ切り取って保管しとこうかどうか迷ったくらいです。エリーの中の人もよく分からない仕事を見付けたもんですね。
「夏目友人帳 参」 5→6
終わった、と言ってもあくまで通過点なので何とも評しにくい状態ではあるが、いつも通りに、安心して見られるものを引き続き提供し続けている、不動の1枠。 3期目ともなると、作品自体は変容してくるものである。回りに3期目を迎えるほどの人気作ってのはなかなかないのだが、例えば「ひだまりスケッチ」ならスタッフを刷新して演出方向をガラリと入れ替えてきたのが3期目だし、「さよなら絶望先生」にしても、3期目ともなると変化球を多めにして様々な点から「なんとか飽きられないように」と必死になっていたように思う。それくらいに、「続けること」は大変なことなのである。 そんな中、この作品は一見すると本当に「今まで通り」を貫いている。1話1話で扱う題材に大差は無いし、目に見える部分に大きな演出意図の変化もみられない。それだけに、非常に取っつきやすく、これまでのファンならば一切の不満無しに見られるだけのものに仕上がっている。そして、それに加えてきちんと「3期目ならではの変化」も伴っているというのが最大のポイントだったのではなかろうか。 今期の最大の変更点は、シナリオの密度、とでもいうべきものである。過去2期分では最も重要視されていた「懐かしい雰囲気」「緩やかなテンポ」が多少変更され、シナリオ密度が濃くなり、事件の振れ幅も大きくなった。緊張感のあるシーンはより盛り上がる方向に持っていくよう、ホロッと来るシーンはよりダイレクトに響くよう、ユルいギャグのシーンはテンポでもって流れがでるよう。全体的に、「語られるもの」の量が増えていたように見える。 この変更は、メインのライターが金巻氏から村井さだゆきに変更になったこともあるのだろうが、大森監督曰く、意図的にオーダーし、3期目を意識して変えてきた部分であるという。既に2期までで世界観については浸透したという前提のもと、物語の起伏を強めに出し、原作の持つものをより忠実にアニメに引き出したという。多少なりとも視聴者に求めるものは増えるのかもしれないが、これにより、ドラマ性を持つ1本のシナリオとしては、更に密度を濃くすることになった。 この変更は、個人的には純粋にプラスだったと思う。確かにこれまでのようなゆったりとした雰囲気も作品世界には欠かせないものであるが、3期続けられてしまえば、どうしたってそこには「慣れ」と「飽き」が生じてしまうもの。それを事前に回避するために、ドラマ本来の面白さを前面に出す、というのは非常に効果的だった。例えば今回初登場した的場の存在や、一気に深まった田沼との友人関係など、夏目の回りで起こった変化が、これまで以上のピッチで描かれており、グッと引き込まれながら見続けられるだけのパワーを持つようになったのだ。もちろん、相変わらず音響やさりげないキャラの表情の機微など、細かい部分については今まで通りに手抜かりなく突き詰めており、品質の高さは折紙付き。毎度毎度、よくもまぁここまで期待に応えてくれるものだと、感心してしまう。本当に、現代アニメにおける1つの代表作とも言えるシリーズになったのではなかろうか。 やはり大森監督は凄い。そう思わずにはいられない1本でございます。引き続きの4期目も既に決定しているとのことなので、このままのクオリティを保ちつつの続編、楽しみに待ちたいと思います。でも、このシリーズにつきっきりだと、他の作品の新作は作れないんだよなぁ……ほら、あれだよ、いっぺんシンデミル感じの……あれも3期目に更にステップアップした希有な例だったなぁ。4期目が見たいなぁ……
「いつか天魔の黒ウサギ」 4→3
きっと色々と気合いが入った作品だったんでしょうね。バトル時のエフェクトの種類とか、細かく別れたエンディングテーマ設定、ぷにぷにしたデフォルメキャラの分布など、おそらくこの作品の魅力となっているであろう要素をあれこれとアニメで表現しようという努力の方向性は感じ取ることが出来た。 でも……届いてないねぇ……こっちまでそれが来ないねぇ……もうこっちが歳なんでしょうかね、この手のラノベ文化の許容出来る水準がどんどん厳しくなっている気がします。それとも、やっぱりこの作品が歴戦のラノベ作品と比べてもしんどかっただけなのか……個人的には後者な気がするんだけどねぇ。 まず、主人公とメインヒロインヒメアの関係性が、あまり美味しくない。登場時は多少傍若無人な印象もあった、一方的な愛情から不死身の呪いを与えた「魔」としての属性がキャラとして活きてこない。大兎が必死にヒメアに寄り添おうとするまでの動機付けが見えてこない。そこには愛情やら恩義やらが関わっているはずなのに、そこの重みが見えてこない。やっぱりどう考えても「6回死んでも大丈夫」っていう設定は熱血バトルの主人公にはフィットしないよね。「死ぬ気で頑張る」ことが出来ないキャラクターなんだから。同じような違和感は「Angel Beats!」でも感じていたんだけど、こんだけポンポン人が死ぬ世界で「熱意」っていうものを今まで通りの方法論で描こうっていうのが間違っている。どうせ一から十まで戦闘要素は根性論で片付く設定なのだから、そこに何か独自の工夫が無い限りは、単に青臭い台詞をお互いばらまきながら殴り合っているだけのお話である。そりゃ、コクも深みも出ませんて。 お話に起伏が乏しい分、ZEXCSらしいどこか淡いエフェクト群で画面を埋め尽くそうとしていたみたいだが、毎回毎回火花でドンパチでは飽きるのも早く、「大きな敵」の大きさまでもがそれで表されるおかげで、全ての責任が重なり合うエフェクトのせいに見えてきたりする。違うんだ、画面に華がないのは戦闘シーンでこれっぽちも盛り上がらない脚本に根本的な責任があるはずなんだ。それが、画面の請け負ったものに見えてしまうのは、アニメ化の弊害といえるかもしれない。ただ、アニメ絵でそれなりに見栄えのするデザインを用意し、それを最後までちゃんと動かしきったのだから、アニメスタッフはどっちかというと頑張った方の作品ですらあると思っている。山本天志は本当にこういう作品にばっかり縁が深いけど……なかなか幸せは訪れませんなぁ。 というわけで、久し振りに「ラノベの臭いがキツ過ぎる」というがっかりが満載だった本作。途中から視聴モチベーションも一向に上がらなかったおかげであまり書けることもないのだが、高本めぐみが頑張っていたことだけは1つの想い出として残しておきたい。メインヒロインをやった経験があんまり無いから、今後は「代表作」ってことになるんだろうなぁ。その他にも野水伊織・美名のエースコンビも頑張ってましたが、やっぱりごり押し風味が強いのはちょっと可哀想だね。役者陣に責任はないはずなんだけど。一応繰り返して書いておきますが、僕は野水よりも美名派です。どこかで大ヒット作に当たらないものかしら。
「うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE1000%」 4→4
今期のそっち向け枠代表作品。まぁ、最後まで「素朴ッ子を演じるみゆきちも良いものだなぁ」と思いつつの視聴を続けていたわけですが、終わってみりゃぁ、別にそこまで頑張って見る作品でもなかったかな、というレベル。そっち向け作品なんて、えてしてそんなもんですけどね。 この作品の厄介なところは、私の回りにも不可思議な「うたプリ中毒患者」を生み出す謎の依存性にある。一切その病魔に侵されなかった私からしたらさっぱり共感は出来ない部分なのだが、確実に狙いきったあの馬鹿馬鹿しさが、吹っ切れたテンションを生み出してファン層を拡大させたことは、理解出来なくもない。あの無体な逆ハーレム設定を全て「ギャグなので」という風にひとくくりにして、全てを斜めから見て壮大なギャグ舞台として認識すれば、確かに画面も豪華だし、笑いに繋がる部分もあったのだろう。 ただ、個人的にそれは受け入れがたいものだった。ハーレムだろうが逆ハーレムだろうが、とりあえず1本の物語として描くのだから、そこに求めるものは歴然としたストーリーであり、感情移入出来るだけの「真に迫る」ものだ。この作品の場合、「どうせこんなんギャグなんだからおざなりでもいいじゃない」という力の抜き方が、どうにも間違った方向に出てしまっているようで仕方がない。笑いのツボなんてものは個々人で違うので良い悪いの判断ではないと思うのだが、これだけの画面を作れる技術と予算があるのだったら、そうした反則じみた方向で打ち出すのではなく、せっかくなら真正面から「プリンセスさま」を作ってみてくれても良かったのではないかと思ってしまうのだ。 ターゲット層が同じ作品に、前期の「世界一初恋」があったが、もしどちらかを選べと言われたら、多分私はこの作品は選ばない。「世界一初恋」は男同士のガチ絡みがあって正視に耐えるものではなかったが、それでも作中人物達の理屈があり、感情があった。しかし、この作品に集まる男共については、それが一切存在しない、単なる都合の良い駒でしかない。単におざなりのフラグを立てて男をかき集めるだけの物語なら、あらすじを読むだけで事足りてしまうのだ。わざわざ面倒な思いをしてアニメを見ずとも良いではないか。 まぁ、こんだけ肌に合わないことは繰り返しつつも、画面の質(作画の質)はずっと高品質であったことは評価の対象になる。何とも艶めかしいいかにもな塗りはなかなか慣れるもんじゃないが、これを求める層に提供するためのラッピングとしてはなかなか面白い方向性だったい、狙い通りの効果が得られていただろう。毎回男どもが寄り集まって歌うPV風味の画面も、馬鹿馬鹿しさが活きていて単品ものとして笑うことは出来た。最終回のラストステージは有無を言わさぬ迫力があったしね。まぁ、そんなところですよ。 しかし……メインヒロインの子は結局作中ずっとギアスを使い続けたままだったな……あの目の色は他の作品で出てくるんだろうか?
「花咲くいろは」 6→7
とにかく半年間お疲れ様でございました。オリジナルシリーズでここまで一切の中だるみ無しに追いかけてこられたのは、本当にありがたいことでしたよ。ここから新しいアニメの形が生まれそうな、そんな風格すら感じられます。 まず、この作品はなんといってもP.A.Worksの作品だ。P.A.といえば、個人的にはほとんど外すことが無い鉄板スタジオという認識であり、特に映像技術にその良さが出るという、非常に分かりやすい長所があるおかげで、全くの新作を見る時でも評価のポイントが分かりやすい。加えて、今作は監督に安藤真裕を据えた「CANAAN」のスタッフが集まっており、構成力や細やかな演出力についても保証が得られる。ここまで盤石でこけたらおかしいだろうし、実際、想像していた以上のものを作り上げてくれたと思う。ま、ベースとなっているのが「ドタバタ旅館奮闘記」なので物語が想像を超えるドラマティックなものになったりはしないのだが、この「ギリギリ近くて、ありそうだけどやっぱり無い」という、昼ドラ具合がこの作品の売りだったのですよ。 シナリオ面についても、岡田麿里のいい仕事がここでちゃんと結実している。「あの花」のように劇的な短編ものではないが、2クールの中に実に様々なテーマが込められており、1つ1つがきちんと回収されている。特に、個人的には「親子」「血縁」というテーマの重さが好きで、25話で見せた皐月の表情や、最終話のスイと緒花の関係なんかは大のお気に入り。人間誰しもが親近感を抱き、それだけに壁としてもぶつかる問題は、なんといっても「親と子」という関係性。それを、あまり押しつけがましくならないレベルで、26話を通じてじっくりと描いてくれたおかげで、シナリオにがちっとはまるバックボーンが出来ていた。他にも様々な恋愛話や経営奮闘記、「ぼんぼる」という言葉を象徴とする「人が輝くこと」についてのテーマ性なども、ゆっくり拾えるだけの分配でありながら、1つ1つに心を砕いていることがよく分かる。脚本家の意図を、アニメに描き下すスタッフがしっかりくみ取って構築していることが、この隅々に行き届く完成度を生み出したのであろう。「何をすべきか」「何がしたいか」が伝わってくる物語だったおかげで、1人1人のキャラクターへの愛着も増し、緒花たちへの共感も強くなる。悩みながらもぼんぼっている緒花たちは、モヤモヤする部分も多くあったが、それでも最終的には応援したくなる、愛すべき馬鹿野郎たちであった。 そして、これは余談になるが、この作品の「ご当地アニメ」としての立ち位置も面白い。石川県に本拠地を置くP.A.が10周年記念作品として送り出した本作は、地元石川の名所PRの役割も果たしているらしい。実際、この「いろは」効果でそっち関係のお客さんが増えたという報告もあるし、とにかく地方の観光産業に少しでも興味が持てるというのは悪いことではない。こうしたモデルケースが上手く実を結べば、アニメは新しい商業を生み出すことが出来るし、そうなれば新しいアニメの形が広がり、文化的にも幅が出る。なんでもかんでも宣伝ばかりでは味気なくなるが、こうして現実的な側面でも影響のあるオリジナリティを発揮させた、というのは、この作品の白眉な部分ではなかろうか。私も、これを機会に湯乃鷺(湯湧温泉)に行ってみたいと、思ったり思わなかったり。まぁ、私みたいな人間が顔を出すと明らかにアニメが動機だって分かるからこっぱずかしいんですけどね……(とかいいつつ、先日秋葉原に行って「あ、この辺をオカリンがフラフラしてた」とか思ってたんですけど)。 最後はやっぱり中の人トーク。本作は実に様々な方面からの刺激が美味しゅうございました。代表するのはやはりメインヒロインの緒花を演じた伊藤かな恵ということになるだろうか。かな恵ボイスの不思議なパワーには、いつも元気を貰っております。緒花は「ぼんぼる」だの何だのと妙な言葉を生み出す天才で、孝一をわがまま勝手に振り回していきなり早とちりから落ち込んだり、ともすると寒々しいキャラになるところなのだが、かな恵ボイスのおかげでそうした「難有り」の部分は上手いこと誤魔化してしまえている。菜子の度が過ぎた天然っぷりとかもそうかもしれない。豊崎の魔性である。また、今作は年配の女性の迫力が見どころの1つとなっており、絶大な存在感を発揮したスイ役の久保田民絵が実に見事。また、皐月役に本田貴子ってぇのも非の打ち所のない配役。やっぱ格好いいよなぁ。あとは巴さんの中に入ってる能登麻美子ですよね。能登さん、地元に帰って縁談とかしないで下さいね、お願いしますから。 ラストに、これが実に微妙な問題なのだが、民子役の小見川千明がいる。実をいうとまだ悩んでいる段階なのだが、民子については「ややアリなんじゃ?」と思い始めている自分がいるのだ。小見川がなかなか上達しないことは分かった上で、「なんか、民子の融通の利かないこの感じは、いっそ小見川ボイスで当たっていた気も……」とか思えてきたのだ。この判断が正しいのかどうかは、皆さんにお任せします。 とにもかくにも、半年間お疲れ様でした。みんなが明日もぼんぼれますように。
立つ鷺、跡を濁さない最終話。これまで半年の間に本当に色々あった湯乃鷺温泉に、ついに別れの日が来てしまいました。
ここまで綺麗に幕を閉じ、その上で後口すっきりでくどくないという最終回は久し振りに見た気がします。この期に及んで初めて気がつくが、「花咲くいろは」というタイトルは、「花咲いた物語」を示唆するのではないのだね。「いろは」っていうのは物事の初心、はじめの段階のこと。「花咲くための、初期段階」というタイトルだったのだから、緒花たち女子高生の日常は、まだまだこれからということは最初から分かっていたこと。そんな「未来への余韻」を残すエンディングは、また格別のものでありました。 今回は大きく分けて2つのパート。まず、前半はP.A.Worksの真骨頂ともいえる、盛大なぼんぼり祭りの情景。そういえば、P.A.が最初に頭角を現したのはあの「true tears」だった。そして、あの作品も鍵を握るのは、片田舎で開催される祭りの情景だった。夜の闇にぼんやりと浮かぶ多数の明かりや、暗がりの中でうきうきと心躍らせる人いきれ。そんな雰囲気が画面の隅から隅まで充ち満ちているのは、流石のお仕事である。そして、そんな祭りの情景の中で、たくさんの人たちの「願い札」の内容が明らかになり、そこから「未来への情景」が確認出来る。「続く未来」を最も端的なツールで表したのが、この祭りの夜だったというわけだ。 そして、そんな中での2つの出会い。1つ目は当然、緒花と孝一だ。よくよく橋の上で会うのが好きなカップルだが、前回湯乃鷺を訪れた孝一は結局緒花とすれ違いばかりだったので、今回は念願叶っての対面ということになる。あのときとは全く違う緒花の気持ちは真っ直ぐに孝一にも伝わり、そのおかげで無駄に紅ショウガの多い焼きそばを食べる羽目になった。屋台のおっちゃん、気がききすぎるな。 そして、この夜を舞台にしたもう1つの出会いは、裸の気持ちをようやく通わせることが出来たスイと皐月である。面白かったのは2人が祭りの会場を歩くシーンのカット割りで、どこか妙なアングルからの切り取りなので、決して「2人が同じ画面に入る」ことがなかったのである。結局、皐月はスイの生み出した文化に迎合することはなく、あくまで「松前」皐月としての生き様を見せ付けている。しかし、そんな頑なな「隔離」は、その夜の寝室で解消される。互いに譲り合い、わかり合う母子。スイの中には、もう皐月への複雑な感情はなくなっているのだろう。これが、「四十万」と「松前」の融和の起点である。 後半パートは、結局一時閉じることになってしまった喜翠荘を舞台にした撤収劇。従業員は予定通りの未来へとそれぞれに歩を進めたが、数話前のようなバラバラの「離散」ではない。縁が宣言した「新たな喜翠荘」を目指すための一時解散だ。豆じいが去り、喜翠荘は「元の」喜翠荘としての姿を取り戻すことは出来なくなった。女将が歩きながら巡る誰もいない館内の数々の想い出は、この建物に残された最後の遺産となる。しかし、それが終わりではない。「四十万スイを喜ばせる旅館」が喜翠荘の存在意義であるとするなら、今の喜翠荘が失われたとしても、第2の「喜翠荘」を生み出せばいいだけの話。スイに満足してもらう。そんな次世代の旅館の夢は、既にいくらか現実になっているのかもしれない。 そして、この建物を最後に離れるのは、やはりスイと、緒花であった。第1話、1番最初に緒花が命じられた廊下の水拭き。彼女が喜翠荘とのお別れに選んだのは、その記念すべき初労働だった。スイでなくとも、わずか半年の滞在でも、すぐに生まれ、大切に育てられる新たな想い出の数々。新しい世界はそこにいくらでも拓けているのだと、スイは痛感させられる。天真爛漫、何も考えていないような緒花の行動に、思わず彼女も寂寥の涙をこぼした。 最後に残されたのは、「四十万」から「松前」への、正式な融和、橋渡し。未来の四十万スイを目指すことを神に誓った松前緒花に対し、スイは自分の想い出の全てとも言える業務日誌を託した。祖母から孫へ、世代を超えた新たな喜翠荘の夢は、ここに託されたのである。「待ってるよ」と呟いたスイの表情は、全てをやりきったものの達成感に満ち、孫の行く末を見守る暖かな祖母のものになっていた。 みんな、まだ何が出来るわけじゃない。何が出来るかも分からない。しかし、それは、花咲くいつか。花咲くためのいろはが得られた人々は、そのいつかを目指して次なる扉を開けていくのだ。本当に綺麗だ、未来って奴は。 |
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プロフィール
HN:
Thraxi
性別:
男性
趣味:
声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧
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