最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
丸く収まってるのかよ、第12話。前回のギスギスムードのままでライブに行くとは思っちゃいなかったけど、いくら何でも生馬の溶け込み方があっさりしすぎじゃないのか。それだけミミズク偉いってことかね。 「1話まるまる○○」シリーズとはちょっと違うが、今回もほぼ「1話まるまるステージの練習」。アイドルアニメならばあってもおかしくないシチュエーションなのかもしれないが、「30分ず〜〜〜っと薄暗いステージの上で振り付けの練習してる野郎たちを眺めるだけ」っていうのは今まで見たことがないかなり異質な雰囲気である。そりゃそうだよな、普通「アイドルアニメ」っつっても、画面に変化を出さなきゃいけないって考えたら、まるまるステージ練習だけで終わらせるはずがない。こんな地味な画面が1話ぶっ続けなんて、普通は耐えられないと思うからだ。でも、それをやってしまうのがこの作品なのである。途中で楽屋に引っ込んだり、エンディングテーマに合わせてこれまでの回想が流れたりはしたが、基本的にはオンリーステージである。この「ものすごく狭い世界の中で若者があれこれ悩んでいる」感は凄まじい。メンバーとてっしーを「ステージの中の世界」とすると、「外」にいたのはシャチョウ(とミミズク)のみ。つまり、この世界を俯瞰視点で見られるのはこの世界ではシャチョウのみなのである。何とも象徴的なシチュエーションだ。 結局、前回のもめ事についても「アイドル観」の統一を図れば自然に収束するものであったようだ。各々が自分の夢を語り、信念を見据えて練習に取り組んでいたが、「夢ってなに?」という部分が決定的にバラバラな5人。そんな連中が簡単にまとまるわけないのだが、今回は「夢ってなに?」ではなく、もっともっと根源的な部分。「結局アイドルってなに?」である。答えの模範的な部分はシャチョウやてっしーの口から語られたものであるが、今回もっとも主張が強かったのはようやく前に出てきた主人公、颯であった。彼の訴える「頑張ってればいいじゃない、アイドルだもの」理論はあまりに安易で、甘っちょろい戯れ言でしかない。これまでのイデオロギーを考えれば、キラあたりとは決定的に決裂する考え方である。しかし、どうやら今回の議論は実際のハードトレーニングの後だったこともあり、もう一歩進んだところに論点がある。「頑張っている姿をお客に見せることこそが、最大のファンサービス、ファンの望むものである」と。 なるほど、そう言われれば一応筋は通っている。続いて生馬も「息を合わせるのはメンバーではなく、客の視線である」という案を出して議論を引き出した。そう、結局、誰が頑張るでもなく、何が完成形でもなく、「偶像(アイドル)とは、お客に永遠に終わらない物語を見せるだけのものである」というシャチョウの箴言の通り、あくまでも目指すべきは「ファンの見たい物」なのである。それならば、「完璧な振り付け」でなくとも良いという理論は成り立つ。颯が散々悩んでたどり着いた答えは、そういうものだったのではないだろうか。まー、一体どのあたりからそういう結論にたどり着いたのかはいまいち分からなかったが……単に「いくら何でも生馬が下手下手言われすぎじゃないかな」っていうんで同情したくなっただけかもしれん。同じサボり仲間としてね。一応チーム内でのユニット編成でも生馬と颯は2人組みたいだしなぁ。 まぁ、すったもんだはありながらも、今回の最後の台詞は「揃った……」である。ついに揃った少年ハリウッド。次回はいよいよクリスマスライブ? ……次回予告に初詣での様子しかなかったんですがね。何が起こるか、何も起こらないか。 PR 「ベイビーステップ」 4→5 バレーの次はテニスが幕を閉じる。まぁ、こっちは既に2期の放送が決定しているので、終わりっていうよりも「一旦休止」だけども。NHKアニメも最近こういう形で分割しながら淡々とやっていく形式が増えた。「バクマン」なんて3期もかけてじっくりやってくれたし、秋から再開する「ログホラ」も同じ形式。なかなか話題に上りにくい枠ではあるのだが、実は大きな失点もなく安定してまとめてくれるので、非常に貴重な枠なのです。 「地味だが安定」はこのベイビーステップにも同じことが言える。始まった直後は「いや、こんな地味で淡々としたプレイヤーのテニスとか、アニメでどうやって盛り上がったらええねん」と心配していたものだが、実際2クールの放送を見ていて、ダレるタイミングというのはほとんど無かった。直前にやっている「ハイキュー」と比べても動画のダイナミックさは一歩二歩劣るし、原作と比較しても何か新しい要素が加わっているというわけでもないのだろうが、淡々とした中にもきちんと「エーちゃんの成長物語」という軸が際だっていし、この平坦さのおかげなのか、逆に「わずかな期間でみるみる成長していく超サクセスストーリー」という苛立たしい設定も不思議と飲み込めるようになっている。「ひたすら主人公が頭の中で考えたことをやっていくだけのスポーツもの」っていうのは実は案外珍しいスタイルで、視聴者はこれでもかというくらいにエーちゃんの考えていることを覗けるようになっているので、一人称視点がものすごく見やすい。1つ1つのシーンの意味がとても丁寧に理解出来るのである。まー、おかげで「くどい」とか「長い」とかいう感想も出てきそうであるが、このどうしようもないくらいに「冷静でいられる」視点がこの作品の特徴なので、それを正面から描いて、退屈にならなかっただけでもアニメとしては成功なのではないだろうか。やっぱりこれ、原作がすごく特殊なんだなぁ。 アメリカ遠征で一旦区切りというのは良い節目だろう。アメリカに行くと「勝ち残り云々」が関係する試合とはしばらく縁がなくなって緊張感が緩んでしまうので、そのあたりはここからダラダラやるには辛いパートだ。2期目で遠征編(つまり修行)から始まって、残りの試合に畳みかける構成が見やすいはず。その頃には原作のエーちゃんはどこまでいってるんでしょうね……。 「ハイキュー!!」 5→6 良いアニメでした。日5は相変わらず相性が悪い(多分、時間帯の置かれ方のせいだと思うんだ)が、それでも割ときっちり楽しむことが出来ました。お手本のような「漫画原作のアニメ化」だったのではないでしょうか。 原作既読なのでほとんどそれに付け加えて語るべき事が無いくらいなのだが、正直、原作の今の絵はあまり得手ではない。嫌いってわけでもないのだが、こちゃこちゃしててリーダビリティはお世辞にも高いとは言えないと思う。お利口さんにまとまった絵じゃなくて好き、っていう人もいるんだろうけど、この辺りは好みの問題。それがアニメになると、色もつくし、主線もはっきりするし、とてもとても見やすくなるのである。逆に、こっちの絵が大人しくて嫌い、っていう人もいるんだろうけども(実際、知り合いのジャンプファンは「アニメのキャラデザがあんまり好きじゃない」って言ってたのでね)。「見やすく」なったおかげで余計なことを考えずにスッとストーリーが追えるようになっていたし、そのストーリーもごくごく分かりやすいもの。もちろん、単なるスポ根テンプレだからといって決して退屈というわけではなく、日向と影山の関係性は、ダブル主人公として見ていて気持ちが良いし、なかなかキャラクターの1人1人を見ていても分かりにくいバレーボールという競技についても、アニメで全体を俯瞰しつつ、必要に合わせてキャラに焦点を絞ってくれるので、ゲームとキャラが両立して見やすくなっている。 やはり、こうしてみると最大限にプラスに働いた要素は「動き」そのものだろう。半端にリアルに寄せるわけではなく、とにかくアニメ的な見得を追求した「嘘くさい」くらいのアクションは見ていてとても気持ちが良い。最終的にアタック&ブロックに集約されるためにクライマックスが作りやすく、視点もプレイヤーの位置取りで様々に見え方が変わるので、本来どうしても単調になりがちなバレーの試合でも、一切中だるみすることがない。多分原作漫画もしっかり読めばそのあたりは考えて描いているのだろうけど、アニメになったおかげでより分かりやすい形になってありがたかったのである。「おお振り」のときもそうだったけど、やっぱりI.G.にスポーツものを作らせると本当に安定感がある。満仲さんのディレクションも安定していたし、この辺りのスタッフに任せておけば大きな失敗はないってことだろう。やっぱり日5だからってのはあるんだろうが、スタッフがかなり贅沢なのよね。ラスト前の24話で監督がコンテ演出に回ってて、「まぁ、事実上のクライマックスはここだろうから、ここに全力入れるのは納得だけど、これって最終話にプレッシャーかかるよなぁ」って思ってたら、なんと最終回コンテは安藤真裕っていう。いやぁ、お見事でした。 中の人については「安定のスポ根キャスト」ってなもんだが、やっぱりメインを務めた2人がまず偉いかな。村瀬歩はこれで大看板を1枚確保して次の仕事に挑める。最近はこういう「高音域男性キャスト」はやたらと多い気がするけど、ここから一歩抜け出せるか。そして、こうした「高音域男性キャスト」とコンビを組むのは決まって石川界人である。むしろこっちの音域が今となっては貴重なんだもんなぁ。おいしい役回り。その他注目したいのは、アニメ声優としてはほぼ初レギュラーとなった田中役の林勇。田中のキャラがおいしいってのもあるけど、なかなかいいポジショニングでした。とりあえず男性キャストはガンガン新しい名前が出てきてほしいのです。 あ、あとマネージャーの可愛さが神がかってた。原作だと特に目立たなかったけど、アニメでは唯一の女の子成分を独り占め。ずるい。 「東京喰種トーキョーグール」 6→4 うーん、この終わり方。なんか噂で聞いたけど原作の方も良く分からない終わり方したらしいじゃないの。そういう様式美があるのだろうか? 流石にアニメオンリーの視聴者からすると、こういう幕切れは印象が悪いばかりですよ。 基本的な画面のクオリティは非常に高かった作品。タイトルにもある「東京」という都会の喧噪と、その陰で静かに蠢くグールたちの抗争、葛藤など、「人の明るさ、生きている実感」に、「グールの影、追われる者の苦しみ」みたいな対比は綺麗に画面に出ていた。徹底的に悪辣に、グロもリョナもそのまま画面に出し、独自のセールスポイントにしていたのも大事な部分で、おそらく原作がそのままなのだろう、いかにも青年誌らしいあけすけな部分は見ていて楽しかった(しんどい部分も少なからずあったけども)。出来れば放送用の規制の無いバージョンで見てみたいと思えるだけの完成度ではある。なんかよく分からんグールなりの武器を振り回す戦闘シーンも、シンプルながら見応えのあるものになっており、ちゃんと「アニメで動かす意味」というものが与えられたという点は、原作ファンには嬉しいアニメ化だったのではなかろうか。 ただ、その裏で難点もいくつかあったのは事実。1つは、結局「喰う」という独自のテーマ性が、あまり本筋に関わってこなかったこと。序盤でこそ金木君は色々と悩んだり、苦しんだりしてくれていたし、大変態月山さんの「食べる」ことへの異常な執着なども楽しかったのだが、オリジナルテーマはその辺で見納め。あとはぶっちゃけ単なるバイオハザードチームとの対戦や、チーマーどうしの縄張り争いみたいなお話である。「ゾンビ側からのバイオハザード要素」みたいな部分が見られるかと期待していたのだが、結局あんていくチームってのは良識ある「正義の味方」なんだよね。主人公側が「正義」であり、生きること、「喰う」ことについても結局人間を第一に考えてしまった時点で、強めに押し出した変態的要素も「普通の敵キャラの描写」に収まってしまうわけで、心躍るシナリオ展開とはいかなかった。そして最終回の尻切れエンドは致命的にマイナス印象。最終回自体は悪くないんだ。ようやく活躍してくれた花澤ゴーストのたっぷりとした陵辱プレイとか、覚醒した金木君の吹っ切れっぷりとか、見ていてワクワクする要素は多いのだが、だったらやはりあと1話必要だろう。あそこで終わられてしまっては何一つ納得出来るはずがないし、そもそも金木救出に向かったはずのあんていくの面々が誰一人描かれていないのでは、尻切れというか打ち切りである。流石にこの構成は受け入れられるものではないだろう。 最近のアニメは13話という短い尺の中で決着をつける必要があって大変な場合が多い。本作は12話とより短いのだから原作をどうまとめるか、っていう部分で難しかっただろうとは思うのだが、いつも言ってるように「難しいならその尺でアニメ化するなよ」と。もう、アニメはクールっていう概念から脱却して、やりたい話数で放送出来るスタイルがあればいいと思うのだが……BSとかの有料チャンネルを使えばそれくらい出来ると思うんだけどねぇ。なんだか勿体ない話である。 ま、おそらくアニメはこれで終わりってことは無いだろうから2期も計画されているのだろうが、出来ることなら、「ちゃんと決着をつける」ことに加えて、この作品独自のこだわりを見せてほしいと思う。 「キャプテン・アース」 5→4 うーむ、分からんかったな。「分かり始めたら面白かろう」と思っていたのだが、最後まで分からんかったな。「分からない」→「視聴モチベーションが下がって適当に観てしまう」→「ますます分からない」という負のスパイラルが働いてしまった残念な作品。 五十嵐卓哉作品であまり受け入れられなかったのって、今回が初めて。いや、どっちかっていうと「榎戸作品で」って言った方がいいのか? スタッフの揃え方のためにいちいち「スタドラ」と比較してしまうのだが、スタドラの笑える「意味のわからなさ」と比べて、こちらの「意味のわからなさ」はいちいち視聴モチベーションに繋がらなかったのである。どのあたりに差があったのかは改めて考えてみる必要があるが、おそらく、「設定が設定として離れすぎていた」のが失敗の原因なんじゃないかって気がする。 スタドラの場合にもいかにもな榎戸センスで訳の分からない言葉は出てくるし、見たこともないエキセントリックな舞台はガンガン登場する。「どないやねん」と思うような出来事が、敵味方に入り乱れて発生するのもお約束。それでも「なんか楽しいからいいや」という方向性でどんどんまとまっていったのは、ひょっとしたら「島のせまっくるしさ」が功を奏したのかもしれない。もっと範囲を狭めれば「学園としての狭さ」である。スタドラワールドは、あれだけイカれた敵味方があったにも関わらず、その関係性は驚くべき事に「全員同じ学校の生徒」というだけでくくれてしまう(ウテナもそうだな)。おかげで、戦闘中のモチベーションはしばらく理解出来ないし、その後の顛末だって何が起こってるか分からなくなりそうなのに、全ての話を「学園のワンシーン」「島暮らしのワンシーン」として語ってしまう強引さがあった。おかげで、綺羅星があり、タウバーンがあり、四方の巫女がいる世界は、どうにか「理解出来る気がする」範囲に収まり、とんちきな世界が笑いにも燃えにも繋がったのである。 翻ってこのキャプアスの世界はどうか。まず、組織体系が面倒臭い。ミッドサマーズナイツが異界の人間である遊星歯車装置と地球の覇権を賭けて争う、というだけなら分かりやすい「エイリアンもの」になるはずなのだが、間にソルティドッグが入ってきて「人VS人」みたいに見えるのが面倒臭い。最終的にはちゃんとパックがキルトガング側の存在であることは分かるので構図はシンプルになるのだが、そこにいたるまでの三極の戦いが、「頭空っぽにして楽しむ」雰囲気を著しく削ってしまった。また、エイリアンたる遊星歯車装置の設定が、アニメーションとして説明するが非常に面倒臭いものになっており、「なんで単体で侵略してくるの?」「エゴブロックって何?」「でも地球でも暴れてるよね?」「2人してアイス屋さん?」といった基本的な展開がいちいち理解を阻害してくる。この辺の「設定のための設定」をもう少しシンプルにして対立構図を見えやすくしてもらえば、序盤の食いつきもだいぶ違っていたのだろうが。 そして、正直言うと主人公側、ミッドサマーズナイツの中の人間関係にあまり魅力が無い。ダイチは最初から最後までハナのことを考えているだけだし、ハナはどうせ不思議ちゃん、テッペイは優等生的で、この3人の絡みがなんだか大人しい。魔法少女アカリちゃんだけは序盤に色々引っかき回してくれたが、設定があまりに完璧超人過ぎるのと、根幹となるシリアス部分に直接関わりにくいため、中盤以降にいささか存在感がぼやけてしまった。これに比べて、遊星歯車装置の面々は色々と個性が強くてもっと描写が増えれば楽しそうだったのだが、こちらは「あくまで敵対勢力である」という制限のためか、単体でメインを務めるようなことはなく、あくまで「その時々の敵キャラ」どまりになってしまっていた。アイちゃんの単独行のエピソードなんかは割と楽しく観られてたんだけどなぁ。 他にもまだまだ「なんか勿体ない」部分は色々とあって、「設定は盛り込んでいるし、やりたい方向性は分かるのだが、その魅力を最大限に伝えるシナリオをまとめきれなかった」という感じ。あくまで「宇宙ロボットもの」なので、戦闘シーンの時にバリエーションがあまり無かったのも勿体なかったかなぁ。比較していいかどうか分からないが、やっぱりサイバディのバトルの方が楽しかったです。結局、ライブラスターって何だったんだろうね。あ、それでももちろん映像面は見事なもんでしたよ。戦闘に関してはもう少しバリエーションを増やして具体的な描写がほしいとは思ったけど、やっぱりボンズ作画の全力だから綺麗よね。そこは毎回満足してた。 最後に中の人……については、あまりに多すぎるからいちいちピックアップはしなくていいかな。世にも珍しい「かやのんのラスボス」が見られたのは眼福。あとは相変わらずアカリちゃんが好きです。日高里菜ボイスのロリっ子で世界が満ちあふれますように。そういえばキルトガング側のリーダーが工藤晴香だったのだが、彼女もなんだかんだ芸歴を重ねているはずなのに、あまり上手くなっていないのは何故だろう。 9月19日 ドラフト模様(JOU、BNG、THS) ピック順 【Alessi】→【Thraxi】→【Sea-chicken】→【Serra】→【Mei】→【Sangriter】→
泣いても笑っても、これが最後だテーロス環境。それぞれの1年を噛みしめながら、思いを込めて戦います、聞いて下さい、「あいつだけは優勝させちゃ駄目」。
「幕末Rock」 5→4 どんどん壊れていく 製作理念が馬鹿なのは認めるし、その馬鹿部分は割とはっちゃけていたので、予定していた通りの楽しみ方は出来た作品だと思う。幕末+Rockという適当過ぎるテーマの足し算だが、やってることはぶっちゃけ単なる対バンなので、設定を掘りさげるような部分も特になく、「まぁ、マクロスだってシンフォギアだって、歌って楽しかったんだからこれで楽しいやろ」くらいの感覚。間違っちゃいない。しかし、もう少しひねれる部分、もう少し工夫して独自の面白さを加えられる部分があったんじゃなかろうか。 この作品の最大の売りである「馬鹿さ」は様々なところに出ていたのだが、大体、ファーストインプレッションで得た「馬鹿だなぁ」と同じものである。巷では「パージ」などと呼ばれているらしい脱ぎっぷりとか、「結局ロックとヘブンズソングってなんやねん」とか、そういう部分は最初は笑えたんだけど、ずっとそれ一辺倒でお話が続けられるほど魅力的なネタというわけでもないだろう。毎回少しずつ出し方を変えて、「そういうバックグラウンドの世界だから出来るお馬鹿なこと」をもっと大胆にやってもらわないと、せっかくの世界設定が生きない。龍馬たちの馬鹿が極まったのは多分温泉回あたりなので(いや、最終回が一番か?)、そこから先は正直惰性で見ている部分が大きかった。唯一そうじゃなくて人間的にどんどん壊れていったのが井伊だったので、彼が一番気に入ったのである。個人的にはもうちょっと松陰先生が大きな役割を果たしてくれれば盛り上がったのだが……ちょうど放送中に東映チャンネルでやってる「デンジマン」で中尾隆聖がシンガー役で出演している回をやってたので、「こんな昔から歌ってたんやなぁ」としみじみしてしまった。 まぁ、ちょいちょい不満はあるものの、最後まで特に不自由なく見られる作品だったのは事実、他の「歌って戦うお話」と違ってどうしても対象としている消費者層が違っていたのでのめり込むことは無かったが、ファンには充分嬉しい作品だってのは伝わってきたし、楽曲1つ1つのクオリティは非常に高いので、ラストの馬鹿丸出しの引きも鑑みて今後ひょっとしたら続編もあるんじゃないか、っていう期待は持っている。その時には是非、もっと色んなユニットを出して賑々しくやってほしいもんである。アメリカンのロック、一体何が起こるのか……って、もう、どう考えてもかんちがいロンリーナイトじゃんよ。 ムズい、第12話。正直、現段階ではお手上げの状態。いくらでも勝手な「意図」を付与していくことは出来るエピソードなんだろうが、さて、何が正解と言えるのか……ラス前でこれをぶっ込んでくるのはすごい英断だなぁ。 これまでとは何もかもが「逆」になった不可思議な町の景色。あらゆる要素がこれまで描かれてきた物語の中にあるものばかりなのだが、何かが少しずつずれていく。アナザーストーリーとしては短いほんの十数分ほどの「異世界」であったが、何も分からずに見ている身にはものすごく長く、ハラハラする時間だった。一体何がどうなっている? この世界は何を語るべくして生まれている? このタイミングで入ってきた訳は?? 本当に1秒でも目を離したらそのままおいて行かれそうな、とんでもない緊張感。多分、その中には「このままだと全てを放り投げてこのアニメがぷつりと切れてしまうのではないか」というイヤに現実的な不安もあったのだと思う。幸か不幸か、今回もちゃんと幕引きはいつも通りの町の風景に戻ってきてくれたわけだが、わずかな期間の旅路の意味は、いまだ謎のままである。1つだけ確かなことは、あの世界は、「欠片」だったということだ。 何もかもがちぐはぐだった不思議な世界、敢えて「異世界」と呼ばせてもらうが、この異世界の中では全て少しだけが違う。ずっと夏だったはずの景色は冬になり、花火が打ち上がるのは何故か雪の中。町を訪れる異邦人は駆ではなく透子だ。駆は、透子をこの異世界へ迎え入れるホスト役を果たすためか、現実の駆よりもいくらか話しやすく、笑顔も見せるようになっている。他の面々ともきちんと話が通じているし、そのポジションはまるで、現実世界の透子のようでもある。この異世界の「冬」がどのくらいの時期を想定したものなのかは定かではないが、たとえば祐と幸の関係性をみると、これは現実世界の「後の時間」のように見える。祐から幸へのアプローチはいつも通りと言えるが、幸の反応や、2人の割とストレートな距離感からは、既に完成した2人の人間関係が見て取れるのだ。これはやなぎと雪哉の関係にも似たような空気がある。これが「現実の続き」の「冬」であるとしたら、透子と駆の存在を除いてしまえば、まさに「未来」の欠片である。 しかし、そうなると不可思議な部分もある。例えば雪哉の膝のこと。ぼんやりとした表現にしていたのでどちらとも取れるが、「怪我をしたら元も子もないからな」と走り出したということは、この雪哉は「怪我をしていない」ように見えるのである。つまり、「怪我をせず、陸上でドロップアウトもしない、あの夏の松葉杖の無かった雪哉」ということになる。祐と2人で山登りを達成したはずの幸も、今回は部屋で体調を崩して花火を見に行くことが出来ない状態にあり、「夏の一幕」が削られているようである。つまり、この世界は「人間関係こそ完結しているものの、あの夏の何かが足りない」という世界。それなのに、唯一透子の中で決定的に「足りていなかった」はずの駆との関係性だけは、不思議とこちらの世界の方がスムースであり、駆だけが「町」と「透子」を繋いでいたというのも不思議なところだ。 一体何故このような異世界、「未来の欠片」が創造されたのか。その答えは、結局「未来の欠片」が一体何なのかが分からないと解答は出ないのであるが、やはり駆が独りごちていたように「心象風景」というのが一番近いニュアンスということになるんじゃないだろうか。自分が感じている漠然とした「印象」が実体を伴って現れるもの、それが「欠片」。もう、こうなってくると全てイメージだけの読み解きになってしまうので唯一解など出るわけもないのだが、「何となく感じていることじゃないの?」という程度で収めておくと、一応これまでの「欠片」にも何となく説明はつく。一番の問題となっていた「カラスの群れ」については、騒がしくなってきた身辺に対する不安や、自分の周りで次々に進展していく人間関係への焦燥感のようなものが透子をかき立てたものであると理解出来るし、「だまし絵に落下する駆」も、メンバーの中で風当たりが強くなっていく駆への不安感、自分も阻害しているのではないかという疑念の具象化と受け取れる。そしてなんといっても「雪」である。前回は透子のいないところでも具現化していた「雪」だが、やはり、これは「不安」の象徴であり、駆の言葉を借りるならば「孤独」の1つの具現化であろうか。前回の読み解きでは「雪は決して冷たいだけではない」という真逆のことを書いた気もするのだが、今回の「冬の花火」の情景を見ていると、やはりどうしてもネガティブな要素は無視出来ない。透子にとっての「孤独」は、回りの仲間達が自分の与り知らぬところで新たな人間関係を作り出していくことへの焦りや疎外感が主な原因であると考えられるので、そうした面々の回りに「雪」が生まれたことは、彼女の「当たり前の孤独」の表れであると理解出来る。 そしてなんといっても「駆とのキス」である。これまで垣間見てきた欠片の中でも一際異彩を放っていたあの「欠片」が透子の心象であるとするなら(そしてそれを至極単純に理解するなら)、それは自身にすら認識出来なかった恋心の表れということになるのだろう。キスシーンはやはり「孤独な」雪の中、雪哉のせいで「恋愛感情」を強く意識させられた美術準備室でのことであった。「何故あんな危ない駆に心を寄せることがあるのか」と言われれば、やはり「同病相憐れむ」というのが納得の行く説明で、2人とも、「自分の内面を外部刺激として無意識に受信してしまう」という奇特な悩みの持ち主ということになる。積極的にその「欠片」の問題に挑み、これまで自分では読み解けなかった「孤独」へのアプローチが一歩先んじている駆にあこがれを抱くことは、そこまで理解出来ない心の動きではあるまい。彼女の心はいまやすっかり「雪」に覆われ、町1つまるごと創造するに至った。そんな中で唯一「見えて」くれるのが駆であるという今回のエピソードが、最も分かりやすい透子の「中身」といえるのではなかろうか。 今回こうも壮大な「欠片」の旅に出た理由は、どうやら「深水の工房で作られたガラス」と「沖倉の家系を形作った音楽」という2つの外部刺激の重なり合いに原因があるようだ。駆が影響を受けた様子がないのは、彼が最近「欠片」を聞かなくなったためか。しかし、彼も前回は花火が「見えて」いたんだよなぁ。2人の「欠片」は、最終的に共有出来る感覚にいたるのだろうか。今回は本当にこの2人についてしか描かれなかったので、最終話も後はこの2人の問題を片付けるだけ、ということなのだろう。 期待半分、不安半分でドキドキしながら一週間待つべし。 突発的にこんな記事書くよ! なんでかって? 現実逃避だよ! 「こんなコトしてる場合じゃない!」の「こんなコト」だよ!(適当なことを書き殴るのはプレリで事実が分かる今週末より前に片付けたかったってのもある) あと、変異については実際のドラフトが始まる前に一覧にしておいた方がいいかな、っていうのはあったので。事前情報見てない人でも、一覧表があればプレイングである程度考えることは出来るからね。
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Thraxi
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声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧
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