ふざけたタイトル、ふざけられない最終話。これが1年間この作品を追いかけ続けた集大成。言葉も無い。
これまでのエピソードでも要所要所で圧倒されてきた今作であるが、最終話はやはり最大の「決め所」。手抜かりは許されない晴れ舞台だ。原作がまだ続いている作品を途中で終わらせるアニメ化というのは大体において最終話あたりでうやむやになって尻すぼみになるものだが、このアニメの場合、「千利休の生涯」というはっきりしたテーマで39話を駆け抜けて来たおかげで、最後の最後まで気を抜かずに作り込むことが出来ていた。ラストシーンは多少なりとも抽象的な表示に逃げたきらいはあったが、それでもこの最終話を見終わった余韻の出し方としては文句も付けられない。このドラマを作り上げた原作もきっと凄いものなのだろうが、それを真に迫った造形美を伴って作り上げたアニメスタッフも同様に凄い。結論、凄い。
わざわざ細かい部分を切り出してエピソードを語るのも野暮なことだろうが、いつにも増して見事だった「へうげ」ワールドの有終の美を、少しずつピックアップしたい。開始直後、辞世の歌をしたためて満足した後、謎の殺戮マシーンとなった利休が控え室から登場し警戒に当たっていた上杉の面々を黙々と殴り倒していくというシーン。もう、面白くて仕方ない。元々利休はばかでかくておっかないジジイだったわけだが、この当時の70歳なんて、現代でいえばどれほどの高齢者になるというのか。普通に考えたらしわくちゃのよれよれであろう。しかし、利休は違うのだ。諸肌を脱いで現れ出でた彼の肉体は、確かに年相応のみすぼらしさではあるのだが、それでもがっちりと筋肉が締まり、並み居る武士たちを殴り倒すのに不足はない。ご丁寧にバンデージまで巻いてひたすら顔面に鉄拳を見舞う利休は、これまでで最も「へうげた」姿であった。
そんな利休の介錯を務めることになってしまった、本当の主人公、古田織部。彼の苦悩も1つの見どころではあるが、今回最も苦悩していた男は、そんな織部にすがりついた秀吉ではないだろうか。力無く俯きながらも、どうにもならない非情の決断を告げる秀吉は、最後の最後に、あの織部に「友であって欲しい」と本音を漏らした。野心に燃え、乱世を謀略でくぐり抜けてきた山猿も、最愛の主君を失い、信頼ある弟を失い、尊敬する師をも失い、寄って立つものが何も無い状態。ただの一家臣である織部に弱い部分を見せるなど、天下人たる秀吉にはあってはならぬことだが、もう、そんな虚勢も限界だった。浅黒い彼の顔には諦めと懇願があり、古田織部は自らの義を通すにも、そんな「主君」を捨て置けるほどに計算高い男ではないのである。
そしてクライマックスとなる、茶室での利休と織部の師弟対決。本当にどうかしちゃったんじゃないかと思えるほどに罵詈雑言を吐く利休と、最後の最後まで見透かされていることにぐうの音も出ない織部。真っ直ぐに切腹を終えるかと思われたギリギリのタイミングで、織部は利休の真の「もてなし」に出会う。茶人としての死とは、茶室で死ぬことでも、茶を点てながら死ぬことでもない。あくまで、自分が対する客人をもてなすことにあった。それに気づいてしまったら、やはり織部は師を切ることなど出来ない。
そして、利休はそんな織部の心中すら理解し、自ら道化を買って出ることで、織部の「自分」をそっと差しだしてやった。「それがあなたなのです」。師は最後の最後まで師であり、弟子はその末期にまで、学び続けなければならない。希代の大茶人の最期は、弟子に全てを伝えた、一片の悔いも無い晴れ舞台であった。
本当に素晴らしい。こういうシーンのことを「名シーン」と言うのだろう。シナリオの含みの持たせ方も凄いのだが、これを映像にしたときのビートレインの力の入れ方が見事。利休の横顔を映し込んで一切音を入れずに数秒保たせる無音の「情感」や、織部が涙を溢れさせた際に、実際に涙が流れるカットは一切入れずに、ぐしゃぐしゃの顔を映すことで感情の溢れ方を見せる切り替えの妙。これに田中信夫の絶対的な「利休の声」が込められ、全てが完成する。圧倒されることの多かった今作のラストに相応しい、歴史に残る名演だったのではなかろうか。
お見事。いやさお見事。
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