最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
「異国迷路のクロワーゼ」 5→5
いやぁ、良かったんじゃないでしょうか。特に何も無い世界ではあったんですけど、そこがちゃんとパリであることは伝わってきました。パリなんて行ったこと無いですけどね。 本当に「なにもない」お話なので、アニメとしての勝負は画面でどれだけその雰囲気を醸し出せるか、という部分。その1点において、この作品はきちんと仕事をしてくれた。なんと言ってもギャルリを取り囲んだ細々とした風景の描写が美しく、非常に鮮明な絵柄にも関わらず、どこか古ぼけて湿った、土臭いパリの臭いが感じられるようなデザイン。そしてそこで息づく人々の生活は、何か目を見張るものがあるわけではないのだが、そこにずっとあり続けたであろう安定感が確認出来る。こうして地域に根付いた文化の重量感が出たおかげで、そこに舞い込んできた異分子の湯音を描くストーリーが新鮮に見えるのである。 シナリオの配分については、ちょっとぼやけすぎかな、と思うくらいにのんびりしたものだったが、この世界で何かとんでもない事件を起こせ、と言われても無理な話だろうし、誰もそれは望んでいなかっただろう。毎週楽しみに正座をしてみる、というような性格の作品ではないのだが、毎日きちんとご飯を食べるかのように、毎週きちんと湯音たちの様子を確認することで、ごく当たり前の日常を享受することが出来たのでした。それでいいじゃないですか。 いわゆるアニメジャンルの「日常物」とは少し違ったカテゴリになるのかもしれないが、こういう切り口の「文学小説的な日常感」はもっと他の作品でもアピールしていい要素だと思います。この作品の場合は海外渡航と文化差っていう部分で見せていたわけだけど、世の中に溢れるあらゆるもので、「視聴者にとって新鮮なもの」っていうのは表現出来る気がするんだよね。 最後は当然中の人チェック。今作は……あおちゃんだなぁ。すみませんね、メインヒロインの東山奈央をさておいてサブヒロインの方をあげてしまって。湯音の中の人も頑張っていたとは思いますよ。ただ、今期はやたらとしのぎを削るロリヒロインが多くてね。個人的にはあおちゃんのハイトーンボイスを聞いてしまうと他の全てがぶっ飛んでしまうので、「東山? 多分、頑張ってたはず」くらいの感想になってしまう。大丈夫、湯音の独特の声音はちゃんと印象に残ってますから。今後の活躍も期待しています。あおちゃんは……いつも通りでお願いします。 PR
「にゃんぱいあ The Animation」 ー→ー
あぁ見てたさ。ちゃんと最終回のエンディングまで全部見てたさ。だから何かを語る権利はちゃんとあるはずなんだが、特に語ることはないぞ。うん、猫キャラってのは総じて可愛いから、見てて平和になりますよね、くらいなもんで。 結局さー、こういう作品の最大の問題点は、「毎週楽しみにしててテレビの前で見る」っていうモチベーションが、流石に5分枠じゃ維持できないってことなんですよ。5分番組には5分ぶんの良さが有ればいいと思うし、この作品はちゃんとそのくらいの満足感は得られてたと思うんだけど、じゃ、その5分のためにわざわざ毎週見るかっていうとね。そこまでせんでも、見ずに逃してしまうロスも5分ぶんだけだしね。……良かった、自動追尾で録画出来る時代に生まれて。文明の進歩に感謝するんだぞ、にゃんぱいあ。あと、森田さん。 この作品、画面はシンプルだし、ネタも大したもんじゃないんだけど、さりげない愛らしさは割といい仕事してましたね。全員同じ顔だけど。ゆるキャラってこれくらいでいいと思いますよ。そして一番のお仕事は、にゃんぱいあの中の人、小清水の働きかな。中の人本人の持つ緩さが良い感じに醸し出されてて、うざいと可愛いの中間くらいのにゃんぱいあの持ち味が堪能出来ました。小清水は、やっぱり器用な子である。
絵に描いたような大団円、最終話。いや、大団円っていうほど特別な何かがあったわけではないんですけどね。クロードのお姫様だっこがあっただけで、もうこの作品は終わりで良いのではないかと。
湯音がギャルリの人々にもすっかり認知され、街のマスコットとしても受け入れられ始めた矢先の出来事。少しずつ膨れあがっていたクロードと湯音の間の軋轢。些細なことをきっかけに、湯音の不安は爆発し、あらぬ方向へと向かいはじめた。急に姿を消した湯音に、クロードは毎度のようにテンパってしまう。そこらじゅうに湯音の所在を尋ねて回り、うっかり一番聞いてはいけないはずのアリスにまで声をかけてしまったり。そりゃぁもう、罵られるのは当然なわけで。未だ心の交流がうまくいかず、湯音とちぐはぐな様子を見たら、アリスさんじゃなくてもお冠ですよね。 そして、探し求めた湯音はやはりギャルリの中にはいなかった。なんと、ギャルリの上にいたのだ。なんとかして、自分に出来る範囲でギャルリの役に立とうと背伸びする湯音と、そんな彼女の意志をくみ取ってやれなかったクロード。二人のすれ違いは明確に現れ、湯音は一度は屋根から落ちてしまった。しかし、彼女はガラスの上で一命を取り留める。彼女が小さな子供だからこそ、無事で済んだ。 「子供であること」、「何も出来ないこと」。そんな湯音の無力感は、積もり積もってどうしようもない状態になっていた。元々このパリを訪れる前にも、姉の汐音の容態について、自分が何も出来なかったことに絶望していたのだ。遠く海を渡ったこの地でも、自分は守られてばかりで何の役にも立てない。湯音は、子供ながらに必死にその現実に抗おうとしていたが、結局うまくいかなかった。ギャルリの自分、日本での自分、何一つ変わらない現実に、湯音は参ってしまったのだ。 そして、そこに文字通り「手を差し伸べた」のは幼い頃に父を亡くし、同じような経験をしていたクロードだったのだ。ようやく湯音の窮状を理解出来たクロードは、これまでやんわりと拒否してきた自分語りを、屋根の上で始めることになる。父親のこと、グラン・マガザンのこと、そして自分のこと。結局、子供が何も出来ないことは当然であり、「そこにいることが仕事だ」という彼の言いつけは、お為ごかしではなく、本当にそう思っての発言だった。何も出来ないことは辛い。しかし、誰もがみな、それを経験して大人になり、だからこそ子供を見守ることが出来る。湯音はまだ出来ることは少ないが、それでもそこにいるだけで救われる者もいるのだ。クロードも、ギャルリの人々も、そして汐音も。 前回抱えていた汐音とのエピソードも、クロードの自分語りで一気に解決してしまうという、思い切った構成の最終回。これまで必死にあれこれ奮戦してきた湯音に対して「何もしなくていいんだ」と説き伏せるというのはある意味申し訳ないエンディングな気もするのだが、ギャルリを中心とした「人の和」というものは、えてしてそんなものなのかもしれない。1つ目の役割は「まずそこにいること」。一人一人の人間の存在を肯定的に見つつ、明日への希望があればそれでいいじゃないか、というお話。いかにもこの作品らしい、ふわっとして、誰も不幸にならない結論ではないか。 汐音のことや、カミーユとクロードのこと、実をいうとまだすっきりと片付いたわけではない問題は残っている気もするのだが、この作品はこれでいいんだろう。湯音もクロードも、まだまだ明日を生きていくのだし、その中で、問題がわき起こったり、解決したり、色々と経験していくことになるのだ。これからも、ギャルリの人々に幸多からんことを。
「ユルアニ?」 5→5
これについてはコメントが難しいのだが……とりあえず半年間ずっと見続けて、何の不満もない、というか、不思議な癖になるこのヤらしさは本当にこのFROGMANの野郎め、という感想しか出てこない。これはこれで立派なモデルの一つになったような気もするし、大量生産アニメ社会の弊害として流れていったあだ花の一つにも見えるし……ま、いいや、なんだか終わるのが寂しいくらいには楽しかったです。一応一本ずつ。 ○「シマコー」シリーズ ある意味、この作品シリーズが生み出した最大の遺産。最終回まで、徹底的に変な笑いが漏れ続ける野心作でしたね。この絶妙なメタ具合とか抜きまくったギャグの塩梅とか、こんなみみっちい枠でも充分ネタって回せるんだなぁ、というのが分かるのは収穫でした。 ○「汐留ケーブルテレビ」 一番シンプルなFROGMAN風味。それだけにネタも見慣れたものだったけど、安心して見られる作品ではありましたね。相沢舞は、今作と「日常」と、今期やたらシュールな作品に縁があった印象。 ○「プーねこ」 途中でダイナミックなスタイル変更があったのは何だったんだろうね。後半版では千和が無駄に小技を効かせた芸を披露してくれていたのが楽しかったです。 ○「だぶるじぇい」 マガジンから乱入してきた刺客。華の少年マガジンからのアニメ化だけどこの枠で良かったんだかどうか……でも、身の丈にあったネタだったねぇ。こんなフラッシュアニメでも、キャラの可愛らしさを押せばそれなりに形になっているように見えるのは不思議な発見。大橋歩夕がいると小見川が上手く聞こえる、という新発見があったのは革新的。 ○「ほんとにあった!霊媒先生」 居並ぶ異物群の中では割と普通の漫画だったせいか、ちょっと印象が薄くなってしまった作品。それだけに、最終回での暴虐っぷりはインパクトが出かかった。普段ならしょうもないように見えてしまう、「ブシロードのCMレベルか!」というアニメでも、普段があれだとものすごいことになるという、人間の慣れと経験を逆手に取った見事なトリックであった。 ○「元気!!江古田ちゃん」 他のアニメには絶対にない文化を持っていた、という意味では唯一無二の作品。まぁ、生活スタイルのせいでそこまで徹底的に楽しめる作品ってわけでもなかったのだが、これ以外の方策でアニメ化されたらどうなっていただろう、ということを想像すると、これで良かったんだろうな、という気もする。個人的には、岡本信彦のスタンスと、愛河里花子の持つあふれ出るパワーが楽しかったです。 ○「ハトのお嫁さん」 いや、感想とか言われても……
「うさぎドロップ」 5→8
もう、今期はこれで決まり、という作品。ほんとね、死にたくなることが多くてね、見ているだけで打ちのめされて、はっ倒されて、その上で癒しになってね……こんだけぎゅんぎゅん心が揺り動かされるアニメってのは、やはりものすごいパワーを持っていたんだと思います。 原作が女性向け漫画誌であり、放送枠も「一般向け」を標榜する(実践できてるかどうかは置いとくとしてね)ノイタミナ枠ということで、設定や内容はいわゆる「アニメ的なもの」とは一線を画す。幼女が主人公ではあるものの、それが昨今の阿漕な「萌え文化」的なものとして現れるのではなく、純粋に「子供」という要素が作中に必要だから現れているだけ。どこぞの小学生が最高なアニメとは根本から違う。そして、ドラマというのは野望や諍い、強烈な事件などなくとも、人と人がふれあう中で起こっていくものだ。そこに登場するキャラクターだって、何かがおかしいとか、ものすごく個性があるってわけではない。みんな少しずつ違って、少しずつ自分が出したいだけ。そうした人と人との関わりの中で、なにかがすれ違い、なにかが混ざることによって起こるのが、日常の事件なのである。 本作の中で、事件らしい事件といえば、りんの存在そのものであった。80過ぎたじいさんが養っていた隠し子の存在が発覚し、あれよあれよという間に30歳独身独居の大吉が引き取ることになる。このあたりの流れは流石にお話的ではあるのだが、それ以降の、大吉とりんの交流については、全てが「普通の」生活の一部でしかない。その中で、初めて子供と関わる人間に特有の苦労があり、驚きがあり、喜びがある。だからこそ、これを見たら「娘が欲しいな」という気分にさせてくれるのである。 作中の登場人物がみんな「良い人」であるというのも、この作品の長所を大きく伸ばす要因になっていた。大吉にとって、唯一正子だけはあまり得意とは言えず、主義主張でもぶつかり合う存在でこそあったが、それでも、どちらが悪いという話ではなく、あくまで思いが違い、その結果たどり着いた人生の到着点がずれていただけ。大吉がりんに対して持つ愛情は、ちゃんと正子にもあったし、正子はどれだけ自分の母性を捨て去ろうとしていても、どこか未練のように残っているものがあり、視聴者の目から見ても「悪い母親」というだけで終わらないだけの内面性がある。子供を前にすれば大人は皆同じ気持ちになる。そうした万人に共通した幸せな感情を描き上げることが、この作品の至上命題であり、最もうまくいった点だったのではなかろうか。この作品を作るにあたって、脚本家の岸本卓氏という人が起用されたのは、なんでも「子育て真っ最中で気持ちがよく分かると思われたため」らしい。そういう「気持ちの入り方」は、見事に結果として表れていた。 独特の絵柄をそのまま描き起こすアニメーションの手心の加え方も職人技で、ふわっとしたどこか懐かしい絵柄の雰囲気が、そのまま「幼い子供」や「不慣れな保護者」のたどたどしい世界を作り上げるのに一役買っていた。エンディング画面にはまさかのイヌカレーまでが採用されていたが、どこか現実離れした絵柄が、不思議と「大吉とりん」という不格好な2人の関係を上手く表しているようで、最初から終わりまで、どこを切り取っても「うさぎドロップ」ワールドになっていたのが素晴らしい。子供の持つ、大人には絶対得られないような新鮮な目線、世界の見方が、こういう形で画面に落とし込まれるというのは、なかなか見られない演出だったのではなかろうか。 最後はやっぱり、中の人の話。この作品においては、キャラクターといえばもう、りんと大吉しかいないわけで。大吉役の土田大については、木訥としながらもしっかりと芯を持ち、他人に対して最大限の心配りが出来る大吉の実直さがじわっと伝わってくるのが良かった。そしてりん役の松浦愛弓ちゃん。なんだろう、他の子役とは違う不思議な存在感が、普段なら「子供のキャラクターだからってリアル餓鬼にやらせてどうすんだよ! 声優は子供でも老人でもなんでも出来るからすごいんやんけ! 本職起用しろ本職!」とがなっている私も、文句を挟むことが出来なかった。彼女の舞台勘というか、役を作ることに対するプロ意識みたいなものは、既にこの年齢で本物の風格が感じられる。是非とも今後も声優業を営んでいるところを見てみたいものだが……まぁ声のバリエーションを出せるような状態じゃないしなぁ。出来れば役者業を続けて色んな刺激、経験を積んでもらって、もし良かったら声優業も思い出して帰ってきてもらいたい、かな。 あとはまぁ、コウキママことゆかりさんですよ。もう、ゆかりさんなんですよ。慈母です、聖母です、マザーオブジイヤーです。「ノイタミナの母」です。日本の母親像は、この先大原さやかが支えていく。異論は認めない。 何はともあれ、素晴らしい作品をありがとうございました。
「No.6」 4→4
最後まで何だかうやむやで終わった作品、というのがストレートな感想。盛り上がらなかったかと言われれば「それなりにクライマックスがあったような気もする」ぐらいは答えられるが、改めて1からものの因果を問われると、さて、この世界は何が起こっていたのだろうか。 視聴中にずっとなにかに似ていると思っていたのだが、一番近いのは「シャングリ・ラ」だった気がする。No.6がそのままアトラスに対応し、西ブロックの存在がアトラスの外であるメタル・エイジと繋がる。外の世界からのクーデターで中の腐った部分を断ち切る、という基本理念もそのままだし、どこか歪んだNo.6の内情も、定番といえばそうだけど、見たことがある感が半端じゃない。ただ、「シャングリ・ラ」とこの作品が決定的に違うのは、「シャングリ・ラ」の方はその設定に付加させて色々と(無茶な方向にも)お話は広がりをみせたが、この作品は、どのキャラクターもただひたすらに「No.6はおかしなところだ!」と叫ぶことに必死で、それ以外に話を持っていく場所が無かったことである。紫苑とネズミは敵対心を燃やし、西ブロックの連中もそれに同調する。中の住人達は守ろうとしたり、壊そうとしたりの差はあるものの、とにかくNo.6を信用しているか、恨みを抱いているかのどっちかである。そして「あれはおかしいから壊してやる」「壊したら大変なことになる」の押し問答が延々続いていただけ。最終的には壊れたような、そうでもないような、何だか不思議な落としどころにまとまったわけだが、結局紫苑たちの大望は果たされたと言えるのかどうか。よく分かりません。 シリーズ構成を見ていくと、紫苑がNo.6から飛び出して外の世界に触れ、あの蜂の存在を知るところまではまだ話の流れもあった。お坊ちゃん育ちの紫苑、アウトローのネズミという組み合わせもシンプルで分かりやすく、「この2人の友情物語なんだろう」と思って観ていればついていくことは出来た。しかし、結局ネズミが何を最大の目標としているのかが最後まで見えず、タフガイを気取って紫苑を支えるスタンスのはずなのに、いつの間にか紫苑の尻にくっついて後片付けをやるだけの役割に見えてきてしまう。最終回でイヌカシが「お前は守るものができて弱くなった」と憎まれ口を叩いていたが、確かに、そんな感じなのだ。ネズミは、紫苑に会う以前にはどのような思想を持って生きてきたのだろう。そして、あの台風の一夜が、何故そこまでネズミの気持ちを動かすことになったのだろう。全体的に冗長な感じのある作品なのに、肝心の友情物語の部分は、どこか必要なパーツがかけているような印象があった。 そんなわけで、後半になると中心線が見えなくなってしまい、シンプルな冒険もの、サスペンスものとしても消化不良な状態に。個々のキャラクターの小憎らしい言い回しなんかは面白いと思わせる部分もあったのだが、全体像が見えない状態では、そうした小手先芸だけで見せ続けるにも限度がある。ボンズ謹製のくっきりして見やすい映像がなかったら、途中の視聴も危うかったかもしれないレベルだ。最終回までくっついてみても、「別にこれ、フラクタルと大して違わないような」という感想がせいぜいであった。 勝手な想像だが、これってひょっとしたら、あまりアニメ向きではなかった作品、少なくとも1クールでアニメ化しちゃいけない作品だったんじゃなかろうか。最後のシーンに引きずられて紫苑とネズミのBL要素が強いのか、とも思ってしまうのだが、どうも原作者の意図はそうした部分にはなさそうだし、現代アニメに求められる「くどくて分かりやすいセールスポイント」が足りていなかったような気がする。もちろん、そんなものが無い良作だってたくさんあるだろうが、こと個性的な作品の多いノイタミナ枠であるから、こういった「毒にも薬にも」なスタイルでは良さが発揮出来なかったのだと思われる。勿体無い。 この作品については中の人トークもあまり盛り上がらないのであるが……最終的に一番美味しい立ち位置にいたのは、メインヒロイン(?)の沙布を差し置いて、イヌカシだった気がします。中の人は真藤圭だったんですねぇ。この子も地味ながら着実にキャリアを伸ばしてきている、面白い役者さんですよ。
L字と速報の乱舞、最終話。うーむ、せっかくの記念すべき話数だというのにこの台風……仕方ないこととはいえ、やるせない気分である。でも、その程度で揺らぐような作品ではございません。この日常は、ちょっとやそっとじゃ揺るがないですから。
ゆかりさんの風邪は、結局そこまで大したもんでも無かったようで。大吉とりんは玄関先まで見舞っておいとまする程度に留まった。コウキは相変わらずどこまでもフリーダムではあったが、「しっかり面倒をみろ」と大吉に言われたら良いお返事。男の子だねぇ。りんも、ちゃんと看病してくれたゆかりさんへの恩義を果たすために見舞いの品を送り、ゆかりさんもそれに対して誠意ある返事をする。ほんと、この2つの家族の関係性は素敵です。 そして、歯の生え替わりやら縄跳び大会やらのイベントを経て、大吉はりんが確実に成長していることを感じると共に、些細な出来事で右往左往する自分の生活に多少の疑問を覚える。こんなに小さなことで大騒ぎしていては、自分の時間なんかあったもんじゃない。この先の人生、これでずっとやっていけるのだろうか、と。奇しくも実家に帰ると大吉の妹さんも結婚が決まり、子供が出来た後の自分の人生について不安を抱えていた。結婚すること、子供と共に生きること。それがはたして、良い人生となるのかどうか。 だが、そんな疑問に対するパパとも軍団やゆかりさんの答えは至って簡単なもの。「それが普通のことだから」。そう、世の中には父親と母親、子供を持つ人間で溢れているのだ。たとえ大吉のように奇妙な縁に結ばれていたとしても、子供と一緒の生活、子供と成長する生活は、人類普遍の「普通の風景」。損得だとか、苦楽で判断するようなものじゃない。いつの間にかそこにあり、善し悪しで判断するのではなく、自然に受け入れていくもの。だからこそ、そこにあることが平穏に繋がる。 大吉は、多分それを知っていた。知っていた上で、一度は確認する必要があることだったのだ。当たり前のことは、当たり前だと認識することで幸せにもなろう。これからの大吉とりんは、ずっとこの「当たり前」を受け入れて、幸せに続いて行くに違いない。まさに、ハッピーエンドである。もう、何も言うことはないです。 今回も素敵ポイントは多数あったのですが、なんと言ってもクライマックスで大吉が振り返った回想がじんと来ましたね。わずか1年足らずのりんとの共同生活の中でも、いっぱいの想い出が詰まっていることがほんのわずかな時間でぎゅっと表されていて、こちらまで想い出を共有しているみたいでした。他にも、少しずつ大きくなっていくりんの勇姿が素敵。後ろとびでトップの回数って、りんちゃんは将来は運動系の部活にでも進むんでしょうかね。歯が抜けちゃったあとの間抜けな表情まで可愛いんだから、きっと将来も絶世の美人さんだしね。 あと、やっぱりゆかりさんね。優しそうなゆかりさんが不安げな女の子に向かって「さやかちゃんは……」って言ってるのが面白くて仕方なかったです。中の人的に。
9月16日 ドラフト模様(NPH,MBS,SOM)
ピック順 【Metallica】→【Mei】→【Serra】→【Alessi】→【Thraxi】→【Sangriter】 更新まで随分時間がかかってしまいました、僕です。今回のドラフトは、すったもんだありましたが、この環境では最後のドラフト、ということになりました。最後のお祝いをする、さぞかし盛大なゲームになるかと思われたが……結果は散々。なんかもう、みんなパック弱い、レアひどい、色かぶる、迷走する。混沌の地であるミラディンのラストを締めくくるにふさわしい、泥仕合となりました。まぁ、こういう不自由な状態でもどれだけ戦えるか、っていうので真のタフネスが問われるわけですよ。皆さん、騒がしい環境の中、お疲れ様でした。 以下事務連絡ですが、今週はドラフトがありません。そして、次週、9月30日のイベントは、予告通りに「ミラディン世界オールカードロチェスター」を行いたいと思います。当日場所がキープ出来るか分からないですが、ある程度省スペースでも出来る方策は用意しておきます。確認のために、以下に要項を掲載しておきます。 ・「ミラディンの傷跡」から「新たなるファイレクシア」までの全てのカードが1枚ずつのプールからのロチェスター戦。コモン・アンコモンも1枚ずつである(カード総数は、基本土地を抜いた539枚)。ピックは、各プレイヤーに48枚のカードが行き渡るまで行われる(6人で一回り、12枚が1セットになるため)。つまり539枚中288枚をピックすることになる(6人戦の場合)。 ロチェスターについては、一応全員が経験済みのはずだけど、雰囲気がつかみたい人は、過去に公式ページでレポートされたものを参考にして下さい。「ミラディンの傷跡」だけのオールカードロチェスターの模様はレポート記事になっています(こないだ1引きが「ワームとぐろエンジン」だったと言いましたが、大嘘でした。ごめんなさい)。まぁ、ワンセットだけだし、アンコ・コモンが2枚ある状態なので、参考程度にね。
まるで最終回、第25話。あらゆるものが煮詰まって、それが物語を完成へと導いていく。ドラマすなぁ。
「今までの喜翠荘」と「これからの喜翠荘」の戦いは、ぼんぼり祭り本番を前にして既に臨界状態。あまりの忙しさに次第に当初の目的を忘れてしまう従業員一同は、精神的に追い詰められ、普段の自分たちを見失ってしまう。喜翠荘が好きで、喜翠荘を失いたくない一心で身を削っているというのに、そのために戦わねばならない相手は、四十万スイではなく「喜翠荘」そのものであると錯覚してしまう。変革をもたらして旧体制を打開することが、そのまま新体勢の存在であると錯覚してしまう。壊した後には、新たに作り上げる必要があるというのに。 そんな奇妙なズレに真っ先に気づいたのは、何よりも精神性を重んじ、考えるよりも感情で行動することを優先させる女、緒花だった。ぼんぼり祭りのサポートに回されたおかげでカリカリした他の面々とはメンタル面で差が生じたというのもあるだろうが、彼女にとっての「喜翠荘」は最も理想化され、「輝く場所」になっていたため、次第にその輝きが失われ、変容していくことについては、冷静な反応をすることが出来たのだろう。「みんな頑張っているけれど、ボンボってはいない」。全く意味が分からないはずのこの言葉も、彼女が自分の周囲の状況を精一杯分析して発した言葉なのだ。やっぱりよく分からないけれど、彼女の言いたいことはどこか伝わってくるようである。 これまでのサービスを変え、何とか与えられたミッションをこなしていく従業員たち。しかし、無理の生じたままでは、次第に現実との差は広がっていくばかり。巴の怪我をきっかけにして、必死で積み上げた縁の牙城は、脆くも崩れ去った。彼の作り上げようとしていた「新しい喜翠荘」は、次郎丸の言葉を借りれば「幻の城」でしかなかったのだ。先代が何十年もかけて積み上げてきた歴史の集大成を、ほんの数ヶ月で塗り替え、越えていくことなど、並大抵のことではない。ことここに至って、ようやく全員が、何かおかしくなっていたことに気づく。 そんな窮状を救ったのは、やはり女将であった。彼女も彼女なりに、自分の目指した「喜翠荘の終わり」がどうやら正しい姿ではなかったことを、どこかで理解していた。緒花が訴え、菜子が嘆き、彼女は喜翠荘が自分一人のものでないことに気づいた。「四十万スイの喜翠荘」を、次なる姿に生まれ変わらせるために、彼女は別な角度からの助け船を出すことにしたのだ。それが、中居としての四十万スイ。これにより、「これまでの喜翠荘」は「これからの喜翠荘」の中に溶け、新たな姿を現すことになる。 はかったようなタイミングで現れた皐月も加え、親子三代、夢のコラボレーションが実現。四十万スイ、松前皐月、松前緒花の3人は、この時に初めて、同じ方向を向いていた。「喜翠荘を守る」「喜翠荘をぶっ壊す」。2つの全く異なるベクトルが、奇妙にねじ曲がりながら、ようやく1つになった。そこには新たに「四十万」崇子も加わり、喜翠荘は、新たなステージに踏み出すことになる。 もう、ラストの親子3代が中居姿で並んで歩くシーンだけでも感無量。これまで半年の間見守り続けてきたこの喜翠荘の風景の中で、この情景が見られるとは思ってもみなかった。すれ違いはあるし、主義主張には曲げられないものもある。それでも、家族の絆は固く、喜翠荘を巡っての仲間達の結束は揺るがない。夢を追い続けてぼんぼった女達の、何と凛々しく美しいことか。素晴らしい最終回でした。 あ、終わってない? まだある? そういや孝ちゃんほったらかしだったからな。次週は「女将のお部屋にお泊まり孝ちゃん」が見られるのか?! 気づけばこの作品も25回の放送を続けてるんですよねぇ。今回のエピソードだけでも、例えば緒花の「輝きたい」という発言や、中居仕事をする一連のカットなんかは、これまでのシーンを思い起こさせるために意図的に演出を重ねてきている。他にも、緒花がデコピンされるシーンでは、緒花が喜翠荘に来て真っ先に浴びた洗礼が女将のビンタだったことを思い出させてくれて、時の流れを感じさせる。こういうシンプルな「成長物語」って、やっぱりグッとくるものがあるんですよ。 さて、泣いても笑っても次週でラスト。孝ちゃんは幸せになれるのか? そして、老舗旅館の食卓にホビロンが並ぶ日は来るのか? |
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プロフィール
HN:
Thraxi
性別:
男性
趣味:
声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧
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