最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
妹ちゃん、良い子だった、最終話。流石は永遠のアイドル(中の人)、流石は永遠の17歳!(中の人) まさかの分割2クールだったためにまだまだ終わるというわけではないが、一応はこれが1つ目の区切り。しいて名付けるなら「デビューまで編」ってことになるんだろうか。クリスマスライブが成功したのか、さんざんな結果に終わったのかは定かじゃないけど、そこを語るのは野暮というものでしょう。生馬の友達が「やっぱいかねぇわ」で、颯の家族も来る気配はなく、キラも「自分で客をなんとかする」みたいなことを言うなど、全員が「会場に客入らない」フラグを乱立させていたけど、多分そんなの関係無いよね。既に客入りがどうこういう次元はクリアしているのだから。一体どんなライブになったかは、もし機会があれば2クール目で語られることもあるのでしょう。 ひょっとしたら2クール目あたまに「1話まるまるクリスマスライブ」まであるかもしれない。というのも、今回放送前には「最終話はまるまるクリスマスライブの可能性すらあるで」と思っていたから。結局「ライブ前まで」という最終回になったわけだが、小ハリ全体をまとめて描くよりも、こうして「前日まで」をしっかりやることで、カウントダウンの気持ちの高まりと、個々の成長がそれぞれに見えるのは良い収め方だったのかもしれない。サプライズイベントのシャチョウ誕生日もあったことだし。さて、奴は今一体いくつなのか……いや、てっしーの年齢の方が気になるけども。シャチョウはまだ外見からして年齢不詳だが、てっしーはどう見ても30行くか行かないかのレベルだからな……あれで40過ぎてたら確実に波紋の修行が必要。 さておき、そんな「クライマックス前」に確認できる各々の成長物語。何故か相変わらず春だけは扱いが悪いのは、おそらく彼の回りには小ハリメンバー以外にメインで絡んできたキャラクターがいないためだ。おかげで、春だけは「シャチョウのお誕生会の買い出しメンバー」程度の扱いである。で、その他の面子はというと、まず生馬は「ヤンキー、遊びに来る」。生馬は本当にそういう人間だったんだなぁ、というのを改めて確認できるワンシーン。「ヤンキーの友情って……」と言われていた通り、やっぱり1人だけ異次元の生物であった。まー、本人は楽しそうで何よりであるが、「こないだまでヤンキーだった奴が1人でメイクまで始めやがった」とか考えると、なるほどちょっと面白い。 キラのテーマは「親との関係・自分の夢」。短いシーンだったが、お仕着せだった親の夢である「子役あがり」から、きっちり自分の夢である「アイドル」へとたどり着いたことを伺わせる。まぁ、その辺のあれこれは既に4話の時点で大体片付いてはいたのだけれど、キラは個別回が早かったし、その後は基本的にずっと優等生のままで来ていたので、そのあたりのバックグラウンドを改めて確認することになった。 トミーのテーマは「憧れって何?・神様の存在」。ひたすら無心に、あの頃の少年ハリウッドの背中を追ってここまで頑張ってきたトミー。その純真さは変わることはなく、いつものように全力でライブを迎えるだけだが、気付けばその背中を追って、次のアイドルもトミーの後ろについてきているのかもしれない。「受け継がれるもの」というトミーの持つテーマ性が非常に分かりやすい一幕。 そして本作の主人公(?)、颯については、「ちょっとした自覚・家族との対話」のお話。今までなんだか煙たい存在にしか見えていなかった家族だったが、いつもと変わらぬテンションの父親が妙に近しく感じられたし、今まで部屋に乱入してくると「うるさい!」しか言わなかったので完全に「敵キャラ」だった妹に対し、今回は積極的に融和を持ちかけ、結果的には妹ちゃんも大人しくアニキの我が儘を聞いてあげているという。普通に考えたら、突然自分の兄貴があんなん始めたら妹さんは発狂するだろうに、最終的には適切なアドバイスまでくれちゃって、本当によく出来た妹さん。将来的にはマネージャーにするといいと思うよ。どこかの「永遠の17歳」も実姉がマネージャーやってるはずだし。 こうして、5人が5人ごとに「本番」を迎えて、いよいよ物語はクライマックスへ。……否、これが始まりなのである。さて、2クール目って何が始まるんですかね……。 PR 丸く収まってるのかよ、第12話。前回のギスギスムードのままでライブに行くとは思っちゃいなかったけど、いくら何でも生馬の溶け込み方があっさりしすぎじゃないのか。それだけミミズク偉いってことかね。 「1話まるまる○○」シリーズとはちょっと違うが、今回もほぼ「1話まるまるステージの練習」。アイドルアニメならばあってもおかしくないシチュエーションなのかもしれないが、「30分ず〜〜〜っと薄暗いステージの上で振り付けの練習してる野郎たちを眺めるだけ」っていうのは今まで見たことがないかなり異質な雰囲気である。そりゃそうだよな、普通「アイドルアニメ」っつっても、画面に変化を出さなきゃいけないって考えたら、まるまるステージ練習だけで終わらせるはずがない。こんな地味な画面が1話ぶっ続けなんて、普通は耐えられないと思うからだ。でも、それをやってしまうのがこの作品なのである。途中で楽屋に引っ込んだり、エンディングテーマに合わせてこれまでの回想が流れたりはしたが、基本的にはオンリーステージである。この「ものすごく狭い世界の中で若者があれこれ悩んでいる」感は凄まじい。メンバーとてっしーを「ステージの中の世界」とすると、「外」にいたのはシャチョウ(とミミズク)のみ。つまり、この世界を俯瞰視点で見られるのはこの世界ではシャチョウのみなのである。何とも象徴的なシチュエーションだ。 結局、前回のもめ事についても「アイドル観」の統一を図れば自然に収束するものであったようだ。各々が自分の夢を語り、信念を見据えて練習に取り組んでいたが、「夢ってなに?」という部分が決定的にバラバラな5人。そんな連中が簡単にまとまるわけないのだが、今回は「夢ってなに?」ではなく、もっともっと根源的な部分。「結局アイドルってなに?」である。答えの模範的な部分はシャチョウやてっしーの口から語られたものであるが、今回もっとも主張が強かったのはようやく前に出てきた主人公、颯であった。彼の訴える「頑張ってればいいじゃない、アイドルだもの」理論はあまりに安易で、甘っちょろい戯れ言でしかない。これまでのイデオロギーを考えれば、キラあたりとは決定的に決裂する考え方である。しかし、どうやら今回の議論は実際のハードトレーニングの後だったこともあり、もう一歩進んだところに論点がある。「頑張っている姿をお客に見せることこそが、最大のファンサービス、ファンの望むものである」と。 なるほど、そう言われれば一応筋は通っている。続いて生馬も「息を合わせるのはメンバーではなく、客の視線である」という案を出して議論を引き出した。そう、結局、誰が頑張るでもなく、何が完成形でもなく、「偶像(アイドル)とは、お客に永遠に終わらない物語を見せるだけのものである」というシャチョウの箴言の通り、あくまでも目指すべきは「ファンの見たい物」なのである。それならば、「完璧な振り付け」でなくとも良いという理論は成り立つ。颯が散々悩んでたどり着いた答えは、そういうものだったのではないだろうか。まー、一体どのあたりからそういう結論にたどり着いたのかはいまいち分からなかったが……単に「いくら何でも生馬が下手下手言われすぎじゃないかな」っていうんで同情したくなっただけかもしれん。同じサボり仲間としてね。一応チーム内でのユニット編成でも生馬と颯は2人組みたいだしなぁ。 まぁ、すったもんだはありながらも、今回の最後の台詞は「揃った……」である。ついに揃った少年ハリウッド。次回はいよいよクリスマスライブ? ……次回予告に初詣での様子しかなかったんですがね。何が起こるか、何も起こらないか。 「年齢不詳」「ピアノ弾ける」「歌える」「アイドル哲学に精通している」「運動神経も抜群」←New! てっしー伝説が更に増えた第11話。そうか、ダンスレッスンも全部てっしーでまかなってるんだもんな。マジでハリウッド東京に宿りし精霊とか、そういう存在なんじゃなかろうか。 ラスト前のギスギス展開といったところだろうか。これまでやたら上手くチームとして盛り上がっていた小ハリだったが、ここにきて突然の空中分解。しかしまぁ、その理由も何となく分からないではない。問題の中心はクリスマスに控えたファーストライブである。既に舞台だったら1回こなしているし、テレビ出演は何度もこなしているのだから、今更ファーストライブだから何を緊張するものか、という気もするのだが、どうやらこの場合は単純な緊張感というだけではないらしい。中途半端に知名度が上がったことで、客から返ってくる声が一体どんなものになるのか、想像出来なくなっているというのが1つ。テレビ慣れしていっても、直にお客の目に晒される機会はこれで2度目。そして、最初の舞台は「どうせ誰も知らないだろ」という駄目もとの精神でやっていた部分もあり、たとえ客が入らずとも、とにかく自分たちの役割を言われた通りにこなすだけで精一杯だった。しかし、今回は「ある程度客に来て欲しい」という欲が出てしまっている上に、なまじレベルが上がった分、下手な真似が出来なくなっている。定石を覚え始めたあたりが一番怖いと言われる由縁である。 そして、こうした特別なマリッジブルーならぬ「ライブブルー」の中で、小ハリの持ち味でもある、「5人がバラバラ」というファクターが大きく働き始める。まとまったように見えていて、全員が見ている先は実は全然違う5人。その彼らが1つの目的意識でライブを成功させるためにはまだまだ課題が山積みなのだ。それは技術的な面でもそうだろうし、精神的なものも大きいだろう。 「冷静な優等生」側に位置しているのは、トミー、春、そしてキラの3人。この中で一番今回の騒動の影響が薄いのはトミーだろうか。常に天真爛漫、真っ直ぐな目的意識だけで突き進んできたある意味一番「アニメの中のアイドルっぽい」トミーであるが、そんな彼ですら、家族の期待を背負うと多少なりともブルーになってしまう。やはり、この時間は特別なのだ。ブルーというのはちょっと違うかもしれないが、相変わらずの唯我独尊のために軋轢が生じたのはキラ。彼の冷静な「芸能人魂」は、引き続き与えられた任務を黙々とこなすことだけに費やされる。客が多かろうが少なかろうが、今の彼には大きな問題ではないし、彼が望むのは、自分が立つ舞台の質をとにかく上げること。それが、彼の華々しい芸能人生の門出を飾る上で欠かせないものだからだ。そのために、まだ甘っちょろい素人根性の抜けないメンバーにはどうしても厳しくなってしまう。 同様の傾向は春にも見られる。元々歌が専門だった春だが、前々回目が覚めた通りに、とにかく全力でアイドルのいろはをたたき込むところからスタートすることになった。ダンスに関してはまだまだ至らない部分があると内省しているために、誰に言われずともストイックに自主練を続ける。それ以外に、彼の不安を取り払う術が無いことを知っているからだ。そのため、自分と違う価値観でライブへの不安を漏らす生馬に対しては真っ直ぐに反感を抱いてしまう。「しゃべっている暇があったら練習しろ」と思ってしまう。また、彼の目的のためには、キラのように「客なんてどうでもいい」と割り切るわけにもいかない。客がいなければ、見てくれる人がいなければ、自分の頑張りは報われないと思ってしまう。だからこそ、客がいないというてっしーたちの話を立ち聞きしてしまったために「気分が乗らない」のである。 客の反応については、颯も非常に気にしている。それは、「何人の客が入るか」ではなく、「少年ハリウッドは本当に求められているのか」というキツい疑問から生まれてしまった悩みだ。確かに、何年も前に持てはやされたアイドルグループが、同じ名前でまったく違うメンバーを送り出してきたら、当時のファンは反感も持つだろう。そんな現状を目の当たりにしてしまい、元々目的意識の薄かった颯は怖じ気づいてしまう。「客のためを思って」というアイドルの大義名分が成立しなくなってしまう。技術的にも拙い部分の残る颯にとって、「頑張っても見返りのない、反感を生みかねない」ライブは、既に恐怖の対象になってしまっている。 そして、そんな閉塞感を独自のアプローチから打開しようとしているアホこそが、リーダーの生馬である。キラや春に言わせれば「一番下手」なリーダー。駄目なんだったら練習すればいいのだが、どうも生馬はヤンキーあがりの根性論が身体に染みついており、リアリストの2人とは意見が合わない。「頑張って徹夜気分で練習すればきっと上手くいくし盛り上がるんじゃね?」なんてのは根性論の非常に馬鹿馬鹿しい考え方だし、甘っちょろい現状認識なのは間違いないのだが、てっしーの言うような「パッション」に関しては、生馬のテンションが一番良いものとも言える。「根性で上手くいく」という安易な解決はこの作品には似合わないので、生馬の「下手さ」はおそらく今後も影響を及ぼすだろうが、彼の妙な方向性の行動力は、最終的にチームをまとめる原動力になり得るのかもしれない。……それにしても、ひどいビラだったけども。 5者5様、今は繋がらない少年ハリウッドのスピリッツであるが、はたして、どういう形でライブが結実することになるのか。ひとまずの締めくくり、楽しみに待ちたい。 俺たちが想像もしないことを平気でやってのける! そこにおぞけるちょっとひくゥ! 第10話。すげぇな。もう、想像の斜め上の斜め上だよ。もう真上だよ。 5話のエアボーイズに続く、「作中ずっと○○」シリーズ第2弾。今回は一体どんな顛末でこの番組に出ることになったのかさっぱり分からないが、少ハリが歌番組に出演。そんなときめきなミュージックが30分まるまる放送されるという奇跡が起こってしまった。もう、あらゆる意味でチャレンジである。多分番組を見ている間の視聴者の心理の移り変わりはおよそみな同じようなものだったのではないだろうか。冒頭、CMあけでいきなりのミス・モノクローム。もう、この時点で脳の処理能力を超える「???」が乱舞する。「あれ? おれチャンネル間違えたかな? 違う番組に差し替え?」とマジで思う(オープニングあけなのに)。しかし、そこから謎のアイドルが紹介され、やっと少年ハリウッドの文字列が出てくる。そこから演歌歌手、大崎さんと出演者が紹介され、ようやくここで「あぁ、エアボーイズの時と同じように作中作で歌番組やってるんだ!」と気付く。「なるほど、少ハリもちゃんと活動を続けていたおかげで、春の念願だった歌番組に出られるようになったわけだね、これはちゃんとしたお話になるんだろう」と思っているのもつかの間、さっそく歌い始めるミス・モノクローム。そして、この歌が一切の妥協無しの最初から最後まで歌いきりである。「え? ダイジェストじゃないの?」と。しゃきしゃき踊る謎ダンスを見ながら「ま、まぁ、多分時間をたっぷりかけたギャグだよな。なんてったってミスモノクロームだしな。この後で少ハリが出てくるんだ」と納得するも、続くよく分からないアイドル、高杉ちえりもそのままステージに上がり、これもフルコーラスを熱唱。もう、この時点で「やっぱりこの作品のスタッフは鬼や」という思いが確信に変わる。何しろ、番組冒頭では5組のアーティストが紹介されていたのだ。もう、これ明らかに全部やる流れやないけ。 しばしのトークパートを挟んで、ようやく少ハリのライブ。曲は即興で新しいのが用意出来なかったということで先代のものであるが、流石にてっしーの指導の下でちゃんと練習していただけあって、ダンスにしろ歌にしろ、一応テレビにあげられるくらいのものになっているのは安心。エアボーイズのときみたいに誰かが失敗するくだりがあるかと思ったが、別にそんなこともなく無難に終わらせることが出来た。そして残るのは謎の演歌歌手と、大崎大先輩のソロライブ。ここまで全てを放送しきって、何事も無かったかのように番組は終わりを告げるのである。 エアボーイズの時にも確認したが、この作中作の演出は、「視聴者があたかも少ハリがリアルに存在している世界で少ハリを応援している」イメージを提供するためのデザインである。今回は少ハリが出るってことで歌番組にチャンネルを合わせ、何となく30分全部見ちゃったファン目線だ。それを実現するために、必要があることもないことも、全てをひとまとめにして1本のエピソードとして放り投げてくる。そのあまりの妥協の無さには、戦慄するしかない。普通、本当に音楽番組を見るファンだって、お目当てのアーティストが出てくるところ以外は飛ばすだろうに……我々「少ハリ」視聴者はそれを許されない。何しろ、歌番組雰囲気全てを合わせてこの世界なのだ。全部見なければならないのだ。ちょっと古くさいセットデザインとか、大物歌手を呼んでるくせにアーティスト数が少なくてすぐ終わっちゃう番組構成とか、端々でチープなところに、なんだか緊張しながらも挑んでいく少ハリ。この「無駄にしかみえないリアル感」こそが、少ハリの存在をグッと我々の側に押し出すための舞台設定として機能しているのである。まぁ、だからといって見ていて楽しいかと言われたら多分違うと思うのだが……。 ミス・モノクロームは完全にネタだろうが、それ以外のところには色々と細かい工夫というか、よく分からないこだわりがちりばめられている。結局最後まで謎だった高杉ちえりというよく分からないアイドル。キャストに表示されている「杉浦弥代子」という名前も含めて謎に包まれているのだが、どうやらこれ、原作者の別作品からのスピンオフ(?)らしい。分かるわけないやんけ。そして演歌歌手の歌っていた「三島限界線」。これ、颯が友達といったカラオケで歌ってた曲なんだよね。謎が謎を呼ぶ5組のアーティストのセッティングであるが、こうして並べて見ると、何となく「少ハリワールド」を形作るピースとしては馴染んでいるものなのである。大崎さんは歌うまいしなぁ。 またしてもアニメとして許されるギリギリのところを狙ってきた少ハリ。この貪欲さは一体どこからくるものなのか。後はもう、ここから先どうなってもおどろかねえぞ。もう何も怖くない。 びっくりするくらい普通の話だった、第9話。いや、普通が悪いってわけじゃないんだけどさ、少ハリってここまで少なからず異物感で楽しんでいた部分があるので、今回の春の「普通の」悩み方は、なんだか拍子抜けである。いや、お当番回があってよかったとは思うけども。 いつの間にかテレビデビューまで出来てしまった少年ハリウッド。これまで「なんか怪しいスカウトのおっさんに声かけられて集まっただけの連中」→「でもなんとかモチベーションを見いだして色々練習を始める」→「小さな舞台だけど、とりあえず舞台演劇っぽいものには成功する」→「次は歌のレッスンしてるけど、別にこの後ライブの予定とか無いよ」と、順調に「先行きの全く見えないアイドル見習い」をやっていたのだが、今回は何故か、一足飛びに「テレビ出演」なのである。こないだのミュージカルご乱心騒動の時に週刊誌には載っていたようなのだが、今回のテレビ出演オファーはそれとも全く関係無く、単に「場末の劇場でアイドルまがいのことをしてる変な奴らがいる」というので、ギャラの安さだけを見込まれて声がかかったとのこと。うーむ、シャチョウは売り込みとかオーディションの斡旋とか、そういう業務は何一つしてないんだろうか……。 でもとにかくテレビなんだ。どういう形態なのかは分からない。「WUG」や「ろこどる」の例を取ればまずは地方のケーブルテレビとかそういうローカルネットなんだろうが、最初に撮っていた謎のランキング番組がどういうカテゴリなのかは分からない。ただ、その後少しずつ発展していく仕事の多さ(と変さ)を鑑みるに、どうも全国放送規模のテレビでもとんとん拍子に声がかかったんじゃないかという気がする。これまでの「芽が出ないなりに頑張っている」少ハリのイメージとは乖離した、一足飛びの活躍なのである。多分、その「間が抜けてる感じ」が今回の「良く見るアイドルアニメっぽさ」に繋がったんだろうな。 「テレビのバラエティ出演」ってのがどういう位置づけなのかは個人の目標にも依るのでひとくくりでは決められないが、撮影の様子を見てると、ほとんどのメンバーは割と満足してやっているようだった。まぁ、元々キラはテレビに返り咲くのが目標だし、トミーは何やっても楽しそうだし。颯や生馬は結局この5人で何かやれてれば、それなりに満足出来てしまうのだ。そして、テレビ出演が恒常的に繋がるなんて事態は本当の「アイドル」の第一歩として充分過ぎるくらいなので、普通はここで満足出来るものである。 しかし、今回の主人公である春は違う。「こんなことが俺のやりたかったことじゃない」と反抗し、まさかの「他の事務所のオーディションチャレンジ」である。まぁ、確かにこれまでずっと一貫して「歌いたい」と言ってきたのは春だけだし、立て続けのバラエティ仕事に歌が全然関係無いので将来の自分の目標からかけ離れていく不安は分からないではないのだが、でもそれだったらこれまでのシャチョウの扱いだって充分アウトだった気がするんだ。少ハリとして活動を続けて、歌を歌えたチャンスなんて一切無い。一応練習してるシーンはあったけど、舞台の上でも歌ってないしなぁ。春が疑問を覚えるのなら、もっと早い段階で「少年ハリウッド」という存在そのものに疑問を呈するべきだった。他のメンバーが入れ替わり立ち替わりそうしたきたのだから。 まぁ、何が気にくわないかは人それぞれってことなのだろう。春はいよいよ少ハリのスタンスに疑問を持ち、「もっと綺麗な音楽の世界があるはず」と思い立って勇み足を出してしまうわけだが、そこだってもう少し頑張れたところなんだよね。あの嫌らしい面接の話なんて、たまたまあの事務所が「そういう」ところだっただけで、もっと他のところに駆け込んだりしても良かったはず。結局、最後に大先輩の大咲に言われた正論以外に答えはない。「本当に歌いたい人は路上だろうが何だろうが歌ってるはずだ」と。彼の「ミュージシャン欲求」の幻影が、ここで打ち砕かれるのである。 結果的に、彼がやりたいことが何なのかがはっきり分かったわけではない。これは颯も生馬も一緒なので、少ハリにはお約束の状態。そして、割とリアルな状態。でも、「ミュージシャン欲求」という面倒な病気が治って、これからも少ハリとして活動出来るようになりました、めでたしめでたし。……うん、やっぱり普通だ。「先輩からのお言葉」も今回は問答無用の正論だったから「普通のドラマ」的に見えたんだろうなぁ。いや、これでいいんだけども、なんか少ハリの空気からずれてる気がしてなぁ。 フクロウ・オン・フクロウ、第8話。このアニメって颯の妹以外にほとんど女性キャラが出ないけど、ひょっとして今作のヒロインはフクロウなのか。 合宿エピソードによる、徹底した青春の全力投球。捻りも衒いも何も無い、素材のままの有り余った青春をガンガンぶつけられるので、視聴者側としてはたまったものではない。まぁねぇ、こういうお外で遊ぶイベントは無闇にテンション上がるってのは分かるんだよね。それがたとえ野郎オンリーだったとしても。前回のエピソードで5人とも吹っ切れてしまった部分があるので、トミーの執拗なビデオ攻撃に対しても、割とみんなノリノリで答えられるようになっていた。その様子は、残されていた初代少年ハリウッドの映像イメージと完全に重なり合い、ようやくこの5人もアイドルとしてのスタートラインに並び立てるようになったのかなぁ、という感じ。あれだけ悩ましげだった颯も、今回はほとんど難しい顔をせずに楽しそうにしてたのはちょっと安心したよ。 今回は5人が平等に「この夏、この思い出」を噛みしめながらも明日へ向かって決意を新たにするというシチュエーションが共通しており、特に誰かのお当番回ということもないので個々に掘りさげる要素はないのだが、その分、5人を統制するてっしーの存在感が強烈だった。かつてのビデオから聞こえてくる声と全く同じリアクションを示すてっしー。もう、確実に妖怪である。しかし、マネージャーとして、アイドルの監督官として、ここまで有能なキャラクターというのはどこのアイドルアニメでも見たことがない。ホワイトボードを前にしての「アイドルの心得」講座でのてっしーの圧倒的正論。彼はどこまでもアイドルというものを理解しており、彼の指導に従っていれば少なくとも精神面は万全だ。残念ながら同様に指導を受けていた初代がそこまで売れ続けなかったことを考えるとマネジメントの能力は万全とは言えないのかもしれないが、現代のてっしーは初代での反省を活かすことが出来る「てっしーバージョン2」である。今後も蕩々と語る正論に期待したい。 彼のすごさはシャチョウとの関係性にも表れており、普段は少年たちの前で偉そうにしているシャチョウも、かつて世話になったてっしーの前だと、何だか少年のような印象になる。2人の間にある絶対的な信頼感が確認できる良いシーンであった。 しかし、今回のエンディングは春のソロ歌唱だったのだが、今回って別に春のお当番回ではなかったんだよね。……あれ? 1人個別回が無いってことか? なんか可哀想やな。 なにこれ怖い、第7話。この期に及んで攻めの姿勢を崩さない作劇には頭が下がるが、今作一番の狂気に、さしものわしも躊躇するぞ。 稀にアニメには「ミュージカル回」ってのが存在することがある。何故か作中のドラマとは関係無く(もしくは物語の要請上)、キャラが全員ミュージカル的に歌い始めてしまうエピソードである。直近では「スペースダンディ」がミュージカルっつうか謎の歌劇対決をやっていたが、その他にも伝説となった「紅」の6話「あなたの頭上に光が輝くでしょう」なんかは実に印象深い。トンデモ演出のイメージが先行するが、ミュージカル回は絵と音と動きを伴うアニメーションという媒体ではなかなか面白い効果を生み出すものである。「練馬大根ブラザーズ」なんてのもあったなぁ。 で、今回は颯の「音痴疑惑」に端を発する、突発的ミュージカル回。……ではないな。これはミュージカル的な演出を目的としたお話ではない。あくまで、「ちょっとトチ狂っちゃった少ハリの面々が、勝手に台詞を全部歌にしようとした回」である。その証拠に、ミュージカル展開だからといって決してカット割りに特別な手心は加えていない。普通のミュージカル回であるなら、演出方向は多少なりとも舞台演出を意識した特殊なものになりがちであるが、今回の場合、あまりそういう特別感は無く、どちらかというと「いきなり仲間内で歌い始めちゃった若い衆の痛々しさ」がストレートに出てくるような平坦な演出になっている。音響もそれを後押しし、クライマックスに至るまで、颯たちには徹頭徹尾アカペラを要求し、絶対にBGMなんて入れてくれない。入ってても歌と合わせる気は微塵もない。そりゃそうだ。颯たちはあくまで日中の町中で勝手に歌っているわけで、そこには伴奏なんてついていないのだから。 こうした「恥ずかしく歌っちゃう」展開というのは、まさにこの「少年ハリウッド」の恥ずかしさそのものである。颯だけでなく他の面々も多少尻込みしていたが、それでも舞台を1回経験した強みだろうか、結局5人とも町中での顔から火が出るような自己紹介ソングをクリアするまでにテンションを上げていった。1話目で「全く駄目」と言われていたあのくだりを、なんと自主的にクリア出来るようになっていたのである。でも、それは完全な役者魂、アイドル根性などではなく、あくまでも「若者のウェーイ」のノリの延長線上。元々は「颯の歌は恥ずかしがってるから駄目なんだよ」という荒療治が目的だったはずなのに、いつの間にやらみんなして小っ恥ずかしさが楽しくなっちゃったが故の結末である。どこシーンを切り取っても本当に恥ずかしくて見ていられないのだが、この救いようの無い恥ずかしさを切り出すことこそが、最初から一貫して目指していた今作のコンセプト。そういう意味では、今回のどうしようもない恥ずかしさは百点満点といえる。 まー、多少キャラのかっとび方がこれまでの性格とギャップがあるような気もするのだが、こいつらアホなのは間違いないので、テンションが上がって5人が固まってればこういう展開もあるのかもしれない。「みんなで颯をおちょくろうぜ」っていうところからスタートしてるのも何となくそれっぽい。もう、「歌とはなんぞや」っていうのが分からなくなる、実に哲学的な(??)お話でございました。しかし、こうして聞いてると、実際に歌のスキルが足りてないのって颯じゃなくてトミーの方だよな……。 その他にも、冒頭でぶしつけにカラオケの画面を流したり(しかも2回)、突き放したような「寒々しいミュージカル」演出以外にもこの世界は不可思議な画面に充ち満ちている。この異物感は癖になったらあかんな。 子役の苦悩を訴えるキラに、シャチョウの中の人は一体何を思っただろうか、第6話。本当に天才って言われてたんやで。まぁ、あの人の場合は居場所に悩む必要なんて全くないと思うけど。彼もものすげぇ苦労があって今の地位を築いているのだろうなぁ(男性声優なんて大体そうだろうけど)。 順番にお当番回が回ってきていたが、前回のエアボーイズでちょっとインターバルを置き、今回改めて生馬回である。ちゃんと前回1人だけとちってしまったことには意味があったわけだね。彼の性格からすると、たまたま舞台上で1回とちったことがそこまで気になっているというわけではないだろう。そりゃ唯一人致命的なミスをしてしまったのだから申し訳なさとか悔しさはあるのだろうが、それくらいで落ち込んで人生に悩むっていう性格でもない。ただ、その失敗がわずかな違和感となり、それが彼の「居場所への不安」を喚起してしまうことになった。 「居場所」なんてのは随分曖昧で、便利な言葉である。それを決めるのが自分なのか他人なのかも分からないし、一度決めたらずっとそのままなのか、それとも時代とともに移りゆくものなのかも定かじゃない。しかし、「自分」が分からないという思春期特有の悩みの中で、「居場所」という言葉は生馬の不安ばかりを喚起するタームになってしまっていたようだ。「これは自分の望む生き方ではない」と粋がる青少年なんてのはたくさんいるだろうが、その「違う」という感情の持ち上がり方は人それぞれ。これまで否定に否定を重ねて生きてきた生馬にとって、今回の「違う」は割と自然に出てきてしまったものなのだろう。普通に考えれば、「俺の生き方はアイドル業なんだ」なんて何の疑念もなく信じ込める人間なんているはずもないし、多分「アイドルになるべき人間」なんてのは世の中にほとんどいないと思うのだが、「自分は駄目なんだ」と思って一歩退いてしまうのは、非常に楽な選択肢なのである。 生馬の判断については、別に浅慮だとは思わない。「アイドルに向いてる人間」がほとんどいないのだから、おそらく少年ハリウッドの面々だって、根本的に「アイドル向き」な人間などほとんどいない。今回正面からぶつかったキラのように「敷かれたレールを覚悟の上で渡っている」人間でもなければ、その道はいつでも閉ざされてしまうものであろう。レールを探して彷徨う生馬からすれば、その「覚悟」へ至ったキラの人生は、幸せなものに見えてしまうのは仕方ない。しかし、当然キラ本人はその物言いが泣くほどに悔しい。「お前のそれは努力じゃない。努力の一歩手前でばたばたしているだけだ」なんて、なかなか他人に言える言葉じゃないと思うが、それが言えてしまうくらいに、キラの人生は覚悟に満ちたものであったのだ。今更になって、生馬はその事実を突きつけられたのである。根は真面目な生馬のこと、そう言われてしまったら、改めて自分の人生のレールについて考えなければなるまい。 結局、「分からない」のはしょうがないのだ。未だにメンバーの中で覚悟が定まっているのはキラとトミーの2人くらいだろう。生馬も含めて、まだまだ若者は悩んで進んでいく。「それで良いのだ」というのが、1話からずっと続いているこの作品の主張なのではなかろうか。今回も、ただ一人で部屋にぽつんと佇む生馬を執拗に描いたシーンなど、不思議と印象に残る場面が多かった。あの通販の商品、一体どのくらい売れたんだろう……。 まさかの全編エアボーイズ、第5話。常に狙いが明確で感心させられる本作であるが、まさかここまで徹底してくるとは。この姿勢は恐ろしくすらあるな。 これまで数話かけて準備してきた「エアボーイズ」公演の本番。一体どんな内容なのか、気になるような、そうでもないような。正直「ぽっと出駆け出しアイドルの不慣れな演劇」なんて現実では全く魅力が無いわけだし、これまでの練習風景を見ても別におもんないやろな、という印象しかなかったのだが、作中では、なんとそのまま「おもんない」をダイレクトに引き出してきやがった。なるほど、確かに演劇ってこういう空気だよなぁ。脚本の突拍子の無さもすごく「それっぽい」気がする。「こんなんわざわざ金払って見に来る奴がいるのかよ」と思ったが、観客席を見ると、まず埋まってる座席数の時点でそこそこリアルだし、客の大半は若い男のアレコレが見られりゃそれでいいや、みたいなマダームがほとんどである。そうか、こういう客層に向けてサービスするのが少年ハリウッドなんだな……なんだかすごく納得した。 「つまらない演劇」「素人集団の頑張り」。そうしたものを見せるために、今作は相変わらず尖った演出方向を見せている。「全編作中劇」という時点でも割と挑戦的ではあるのだが、普通は「作中劇」というものは「作中劇らしく」見せるものである。昨今のアニメならばライブシーンを描くことが多いが、ほとんどのライブシーンはPVのように「なるべくいい絵」が見えるように、非常に凝った造りを見せることがほとんどだ。演劇シーンにしてもそれは同じであり、「演劇」だけでなく「演劇をしている空間すべて」が描かれるのが常。古いところだと「CCさくら」の桃矢たちの女装演劇なんかが思い出されるし、そこそこ最近では「スタードライバー」の「戦争前夜」なんかがある。アニメ全体の構成を考えれば、「作中で演劇をやっているシーン」を描くことに意味があるわけで、そこには「演劇の演劇」という二重構造を明確に示すことが最低条件であるわけだ。 しかし、今作の場合はそうした二重構造は極力排除されている。作中、わずかに観客席が映る場面もあるが、ほとんどのシーンにおいて、カメラは「観客目線」に固定されており、構図の変化はあってもズーム程度で、とにかく徹底的に「劇を見る視点」が維持される。また、「劇である」ことを示すために、普通はこうしたアニメ演出ではメタ視点が多く導入され、たとえば台詞をとちって焦るモノローグが入ったり、積極的に観客とのインタラクション(笑い声などを含む)を入れて二重構造が見えやすいように装飾するものだが、今回はそれがほとんど無い。唯一、「視野の外」が見えるのは生馬が台詞をトバして固まってしまうシーンだけなのだが、その時でさえ、モノローグなどは一切入らず、事実として「台詞が無い時間」が産みだされるに留まっている。そのため、視聴者目線でも、観客同様に劇中演出の一環のように見えていたのである(つまり、視聴者もキラのアドリブに救われたわけだ)。 こうして、我々はいち「観客」として彼らの演劇をほぼ全てフラットな目線から鑑賞できた。正直、それがすごいことだとは思わないし、得をしたり、良い物が見られたとは思わないのだが、少なくとも今回我々は「少年ハリウッドファン」と目線を同じくしたのである。彼らの成長の第一歩を、完全にファン目線から目撃したのである。登場直後に「気持ち悪いもの」として提供されたアイドル活動は、現在でも引き続き「気持ち悪いもの」であり続けているし、今回のチープな脚本の演劇を見ればまだまだ「青臭いもの」であるが、それでも1つずつ、「ファン目線」をすり込まれることで、いつしか我々は少年ハリウッドのファンとしての権利を与えられ、彼らの物語を「良い物」として眺めるための下地を着実に作り上げ(させられ)ているのかもしれない。 何とも不可思議な視聴感。実際、癖になってきてるのかもしれません。 |
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Thraxi
性別:
男性
趣味:
声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧 |