最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
はわ〜〜〜〜〜〜〜、観てきました。劇場アニメです。こいつもねぇ、最近劇場に行くと必ず予告は流れてたし、天下の山田尚子監督作品だってんだから期待に期待を重ねてたわけなんですが、なかなか観に行くタイミングが取れなくってやきもきしてたんですよ。いや、隙間時間でパパッと観に行きゃいいんだけど、やっぱり山田尚子作品だからある程度精神的に余裕がないと無理じゃないですか。こないだ油断して眠い頭で「モノノ怪」を観に行って結構な取りこぼしをしてしまったな、という後悔もあったので、心身ともに充実するタイミングで満を持しての視聴でした。そしたら……。 準備しててよかったぁ……これはね、全身全霊で持って受け止めてよかったと思ってます。生半な気持ちでチャレンジしちゃダメですね。ただ、過去に歴史に刻んだ劇場アニメ、例えば「スタァライト」みたいな心不全に繋がりそうな作品ともまた違って、こいつぁ評価が散りそうな作品だな、という直感もあるんですよ。「評価が分かれそう」じゃなくて「散りそう」。賛否両論で10点か1点かみたいな評価にならず、ほんとに受け手次第で1点から10点まで様々な印象が出てきそう。非常につかみどころのない作品なのは事実だと思う。そういう感覚を得つつも私の評価を折り返し前に書いておくと、多分8点はカタいと思ってます。文句なしで「傑作」に含めていいと思います。これは山田尚子贔屓の側面がゼロではないかもしれないけど、ほんとにね、山田尚子に求めていたものが十全に与えられたえも言われぬ多幸感に満ち溢れております。最近あんまり劇場で泣く作品を観てなかったんだけどクライマックスで気づいたら涙が溢れてきて自分でもびっくりしたし、帰宅後にパンフ読んでてまた泣けてきた。なんかね、ほんとにじわじわと色んなところに染む作品。歴史の新たな1ページです。
<というわけで以降ネタバレ等注意。ネタと言えるようなものはあんまりないけど、やっぱ初見はまっさらな気持ちで観てほしい>
冒頭でいきなり持ち上げてしまっておいてなんだが、今作を評価するのってめちゃめちゃ難しいんですよ。どっから取り上げたらいいのか、視聴中も、視聴後も必死に考えをまとめようとしてたんだけど、現状ではまだなんもまとまってないです。どこに焦点を絞るかで色々と論評の手法も分かれそうな作品ですな。私の場合はと言うと、やっぱ一番の印象は「これが山田尚子や!」ですかね。正直、不安がゼロだったわけじゃないんですよ。これまで「好きなクリエイターの劇場オリジナル作品」は色々と観てきたけど、やっぱ劇場アニメって媒体は難しいじゃないですか。たとえば「グッバイ、ドン・グリーズ!」みたいな「おもてたんと違う」もあったし、評価したいポイントは明確だけどそれだけを取り上げるとどうしても一般性が落ちる「アリスとテレスのまぼろし工場」みたいな作品もあった。今作はぶっちゃけ番宣からそうした「なんかやろうとして滑らんか?」みたいな不安も漂っていたので、視聴開始時に怖々と薄目で見てた感すらある。女の子どうしのバンドものなんて、表層だけ掬ったら「どうせ流行り物で一山当てようとしたんじゃねぇの?」と思われる節もあったしさ。 しかし、だがしかし、そこで山田尚子ですよ。わたしゃ軽々に使っちゃいけないと思いつつも、山田監督を評する時に割と「天才」って言葉を使っちゃってるんですね。現代アニメ業界において「巧者」だと思う監督は多々あれど、「天才」だと思ってる人ってぇと他には古川知宏、畠山守くらいだろうか。この一団の中でも、古川さんは反則上等・怒涛のエンタテイナー、畠山氏が巧緻極めるパズル職人だとするなら、山田尚子は印象派の極北みたいなイメージがある。まぁ、やっぱり「リズ」の印象が強すぎるせいなのだが、彼女と引き合わせてもらえた「けいおん」という金字塔、そこから渾々と湧き出す“イズム”を直飲みさせられた「たまこラブストーリー」などを並べてみれば、山田監督が最も得意としているのは「画作り」なのだという結論になっている。私は常々意図して「絵」と「画」という文字を使い分けており、「画」はアニメーションをトータルで囲った「時間的尺度をもつ画面」を表すものとして使っているのだが、まさにその「画」をゼロから作り出すセンスがずば抜けている。そこには計算も多分に含まれているのだろうが、「リズ」で生み出されたデカルコマニーの用法など、ほんとに「感覚」としか言いようのない「画」の世界がとにかく魅力的なのだ。そして今作は、そんな「画」をただひたすら100分流し込まれるという地獄の如きパライソ。それこそ「たまこラブストーリー」以来の完全オリジナル作品ということで、史上最も山田濃度の高い作品になったんじゃなかろうか。 また、今作をもって監督とサイエンスSARUの融和も見事に果たされたという評価軸もある。すでにこの座組みは「平家物語」という堂々たる結果を残しているのだが、あちらの作品はSARU風味がだいぶ強めに滲み出ており、そこに山田監督が合わせに行く形での完成形だった印象がある。しかし今回は、SARUスタッフが山田流のいろはを身につけたおかげなのか、監督がスタッフの御し方をマスターしたからなのか、はたまた女学園ものというモチーフがお馴染みのものだったせいで俺が勘違いしているだけなのか、真相は分からぬが、とにかく「山田イズム」が完全に乗った画作りが見事に成し遂げられていた。もちろんそれはSARUらしさを消すという方向ではなく、要所でSARUの持ち味であるユルさ、自由さを残しつつ、それでも山田流の心象風景が画面の隅々まで行き渡った完成形に辿り着いたのである。今作のテーマの1つに「色」があるわけだが、劇場の大スクリーン上で繰り広げられる、まるで初めて絵の具を手にした子供が好き放題に遊んでいるかのような自由闊達な色の広がりは、そのタイトルに偽りなしで、「山田の色」に溢れ出していた。それだけでもう、全スタッフにスタンディングオベーション。 画面の話ばかりになってしまうと「お話はどうでもよかったんかい」と思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。まぁ、シナリオラインを切り取って引っ張り上げるのが難しいのは事実だが、本音を言えば、オリジナル劇場アニメでこの脚本をオーダーした監督の神経も大谷翔平の腕ぐらいごんぶとだし、その要望に応えてこの脚本を完成形として提出してみせた吉田玲子もとんでもないタマである。凡百のクリエイターなら、予算も人員もごっそりかかる「商売」としての劇場アニメで、抜け抜けとこのシナリオで作品やろうとは思わないでしょう。何しろ、映画的な分かりやすい見せ場なんてほとんどないし、100分という時間の中で「何が起こったか」と聞かれたら「別に何も起こらなかった」くらいのシナリオラインなのである。肝の小さい脚本家なら怖くて出せないだろうし、自分の描く画に自信が持てないアニメ作家はそのままの脚本を描き起こすことを拒否しそうなもんだ。 しかし、吉田玲子は山田監督を信じてこの脚本を提出し、監督はそれを受け取って、堂々たるフィルムを作り上げた。改めて言うが、ほんとに「何が起こったかと聞かれたら、何も起こってない」お話。クライマックスと言ってもせいぜいライブがあるくらいで、そのライブだって、いわゆるガールズバンドアニメのライブなんかに比べたらあまりに質素で、おとなしい画面である。「そういうもの」を求めてきてしまった人からしたら、マジで「何もなかった」で終わる可能性すらある作品だろう。 それでは、今作はいったい何を描いた作品だったのか。それが一言で言い表せないからこそ、私は最初にぐだぐだと予防線を張って「フレッシュ・グッデイ、言葉にできない」と言い訳しているのである。普通、「女の子のバンドを描いたアニメを作りましょう」と思い立ったら、その中心は「バンド」である。「ガルクラ」はトゲトゲの物語であり、井芹仁菜という暴走列車の物語だった。バンドリはPoppin’Partyという1つのグループの物語であったり、MyGO!!!!!という傷を舐め合う5人の関係性を描いた物語であった。どの作品も「バンド」があり、「バンドの関係性をめぐったキャラクターたちの物語」が主軸にある。 しかし転じて今作はどうか? 今作を「しろねこ堂結成と解散の物語」と一言でまとめてしまったら、絶対に作品の本質は捉えられていない。かといって「日暮トツ子の青春物語」だったのかと言われたらそれもどこかピントのズレた看板になるし、もちろん「作永きみの挫折と復帰の物語」であるはずもない。否、全部が間違ってはいないが、その部分を中心に作品を見ようとしたら、あまりにも外縁に広がりすぎる。「バンドもの」を普通に描こうとしたら3ピースのくせして1人がテルミンに回ったりしないし、本番のライブに人差し指キーボーダーは登場しない。「トツ子が主人公の青春物語」という見方は一番しっくりくるが、それでもやはり、「色覚を中心とした共感覚保持者」を主人公にするには、その辺の要素の拾い方があまりにそっけない。安易な発想なら、ラストダンスのシーンでトツ子が自分の色を見るシーンはもっとけばけばしくやってしまいそうなものだが、そんなことは今作においてはキャンバス全体を埋める色彩のほんの一部でしかない。もしトツ子が主人公であるならタイトルは「わたしの色」であるべきで、「自分の色が見えない」という要素も、彼女目線で色を見定めることが焦点でないことを遠回りに示しているに過ぎない。よりにもよって2人目のヒロインの名前が「きみ」なので「きみの色」というタイトルはガールミーツガールの枠組みでトツ子からきみを見る際の憧れの眼差しが一番喚起されそうだが(もちろんそれも狙っているのだろうが)、いかに私が百合脳だとしても、今作を「トツ子ときみがイチャイチャしてる作品だよね!」なんてとんちんかんな評価で終わらせるつもりもない。もちろんそこだって大事な要素であり、山田監督のホームグラウンドには違いないが、そこに無遠慮にルイという3つ目の舞台装置を放り込むことで安易なイメージで横着しないよう、ぐるぐると視点をかき混ぜてくれている。とにかく茫と視野を広げ、画面全体、世界全体を見つめることでそれぞれの望む「色」が見えてくる。ここまで奔放な作品作りは、よほど自分の持つ「色」のセンスに自信がなければなし得ない暴挙である。 そして、それは成し遂げられている。あまりに失礼な言い方だが、今作は本当に最初から「何が始まるんだろうな? ……何も起こってないな……」という時間が続き、世界が広がるでもなく、焦点が絞られるでもなく、ただ画面にちょっとずつ「色味」が増していく。それはトツ子のヘンテコダンスかもしれないし、めっちゃ優しいシスター日吉子のロック講座かもしれない。そうした過程において、少なくとも私は一度たりとも眠たくならなかった。この評価に意味があるかどうかは分からないのだが……「なんか進んでる話」を見ているだけの時間というのは、どんな映画であっても退屈さを覚える瞬間というものはあるものだ。まぁ、流石にスタァライトにそんな暇はなかった気はするが、普通は2時間程度の時間を全てクライマックスで埋め尽くしたところで集中力が続くはずもないので、悪い意味ではない「緩急」は必要になるものだ。しかし、今作はどこが「急」なのかもよく分からずに観ていたはずなのに、退屈さを感じた瞬間がない。その理由は感覚的なものしか理解できていないのだが、やはり画面構成の技術力がものを言うのだろう。最低限の情報を出しつつ、混乱させないように進行するという基本のキがどれだけ難しいことか。その上で、普通のアニメだったらもっと時間をかけて描きそうな「きみがおばあちゃんに告解するシーン」とか、シナリオ上重要な要素すら時間を巧みに分解して最小限の描写だけで伝えてくる。この「伝えられる情報を画のパワーでねじ込む」という(アニメとしては当たり前の)荒技をこれだけの密度で繋ぎ続けられるのが本当の構成力なのだ。ほんとに自然過ぎて1つ1つをピックアップするのは難しいのだが、途中で「あれ?なんで?」とか引っかかる要素が無いというストレスフリーの構造は、実際に味わってなおその凄みが伝わりにくい重要な評価点である。 やべぇ、もっと具体的な要素にも触れようと思って視聴してたのに、大枠を掴む話で必死になってしまったせいで無駄に文字数が進んだ上にディティールがぼやけてしまった。まぁいいや、私如きが山田イズムを解体できるとも思わないし、もし2回目の視聴が叶ったらその時はもうちょい細かい部分にも注目してみよう。 ちなみに一応やっとく「中の人の話」。キャストがあんまり話題にしづらい作品だったんじゃないの? とか邪推される可能性もあるが、まぁ、メイン3人については別段悪いとは思わなかった。トツ子はまぁ、上手い下手は悩ましいところだが、トツ子というキャラを考えればこれが求められていた路線なのだろう。キャラデザ的にあまりにも美少女すぎるきみちゃんの方も、台詞が少ないってのもあるけど、いい具合に合わせられていたと思う。歌唱シーンもばっちりマッチしてたし、あんまり文句はない。ルイはまぁ、キャラ自体にとらえどころがないからな。 となるとあとはルームメイト3人衆ってことになるんだが、別にやす子でよかったんじゃないかな。あの通り、声は粒立ってアニメキャラにしても充分通る声質なわけだし、ちゃんと出来てたと思うよ。まぁ、なんでおいちゃん・美菜子に並べたのかはよく分からんけども。「せっかく91年組で並べたなら東山奈央とか早見沙織連れてくればいいのに」とは思った(それもおかしい)。あとパンフで美菜子が「けいおん以来の山田作品で」って書いてて「えっ、リズは?!」って思ったけど、あすかパイセンはリズに出てなかったな。 結論:全人類、とりあえず2週してみるのはどうだろう。 PR |
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関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧
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