最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
観てきましたよ。まだ夏休み中で劇場もそこそこ混んでたんですが、どうにも周りの環境に観てる人間が多くなってきて、耳をふさいでも色んな感想が聞こえてきそうだったので、余計な先入観をなるべく持たないうちにいかなきゃ、っていう気になった。まぁ、これでも一応シャフトファンですからね。そりゃ観に行きますよ。
(以下、ネタバレとか、なんかそういうの注意)
さて、難しい作品である。まず端的に「是か非か」というジャッジをするなら、私としては「非」寄りになってしまうだろうか。一言で問題点を指摘するなら、「シャフトがやる必要が無かった」というのが一番の焦点になると思う。ただ、これも一言で説明するのが難しい概念なので、今回の寸評はちょっと面倒で実入りの少ないものになりそうだ。 先に良かった点を上げておくと、割と美人さんな渡辺明夫デザインの女の子が劇場で観られた、というのが最大値かな。彼のデザインというだけで小躍りしてしまう筋の人間なので、それが劇場クオリティで観られるならそれだけでも価値はありますよ。まぁ、別に「化物語」でも「グリザイア」でもいいじゃねぇか、って言われたらそうなんですけどね。あと、「母親の再婚相手の男のCVがミキシンだったらそりゃ不信感丸出しで家出したくなることがよく分かる」とか、「マジで一言しか台詞が無かった看護婦役なのに『千和じゃね?』ってちゃんと分かったところ」とか。脇のキャストの濃さなぁ。新房組が総出演してるような大賑わいがあるよな。 こうして「良かった点」をカウントしてる時点でお気づきかと思うが、どうにも褒めづらいのである。まぁ、ループものとしての「見え」みたいなところで中盤くらいまでは「オッ、面白いな」と思うところはあったか。例えば二周目でヒロインのなずなが教室に入ってきたシーンで、告白された男子サイドが入れ替わったことで見え方ががらりと変わり、「なるほど、一周目の世界では裕介からはこんな風に見えてたのか」と分かるところとか、細かいところでくすぐってくる部分はある。ただ、普通はそうしたループものの醍醐味ってのは回を重ねるごとに数が増えて賑やかになるはずなのだが、今作ではループを重ねるごとに目先が拡散するようで、あまり「ループもの」としてのうま味が無いんだ。三つ目、四つ目の世界あたりになると、もうループである必要性すら無くなるしな。ある意味では異世界もの……というと言い過ぎかな。 さて、今作の不満点は『シャフトがやる必要がなかった』と書いたわけだが、それじゃ「シャフトでやる必要」って何さ、ということをきちんと考えなければならない。つまり「シャフトの強み」とは何かってことだが……これも多分色んなところでちょいちょい書いてる話なのだが……改めて考える機会にはなるかな。そして、結局のところこの話は「アニメーションの強み」という普遍的な話にまで広げる必要がある。今作は実写ドラマからのアニメ化ということで、その辺の話を考える題材には丁度いいかもしれない。 今更なことだが、アニメーションが実写に対して持っている強み、特性というのは、個人的には大きく2つあると考えている。それは「創造」と、それに付随して生じる「捨象」である(よって本当に大きくまとめると1つになる)。「創造」というのは言わずもがなの話だ。そこにあるものを「撮影」する実写と異なり、アニメーションは1から映像を全て作り出す必要がある。昨今は実写映画にもCGが大量に導入されて垣根が曖昧になっている部分もあるが、それでもアニメ作品におけるCGと実写映画のCGは存在感が全く違う。今作も花火の映像を筆頭に、自転車で坂を下るシーンなんかもCG処理されていたが、あの辺を見て「実写だ」と思う人間は流石にいないだろう。そうして全てを1から作り、「描こう」と思わなければ描けない、というのがアニメの特徴の1つ。そして、裏を返せば「描かなければそこに無い」ということになり、これが「捨象」である。アニメには必要なものしか存在せず、実写に比して「必要なもの」の存在感が前面に出やすいのである。 そうした大前提をもって考えると、「現実にないものを産み出す」という技法で特に極まった方策を打ち出したのが、新房昭之という人物である。「Soul Taker」や「宇宙戦艦ヤマモトヨーコ」の時点で、彼の作る画は色彩が明らかに現実と乖離したり、極端な陰影、大胆なパース、そして印象的な止め絵などが多用され、「絵」の持つ力を基盤に、現実的な物語との折り合いを敢えて狙わない作劇が多かった。この方向性が極まるのが、彼がシャフトという製作会社と関係を密にした時期であり、「ぱにぽにだっしゅ」では原作が捨象の塊だったのをいいことに、アニメではとにかく色々なガジェットで飾り立てるというとんでもない作劇を産み出したし、そこから更に「化物語」まで展開すると、今度は西尾維新原作の膨大なテキスト量をそのまま映像に載せて世界を作るという気の狂った画面を産み出した。彼は「映像を映像として創造する」のではなく、「小説を映像として産み出す」際に小説と動画の中間地点を新たに作り出したのである。 シャフトの映像製作の歴史は、こうしたエキセントリックな映像美の探究無しには語れない。例えば今ではすっかり有名になった「シャフ度」という独特のアングルなどは、何故産み出されたかといえば、それが鮮烈な印象を残す奇異な映像だったからである。そうしてキャラクターのインパクトが強くなるというので1枚絵として使用していたわけだが、インパクトを残す表現というのは常に陳腐化との戦いだ。いつしか「定番」に成り下がることは避けられない。それでも新房監督は新たな映像の創出に熱意を燃やし、今度は別方向からの衝撃としてあの「まどマギ」のイヌカレー空間を見出したのである。全ての映像表現には理由があり、新しいものを探究し続けた熱意がある。そうして他者には真似出来ないものを産み出してこそ、「シャフトの強み」が生きるのである。 前置きがものすごく長くなってしまったが、それでは、今作においてシャフトの強みたる「創造」は機能しているか。残念ながら、答えはノーだと思う。原作となった実写ドラマも見ていない身なのでここから先の話は多分に勝手な想像を含むのだが、どうにも本作は、「普段あまりアニメを観ないような層でも受け入れられそうな作りにして下さい」というオファーが強く働いているように思えてならない。今回コンテを担当して制作を引っ張った武内さんはシャフトの歴史を支えるベテラン選手なのだから「新房流とは何か」を理解していないはずはないと思うのだが、どうにもそれが振り切れていない。「ループもの」なんていかにもアニメ的な題材で、いくらでもこねくり回して、アニメならではの無茶を突っ込み、挑戦的な画作りで複層構造を見せる手段があったと思うのだが、そうしたチャレンジがほとんど行われていない。最後に到達する世界のビジュアルなんかは確かに「アニメ的な」世界になっているのだろうが、残念ながらその1つ1つの道具立てが描くに値するだけの意味を持ち合わせているように見えない。 この「突き詰めていない弱さ」には、「創造」よりも「捨象」の方が関わってくる気がしている。というのは、今作が元々実写ドラマだったということが問題となっており、実写の場合、その映像はたやすく「世界」を手に入れることができる。何しろカメラを回せばそこには実際に空間があり、種々の要素が勝手に付きまとうのだから。しかし、アニメの場合は「誰が主人公で、何が目的で、どのように歩いて、何を見て、何を考えて」という部分を全て作り上げていかなければならない。そうして特定のファクターに際だちが表れることこそがアニメーションの強みなのだから。しかしおそらく、本作の主人公である典道と、ヒロインであるなずなは、そうして「描かれる」に耐えるだけのキャラになっていない。個人的に特に不満なのはなずなの方で、彼女が何を考えていたのかが最後までよく分からないのだ。観客から見れば、彼女は当人が言っていたようにただの「ビッチ」である。一周目で別な男に何となく告白した、二周目では告白先を変え、更に大した根拠も無しに駆け落ちを提案し、ただ家庭が嫌だと駄々をこねる存在。もちろん、相応の理由はあるのだし、そうした浮ついた不安定さを描くことも本作のテーマの1つではあるのだろうが、作中でそれは十全には描かれていないだろう。彼女が何を願い、典道をどうしたかったのか。それが分からないために、彼女は「ヒロインとしての圧」みたいなものに乏しく、捨象された世界の中で一人中心に居座り要石となるには役者不足なのだ。典道も基本的には同じ不満が残る。やはり、彼も何がしたかったのかが分からない主人公であり、最終的にどうなったのかが分からない主人公である。彼が思春期の男の子として「何となく女の子を守りたかった」のは間違いないのだが、その思いは世界をループさせて思い悩むほどのものだったのか。どうにもそのあたりの熱量に欠ける作品で、最終的にどこがクライマックスなのかもよく分からないまま、2人は幸せなキスをして終わる(?)である。 勝手な推測だが、ひょっとしたら実写映画ではこれで足りた部分もあるのかもしれない。実写でループものっていうだけでも割と大変だろうし、花火のビジュアルなど、実写では充分に特異な画面での映え方も容易に想像出来る。しかし、劇場アニメとして見た時に本作の映像はまだ弱い。「丸でも平らでもない花火」の映像なども、何がどう「特別」なのかは分かりにくかったし、「実写の映画」から飛び出しきれていない部分が多かったのではなかろうか。本来のシャフトが振り切ってそれを探究すれば、もしかしたら誰も見たことがないようなオンリーワンの映像美が誕生した可能性はあるだろう。しかし、本作ではそうした部分に重きを置かず、実写映画との融和点を模索し、アニメーションとしての強みを活かす方向には動かなかった。それが、私のいうところの「シャフトでやる必要性が無い」ということの意味である。 あと、やっぱりどうしても気になるのはメイン2人のキャスティングですけどね……2人の圧が弱かったのって、どうしてもキャラの立て方の話になるので、キャストの存在感って無視出来ないものだからね。浮き立っていたという意味では、「世界から乖離した特殊存在」を描く意味はあったのかもしれないが……なずなというキャラを見る上ではますます捉えどころが無くなって処置に困るだけのような気がする。まぁ、メインヒロインのCVが花澤香菜だったら上手く行ったのかと問われれば微妙ではあるのだが……。 だいぶ関係無い話が長くなったが、とにかく、「シナリオでも落としどころが見えなくてピンと来なかったし、期待していたシャフトの映像ではなかった」というのがひとまずの結論です。最近はこうした「シャフトの残滓」みたいなものも増えてる気がしますけどね。そう簡単に映像表現のブレイクスルーなんて出来るわけがないってことですかね。ただ、だとしたらやっぱり今作で何にチャレンジしたかったのかは分からないのだよね。うーむ……他作品を圧迫する劇場アニメなー。 PR |
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