最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
<以下、一応折り返しだがあんまりネタバレとかそういう概念は無い>
無論、放送分のクオリティが大したことなかったらわざわざ劇場には足を運ばなかったわけで、しっかりと「結末を見届けねば!」という説得力を持っていたことはすでにプラス要素だったわけだ。元から映像品質もそこそこ高い作品だったし、本当にそのまんまの画面をスクリーンに持ってきただけである。もちろんこれは悪いことではなく、劇場アニメにありがちな「せっかく映画にしたんだからなんか盛り上がることしなきゃ」みたいな余計な気負いがなく、ただただ本当に「観たかったもの」というか、「観なければいけなかったもの」を展開してくれている。完結した漫画作品なのだからきっちり幕を引くのはアニメスタッフの義務ではあるのだが、それをこういう形で一番「受け止めやすい」デザインにしてくれたのはいい構成だったんじゃないかな。どーせ劇場まで来ない人間はそこまで興味を持たなかった客なのだろうし。今後も、こういう形で「質の高い結末」を見せてくれる作品が増えるというのなら、足繁く劇場に通うのもやぶさかではないよ。 というわけで、「放送分の続き、起承転結の結」でしかないので映画としてのコメントはあんまりない。作品としての総体も一度番組感想でまとめてしまっているのでそこから大きな修正点も無い。となると、あとは映画の中で進行したシナリオ自体に言及するくらいしかやることはないか。 ぶっちゃけ、この映画内の90分で扱われた題材は本放送の時に比べるとだいぶシンプルである。これまた考えられた構成だったと思うのだが、放送版では「まことの問題」がほぼ全てクリアになり、解決を見ているのだ。本作を視聴するにあたって、当然一番目につく大きなテーマ設定は「女装男子」のまことの話であり、彼の中での性とは何か、衣装とは何か、そして母親や祖父との関係がどうなるか、周りの人がまことをどのように捉えるか、そんなところが焦点になっていた。この問題については、「放送版の決着ポイント」として答えが与えられたため、映画内ではほとんど問題になっていない(かろうじて、かつて問題を起こした男子生徒・藤井君との絡みがちょっとあったくらいだ)。もうまことはまこととして完成しており、その端的な提示として母親との関係性が提示されていた。つまり、今作の放送版が「花岡まこと編」であり、この映画は残された「蒼井咲編」だったことになる。この区切り方は(まぁ原作準拠なのだろうが)「アニメだけ見てもそれなりに満足できるし、映画を見にきてもらえればより大きなラブストーリーが大団円を迎える姿が見られる」という、「半端なものを切り売りする」形ではない「2度美味しい」構造になっていたわけだ。まぁ、大半の視聴者はどう考えても「咲の結末」まで見ないと満足はできないだろうけども。 「女装問題」という今作最大の特徴がほぼ描かれない90分。残されたのは複雑な家庭環境で育った蒼井咲という女の子の自己言及。青春は青春でも、恋愛方向ではなく、社会との向き合い方、自己との向き合い方を描いた純然たる成長物語だ。個人的にはしょっちゅう言及している通りに「成長・変化を強いられる物語」が苦手なので本当に身につまされるというか、痛い痛いお話なのだが、これが高校生の精神状態として至極納得できるものであり、美しいものであることもよく分かる。咲のような特殊な家庭環境でなかったとしても、今回彼女が抱えたような悩みは、大なり小なり誰にだって経験があるんじゃなかろうか。端的にまとめるのは難しいが、強引にくくると「過度な『特別』への憧れ」みたいなもの。 咲が今回苦しんだ「特別」というのは「自分は誰かの特別ではないのか」というものだが、ちょっと切り口は違うが、若かりし頃は誰だって「特別でありたい」と思う。自分は人と違うのだと、人には出来ないことが自分はできるのだと、根拠もなく思いたがる。そうした情動が進歩への足がかりにもなるわけだが、残酷な現実の中で、そんな「特別」はそうそう起こり得ないということも少しずつ学んでいく。また、誰もが皆自分が特別でありたいと願うならば、その中で自分という「他人」を特別だと認めてくれる人なんていなくなってしまう。どこまで自分を認めてもらうか、どこまで他者の中の「特別」を尊重するか。そうして折り合いをつけていくことが「社会性」である。 蒼井咲という女の子は、いわば社会性を過度に備えすぎていた子供だった。父と母の板挟みの環境の中、自分は「特別でありたい」と願い、そのためにひたすら他者を尊重し、自己を殺し続けた日々。おかげで彼女はこれまでの人生で「自分で選ぶ」ことをほとんどせず、心に蓋をし続けたがために「自分の好き」すら分からなくなった。興味深いのは、この手の悩みを抱えるキャラクターというのは往々にして内にこもる性格で描かれがちなのに、咲は圧倒的な「人当たりの良さ」に転化して内なる悩みがなかなか外に漏れ出さなかったこと。徹底して磨き上げた外面は両親のどちらにも「いい子」であり続け、ことここに至るまで吹き出す場所がなかった。しかし、社会はいつか選択を迫る。高校には「進路」という分かりやすい分かれ道が現れるし、それよりも早く、「両親と祖母、どの環境を選ぶか」という具体的な分岐が出現。どこを選んでも誰かに気を遣う。どこを選んでも自分の本心とは言い難い。そんな中で咲が選びたがったのは、「自分を特別だと思ってくれる人」だった。もちろん父も母も一人娘の自分を大切に思ってくれているのは分かる。しかし父が仕事を優先して融通が効かないことに子供っぽい不満を持ってしまうのは、まだ高校1年生の彼女であれば責められることではないだろう。「なんで私を最優先してくれないんだ」という鬱憤は少しずつではあるが、咲の中に沈殿していく。 そこで彼女は「母親との同居」に傾いた。これまで長い間自分に声をかけてくれなかったことは気になったが、わかりやすく高いお食事体験などは、端的に「自分が特別」であることを相手が示してくれる場だった。少なくとも父親よりは母親の方が「自分を一番においてくれる」と、そう思った。だからこそ一時は母親に傾きかけた心理が……現実に阻まれる。母親だって娘が特別なのは間違いないが、それでも1人の人間なのだ。彼女には彼女の人生がある。そんな当たり前のことも、悩める思春期には受け入れ難いものなのだろう。2つの「特別」が否定された気がして、咲は追い詰められてしまう。 咲が気づくべきは、「自分が特別じゃない」ことではない。本当に気づくべきは、「特別とは、そんなに特別なことじゃない」という事実だった。人それぞれに特別がある。1人の人間にたくさんの特別がある。自分を押さえ込んできた咲にはそんな簡単なこともなかなか気づけなかった。しかし、目の前の先輩・花岡まことの生き方からそのヒントを得ることができた咲。そして何よりも意地悪な先輩・大我竜二が示してくれた「たくさんの特別」の存在。親友2人にも背中を押され、彼女はようやく「自分の特別」と「自分を特別にしてくれる人」に出会えた。数多の人の営みの中ではなんの変哲もないその「特別」が、しばらくは、彼女の原動力となるのだろう。 何度噛み締めても味わい深い青春グラフィティ。こういう作品に、若い内に触れてほしいなぁ、と思える模範的な教科書だった気がします。あとは純粋に「こんな青春が送りたかった」というやっかみもあります。ただまぁ、今作については大我竜二というぐう聖がいたからこそ救われた部分はあるので……そういう意味ではずるいのだけども。でも、竜二も本人が言うように「不幸になったわけじゃない」から別にいいんだろうな。5年後10年後、また3人で集まって、馬鹿みたいに笑ってられる関係性だったら素晴らしいな。 良い作品でした。 PR ![]() ![]() |
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関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子 ーーーーーーーーーー ↑越えられない壁 沢城みゆき 斎藤千和 中原麻衣 田中理恵 渡辺明乃 能登麻美子 佐藤利奈 佐藤聡美 高垣彩陽 悠木碧 |