緊迫の転換点、第12話。さぁ、色々と波紋が広がりそうな、とんでもないことになってきましたよ……とりあえず最初に一番驚愕したことを書いておくと、「石田彰は……小学2年生もそのまんまやるんか……この43歳怖い……」。
前回の時点で既に示唆されていたということを、視聴後にどこかで目にして初めて知ったのだが、この作品のモチーフの一つはあの地下鉄サリン事件だという。今回語られた高倉家の両親が荷担したという「地下鉄の事件」がそれだ。日付が完全に一致しており、舞台背景もそのまま。一応作中では「爆発事件」として処理されており、事件の内実は詳しく掘り下げられていないが、製作側としては地下鉄サリンとの関連性を積極的に否定する意思はないようで、そのつもりで見てしまえば、たしかにそのまんまであるかもしれない。
何故、実際の事件をモチーフとして扱おうと思ったのかはよく分からない。現時点では「架空の何か」をでっち上げてしまってもシナリオ進行上問題はないように見えるし、当然危惧されるのは、被害者たちの心情に何らかの影響がある、という、広い意味での「モラルの議論」が出てくること。実際、これが単に面白半分での用途であるならば、不謹慎の誹りは免れないだろう。ただ、制作側(特に幾原監督)がそうした当然出るであろう議論のリスクを考えていないとは思えない。つまり、何らかの意志があって、わざわざ16年前の事件を引っ張り出してきたのであろう。そして、その意図というのが何かは、今後のこの作品を注意深く見守っていくことでしか分からない。個人的には「モラルの議論」はあまり興味がないし、もしこれによってアニメに新たな意義が生まれるなら、充分に価値のあることだと思う。
そう言えば、あの才人(災人)山本寛が、どこかで「東日本大震災をテーマとしたアニメなども作られるべきである」というような議論をしているのを見かけた。彼の意図が十全に理解出来たとは思わないが、アニメの作り手側としては、ひたすら空想妄想の世界に逃げ込んで「甘受されるもの」だけを作り続けるアニメ作りという方向性には、どこかで風穴を開けたい、という思いがあるのだろう。そして、その端的な一助となるのが、たとえば現実の事件や人物などを扱い、メッセージを込めたアニメ作りというわけだ。どの程度受け入れられる思想なのかは分からないが、個人的には「とりあえずやれることはやってみて欲しい」というのが現時点での意見。この作品も、ヤマカンの言うような「新しい何か」を生み出すことになるのだろうか?
話が逸れてしまったが、そんな事件を背景にしつつも、今回は「陽鞠の二度目の死」という大事件が起こり、番組の雰囲気としてもターニングポイントを迎えたことが伝わってくる。陽鞠が病室で息を引き取ってからの一連の作劇は、今回作画が良かったこともあり、息苦しいほどの緊迫感と、有無を言わさぬ迫力があった。面白おかしく飛び跳ねていたきらびやかな「生存戦略空間」は静止し、暗く寂しく沈んだ世界となっている。晶馬の語る「メリーさんの羊」の物語を背景にし、冠葉は自分に出来る精一杯をやりきろうと奮戦するが、どれもこれもが水の泡。彼の全ての願いを込めた再びの「充電」行為は、あふれ出るインモラルな雰囲気を噛みしめつつも、どこか崇高で、貴い行為に見えてくる。最後には、あのペンギン帽子が力なく床に倒れ、目に光を失うことで、本作では幾度めかになる、「人の死」を実感させるのだ。あまりに残酷で理不尽な女神の采配に、冠葉でなくとも「運命という言葉が嫌いだ」というあのフレーズが口をつく。
高倉家を代表とする「日常の風景」に、ピクトグラムを多用した「広く無機質な現実世界」、動き続けた暗黒の電車、無機質に配管がむき出しになった寒々しい病院、生命の途絶を感じさせる生存戦略空間に、「メリーさんの羊」が語られた御伽話フィールド。よくぞここまで、と溜息が漏れるほどに、多種多様な世界が短い時間に圧縮されて繰り出される脅威の画面構成。これを1つのシリーズとして組み上げていく作業は、一体どれほどの労力とセンスを必要とするのだろう。アニメを見ていて、言葉にならぬ息苦しさに嗚咽を漏らしたのは久し振りのことである。何が作り上げられ、何が伝えられようとしているんだろう。全て抜かりなく、とまではいかずとも、この作品を正面から受け止められるだけの視聴者でいたいものである。
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