<以下の文章は、放送当時に執筆されたものである>
○第24話「蜉蝣」
脚本・高木登 絵コンテ、演出・渡辺正樹 作画監督・星野尾高広
<あらすじ>
受験を終えたゆずきは、明かりの消えた自室で思い悩む。地獄少女の運命とは何か。あいは一体何をさせたいのか。あいの「あなたは私を恨んでいる」という指摘を必死で振り払い、度重なる鈴の音にも耳を塞ぎながら、ゆずきは受験の結果にだけ思いを込める。しかし、合格発表の現場から、世界は変わった。掲示板に見つけた自分の受験番号は、隣で喜ぶ親子のものだった。慌てて受験票を探るが、あれほど大切にしていた受験票は、いつの間にか手元から消えていた。自宅、ゴミ捨て場、学校、あらゆる場所を探しても受験票は見つからず、必死に電話をかけても親は一切音信が取れない。慌てふためくゆずきだったが、近所の主婦も、クラスメイトも、はては担任の先生に至るまで、ゆずきを見て首を傾げる。「あの子は、誰だ?」と。親友であった江上や尾藤にも突き放され、校内のあらゆる場所で首を傾げられる段になって、ゆずきは、自分の存在が完全に消えてしまっていることを知る。精魂尽き果てたゆずきは、通用門の奥に高杉秋恵の幻影を見る。秋恵はゆずきに詰め寄ると、「どうして助けてくれなかったの」と恨み言を漏らす。絶望的な状況で、ゆずきは地獄少女に向かって叫ぶ。「私はあなたを怨んだりなんかしないし、地獄少女にもならない。だからもう、こんなことはやめろ」と。悲痛な叫びをあげてくずおれるゆずきに、つぐみが手を差し伸べる。
世界から存在が消えた今、ゆずきが話せる唯一の相手はつぐみだけだった。「どうしたらこの世界から抜け出せるのか」とつぐみに問うゆずき。それに対するつぐみの返答は、「私はこれまで、ずっと地獄少女に関わる人間を見てきた」というもの。「私のことも、見てるだけなんですか」とすがるゆずきだったが、つぐみは「見ているだけなのではなく、私には見ることしか出来ない」と首を振る。ゆずきを自宅へ招いたつぐみは、父はじめの努力を語って聞かせた上で、そうしたはじめの努力すらも、地獄通信というシステムの一部に組み込まれたものではないかと語る。地獄少女がつぐみに視界を共有させたのは、つぐみにもあいと同様に「諦め」させることが目的だったのではないかと。「穢れたままのこの世界は、変わることなどない。そして、人々は本心ではその穢れを望んでいる。本当に地獄通信で救われるのは、実際にアクセスした人ではなく、いつかアクセスしてやろうと思っている人たちなのではないか。そういう人たちは、地獄通信を唯一の拠り所としながらも、生きていけるのだ」と。
長年の努力と懊悩の末に地獄通信を受け入れることになった柴田親子。彼女の口からは、「もう抗うことには疲れた」と諦めの言葉が漏れる。「あなたも受け入れる方が楽なのではないか」と。しかし、ゆずきは「諦めるのは嫌だ」と食い下がる。「自分も抗うことには疲れて、諦めようとしていた。しかし、こんな世界は嫌だ。許されるべきことではない」。
「まだ、私も諦めきれていないのかもしれない」。ゆずきの熱意で、つぐみも少しだけ姿勢を正す。そして、ゆずきに対してはたった1つ、「あの鳥居の先にだけは行ってはいけない」と助言する。「鳥居の先には何があるのか」と問うゆずき。つぐみは、これまでたくさんの『地獄少女になる運命の少女』を見てきた、と前置きし、ゆずきに現実を突きつける。
「あなたは、もうこの世のものじゃない。その現実を受け入れられるか」と。
「嘘だ!」と叫んで自宅へと逃げ帰るゆずき。しかし、街ゆく人々の目には、既にゆずきの姿は写っていない。ゆずきは、「誰もいなくなって取り壊される予定の」団地へと駆け込む。そこには、住み慣れた我が家などあるはずもなく、朽ち果てた廃墟が広がるだけ。足下には、白骨化した少女の遺体が1つ。待ち受けていたあいが一言。
「分かった? それがあなたよ」
<解説>
諸事情により25話と間をおかずに視聴してしまったために、この1話だけでストーリー面についてはあまり分析的なものを残すことが出来ない。そういう要素は次の解説に回すことにして、ここでは24話の中にあった細かな演出要素、もしくは暗示された事実にのみ言及することにしよう。もともとストーリー的には23話と25話の繋ぎという意味合いが強いために、なかなか分離しにくいエピソードになっているのだ。
今回描かれるのは、「御景ゆずき」という存在が徐々に薄くなっていく過程である。冒頭のアバンがパジャマを着てベッドに横たわり、受験票を睨むゆずき。そしてラストシーンでは同様にパジャマを着ながらも床に転がる白骨で締めているあたりに、演出の意図がはっきり現れているだろう。サブタイトルの「蜉蝣」も、次第に儚くなっていくゆずき自身を示したもの。この「存在の希薄化」によって、前回ゆずきが声高に宣言した「普通の高校生になって、普通に恋をして……」という目標は完全に断たれたことになる。完膚なきまでに叩きのめされながらも必死に閻魔あいに抗おうとする姿勢は長らくの苦闘の末に培ったものだろうが、残念ながら自らの存在否定にまで抗するのは難しかったようだ。ちなみにこうした「記憶の抹消」は、シリーズ的には過去に四藁達が活動後に人々の記憶から消えた効果を思い出させる。
こうした具体的なイベントに加え、今回非常に重要なのはつぐみが語って聞かせてくれた柴田親子の苦闘の歴史だろう。1期の事件の後もはじめが地獄少女を追い求めていたことは2期の飯合刑事や溝呂木博士が見つけた「真実の地獄少女」で分かるが、いつの日か、そのはじめも、自分の努力に限界を感じたとある。「地獄少女は間違っている」という信念があってこそ戦えるのであって、つぐみのように「地獄少女の存在意義」というものを認めてしまった時点で、あいを止めることなど出来はしなかったのだ。はじめの苦労を一番理解しているつぐみも、地獄少女との視界共有を通じて見た様々な人間ドラマのおかげで、地獄通信の存在意義を自分なりに納得させた。「流すこと」が効果なのではなく、「存在すること」自体が効果なのであると。その上で、自分たちのように抗う人間が現れることすらもシステムとして飲み込んでしまっていることを悟ったわけだ。
この「歪んだ抑止力」という概念は、確かに地獄通信を正当化する論法にはなる。しかし、結局「流すこと、もしくは流せると思うことで幸せを手にする人間」の存在と同時に「理不尽な地獄流しによっていわれの無い不幸に巻き込まれる人間」も存在しているわけで、つぐみ、琢磨、ゆずきの見てきた地獄通信の多面性の全てに答えを与える結論にはなっていない。結局、つぐみは長年の戦いの果てに自分の無力を痛感し、全てを諦めたということになるのだろうか。また、つぐみの告白で興味深いのは「あなたと同じような『地獄少女になる運命の少女』を見てきた」という部分。これが本当だとすると、あい→ゆずきという受け渡しの間にも、様々な地獄少女の可能性があったということになる。つぐみのこの語りの間にバックに流れていた映像は、道ばたにおかれた花束や朽ち果てたゴミ捨て場など、どうやら「人の死」を連想させるもの。具体的な内容は分からないが、あい(とゆずき)のように「怨みを残した死」を経験した少女達は、ゆずき同様に「地獄少女の運命」を与えられていたのだろうか。そんな数々の少女の中で、今回ゆずきが選ばれたのは何故なのか。まぁ、この辺はもうちょっと後で検討する部分かな。
さて、その他の気になる要素もちょこちょこ見ていくと、やっぱりこの時期だからこそ楽しい、シリーズ総ざらいな回想集。例えばつぐみが「この世は穢れている」と語っている時にバックに流れているカットは、2話で折檻される山岡美津子、4話でいじめられる湯川君、7話でイカれてしまった犬尾君、8話でみおいをいじめた新谷など、地獄流しの被害者と依頼者が入り交じっているし、「地獄通信で救われた人もいる」という部分の回想では21話の海斗に加えて何故か7話の犬尾君のお母さんもいる。いや、多分助かってないし。
他にも、ゆずきが絶叫する夕暮れの校庭では、花壇にある草花が全て枯れ果てている。これはおそらく19話の「雪月花」からの引きだろうし、ゆずきが駆け込んだ職員室にはきっちり5話の新山先生がいる。前話で出て来なかったからどうしたかと思ってたけど、ちゃんと仕事してたみたいです。ただ、不思議だったのはゆずきが必死でにらめっこをしたクラスの名簿に「浜野知里子」の名前が無かったこと。確か同じクラスだったはずだけど……精神に破綻を来して退学してしまったんだろうか。その後のカットで教室の机に花がおいてある描写があったけど、ひょっとしてあれが浜野の席だったかもしれない。いや、普通に考えれば前話で流された松田君の席なんだろうけど、松田君の席って廊下沿いだったはずなのに今回の席は明らかに窓側なんだよ。浜野さんの席は確か最後列の真ん中だったから、まだそっちの方が近い気がするんだが……流石にそこまで考えて描写してないのかなぁ。
そして今回はキャスト話が無いので非常にどうでもいい情報を1つ。冒頭でゆずきが見せてもらっていた名もなき生徒の受験票だが、ここには「賽河原高校」という学校名に加えて、「平成21年2月23日」という受験日程が明記されていた。あぁ、やっぱりこの話は現代だったのか(現注:ほぼ放送当時の日付である)。とするとつぐみの年齢からして1期は15〜20年前になるから……あれ? つじつまあわなくね? いや、1期が具体的にいつの話かは分からないけど、「零れたカケラ達(12話)」がネットとかメールの話だったからなぁ……
(以下の文章は、コメントを頂いた’16/01/12に追記したものです)
改めて、コメントありがとうございます。こうして数年前に書いた記事にもまだ反応してくれる人がいるっていうのは嬉しいことです。実際に書いたのがすでに7年も前のことなので、なんとか書いた当時のことを思い出して書いていきますが……。
>1期が15〜20年前ってのは言い過ぎでは?
確かにそうですね。なんでこの数字を出したのかな……。多分、「三鼎」でのつぐみのあまりに達観した態度のために、それなりに年齢を感じていたのが原因かと思います。自分の中では「あの当時のハジメちゃんと同じくらいの年齢」っていう印象があって、20代後半くらいのイメージで書いてたかと。あと、養護教諭の資格を取るのにもう少しかかると思ってたのも正直なところです。専門学校なら最短2年か……もしつぐみが就職したての二十歳だったとしたらだいぶ話は変わってきますね。一応補足しておくと、1期当時のつぐみは「小学校低学年」ということはどこかで示されていたと思いますので(これもうろ覚えだけど)、書いていただいた8年に最低3年を加えて11年ということになります。つまり、つぐみが教諭資格を取りすぐに赴任したのが賽河原だったとすると、1期は1998年。うーん、ギリギリくらいですね。1期当時は多分そこまで考えずに時代背景を描写していたと思うので、1期の技術水準は放送当時(2005年)に違和感がなかったくらいのものだったと思います。ネットの普及率を中心に、この7年分にどれくらいの違和感があるか……まぁ、正直あんまり分からないですけど。
>地獄少女が閻魔あいだけ
これについては、ぶっちゃけ完全に思い込んでました。今回のコメントを見て目から鱗でしたね。そうかー、確かにこれだけの激務、日本中にあい1人だけの方が無理があるなー。各地域で当番制とかでやってる可能性はあるなー。一応、当時何故そのように信じていたかを考えると、そりゃまぁ、「地獄少女」っていうアニメであいの活躍しか出てこないからですよね。あと、三鼎の「あいの後継者探し」っていうシナリオが「あいの独自性」を強く押し出していたというのも大きな理由かな。まず、あいが地獄少女としてデビューした時、そこに「先輩」はおらず、あいがオリジンであることが強く示されていました。そして、その唯一無二の「地獄少女」のポジションを、ゆずきときくりが取り合っている、つまり、その座は1つしかない、そういう発想ですね。でも、単にあいが「地獄少女の後継」ではなくて「自分の後継」を探してたとするなら、いっぱいいたとしても辻褄は合うんですね。むしろ、あれだけ長期間あいが賽河原だけに張り付いていたんだから、他の地域の業務は別な子がやっていたと考える方が自然かも。2期と3期の間であいが不在の時も、システムはちゃんと回っていたんだろうし。はー、だとすると、もし4期があるならあいと別な地獄少女の対決なんて展開があってもおかしくないわけだ。
4期、ないんですかね……。
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