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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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<以下の文章は、放送当時に執筆されたものである>
 
○最終話「魂の軌跡」
 脚本・金巻兼一  絵コンテ・小滝礼  演出・わたなべひろし  作画監督・岡真里子、萩原弘光


 <あらすじ>
 地獄少女ゆずきの最初の依頼、それはあの真山梓を流すこと。真山梓の父親を襲った悲劇も、皮肉にもゆずきの一家と同じ、地元有力者である辻之橋交通が絡んだものだった。真山を流す依頼を送ってきたのは、秋恵の父親である高杉署長だった。ゆずきは、「最初の仕事として相応しい」と、意を決して高杉のもとへ向かう。
 
 ゆずきが地獄少女になった。そのことを骨女達に知らされたつぐみは、賽河原を離れることを決意していた。「ゆずきはあんたを頼っていた。何とか出来たんじゃないか」と尋ねる一目蓮に対し、「力になりたかったけれど、私の中で何かが邪魔をした」と嘆息するつぐみ。「はじめちゃんかい?」。骨女の言葉を聞き流し、つぐみは今生の別を告げた。高杉家では、部屋中の明かりを消し、無心にディスプレイを見詰め続ける高杉がいた。彼は娘の消失後、あらゆる手を尽くして秋恵の消息を追い、柴田一の「真実の地獄少女」によって地獄通信に行き着いたのだ。「娘の無念を晴らしたい」。その一念を胸に、高杉は藁人形を受け取る。ゆずきも志を同じくし、「真山を流せ」と背中を押す。時を同じくして、深夜の中学校で山童と一緒にいたきくりは、何かを察知して人面蜘蛛として覚醒する。
 
 深夜の公園、「あいつが地獄に落ちる様をこの目で見てやる」と勢い込んでいた高杉だったが、真山家の窓をのぞくと、突然その意気を削がれ、ゆずきに藁人形を返す。「どうせ彼女は地獄に堕ちるんだ。既に裁きは受けている」と。肩を落として立ち去る高杉だったが、ゆずきの胸の内はおさまらない。高杉が流さないのなら、自らの手で真山を地獄送りにしてやろうと決意する。「個人的な感情は御法度」。必死で引き止める輪入道。あいも現れて地獄少女のルールを説くが、ゆずきの感情はとまらない。怨みの念であいを弾き飛ばすと、単身真山家へと向かう。机に突っ伏した真山梓をみとめたゆずきは、そこでついに行動を起こしてしまう。「イッペン、シンデミル?」
 
 しかし、顔を上げた真山は、その場で秋恵に変貌する。同時に人面蜘蛛も現れ、ゆずきは地獄の渕へと迷い込む。人面蜘蛛は「地獄少女に心はいらぬ」と訓戒し、蜘蛛の糸をもってゆずきを地獄に引きずり込もうとする。だが、間一髪、四藁がゆずきを救出した。あいは人面蜘蛛の制止も聞かずに現世に帰還し、再びゆずきと相対する。2人の前には、幼かったあの日のゆずきの幻影が現れる。「誰も来なかった。あなたはひとりぼっちだった」。あいの言葉に、ゆずきは頷くと再び憎悪を募らせる。しかし、あいはゆずきの記憶を遡り、ゆずき自身も地獄送りにあった数々の人々を見殺しにしてきたことを指摘する。「あれはどうしようもなかった!」と訴えるゆずきに、あいも「そう、仕方がなかった」と頷き、目に涙を溜める。
 
 地獄少女の涙。1粒の雫に、ゆずきはあいの内面を初めて見る。「仕方無かった」。その一言がゆずきの心を溶かした。真山梓も、あの頃のゆずきと同じように、被害者でしかなかった自分の親のために人生を狂わせた。高杉はその姿にどうしようもない諦観を覚え、ゆずき自身も、幼い自分とだぶった真山を見てその怨みの念を揺るがせる。しかし、再び現れた人面蜘蛛は、やはりゆずきにその罪を問う。その間に割って入ったあいは、「私が代わりに裁きを受ける」と申し出た。「人の世に怨みの消えぬ限り、お前は永遠に仕事を続けることになる。もう2度と解放されることは無い。それでもよいのだな?」。人面蜘蛛の問いに対して、あいは沈黙することで肯定の意を表した。
 
 閻魔の魔力がほとばしり、辺り一面に真っ青に輝く彼岸花が咲き乱れる。それと同時に、足下から存在の消え始めるゆずき。恐怖におののくゆずきを、あいがしっかりと抱きしめて口づけを交わす。最後の接触を通じ、ゆずきの中にあいの記憶が流れ込む。「あなたは、私なのよ」。あいは自分自身であり、ゆずきの人生もまた、あいの人生そのものであった。「あいには彼氏がいたんだ。それだけがちょっぴりうらやましい」。
 
 最期にありがとうの一言を残し、ゆずきは天に還る。真っ青に咲き渡る手向けの彼岸花の中、あいがただ立ち尽くす。やがて、日の光はゆずきの存在を示す彼岸花を、ゆっくりと三途の向こうへ消し去った。あいが自宅に戻ると、四藁達があきれ果てた顔で出迎えてくれた。
 
 残されたのは、数々の景色の断片。満開の桜の木の下、取り壊された団地。真山梓の家には、静かに安置された遺骨。空港に帰国した辻之橋の息子。それを出迎え、倒れかかるように刃物で一突きする真山梓。その瞬間に真山は消え去る。高杉の家の家政婦が、主人の無念を晴らすべく糸を解いた。
 
 怨みの連鎖は続いていく。
 
 悲鳴の飛び交う空港に、セーラー服をまとった少女が1人。
 
 赤い目をしたその少女の名前は、閻魔あい。
 
 
 <解説>
 最終話のレビューは、予想通りまとめるのに時間を要した。おかげで随分冷静にはなっているが、もう1度見直すとやはり色々とこみ上げてくるものがある。最終話を見た直後につけた点数は9。過去2作の最終評点は8点であったから、この点数はシリーズ最高値ということになる。これはひとえに、3作目というシリーズの重圧を乗り越えたことに対する評価だ。他のアニメと違い、この「地獄少女」シリーズはそれなりに「意外な結末」を用意する必要があるために、回を重ねるごとに構成はキツくなるはずだが、そこをクリアした上で、1本のアニメシリーズとしてもそつなく終焉を迎えられたことは素直に評価したい。思い返せば1期シリーズは単純に「仕事人シリーズ」だったはずなんだよなぁ。
 
 先に書いておくと、2期のエンディング同様、やはりこの最終話にもわだかまりは残っている。一番気になったのは、25話かけて構築してきた「ゆずきの怨み」というファクターが特に明示的理由も無いままに解けてしまったことだ。もちろん今回の作中で最大限に「怨みの浄化」については描かれているのだが、本来ならばもう少し時間をかけて描いてもいい部分であったろう。また、ゆずきを看取ったあいの心情についても、何となく消化不良の感がある。「同病相哀れむ」という理由こそあれ、あいはこれまでのシリーズで情愛深い聖人君子のように描かれてきたわけではない。元を正せば普通の少女だったのだ。そのあいが、いかに同情したとて、「永遠に地獄少女の任から解放されない」という運命を背負ってまでゆずきを助けた理由が分からない。もう少しゆずきとの心の交流が描ければこの最期の選択にも説得力が出たとは思うのだが。また、せっかく解放されていたはずのあいが再び地獄少女としての運命を受け入れたことによって、あれだけの苦労をして解放される過程を描いた「二籠」の存在意義がちょっと薄れてしまうのも残念。そういえば柴田親子はあれだけ絡んできたのに、紅林拓真は一度も登場しなかったなぁ。「日暮れ坂」でまた地獄流しの連鎖の傾向が見て取れたので、その辺りからラブリーヒルズ編に絡めるという手段もあったとは思うのだが。結局「連鎖」という要素は最後に捨て置かれてしまった。
 
 とまぁ、「無難なエンディング」を迎えた脚本部分に不満は残るものの、2期の時よりもエンディングへの流れは自然なものであったのは確か。最後の最後がきちんと「鬱エンド」になるという「地獄少女」らしさもきちんとおさえてあり、このあたりは金巻さんがきちんと心得ているということだろう。
 
 そして、今回一番嬉しかったのは、何といってもコンテを切っているのがあの小滝礼であるということ。「二籠」で惚れ込んで毎回楽しみにしていた小滝コンテだったが、この「三鼎」では「藁の中」を最後に25話まで登場しなかった。「あー、流石に最終話は監督が受け持つんだろうなー」と思っていたので、視聴時に小滝さんだと気が付いた時には飛び上がらんばかりだった(また分かりやすいコンテ切ってくれるんだ)。これまで私1人で「すげえすげえ」と盛り上がっていた小滝礼なのだが、世間的にはあまり話題になっていない。そりゃ、なかなかコンテ1本で名前が知れ渡るアニメーターなんていないのだが、それでもここまでの技巧派ならもう少し取りあげられてもいいと思っていた。それが表に出てこないってことは、実は自分のアニメ視聴体制はよっぽど特殊なんじゃないかと不安になっていたのだが、最終話でコンテを任されたということは、少なくとも現場では信頼のおけるクリエイターであると認められているということ。良かった、間違ってなかった。当然のごとく、今回も非常に含意に富んだ小滝節が炸裂している。
 
 さて、前置きが長くなったが、1つ1つの要素を見ていくことにしよう。まず、前回からの引きで不覚にも気付かなかったのが、「辻之橋交通」という賽河原を牛耳る一族の存在。真山梓の父親の事件、そしてゆずきの父親の事件。それをもみ消した秋恵の父親。御景、高杉、真山という3つの家庭の繋がりは、前回既に提示されていたものだった。25話で辻之橋交通の社長が事件を握りつぶした描写の時に、同じ部屋には高杉署長がいたのだ。実際25話を見ている時に「あれ? 秋恵の親父さん?」と思ったのだが、一言もしゃべってくれなかったので確認出来ずに流してしまった。万丈ボイスで一言でも喋ってくれれば気付けたのに。正直なことをいうと、「高杉署長は清廉な人である」というイメージが強かったので、実際に辻之橋の事件を握りつぶすのに加担していたとは考えていなかったのである(つまり、真山梓は単なる逆恨みだと思っていた)。この3つの家庭の繋がりというファクターは、今回のゆずきの復讐劇を非常にうまい具合に(言い換えれば非常に都合良く)演出してくれる。高杉署長を通じて「地獄少女」となったゆずきの怨みの矛先は「高杉」「御景」の共通の敵である真山に向かい、予期せず任務が中断することで、ゆずきが暴走する。そしてその暴走を止めるファクターとなるのが、さらに「真山」と「御景」の共通の敵となる辻之橋である。短い時間の中でゆずきが暴走し、さらに沈静化するための舞台設定としてはこれ以上のものは無いだろう。
 
 また、この高杉の家を巻き込んだ復讐劇には、御景ゆずきという女の子の、あいとの決定的な違いを浮き彫りにするという側面もあったと考えられる。ラストではあいとゆずきが「私とあなたは同じ」と繰り返しているが、ゆずきの暴走した憎悪は、あくまで親友であった秋恵に対する復讐劇の側面を持つ。これが自分の「生まれの不幸」を呪うエゴイスティックな「怨み」であるならば、その矛先は辻之橋に向かうはずであった。だが、ゆずきの暴走は、あくまで秋恵のための復讐である。その秋恵は、ゆずきの本来の敵であるはずの辻之橋に加担した高杉の娘なのだ。ゆずきの怒りは、自分の生まれを呪ったものではなく、純粋に利他的な復讐心を根源とする。それに対し、あいの怨みはどこまでもいっても「利己」の復讐。自分を人柱として生け贄に捧げた村を怨み、最終的に自分を見捨てた柴田仙太郎を怨んだ。そうして怨みの炎に村1つを消し去ったからこそ、「怨みの権化」たる地獄少女の任に付かされたのだ。
 
 そうして考えると、やはりゆずきという存在は根本的に地獄少女には向いていなかったとも考えられる。怨みの規模も、そしてそれにともなう咎も、あいとはスケールが違うのだ。最後にあいが見せた包容力は、長年の経験に裏打ちされた、真の地獄少女として威厳であったのかもしれない。ちょっと余談にはなるが、暴走したゆずきは怨みの念を手中に貯めて、黒い衝撃波のようなものをあいに見舞っている。これは実は、あいが1期で暴走した時に柴田親子に炸裂させた技と同じもので、地獄少女の持ち技みたいなものなのだろう。ただ、ゆずきの衝撃波はあいが軽く吹っ飛ぶくらいのもの(せいぜいボディブロー1発分くらい)だったのに対し、あいの放った衝撃波は、柴田親子2人をはるか滝壺に吹き飛ばし、岩盤を抉っている。そういや20話では掌底一発で溝呂木博士のマシンを破壊していたし、やはりあいの持つ潜在能力は相当なもの。人面蜘蛛も優秀な人材の終身雇用が決定して一安心だろう。
 
 今回非常に興味深かった要素の1つに、最終話を象徴するサブタイトルがある。過去2シリーズの最終作は1期が「かりぬい」、2期が「あいぞめ」。エンディングテーマのタイトルとあわせてあったので、当然のことながら3期の最終話は「いちぬけ」であったはずだ。しかし、実際にはまったく関係ない「魂の軌跡」というもの。この「ずらし」自体が、今回の物語を象徴しているともいえる。「いちぬけ」とは、もちろん任務を交代してあいが「地獄少女」業務から外れることを意味する。実際に一度はゆずきにその役目を任せ、あいは地獄少女という苦役から「いちぬけ」するはずだった。しかし、実際にはそうはならず、逆に永遠に「ぬけ」ることの出来ない存在になってしまっている。当然この結末は放送前から決まっていたことであろうから、わざわざエンディングテーマのタイトルを「いちぬけ」にしておいてそれをひっくり返すという趣向はなかなか興味深い。
 
 もう1つ気になったファクターとしては、柴田つぐみの存在があげられるだろうか。つぐみは、結局地獄少女となったゆずきを助けることが出来ず、失意のままに賽河原を去ることになった。この「三鼎」において、彼女が果たした役割とは一体なんだったのだろうか。1つは非常に明確で、「地獄少女の運命」というものの伝達役。24話では「地獄少女というシステム」についての長口上を聞かせてくれたし、20話ではゆずきに対して「運命とは、本来抗えないものである」と忠告している。数多くの地獄流しと「地獄少女になる運命の少女」を見てきたつぐみは、当事者たるあいやゆずきとは別の視点から、地獄通信というシステムを客観的に見ることが出来る唯一の視点である。そして、客観的に受け入れられるからこそ、つぐみは「諦観」の象徴でもあった。24話では「私は見ることしか出来ない」と嘆息し、最終話でも「抗おうとすると何かが邪魔をする」と嘆く。この「邪魔をする何か」というのが骨女の言った通りに柴田一なのかどうかは定かでないが、親子2代で必死に抗った経験こそが、彼女の最大の枷になっていたのは確かであろう。この表面化された「諦観」、「システムとしての理解」は、地獄通信を肯定する一要素としても機能しているが、最終話では「仕方無かった」の一言がゆずきを暴走から引き戻すためのファクターとしても働いている。非常に大雑把な運命論でしかないのであるが、「地獄少女に流される」という理不尽も、「地獄少女になるほどの責め苦を負う」という理不尽も、結局ひとくくりにしてしまえば「運命」で片がついてしまうものである。それはもちろん、閻魔あいが「永遠に地獄流しを続ける」ことに対しても言えることだろう。あいの「永遠の継続」とつぐみの「永遠の別れ」は、供に地獄通信を理解しているからこその共通性だ。「二籠」で与えられた結論は「人は怨みに身を任せるだけではない」という一縷の希望であったが、改めて「三鼎」で描かれたのは、「それでも、人の世に怨みの消えることは無い」というこの作品の最上段のテーゼと言える。柴田つぐみという存在は、こうしたテーマ性を、シリーズ全般を通じて伝達し続けるメッセンジャーのようなものであったのかもしれない。
 
 さて、ここからは具体的な演出の観察である。物語としての密度が決して低くなかった今回だが、ラストシーンなどの間のもたせ方は、決して駆け足には見えない腰の据わった演出であった。何故こうして余裕を持って全てを描画出来たかといえば、そこにはイメージから最大限に内情を描写する演出力があってこそ。今回注目すべきは、この「地獄少女」という作品では常に意識されてきた「月」と「花」というモチーフと、今回非常に分かりやすかった「光」「色」というモチーフ。
 
 「月」については、過去にも何度か印象的に登場したツールであるが、今回の「月」は、一つあり得ない状態になっていた。それは何かというと、「三日月」である。これまで夜のエピソードを描く際には月が登場することが少なくなかったが、そのどれもが空を一杯に満たす満月であった。「藁の中」などではこの月が真っ赤に染まり、閻魔あいの存在感を際立たせる役割を果たしたりもしていた。しかし、今回初めて、その月が欠けていた。これは、地獄少女としての「閻魔あい」の存在が「欠け始めていた」ことを含意する。月が魔力を秘めるという話も良くあるものなので、このリンクは自然なものだろう。高杉とゆずきが2人で公園に出向いたシーンでは、「空一杯の三日月」→「公園のまん丸な街灯」というカットのつなぎが見られる。これは後述するが、公園の街灯はゆずきの持つ魔力を含意する。「巨大ながらも欠けた月」と、「小さいながらも形状の満たされた街灯」というカットのつなぎは、視覚的にも非常に明示的に2人の地獄少女の差を伝達するものだ。
 
 「花」については、主に2つ。1つは前回から引き続いての「桜」。今回はほとんど桜は登場していないが、ラストシーンではゆずきのすんでいた団地の取り壊しのシーンで満開の桜が描写されている。一瞬これがゆずきの母親の埋葬された、あの山童の桜かと思ったのだが、ゆずきの母親が埋葬されたのは団地の近所ではなくて神社の境内だった。そう考えると、あの桜は「団地にまつわる何者かの死」、つまりはゆずき本人の冥福を祈る意味だったのではないかと考えられる。春を舞台に幕を開けたこの「三鼎」だが、綺麗に季節を一回りし、桜の中で幕を閉じた。そしてラストシーンを彩るのは辺り一面の彼岸花。この彼岸花はあいと共通の、つまり地獄少女としてのモチーフであるが、その色は奇妙に醒めた青。この色合いについては、次の「光」という要素にも大きく関係する。

 今回最も興味深かったのは「光」の「色」の使い方である。象徴的な色合いで言えば、「地獄少女」のイメージカラーは赤である。あいの目の色や、変貌したゆずきの目、そしてあいの顕現する夕暮れの丘と家の回りに咲き乱れる彼岸花と、閻魔あいは赤に彩られる。それに対し、今回ゆずきを象徴する色はその状況に応じて変化する。冒頭で自宅から出撃する際にはあいにほど近い夕暮れの赤に染まっているが、暗がりの高杉署長の家に現れたときは、ゆずきの背後は薄桃色の光で照らされる。最初は次元の裂け目から現れたゆずきの背後が光源であったが、次のシーンでは高杉の背後にある窓からも同じ色の光が差し込み、部屋の中が鮮烈な光で染まる。この「明るさ」は地獄少女としてのゆずきの力の現れなのだろうが、あいのようにシーン1つを具現化するのではなく、あくまで高杉の書斎を染めあげるに留まった辺りに、先代との差も感じさせる。もちろん、光の色が薄桃色なのは、前述の通り桜のイメージだろう。ゆずきが初めて地獄少女としての力を持ったのは、目に赤い光を宿した母親の埋葬時、つまり満開の桜の中である。
 
 そして、次の公園のシーンでは、この薄桃色の光が赤みを失い、完全な白色になる。具体的には、つねにゆずきの背後に公園の街灯が輝くようにアングルがとられているのだが、この街灯の白色光が、ゆずきの地獄少女としての「光」の役割を担う。それが証拠に、同じ公園にあいが現れた時、あいはその背後に自らの象徴たる「夕暮れの赤」を背負って登場する。そしてゆずきを引き止める際には一瞬この「赤」が画面を支配するが、すぐにゆずきが押し返し、背後から指す街灯の白色光があいの「赤」を飲み込む。暴走したゆずきは、最終的に光のささない暗い夜道へと消えていく。薄桃色→青白色→闇というゆずきを照らす光の変化が、実に的確にゆずきの内面を描写しているのだ。
 
 そして、別れのシーンでは人面蜘蛛の能力が発動した後、三途の河原に真っ青な彼岸花が咲き乱れる。この「青い彼岸花」は実は1話でも登場したものであり、まだ実体をもたなかったあいの象徴として青い蝶を伴って描かれたものだった。それが今回は一面に展開し、それと同時にゆずきの存在が消え始める。この「青白色」は、上記の流れで分かる通りに、次第に地獄少女としての力を失っていったゆずきの象徴である。それが証拠に、ゆずきが消滅した後、この彼岸花は日の光に照らされ、ゆずきの後を追うようにして鳥居の向こうへと消えている。シリーズ全体を通じてみると、1話では鳥居の向こうから青色の球体が登場し、これが青い蝶となってゆずきに憑依するところからスタート。ゆずきが一度はその瞳に「赤」を宿すも、最終的に再び元の「青」に戻って、また鳥居の奥へと還っていった。「色」と「光」という非常に基本的なツールの使い方1つで、シリーズの統制の取り方や、キャラクターの内面描写にもまったく違った印象が与えられる。相変わらず、この人のコンテには得難い緊張感と充足感がある。
 
 他にも、あいが初めて涙を流すシーンや、ゆずきの別れのシーン、そしてラストの真山梓の消失シーンなど、言葉やカットを重ねずとも、ただ画だけで全てを伝えられるというのも、演出家の腕による部分が大きい。最後にあいが振り返る一連の動作に至るまで、一つも気の抜けない、実に理にかなった一本であった。
 
 最後に、やはり欠かせないのはキャストへのお疲れ様。といっても、最終話で語るべきはたったの2人。閻魔あい役、能登麻美子と、御景ゆずき役、佐藤聡美。佐藤はこれが明示的なデビュー作と言ってしまっていいだろう。最終話ではやってほしかった「闇にまどいし……」こそ聞けなかったが、契約の口上と「イッペン、シンデミル?」が聞けたのは僥倖。あの能登麻美子の後がまなのだから物凄い重圧だったとは思うが、「御景ゆずき」を残しながらの「地獄少女」はきちんと成立していたと思う。ここまで難しい役を、四苦八苦しながらもきちんと完成させたのは、彼女の役者人生において大きなプラスになったことだろう。今後の活躍を期待せずにはいられない。そして、そんなゆずきのチャレンジがあったからこそ、さらに際立ったのはやはりあいの存在だった。今作はお世辞にも出番が多いとはいえなかったあいだが、少ない台詞の中でも十二分にその存在感を発揮出来たのは圧巻。特に今回は涙を流す直前の一言に背筋が震えた。万感の思いを込めて呼びかけるあいの心情は、全てを乗り越えた上でのあふれ出る思い。やはり、能登のボイスは魔性。
 
 
 全76話が幕を閉じたこの三鼎。流石にもう、流石にもうこれ以上は無理な話だとは思うのだが……あいが仕事を続けるということは……
 ある? ……のか?

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