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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 予定通り、2回目の視聴を果たしたので書き足しです。このエントリーの執筆意図は、初回視聴はあまりにも感情的になりすぎて受け止めきれなかった今作の技巧的な部分をいくらか拾っていくことにあります。「映画の感想文」としてはおそらく初回感想の方が適切だと思うので、できたらそちらを先に読んでいただく方がよろしいかと思います。今回の記事では面白いとか面白くないとか、そういう話は特にしないということです。面白いことは大前提ですが、やっぱり今作の狙いを考えると、「面白い」という言葉だけで捉え切るのは無理なんじゃないかと思うので(まぁ、どんな作品だってそうなんだけどさ)。

 

 

<以下、ネタバレも含めた内容になるので未視聴注意>

 

 

 




 

 さて、2度目の視聴ということで自分としてはかなり冷静に観ることができたと思う。何が起こるかは全部わかった状態だし、結末を知っていればそこに至るシーンの制作意図を読み解くこともできるようになる。まぁ、結局こういう映像作品ってのはどこまでいっても「私はそう読んだ」というだけの話なので、スタッフの人たちがどんな狙いを持って作っているのかは分からないのだが……あくまで一視聴者の妄言として捉えていただければ。

 まず、序盤のシーンを見ていて1つだけ「惜しいな」と思う部分が出てきたので先にそれを書いておこう。まぁ、人によって見え方の違う部分なので本当に身勝手な話なのだが、実はこの作品、スタート時点で「いつの時代の話かわからない」のである。冒頭のみぞれと希美が2人で音楽室へ向かうシーン。その時点では「制服の2人が黙って歩き続ける」というだけなので、楽器を持っていたとしても、それが1年生のときの思い出だったのか、3年生になってからの話なのかがわからない。事前情報で「この作品はテレビシリーズの後の話です」と分かっていれば後者だと判断できるかもしれないが、それでもこの2人の物語なのだから、1年生当時の回想から始まる可能性もあるわけで、冒頭のシーンは「いつのみぞれと希美なのか」があやふやなままでしばらく進行するのだ。はっきりと「現在のことなのだ」と確定するのは、優子が遅れて音楽室に現れて「部長」と呼ばれるシーンである。この冒頭のシーンで描かれているみぞれと希美の関係性は、ストーリーが進んだ後の2人の関係性と対比される非常に重要なシーンであり、あらゆる部分に意味が篭っているのだが、視聴者がこれを「現代のことだ」確定させられないのでなかなか意味が取りにくい。私も最初の視聴時点でこれが3年生になった後のことなのだと確定できてたら、最序盤からもっと情報が多く取得できていたのではないかと思う。そこはちゃんと最初に描いておいて欲しかった(私が気づいてないだけでちゃんと手がかりはあったのかもしれないので、その時はごめんやで)。

 言い換えると、これはつまり、2回目の視聴時にはこの冒頭のシーンからもたくさんの情報が得られたということである。まぁ、まとめると「みぞれの偏愛」なんですけどね。前回の記事でも書いた「歩み」の執拗な描写と、「率いる者」としての希美、「従う者」としてのみぞれの対比。また、初回では気にしていなかったのだが、考えてみれば同学年の友達同士の登校シーンとしては、みぞれが希美の数歩後に従い、一定の距離を置いて移動しているというのもなんとも珍妙なシーンなのである。普通、女子高生が二人で連れ立って歩くなら横並びになるもんね。そうはならずにみぞれが「師の影踏まず」みたいな状態になっているところから、すでにこの物語の突端は現れていたのである(ラストシーンでは当然横並びになっている)。

 そして音楽室についてからの二人の対話。前回「今作は百合とは言えないかもしれない」みたいなことを書いたし、実際にゴールとなる大目標を百合とするのは現時点でも抵抗があるのだが、やっぱりこの子らは百合だわ。二人きりでの音楽室のシーン、絵本を持ち出した希美と、それを後ろから恍惚の表情で眺めるみぞれ。その表情はさすがに危うすぎるぞ。この段階でのみぞれさんは、完全に「希美の犬」であることを良しとしているのだな。まぁ、「希美の選択が私の全て」とまで言い切っているのだから、前半パートのみぞれさんは非常に分かりやすく従属体質のままであったのは間違いない。

 以下、幾つかトピックを分けて読み解きを続けていく。

 

 

・童話「リズと青い鳥」

 前回の感想であえて踏み込まなかったのが、作中で的確に挿入されていく童話パートである。初見の印象では「二人の関係性を象徴した分かりやすいアイコン表示」くらいにしか思っていなかったので、「相変わらず京アニは気が狂ったような映像表現を叩き込んでくるな」くらいの感想で特に触れるまでもないと思っていたのだが、やはり、作品の根幹をなす重要な要素の1つとして、その存在感を無視するわけにもいかないということが分かった。

 幻想的な情景と、作品世界がシームレスに繋がっていくような境目の無い演出は劇場作品として一本の映像を刺激的にする意味が込められている。本作はほとんどのドラマが学校の中だけで進行していくため、本来ならば非常に退屈な画面になるはずなのである。「ユーフォ」本編はコンクールの会場が全て違っていたし、各キャラクターの自宅や河原など、高校生活という縛りの中でもシーンは移り変わっていたのだが、本作はみぞれや希美の自宅が登場することもなく、なんとほとんどのシーンを音楽室周りの練習シーンだけで構築している。パンフレットに書かれて情報だと、この「閉ざされた学校空間」は「リズと青い鳥」における鳥かごのイメージと重ねられており、限られた世界の中で人生を歩んできた少女たちの「狭さ」を表していると言える。作品全体の構造を見ると、冒頭が「学校へ入る」(登校シーン)、そしてラストシーンが「学校から出る」(下校シーン)になっていることもこうした「籠」のイメージが分かりやすく現れているところだろうか。最終的に、みぞれたちは「青い鳥」となり、狭い世界から飛び立っていくのである。

 そんな極めて「狭い」作品であるが、90分の視聴中に「退屈だな」と思うタイミングが一度たりともないのは、もちろん濃密な描写があってこそだが、この童話シーンの挿入がいいガス抜きになっているためだ。単なる教室の並びだけでなく、適度に挟まる緑豊かなリズの家の描写は、現実と非現実を渡り歩きながら、適度な刺激を提供してくれる。

 「非現実」という書き方をしたが、童話パートがはっきりと「現実ではないよ」という区別されるというのも重要な要素だ。背景を中心とした作画の明確な区別のおかげで、(当たり前のことだが)現実パートと童話パートが混同することはない。あくまで童話はメタファーであり、みぞれたちの生活そのものに影響を与えているわけではないのだ。そう考えると、本田望結という「素人」を配役したのも案外面白い効果である。あえて批判を招きそうな「素人」という書き方をしたのは、やはり彼女の演技プランが他の声優たちとはかなり異なったところにあるため。しかしこれは決して下手なわけではなく、また別な「役者」としての立ち位置が現れたものと言える。そうして演技プランの部分で「違う次元があるよ」ということがはっきりと分かるので、音響部分からも「現実と非現実」が明確に線引きされるのは視聴者にとっては助かる部分なのだ。もちろん、蛇足だ知りつつ補足しておくと、「リズ」と「少女」が一人二役担っているのは、作品の途中でみぞれと希美の立ち位置が逆転することをサポートするため。みぞれは最初「リズ」だったが最後には「青い鳥」になり、希美は自分を「青い鳥」に例えようとしていたが、その実、籠の鍵を開けようとしない「リズ」であった。そうした二面性を表すため、リズと少女は「同じ人物」である必要があったのだ。

 

 

・「方向付け」の問題

 私は、世界で最も尊敬するアニメ監督が今敏であるせいもあるが、殊更に画面の記号的な読み解きというものを偏重したがる傾向にある。例えば今作では「色」がどのような働きを成していたか、なんていう部分は2度目の視聴でチェックしたかった部分の1つ。というのも、ラストシーンで青い鳥が飛び立ったシルエットが残り「青がにじんで変色する」という演出が入ることを知っていたためだ。今作では「青」ははっきりと象徴的な役割を果たす色なのは間違い無いのだが、それでは、他の色はどうだったのか。

 なかなか明確な線引きが難しいが、やはり青という寒色系と対比をなすのは赤・黄などの暖色ということになる。分かりやすいところではリズのイメージカラーは黄色が基調になっており、髪の毛は金髪(作品世界としては赤毛なのかな?)、着ている服も黄色や茶色がベース。さらに彼女が作る料理はトマトスープにベリーのジャムなど、赤系統のものばかりである。そう考えると、ざっくり「赤・黄」がリズの色、「青」は「青い鳥」の色というわけ方になる。作中でリズが少女の対して「赤い実の髪飾り」をつけることで自分の所有を主張し、「私とずっと一緒にいて」と訴えている。対して少女は、夜中に飛び立つ時にはこの赤い実を置いて行かねばならないし、印象的だった別れの日の朝には、少女は籠いっぱいの赤い実を地面にぶちまけ、「赤」との決別を暗示している。これらの童話パートでの存在感を考えるなら、最後に「青」とそれ以外の色が混ざり合う演出は、みぞれと希美という2つの人格が互いに2つの役を譲り合い、奪い合い、最後にはないまぜになったことの表れだと考えられる(jointである)。一応、作中の現実パートでもこうした「色」で象徴的なシーンが無いかと探してはみたのだが、残念ながらあまり明示的な部分はなかった。北宇治の制服が青基調だからどうしてもねぇ。強いていうなら希美のつけている腕時計は暖色系なのだが……さすがに邪推のレベルだな(ちなみにみぞれの所持品で象徴的な赤いものは糸巻きである)。

 で、「色」のファクターに関しては童話の中だけにとどまる話なのだが、より印象的だった「方向付け」という話が、端的に「画面の左右」の描き方である。実は本作に限らず、基本的にアニメにしろドラマにしろ、「左右」は非常に重要な要素である。例えば同じ二人の人物が話しているシーンでも右左をポンポン入れ替えると訳がわからなくなるので、なるべくこれは固定する方がいいと言われている。そして、本作では明確に「左側に中心点を置く」という傾向が見て取れる。舞台演劇などの世界では一応(視聴者から見て)左手側が下手(しもて)ということになっているのだが、今作では、意識の流れが「左→右」で形式的に方向付けられている(これは伝統的にそういう傾向があるらしいが)。そのシーンに置いて重要な役割を果たす人間は左におり、右に向かって話す。左から右への意識の流れの方が抵抗が無いので、主軸となる人物は必ず左から言葉を「降ろす」ようになっている。例を挙げると、例えばみぞれとリリカの対話シーンは必ずみぞれが左、リリカが右。新山先生がみぞれと相談するときも、先生は頑なに「右側」に収まっている。

 この左右の関係性が重要になるのは、みぞれと希美という二人のヒロインが対話するシーンにおいてである。2度目の視聴での気づきだが、ほとんどのシーンで、左にいるのは(つまり意識を置くべきは)希美なのである。クライマックスとなる大好きのハグシーンもそうだし、ラストシーンもそうだ。また、「左から右への動き」は流れに沿った自然なものになることが多いのに対し、「右から左」はそうした力場へ抗う力、何らかの「意に沿わぬ流れ」や「抵抗」が現れることが多い。個人的に最も印象深かったのは、みぞれが初めて音大のパンフをもらったことを希美が知るシーン。このシーンでは、希美たちは右から左へ歩を進め、それまで軽快な「歩み」を見せていた希美が、初めて何かに気づいたように「足を止める」という動きを見せる。このシーンこそが、端的に希美の変化が現れた転機となるシーンである。他のシーンでも(全てというわけでは無いが)「右から左へ」という動きは何らかの抵抗を生む動きを内包していることが多いので、もし余裕がある人はチェックして見てほしい。(ちなみに、中川・吉川コンビが出てくるシーンで左側にいるのは中川先輩である!)

 

 

・希美という女

 最後のメイントピックは、テレビシリーズも含めて結局どこまで読み解けたかも定かでなかった、傘木希美というキャラクターそのものについてである。不器用で、考えていることもすぐにわかってしまうような「ハイパー希美好き好きマシン」のみぞれと違い、どこまでも飄々としており、内実の読めない女。彼女がどこで何を考えていたのか、というのが、結局はこの作品の中心となる読み解きなのだろう。ただ、2度の視聴を通じて、本当にこの娘は「素直に振舞っていただけなのだなぁ」ということを感じた。例えば最初の音楽室のシーンで絵本を読みながら「これってあたしたちに似てるよね」という重要なセリフを漏らすわけだが、この時点で彼女がどちらをリズだとみて、どちらを青い鳥だと思っていたか、なんていう部分は邪推してもしょうがないところなのだ。彼女は本当に何も悪びれることなく、「ひとりぼっちのリズ」はみぞれのことだと思っただろうし、そこに気まぐれに遊びに来て、かけがえのない友人になった青い鳥を自分に例えた。そこには上下関係などなく、単に二人の出会いが偶然に恵まれた、幸せなものだったことを表したかったのだろう。そしてその後の「ハッピーエンドが好きだな」という言葉も後になって考えれば本当に意味深であり、当人は「ずっと一緒でいいじゃん」という気楽な発言だったはずなのだが、後になって立場が入れ替わってからのことを思えば、ずっとみぞれが唸っていた「大好きな人を自ら手放すなんて理解できない」という発言と同じなのである。ハッピーエンドを望んだ彼女は、結局、籠の鍵を開ける必要性すら感じなかった、籠の中の鳥であったのだ。

 そんなあっけらかんとした彼女だからこそ、その後も自分の気持ちの赴くままに動いている。上述の通り、二人の関係性の転機となったのは音大のパンフの一件から。それまで小気味好くリズムを刻んでいた彼女の「歩み」が歩を止めたのはその時が最初であり、さらに優子たちと話をしながら「みぞれは音大に行くんだよね」と自分で話を振っておいて、チクリと何かを感じた時にも彼女の足は机の下でキュッとすくむ。廊下で新山先生と話をしている時も彼女の足は頼りなさそうに後ろでまごつき、それまでのように確固たる「基盤」ではなくなっている。少しずつみぞれの可能性に気づき始め、自分が収まった「籠」を認識してしまったが故の混乱である。

 そして、本作は何事も音楽で決着をつけてくれるから分かりやすくて助かる。決定打となったのは麗奈と久美子の演奏を聞いたところ。そこで優子たちに自分の心情を打ち明け、決して自分が「青い鳥」でなかったと知る。さらに翼を広げたみぞれの演奏を見せつけられることで、本当に失いたくないと思っていたのが自分の方であることを痛感し、打ちのめされてしまうのである。そこで逃げ出していればまた結末も違ったのだろうが、その後は二人きりで全てをぶつけ合うという残酷な顛末も待っている。あらゆる「好き」を詳らかにするみぞれに対し、彼女が振り絞った答えは「みぞれのオーボエが好き」。ことここに及んで、希美はそういうしかなかったのである。そして、それしか言えなかった自分を認識したことで、全てに決着がついたのであろう。彼女は乾いた笑いをあげる。その直前に、みぞれは「希美の笑い声が好き」と言っていたが、改めて、彼女から漏れ出した笑いには、いったいどれほどの「好き」が混ざっていただろうか。

 

 

・総括

 こうしてみると、私はどうやら初回視聴時に「みぞれの成長物語」として作品を鑑賞したが、2度目は「希美の成長物語」として観ていたのだと思う。どちらが中心とか、どちらが正解ということではなく、見方によっていくらでも「意味」が生まれてくる作品なのだろう。これとは別に、ただひたすら妄信的なみぞれの偏愛の物語として受け入れることだって不可能ではないだろうし、旧作のように「北宇治高校吹奏楽部」の成長の一端と捉えることもできるかもしれない。それだけの見方が可能な厚みを持った作品なのは間違いない。そして、これだけの作品を作り出してしまった山田尚子・吉田玲子という二人のクリエイターの「偏執」と、それを許容した京都アニメーションという製作会社の命知らずな蛮勇を評してこの文章を締めくくろう。これだけ偏った、(悪い言い方をすれば)趣味趣向に全振りした作品が超絶クオリティで楽しめるというだけで、これ以上に現代日本に生まれた幸せが感じられる瞬間もないのではなかろうか。

 

 

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