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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 以前書いていた「今期日高里菜リスト」に誤りがありました、第10話。リストでは6キャラとカウントしてたんですが、こないだ「盾の勇者」観てて「あ、フィーロ忘れてた」ってなって、さらに今回こばちのことも思い出したので、総勢8キャラに修正されます。つまり、もう毎日1回くらいは日高里菜ボイスを聞いてる計算になるな。

 今回は大きくわけて3つのパートがあったわけだが、そのどれもがやたらパワフルで今作のエネルギーがよく出ていた回だと思う。いつものように監督コンテなのかと思いきや別な人(牛嶋新一郎という人)がコンテを担当しており、各パートで緩急つけながらそれぞれに面白い方向性に持っていけてるなぁ、と感心した次第。まぁ、今作の持つ独特のテンション芸は3期目ともなると既にスタッフには共有された感覚なのだろうけど。

 Aパートは下手なエロアニメよりもエロいんじゃないかと思えるバイノーラル音声のお話。犠牲になるのが四宮姉妹(?)、そしてミコちゃんという配置がたいそう扇情的で、嗜虐心をそそりつつ、女子高生イメージプレイで妄想を掻き立てていく。これこそイメージ音声の本領発揮。実際に今回のお話をゴリゴリの高音質で収録した音声とかを販売したらそれだけでも高値で売れそうである(我が家のテレビがショボいだけで、まじでそういう音響で収録されてた可能性はあるが)。「耳は大事な性感帯」という真理を追求する、とても貪欲でアニメ向きなお話です。

 Bパート、藤原妹登場。過去に登場したかどうかすらよく覚えてないのだが、姉が小原好美、妹が小澤亜季とかいう壊滅的な構成になっており、サイコパスと言われるのも当然の配置。姉妹で並べてみて藤原千花がそれなりにまともに見えるってのも驚異である。まぁ、藤原書記は時たますごく真っ当なツッコミポジに収まることがあるので、状況次第だと白銀とかかぐやの隣でもまともに見えることはあるのだけど。藤原書記のキャラのとても良い点は、特に言い訳もせずに清々しいくらいに人間性がクズである部分。実は今作、ラブコメにふさわしくないくらいに人間性がゲスな連中が結構集まっており、石上のメンタリティばかりが取り上げられることが多いが、例えば今回かぐやが藤原妹に向けた視線などは本当にド畜生だし(なかなか人生において「穢れた血筋」なんて言葉はでてこねぇだろ)、白銀だって、石上のあれこれを見てて真っ先に自分の告白計画の成否を心配し始めるあたりは割とゲスい。それでも仲良くやっていけてるのは、みんなそこそこ優秀で、生きる術を心得ているから。そんなところに年若い妹キャラをもう1人突っ込んだらそれはそれで面白そうなのだが……まぁ、藤原家はどっから出てきてもジョーカーみたいな扱いになるだろうしなぁ。

 というわけでCパートが石上の話になるわけだが、石上がメインのように見えて実はこっちも藤原書記が真ん中に居座ってた気もするな。白銀との関係性、決して恋愛には発展しないって分かってるくせに距離感が親兄弟よりも近いってのはある意味理想的なものなのかもしれない。そりゃかぐやにだって唾棄されてもしょうがないか。ミコ&石上とかもそうだけど、内面では血みどろの抗争してんのになんだかんだでいいお友達関係になれちゃってる生徒会の関係性が改めて確認できるのは良いお話だ。

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 こいつぁ……流石に……いわゆる神回認定してしまってもいいんじゃないでしょうか、第5話。いやぁ、ヤベェもんを見せられたわ……。

 前回のシリアス混じりのエピソード回しだって面白かったが、今回は全力でギャグ振り。そして、なぜか無駄に溜めて溜めて炸裂させたラップ回。……いや、普通のアニメに「ラップ回」とかいうカテゴリはないんスよ。水着回とか温泉回ならともかく(それもどうなの)。しかし今回は紛れもないラップ回。そして、登場するキャラクターたちがもれなく自分の持ち味を発揮しすぎちゃう回……やっぱ白銀特訓回の不憫枠に回される藤原書記とても良き。以前のやつも最高に良かったが、やっぱりショキノチカは酷い目にあってこそという気がするな。ま、この作品のキャラは全員そうだという気もするんだけど。

 藤原いじめ、そして白銀転がし。改めて聞いて、中の人である古川さんはめっちゃ歌上手いのに白銀がジャイアン設定なのがほんとかわいそうで、ギャップが故にその(文字通りの)デスボイスのインパクトが増す。普段から攻め側に回るはずの藤原書記が防戦一方になるのも当然で、今回はそこに弱みをほとんど見せないハーサカも巻き込まれる。さらに本来なら蚊帳の外に入れば良かったはずのかぐや様まで乱入して、皆それぞれあさっての方向を向きながら暴れ続けるというカオス of カオス。原作でどれくらいの重要度のお話かは知らんのだけど、きっとアニメスタッフはこのエピソードをやるにあたり、相当な覚悟を決めたのだろう。アニメ的にも異次元の演出が冴え渡っており、今回はなんと「ラップパート」という切り取り方でそこだけはがっつり畠山さんがコンテを切っているという。久しぶりにこういう濃密な素材で監督のヤバさが再確認できましたね……いや、もともとそういう方向でヤベェと思ってた人ではないのだが……多分ラップ回ってことで「ヒプノシスマイク」みたいな作品もチェックしたんじゃないかな。その結果がこれかよ、という話だが。下手したらスタァライトとかにも触れてるかも。新次元の「皆殺しのレヴュー」の開演ですね。

 一応Bパートの四宮エピソードも普通に面白かったのだが、今回の流れだと流石に「箸休め」扱いになるな。何しろエンディングにもう一個爆弾が用意されてたから。なんかもう、「チカっと」のせいで今作はオープンエンドへのあり得ない作り込みが義務みたいになってて大変。消費者側からはこんなにありがたい無駄遣いもないけどね。いいぞもっとやれ。

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 ハーサカ七変化すき、第4話。相変わらず安定感のある作品。今回はそんな安定作品のいろんな要素が盛りだくさんで楽しい回でした。いちいち記事立てしてないんだけど、たまには触れたい。ちなみに今回は畠山監督のコンテ回ではないのだが、きちんとディレクションに統制があるのか雰囲気はブレてない。しかも監督以外でコンテ担当してんのが2話で小原正和、そして今回は亀井幹太と実に豪華な顔ぶれなのだ。恵まれた作品だなぁ。

 Aパートは上に書いたサブタイからもわかる通りに石上の克己編の幕開け。原作読んでないから知らないんだけど、「燕の子安貝編①」ってことは、今後もこうしてターゲットを変えての「無理難題」が続く展開になるのだろうか。ってことは相手の女性もとっかえひっかえになっちゃうの? なんか石上のキャラからするとそういう方向性は似合わない気もするのだが……まぁ、ラブコメ漫画としての正着はどう考えてもミコちゃんルートなわけで、そこにたどり着くまでにいろいろな女性との交流を経て石上が研鑽を積むというのは悪くない展開なのかも。今作は主人公の白銀が(一応)完璧人間として描かれているので、真正面からの成長譚を石上が担当するのは妥当な采配よね。ただ、Aパートはまだシリアスにならずに生徒会室の面々の「嘘である」ラッシュを叩き込むパート。本作が一番盛り上がるのは青山ナレーションが荒ぶっている瞬間であることは論をまたない。そして、藤原書記の嘘が本当にどうでもいいのがいつも通りのこと。

 Bパートはシリアス込みのパートで、毎度のことながら石上がらみのシリアス話はいちいち進行が丁寧である。ここで石上が一念発起して一気に目標を達成しちゃう流れもあったかもしれないのだが、それができないからこその石上。彼が着実に階段を登っていく様子を描いてこそ真に迫っていると言えるだろう。かぐやさんが石上に対して色々と厳しくはあるのだが……ここまで手加減なしで接することができる関係性って、かぐやの人間関係の中では逆に貴重なんだろうなぁあ。

 そしてCパート、一転して「いつも通り」の全力すれ違いコメディ。そしてそこに抜け抜けと絡んでくるハーサカ。ハーサカの厄介極まりないキャラ設定を見れば見るほどに、「これが花守ゆみりかぁ」と思わずにはいられない。ハーサカに絡めば千花であろうと白銀妹であろうと、手玉に取られるのは致し方なし。白銀妹、久しぶりに出てきたけどふつーにかわいいな。

 

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 なにこのエンディング……第3話。本編のあらゆる記憶を消しとばすエンディング、意味わからん。

 あ、それが言いたかっただけなので以上です。いや、でもこういう振り切れ方で見せていくアニメなのだな、っていうのをはっきり示して見せる意味は大きいと思うよ。本編ではメインの「恋愛バトル」ギャグをやり、そこにちょっとした青春風味を混ぜこみ、「白銀もかぐや様もなんだかんだでいいやつじゃん」ってほっこりさせておきつつ、それでも「この作品はとにかく画面をみて楽しんでもらうアニメにしたいんだ」という鉄の意志を感じさせるエンディングを用意しておくことで、単なるいい話に終わらせない。アニメのエンディングなんてものは単にクレジットを乗せるだけのノルマみたいな側面もあるにはあるが、こうして「何かを発信できる90秒」と考えてフル活用させる構成は他作品でも見習ってほしいところである。いや、どんだけ手間がかかるんだって話だが。こうしてみると、本編中のギャグ描写だって一切手を抜いてないことが分かるのがいいよな(ブラックボックスわろた)。

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 松田ァ! 生きとったんかワレ! 最終話!! 激動を生き抜いた最後の証人だ。昭和は終わり平成へ、多くの死が、多くの生を繋ぐ、心中の物語。こんなにも晴れやかな幕引きなのに、何故だろう、涙が止まりません。

 菊さんの死後、時間は飛ぶように過ぎ去ってあっという間の十七年。菊さんが悩みに悩み抜いて作りあげた落語の次の時代はどうなっていたかを見せる壮大なエピローグだ。まず、当然信乃助は噺家に。飛ぶ鳥を落とす勢いの気鋭の天才「2代目」として名を馳せ、立派に新しい時代の大看板を背負っている。菊さんがその存在だけを知って逝ってしまったあの時のお腹の子、妹の小雪も立派に大きくなり、こちらは落語大好きな女子高生に。流石に噺家になりたいとは思ってないようだが、その理由は「聞いてた方が面白いから」。いかにも現代っ子なサバサバした考え方。八雲の落語は難しくてよく分かんないからおとっつぁんが一番好き。樋口先生の言からすると、彼女は八雲の影響力の薄れた現代落語の象徴的な姿か。そして小夏は長年の夢をついに実現させ、この度「小助六」として正式に噺家としての仕事を始める。あの時代では考えられず、小夏自身もあり得ないと思っていた女流落語家という道。ついにその先鞭をつけることに成功したのだ。

 新しい寄席も無事に完成し、めでたい話をたくさん詰め込んで新たな時代の幕開け。その立役者になったのはもちろん与太郎だった。この度九代目八雲を襲名する運びとなった与太。八雲の看板を背負わされたら少しは変わるかってぇと、もちろんそんなことは無い。どれだけ歳を取っても、どれだけ大きなものを背負っても、どこまでも「ただの落語好き」の与太だ。背中の彫り物もいっぱしに、贔屓にしてくれる旦那衆、ファンのためにサービス満点のお計らい。この男が現代落語を背負っているという事実が、この世界の落語の在り方全てを表しているだろう。八雲と助六に憧れたただのチンピラは、菊さんの手に依ってあらゆる芸をたたき込まれ、進んだ道こそ「助六の落語」だったはずだが、グルリ回ってゴールは八雲。「助六が八雲を襲名する」という先代2人の悲願を見事成し遂げ、与太郎はこの世界を統べる存在となったのである。

 そして、最後の最後にぶち上げたのは樋口先生。相変わらずのKYっぷりを存分に発揮し、こんなハレの日に小夏に爆弾を叩きつける。「果たして信乃助は誰の子だったのか?」。あの日、与太郎は無い智恵を絞って考えた末に親分さんとの関係性に辿り付き、小夏の過去を振り払い、過去を顧みぬと誓うことで小夏を呪縛から解き放った。しかし、小夏の口から何かが語られたわけではなく、真実は闇の中。そこに疑念を抱いた樋口先生は、持ち前の大胆さで最後のブラックボックスに手をかけた。小夏と菊さんの間に、どんな関係があったのかと。老成した小夏は、もちろんこんなところでポロリと何かを漏らすような女じゃない。答えは謎のままだ。正直、菊さんとそんなことがあったかどうかなんて考えもしなかったが……しかしまぁ、当時の小夏は母親の面影を(本人も)いやというほどに抱えていたわけで、そこに菊さんが打ちのめされてしまうことは充分に考えられることなのかもしれない。だからこその、あの「親子」関係だったとも考えられる。我々視聴者目線でもその答えは邪推するしかないが……。ただ、大きく成長した信乃助の面影を見るに、答えは出ているような気もしますね。助六の落語ではなく、畏敬する八雲・菊比古の芸を引き継いだ信乃助。彼の立ち居振る舞いが「祖父」に似るのは憧れの表れでもあろうが、そこに抗えない血の関わりがあるとしても……不思議ではないかな? 助六と八雲の落語を技で繋いだ与太郎、そして、その2人を血で結んだ信乃助。その2人が、新たな師弟関係の中で次の時代を作っていく。なんともまぁ、よく出来たお話で。

 2期エンディングのタイトルは「ひこばゆる」であり、映像からもぐんぐん伸びていく雨後の竹の子のイメージの曲だったことがよく分かる。そんな「伸びゆく輝かしい未来」を表す「雨竹亭」という新たな寄席でもって、最後の演目が演じられる。信乃助による「初天神」は、彼の持つ「血」の繋がりを示す親子というテーマ性がはっきり出た一席。黄泉への道行きでも菊さん信さんがナチュラルに演じていた演目だ。そして、大看板・八雲となった与太郎が何を見せてくれるものか。「助六」としての高座なら「芝浜」だろうが、菊さんとの関係性を考えるなら「居残り佐平次」もあり得た。しかし、ここで彼がかけた噺はなんと「死神」であった。これこそが、八雲の育んだ全てを受け継いだという証である。普段なら客席とのインタラクションがメインで描かれる与太の一席だが、新たな名前を受け、そこにははっきりと燃えつきた蝋燭のビジョンが映る。「噺の中の世界」の描写は間違いなく「八雲」の領分だ。そして、てっぺんに上りつめた与太が次に足をかけるべき階段は、師匠・菊さんの待つ場所へ。まさか、最後の最後の出番が「死神」とは思いませんでしたね、菊さん。まぁ、単ににっこり笑って愛弟子を褒めるだけじゃないところが菊さんらしいヒネたところでね。「お前にも見えるようになったか」ってのは、与太が師匠と同じステージに登ったことの表れでもあろうし、お役目をまっとうし、次の世代へと引き継いでいく未来の希望の表れともいえる。菊さんは、信さんやみよ吉に連れられ、「死神」の演目からうっかりあっちに行きそうになったこともあったが、その点、与太は大丈夫。何しろ辛気くさいこの話のオチも、一言加えて自分の側に引っ張り込んでしまったのだから。「なんだ夢か」の一言は、助六の落語だった「芝浜」と鏡写しの存在。新たな「死神」は、新たな時代の九代目八雲の世界。これからもしばらくは、与太さんのお話を楽しむことが出来る時代は続きそうだ。

 時代の終わり、時代の始まり、それらがつながって、一つの流れが続いていく。昭和元禄落語心中、これにて閉幕。

 お後がよろしいようで。

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 最強執事伝説松田更新、第11話。まさかの死出の旅路にまで付き従ってくれるとは。今作最強の下馬評は伊達じゃない。

 茶化してみたが、今回は茶化すことが出来る貴重な回ということである。まさかの死後の世界でまるまる1話。ぽっくり逝ってしまった菊さんが、「その後」どんな末期を迎えたかを懇切丁寧に描いている。一体どのように死んだのか、周りの人間は彼の死にどんな風に接したのか、そうした現世の情報はほとんど無く、一部信さんに語られたのみである。おそらく、現実世界では小夏や与太郎を中心に上を下への大騒ぎになっていたと思うのだが、そんなこたぁ死んだ当人には関係無い。あくまでも「仕事終わりの一杯」的な感覚で、余生ならぬ「余死」を楽しむだけのお話。下手にわちゃわちゃした現世のしがらみを感じさせず、心のつながった3人だけでの時間が流れることで彼の死が、即ち彼の生き様が充分に幸せなものだったことが伝わってくる。今回のお話はあくまでも死後の世界という仮想を描いたものであり、菊さんの独りよがりな妄想であるという考え方も出来るのだが、流石に本作でそれは野暮というものだろう。死後の世界は(変な言い方だが)実在し、今回の一件、菊さんも、信さんも、みよ吉も、全員「あるもの」として認識していると考えるべきだろう。

 死んでしまったことはさほど驚くこともなく受け入れられる菊さん。まぁ、歳も歳だし、何度か入退院を繰り返していた身。あれだけ「死にたくない」と未練にすがってはみたものの、心の準備はある程度出来ている。そこへ迎えにきたのが「死神」として幾度となく任を果たしてきた信さんだったのだから、まぁ、その時点で気持ちの整理も出来ていたのだろう。むしろ、ここに来て死神の影響を受けない純正の朋友と再会出来たことを喜ぶべきところだ。享年によって外見に差があった二人だが、ミラクルパワーで一気にショタ状態に戻る。そういや菊さんって若いころからずっとステッキ使ってたんだっけね。縁日風の道行き(変なの)では2人の仲の良さを見せつけ、演じてみせるは「初天神」である。このあたりの息の合い方はまさに親友といったところか。銭湯に出向くと今度は青年バージョンに格上げされ、信さんはあの時の腹の傷を見せつけるというなかなかに意地の悪い趣向。ただ、菊さんはこれに凹むかと思われたが、割としれっとたしなめていてそこまで大ごとにしていない。この辺りの描写で、「あぁ、死後の世界は現世のしがらみが全部剥がれ落ちた清い世界なのだな」ということが分かる。みよ吉たちも「死んだ後まで○○してもしょうがない」というロジックを多用しており、ここでは生前に抱えていたドロドロが全て抜け落ちている。まさに、菊さんからしてみれば「極楽」みたいなものだろう。菊さんが数十年も抱えて、守り続けたものが、たった1度の銭湯でユルユルと溶け出していくかのようである。

 そしてついに、みよ吉との再会を果たす。彼女もすっかり憑き物が落ちた状態で、助六との三角関係もどこ吹く風。まるで小娘のように「菊さんは顔が好み」と笑ってみせるし、菊さんを前にして旦那の悪口を言ったかと思えば、ちゃんと「あの人は優しいンだ」と2人の関係性も示してくれる。こんな関係性が生前に構築出来ていれば、と思わなくはないが、これも「死んでから考えてもせんないこと」である。とにかくみよ吉はこの世界で救われているし、それを見た菊さんも報われている。それが分かるだけでも充分だ。

 そしていよいよ満を持しての寄席入りである。「燃やしちまったからこっちに来たんだ」とか、昭和の大名人が大挙している様子は笑ってしまうが、まぁ、その辺は「菊さんの思うあの世」だから勘弁しましょう。こんな寄席があったら、そりゃぁ連日超満員だろうにね。さっき死んだ八雲の名前もばっちりカウントされてるあたり、あの世の入国管理システムも抜け目ない。客席側から寄席に入った2人だったが、せっかくなので高座に上がるのは欠かせない。まずはこっちの世界に慣れている信さんから。「火事」というマクラから繋げて見せたのは「二番煎じ」。滑稽が中心のお話なので当然助六の得意とするところだろう。助六の高座ではお馴染みの、客席とのインタラクション多めの演出で、笑い声もこれまで以上に多く響いている。この世界に欠けていると愚痴っていた「美味い食い物」「美味い酒」の描写が際だち、「無いものをあるように見せる」落語の世界の真骨頂といえる(あと、山寺宏一の真骨頂ともいえる)。久方ぶりの助六の落語に菊さんも大満足だ。隣の座布団では小夏が父親の高座を見守っている。「この小夏」は「あの小夏」とは別であろうが、仏様は粋な計らいをしてくれるらしいので、ひょっとしたら今頃現世の小夏も助六や菊さんの高座の夢でも見ているのかもしれない。

 そしていよいよ、菊さんの最期の落語、最初の落語。信さんに背中を押されて高座にあがる菊さんの顔がスッと老齢のものに戻るシーンは、涙を禁じ得ない。「望んだ通りの姿になれる」というこの世界の理を考えるなら、彼が高座に上がるときにこの姿になったというのは、彼の落語は歳を重ねてこその完成を見たことの表れである。直前に信さんも言ってくれていたが、助六亡き後の落語界を支え続けた八雲。思い悩み、苦しみながら噺家を続けた人生ではあったが、彼の中でも、その生き方にはきちんと意義を見出せていたのだ。信さんやみよ吉に見てもらうべき自分の晴れ舞台は、若かりしあの時のものではない。2人の意志を継ぎ、守り続けた「八雲」の落語だったのだ。語り始めるは「寿限無」である。およそ大名人の高座には似つかわしくない前座話。死人を集めて長命のお話ってのも随分ちぐはぐだが、彼にとってはその長い命を尊ぶ最高の演目であり、小夏や信乃助に見せる上で一番「楽しい」のはこの噺なのだ。前座に始まり落語界の髄を極めた男が、また前座話で子供に戻っていく、そんな回帰や輪廻を感じさせる、意義深い高座になったのではなかろうか。

 生前の禊ぎも終わり、しがらみも、未練も、この世にはない。改めて松田さんを引き連れ、菊比古は彼岸へと去っていく。最期に固く信さんと契り、2人の友情が終わらないことを告げながら。

 良い、人生だった。

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 次回予告、こはる姉さんか? 第10話。確認したら助六の幼少期名義でクレジットされてたみたいだが……まぁ、出てきても何にも不思議じゃない配置だけども。

 何とも晴れがましい一幕。2期に入ってから明るい話はこれで2度目だが、その中心には必ず小夏がいる気がする。とにかく色っぽいのよねぇ。そりゃま、あのみよ吉の血を引いていて、さらに父親も割と目鼻立ちのはっきりした助六なんだから本当の意味で美人さんなんだろうけど、そういう見た目以上の部分で、小夏は本当に良い表情をしてくれるようになった。もう彼女の笑顔や、それ以上の表情だけでも、あらゆるものが浄化されていくかのようだ。

 もちろん、浄化ってのは我々視聴者サイドのことではなく(まぁ、そういう側面もあるかもしれないが)、作中における家族全てのお話だ。前回あれだけ壮絶な幕引きになり、一体どれだけ荒涼たる結末が待ち構えているものかと戦々恐々としていたので、今回の話の振り方は意外といえば意外。どうやら、前回の一幕が菊さんの「心中」の最終段階だったと見て良さそうである。どこまでを意図して企てたものなのかは今となっては分からないが、たった1人、夜の高座でかけていた「死神」の一席は、自らを死地へと誘う最後の大仕事。これまで幾度となく「落語と心中する」と漏らしてきた菊さん。そうは言っても「心中する」ってのはあくまで比喩的なものであり、大看板たる八雲を失えば、そのあとの拠り所を失った落語業界そのものが死に絶える、みたいなニュアンスで解釈してきたものだが、彼の最後の所業は歴史ある演芸場を飲み込み、本当に地獄へ引きずり込んだ。焼け跡を見て泣いていた兄さんが「この寄席は落語そのものだった」と言っていたことからも分かる通り、演芸場という形有るものが失われたことで、そこに「落語の喪失」を感じてしまう者も多い。菊さんが本当にそうした意味での「心中」を目論んだのかどうかは定かでないが、間違いなく分かっていることは、その心中が失敗に終わったということである。以前作中でも高座にかけられた「品川心中」のごとく、菊さんは心中に誘っておきながら、すんでのところであの世への道行きを自分で蹴ってしまったのである。あとに残されたのは、無残に焼け落ちた「落語」の残骸と、自分の「生き様」を見せつけられてしまったジジイが1人。

 結局、寄席が焼け落ちた程度では落語は死なない。ひょっとしたらこれが原因で落語文化が衰退する未来もあり得たかもしれないが、この世界には何よりも落語が好きで、菊さんと一緒に文化を創り上げてきた「同志」たる与太郎がいるのである。日々テレビにラジオに飛び回り、落語の火を消させやしない。結局、菊さんの「心中」は落語も、己も、どちらも殺せなかったのである。しかし、こうして死の儀式を経たことで、菊さんも腹は決まったようだ。不甲斐ない自分の生への執着は理解出来た。そして、満身創痍の老体では落語はもうまともにできやしない。心中は出来なかったが、ある程度の別離には成功したのである。落語を離れて人生を振り返ると、あれもこれも落語に費やしすぎた自分の人生のアラばかりが見えちまう。後生大事に抱えていたものでも、一度手を離してみると「何でこんなに必死だったのか」と我に帰ることもあるもので。別に落語から完全に切れたわけではないが、改めて自分の人生を見るに、どうにも落語中心が過ぎた一生だったことは間違いないわけで。花も、空も、そして「娘」も、色々なものが今更ながらようやく色彩を持って見えたような気がする。

 小夏はようやく、与太との間に「2人目」を身籠もった。菊さんの落語が与太に伝わり、与太から信乃助へ、そして、新しい命へ。菊さん一人が自暴自棄で殺そうとしたところで、落語は死にゃしない。あれだけ憎まれてきた小夏だって、「死ね」だのなんだのいいながらも、結局その愛情は変えられない。意固地で不器用だったのはお互い様のこと。なんだか随分遠回りな親子関係だったが、菊さんの贖罪の旅は、小夏と過ごす春の縁側で、ようやく終わりを迎えたのだった。これまで彼が必死に支え続けたものが、ついに手を離れて世界に進み始める実感。菊さんが作り上げた世界の姿があまりに美しく、本当に尊いものに見える。今回、落語をラジオで流しながら、「野ざらし」の内容に少しずつマッチした映像があくまで「背景」として流されるという新しい演出パターンが採用されているが、こうして何くれと無く街中を流れていく与太の声が、染みいるように「落語の世界」を現実に作り上げ、助六や八雲が求め続けた「新しい時代」の到来を告げているようだ。八雲の落語は、ここでついに、大願を成した。

 そうして、菊さんは穏やかな笑顔で、自分の後に残された世界を見ている。そこにあるのは混じりっけのない「幸せ」のはずなのだが……充足は即ち、渇望の終わり。世に残すべきを残し、役割を終えた者には、誰しも平等に迎えが来る。その顔はよく知っている。「死神」と呼ばれる顔。いつでもどこでも、菊さんの人生で隣にいたヤツだ。

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 夢とも現とも、第9話。死ぬの生きるのを繰り返し、菊さんの腹ん中もだいぶ見えてきた様子で。

 前回の顛末は、結局菊さんの高座が実現しなかったという幕切れだった様子。親分さんは6年の実刑が決定し、東京のそのスジのもんの動きも変わってしまうのかもしれません。6年ってぇのは短いようで長い年月。「うちのボンが小学校に入って中学生」って言ってたけど、そのボンの年齢も6,7歳そこそこなんだからなぁ。親分さん、塀の中をどんな気分で過ごすんでしょうか。

 そして、そんなボンも随分生意気に成長しているご様子。今まであんまり意識してなかったけど、どこまで行っても信乃助にとって与太郎は「与太ちゃん」なのね。「おとっつぁん」と呼ぶタイミングがあるのかと思ってたんだけど、その辺の線引きは小夏にもしっかり教え込まれているのか、それとも、父親ってのはそういうもんだと思ってるのか。今後信乃助が大きくなるにつれて、自分の家庭環境をどのように考えるかは色々気になるところだ。でもまぁ、「じぃじ」は「じぃじ」なんだね。天下の八雲と一緒に銭湯へ。この時代の風呂屋はまだまだおおらかだった様子で、背中に彫り物がある与太でも自由にウェルカム。こんなアニメでもお風呂回があるもんですね! いわゆるテコ入れというヤツ……ではない。いや、どうだろう。作中屈指の萌えキャラである菊さんと、ショタ味あふれすぎる美少年な信乃助、それに無駄に筋骨隆々でいい身体の与太のスリーショットは、ある意味サービスシーンと言えなくもないか。

 まぁ、冗談はさておいても、裸の付き合いで師弟の会話もはずみ、こんなところでもなきゃ漏れ出てこないようなお話も聞ける。菊さんも少しずつ外向けの顔が変わってきており、与太に対して素直に「落語やりながらコロッと死にたい」なんてことを言うようになった。結局あの一席ではネタが出来なかったので未だ高座には上がってない状態だが、少しでも落語がやりたいっていう本音を隠さずに与太に相談出来るようになったのは大きな進歩だ。そして、そんな師匠の晴れ舞台に与太が選出したのが、なんと刑務所の慰問会。振り返れば与太が菊さんと出会った記念すべき場だったということで、これ以上無い復帰の花道であろう。

 とんとん拍子で進んだ慰問会の復帰戦。それにしてもまぁ、菊さんってのはこういうところで性根の座った人でね。この日の高座にかけたのは「たちぎれ」というネタ。当方、寡聞にしてこのネタは知らなかったので調べさせてもらったが、どうやら上方落語がもとになっている話のようで、あまり聴く機会が無かったようだ。菊さんがこのネタを高座にかけた理由は明らかで、噺の中身が「罰として軟禁された者が、外の者に会えないために起こる悲劇」を題材として扱ったものだから。刑務所で受刑者相手に聞かせる話として、こんなにもぴったりと……痛切なものもないだろう。そういえば与太との出会いの時にはムショの中で「死神」をやってるわけで、この人、誰が相手でも一切の容赦がないのな。芸の力を信じ、自分の芸をどう見せるかを知っているからこそ、こうして聴衆にダイレクトに叩きつけるネタをチョイスするんだろう。

 案の定、ネタの最中には聴衆も、看守さえもが涙を隠せない圧倒的な引力を見せつける。菊さんのネタではお馴染みだが、雪が降り出し、次第に「噺の中の世界」に引きこまれる演出で物語の臨場感が嫌でもかき立てられる。しかし、皮肉なことにこのお話がダイレクトに響くのは受刑者ばかりではなかった。「本心が伝えられず、思いを寄せた女性に先立たれてしまう不甲斐ない男」というモチーフは、またもみよ吉の幻影を浮かび上がらせることに。噺の中では芸者の小糸、菊さんの中では放埒なみよ吉。先立つ女性への未練は募り、菊さんの漏らす「生涯伴侶は持たない」という誓いは、ネタを飛び越えて現実を侵食する。必死に謡を務める小夏も、そんな菊さんの心情に打ちのめされる形で涙をにじませる。この男は、復帰をかけた晴れの舞台でも、ただひたすらに自分を責め続け、打ちのめしているのだ。

 しかし、この日の高座では再びみよ吉に「連れられ」るようなこともなく、菊さんは無事にお勤めを終える。果たして復帰の一歩目として相応しかったのかどうかは分からないが、とにかく、八雲がまた高座に戻ってきたのである。多少なりとも落語に対して前向きに接することが出来るようになった菊さんは、その流れで与太の「居残り会」なんてものも聞きに行くが、元気になればなったで途中退場からお小言の一つも漏れるってもんで。まー、2人の「落語道」ははっきりと違うビジョンから成るわけで、そこで完全に相容れることは出来ないのだが、別に菊さんだって与太をいじめたくてそんなことを言ってるわけではない。あくまで「自分のやりたい落語と違う」ってだけだ。もうすっかり1人前になった与太のことはそれはそれで認めるわけで、樋口先生を通じて受け渡したのは、これまで後生大事に御守りとして携えてきた助六の扇。こうして、後世に少しずつ、自分が残せるものを伝えていくのだろう。

 与太は与太で自分の落語を見つけている。だとしたら、残りわずかな人生、「八雲の落語」はどこへ行くのか。前向きになったとはいえ、体力的な限界があるのは事実だし、みっともない姿を晒してまでお客の前に出たいかと言われたら、それは違う気もする。一体どうした心境からか、菊さんは一人、改修も間近な演芸場へ足を運び、真夜中の一人芸に興じる。今となっては自分の芸の出来に不安は付きまとい、なかなかお客様の前で披露するのも憚られる。そんな悩みの末の、闇の中の一人高座。かけるネタはあの日の「死神」で、かつては助六を葬るための鎮魂歌として作り上げた演目である。此度菊さんが計ろうとしたのは、おそらく自分の命の行く末。落語と一緒に「心中」しようとしていた命の炎は、ここで消えるべきなのか、消えるわけにはいかないのか。

 全霊を込めた迫真の「死神」。演じきったその先には、あの日と変わらぬ助六の姿。あの日葬ったはずの最大の理解者の姿を持って現れた幻影は、菊さんの弱音を、本音を全て受け止めたあとで、改めて命の在り方を問う。生きたいのか、それとも逝きたいのか。たゆたう意識の中で命の炎は劇場を焦がし、気付けばそこは煉獄の中。導いたのは死神なのか、芸の神なのか。しかし、そのまま思い出の劇場とともに命を終わらせることも可能だったはずだが、最後に伸びてきたのは死神の手ではなく、憎たらしい愛弟子の手。そして菊さんは、みっともなくも「生きたい」と声を漏らすのである。

 またも菊さんは「未練」という言葉を漏らす。でもさ、人が生きたいって思う事って、それは普通のことなんじゃないのかね。未練なんて、そんな言葉で飲み込んじまうのは、それこそみっともない話じゃないかね。菊さんの生は、まだ、終わらないよ。

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 次回予告の出囃子が志ん生! 第8話。あんまり他の噺家さんの出囃子なんて分からないんだけど、幼い日に(CDだけど)すり切れるまで聞いて育ったのが志ん生の全集だった身としては、やっぱりこの曲こそが「落語の出囃子」なんですよ。訳も分からず嬉しくなります。

 さておき、本編も心底感極まる展開。もう、視聴中はずっと涙が流れっぱなしになります。それは悲しい涙だったり、嬉しい涙だったり、まさに悲喜こもごもではありますが、菊さんの積み重ねてきた人生のあれこれに対し、生中な気持ちでは観ることを許されません。

 菊さんの入退院から、また随分時が流れたようだ。与太の野郎が弟子をとった、なんてとんでもない展開がサラッとながされていたし、一番分かりやすい時間の変化は、着々と大きくなっていく信乃助。もう小学生くらいになっているのだろうか、そう何度も聞いたわけでもなかろうに、落語の調子をそらんじながら過ごす首までどっぷりの生え抜き小僧。その血の濃さは容姿にもはっきりと表れており、グッと濃い男前の助六の面影はますます強くなる。菊さんはそんな「孫」の顔を見て何とも複雑な心境ではあろうが、割とあっさり「本当のじいさん」の話をしているところを見ると、特に隠し立てするとかいう意識もなく、本当にフラットな関係性で孫に接しているようだ。まぁ、そのへんは信乃助に分別がつくようになったら少しずつ説明はつけていくんだろうけども。

 すっかり老け込んでしまった菊さんだったが、高座に上がれない身の上でも、まわりの人間は容赦無い。そしてその多くは、樋口先生に代表されるように、「八雲の落語はもう菊さん一人のものじゃない」という意識で復活を望んでいるようだ。戦後の混迷期を支え、落語文化の守り手となった八雲と助六。その大きな礎は、本人の意志とは別のレベルで、何とかして残そうという動きがあるのはしょうがないところ。樋口先生はずけずけと言い過ぎだし、慇懃な態度で一応菊さんに選択権を与えているように見えて、もう完全に強迫になってしまっている。でもまぁ、その辺は菊さんも諦めているようで、ため息混じりに強引な男のいう通りにしてしまうだろう。一応、そんな樋口先生の豪腕も悪いことばかりではなく、懐かしいあの日の写真が見られたり、老人の郷愁を満たすのにも一応の役は果たしているのではなかろうか。

 しかし、やはり応えられない期待ってのはプレッシャーになってしまうもので。高座に上がれない苦しみ、そしてあがれないからこそどんどん衰えていく心と身体。自分の居場所を求めてフラフラと出歩く菊さんを、与太と小夏がつかまえる。橋の上ってのは今も昔も「死に際」の代名詞。落語の名作なら「文七元結」あたりが有名なところで、当然、落語夫婦がフラフラと橋の上に出てきた老人を見てしまったら、そういう想像が先んじるのも仕方ないところ。仕方なくはあるのだが……小夏さんの叱咤は本当に心に来る。別に死ぬつもりは無いがフラッと出てきただけの菊さんに、「身を投げて死ぬんじゃないか」と詰め寄る小夏。当然、そこには同じように「身を投げた」心中劇、助六とみよ吉の姿が重なるはずだ。そして、小夏は「アンタは罪を償っていない」という。もちろん、小夏は心の底から菊さんを責めているわけじゃない。昔はそういう部分もあったが、今となっては、そんなこたぁ責めるつもりもないだろう。しかし、菊さんが生きる理由を一つでも突きつけられるなら、小夏はそういうしかないのだ。そして、そんな「罪」の真実を知っているからこそ、菊さんも、そして与太郎もこの小夏に返す言葉が無い。菊さんが一生を賭して「でっち上げた」偽りの罪の存在を、ここで小夏にどうすることもできない。菊さんからすれば、この時の感情は悲しみなのか、後悔なのか、諦観なのか。

 改めて自分の人生の意味を突きつけられ、菊さんは本当に参ってしまう。普段だったら憎まれ口の一つも叩いてなかなか弱みは見せないところなのだろうが、自分が抱えている不安も悩みも怒りも、全部愛弟子にぶちまけて、「八つ当たり」をする。師匠から「お前みたいな噺家に何が分かる」なんていわれてしまったら、普通の弟子なら打ちのめされてしまうところなのだが……そこは与太郎だ。ちぐはぐながらも長い付き合いの弟子と師匠。このリズムこそが、与太が与太でいられる理由なのかもしれない。師匠の話はそれはそれで聞くけど、「ところで」ってなもんで。突然こんな風に頭を下げられてしまっては、みっともない姿を見せて取り乱した菊さんだってあっけにとられちまう。「この馬鹿に何を言っても効きゃぁしねぇ」ってんで、悩みも怒りもぽろりと抜ける。そして、何ともお気楽な落語観でもって、菊さんの悩みなんて上書きしてしまうのだ。もう、このシーンの菊さん、本当に絶妙な表情をたくさん見せてくれて最高でした。

 そして、菊さんの背中に最後の一押しを加えるためのドキドキのBパート。松田さんという首魁(それにしても元気なじいさまだな)を中心とし、結託して菊さんをはめたのは全国菊さん愛好会の皆様。確かに本人の意志を無下にするのはいかんことだろうが、おそらくみんな知ってるんだ。口では何と言おうと、菊さんが一番落語をやりたがってることを。だからこそ外堀を徹底的に埋めて、なし崩しで高座にあげちまおうって作戦に出たわけで。一度は帰りかけた菊さんだが、人前に引きずり出されたら絶対に背中を見せないのは芸人の意地。稀代の大師匠は、無難な受け答えから次の展開を待つ。とりあえず、馬鹿弟子の出方を見てからの判断だろう。

 そして、ここで与太がかける話はこれまでの流れから「居残り」になるだろうと思われたのだが、なんと、ここでしかけた「趣向」ってのが実に攻めっ気あふれる演目。そう、あの日の助六、「芝浜」の再演だ。菊さんからすれば、それは夢のようだった若き日の名残でもあり、あの忌まわしい悪夢の夜の前兆でもあり。自分の言葉を馬鹿正直に貫き通して助六を受け継いだ弟子の仕事ぶりを見て、あの日の気位が幾らか戻ったかもしれない。

 与太のしかけた「芝浜」の一席。これまた随分と念の入った仕上がりだった。例によって、与太郎の芸ではあまり「話の中の世界」のオーバーラップ演出はない。先代助六と同様、「噺の中身」というより「与太の世界」が中心になるからだ。今回わずかに芝の浜辺の波の様子が重なった様子が見られたが、あくまでも世界は「与太郎のもの」だ。しかし、これまでの与太とは大きく違う点が1つ。それが、途中から彼が流し始めた涙である。確かに噺の中で、あの夫婦は泣いていたかもしれない。しかし、ここまでの涙を流すことはない。噺と乖離した、「与太郎の涙」だ。普通、演者は「泣く演技」こそすれ、本当に泣いてはならない(声優業界の定石)。先代助六だって、噺に入り込んで泣くなんてことはしていない。しかし、与太郎は泣いてしまう。泣きながらしっかりと噺を作る。それが、芝浜を作った助六に捧げる思いなのだ。最後に菊さんは、「映像の中で助六は泣いていたかい?」と尋ねた。弟子の仕事の不備を指摘する師匠の役割を果たしながら、助六に何を見たかを問い、与太が得たものを確認するためだ。与太は「確かに泣いていた」と答えた。助六が落語をやる喜び、そして、その時間を共有していた菊比古の喜び。映像の中で2人は笑っていた。高座に立たない今の菊さんは、果たして泣いているのか、笑っているのか。

 「芝浜」という演目も、こうして見てみるとまた意味深長なところがある。一夜にして大金を得たと思った漁師が、目覚めて見たら手にした大金を失っている。女房にそれは夢だったと諭され、自分の行いを悔いて心を入れ替えて真面目になり、改めてあの日を笑えるほどにまで身を立てる。そしてそこで、妻から突如、あの日本当に「あった」大金を差し出されるのだ。大切だと思っていたものでも、無くしてしまった後に悔いるだけではなく、なくした後にどのように生きるかが大切だという一種の訓話じみたところがある噺。そして、そんな噺を聞いて、「全てを失った」と思っている菊さんは何を思うか。ポロポロと自分の身から落ちていく過去の財産。何も出来ないとふさぎ込む日常の中で、本当に大切なことは、「失った後」なのではないか。完全になくなったと思っていた助六の思い出だって、こうして弟子の手を借りてポッと後世に蘇ることだってある。あの日の思い出は、夢だったのか、現だったのか。それを決められるのは、今を後悔しないような生き方をした者だけではないのか。

 菊さんは立ち上がった。たくさんの後援者に、そしてどうしようもない馬鹿弟子に背中を押され、改めて、自分の夢の所在を探す決心をした。ここからが、有楽亭八雲の、最後の花道だ。

 そして、間の悪さというのはどうしようもないもので……。菊さんの高座が聞けるのは、いつになるのだろうか。

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