忍者ブログ
最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

 2週跨ぎでニャー将棋、第8話。これ、歌はまだ終わってないよね。どっかで3番を披露する機会があるんでしょうか。

 Aパート、引き続き川本家で将棋の普及に務める二階堂君。なんと自費出版の超豪華絵本だったらしく、彼の才能が優しく素敵な方向に余すことなく発揮されている。どんだけ良い奴なんだ、二階堂。まぁ、どれだけ優しく教えてもモモちゃんにはまだちょっと難しいかもしれませんが。ひなたちゃんが将棋を覚えたら、零を見る目もまた変わってくるんでしょうかね。2週間ぶりに見るあかりさんは相変わらず圧倒的な包容力。「ニャー将棋音頭」も歌ってくれているので、短い時間でかやのん成分をフル充填出来る素敵な作品なのです。ちなみに、「ニャー将棋音頭」は一応川本三姉妹の歌ってことになっているのだが、モモちゃん(というか久野ちゃん)は台詞以外のソロパートねぇのな。歌わせてあげたら……どうなるんだろ。そういや久野ちゃんのソロ歌唱って聞いたことないや。某所でアイドルやってるんだから出来るとは思うのだが、モモちゃんのキャラのままで歌うような曲じゃないってことなのかね。

 Aパートはほのぼので良かったのだが、一転、Bパートはなんだかクールな展開。一人、幸田家から逃げ出した零にはもう関わらないだろうと思っていた「姉」である香子が、突然彼の家に押しかけてきたのだ。今作の特徴でもある、光源を押さえた夜景中心の風景の中に、金色に染めた彼女の髪が流れる様子がなんだか印象的。当然、零からしたらあまり顔を合わせたくない相手なのだろうが、香子はお構いなしで彼の家へと上がり込む。

 「零→香子」という方向での感情はこれまでモノローグを重ねてきたおかげでイメージしやすいのだが、今回フィーチャーされるべきは、「香子→零」という方向での感情である。彼女は、自分の人生を滅茶苦茶にした(と少なくとも彼女目線では思える)「弟」に対し、現在はどんな感情を持っているのだろうか。香子自身はすでに将棋からは足を洗い、将棋が全てである幸田家の中では事実上のドロップアウト。つまり、今となっては直接零を恨み続ける因縁は無いとも言えるわけだが、なかなか簡単に割り切れるものではない。では、彼女はただ恨み骨髄で零をにらみつけるばかりかというと、どうやらそうでもないらしい。なんだかんだ言いながらも「姉弟」の関係であり、零は自分がドロップアウトしてしまった将棋の道でタフに生き続ける「巧者」でもある。父のお気に入りであることは疎ましいが、父が認める人間であると思えばこそ、彼女も零を無下に扱うわけにもいかないのかもしれない。

 そうした香子の複雑な感情が、今回の押しかけ劇に表れているようである。好き放題にわがままを言うのは姉の特権。家に転がり込んで突然の宿泊。やっていることは二階堂と同じだが、二階堂は本当に善意(というか友達感覚)でやっているのに対し、香子は確実に「零が嫌がる」ことが分かって泊まり込むことにしている。そのあたりは確実に性格の悪さが出ている部分だろう。しかし、ただ零を困らせることだけが目的かというとそういうわけでもないらしく、一人で味も素っ気も無い部屋に住まい続ける弟の行く末を気にしているようにも見受けられる。零が将棋に対してどんな感情を持っているのか、その全てを理解しているのは二階堂には無い香子だけのアドバンテージで、零だって、そうした自分の丸裸の本音を見透かされていればこそ、余計な気遣い無く香子に接することも出来るのかもしれない。長年一緒に暮らしたが故の不自然な近さと、どこまでも相容れない精神的な距離、何とも不可解な2人の繋がり。

 次の対戦について、相変わらず余計なことをチクリと刺してから出ていく香子。確かに「余計な一言」なのだが、捉えようによっては、「同情から負けたりするんじゃねぇぞ」という激励の言葉とも取れる。ひどく歪だが、どこか通じている気持ちを窺えるような、不思議な姉弟関係であった。彼女の現在の最大の難点は「暴力を振るうようなろくでもない男と暮らしている」という部分だが、それだって、将棋以外のものさしで自分を見てくれる他人を求めての結果だろうしなぁ。誰が悪いと一言で片付けられないだけに、この家族の問題もまだまだ根深そうである。

 零が次の対局で勝つのかどうか(勝てるのかどうか)、そのあたりで、また香子の存在意義というのも変わってくるのかもしれない。

拍手

PR

 ニャー将棋、ニャー将棋! 第7話。なんかもう、そこだけで残りの記憶が全部吹っ飛んでしまった。贅沢キャストから謎のキャラソン(?)へ繋いで将棋の普及に邁進してくれるアニメ。なんて素敵なこころざし。

 一応冒頭から見ておこう。前回風雲急を告げる登場だった高橋君。威圧感のある巨躯に圧倒された零だったが、高橋君すげぇ良い子。二階堂もそうだけど、零のまわりはなんだかんだで信じられないくらい良い人間が集まってきてくれるのは本当に贅沢である。そりゃひなたちゃんが子供ながらに惚れてしまうのも致し方ないな、と思える好青年だ。零に近づいたのは「若くしてプロの世界で戦う先輩」から1つでもいいから人生訓を得ようとする、貪欲で真摯な成長願望の現れ。もちろん、初対面の先輩に礼を失することもなく、いかにも体育会系の接触ながら、兼ね備えた知性も感じさせ、人間的な器の大きさも見せつける、最高のファーストコンタクトであった。零は零でこれまでずっと周りの人間の顔色をうかがいながら生きてきたこともあり、彼の混じりっけ無しの熱意をしっかりと受け止め、若輩ではあるが、出来る限り熱意に応えようと居住まいを正した。これはこれで素敵な人間関係。その脇では、どさくさに紛れてひなたちゃんが高橋君に接近できるなんてラッキーもあるのだ。あ、でも高橋君は四国の学校に行くって言ってたよな。ひなたちゃん、離れ離れになっちゃうことは知らないのだろうか……。

 そうして出会えた素敵な後輩との出会いは、もちろん零にも大きな影響を与える。彼にとっての高橋君の意義とは、「自己に内在する感情の顕在化」である。今回、高橋君が「何故改めて高校に行き始めたのか」と問い、零の返答に対し、さらに自分なりに言葉をかみ砕いて確認するという行程があった。零は「分かってくれる人がいる」と喜んでいたが、実際には、零は返答を口にした時点では自分でもその気持ちを消化しきれていなかった可能性がある。そして、高橋が改めて「他者の言葉」として明文化したことにより、これまで自分の中にあったコンプレックスのような、得も言われぬ感情を、他人の目線を通して理解することが可能になった。さらに、この理解の仲介者となった高橋君が目の前に存在することで、自分の感情が特別なものでなく、他者と共有出来る普遍的なものであることも確認出来て、零に特有の孤独感、疎外感も解消出来るという働きがある。二階堂のように零の内面を気にせずグイグイ来る人間も結果的には彼が殻を破るのに一役買っているが、高橋のように、冷静に零を見て察してくれる理解者というのも大事な存在なのかもしれない。

 そんな幸せな邂逅から転じて、Bパートでシーンは川本家へ。ここでも高橋君との関係性をより深めていくわけだが、個人的にちょっと楽しかったのは高橋のカレーへの反応である。そりゃもう、男子中学生ならカレーで喜ぶのは当たり前だが、「温泉卵までのってるとか最高じゃね?」みたいな素直な反応が、「こいつ、どれだけ大人ぶった振る舞いをしていても、やっぱり根っこは男子中学生なんやな」という安心感みたいなものを与えてくれる。言葉の選び方も非常に素直で、ここにも彼の人柄の真っ直ぐさみたいなものが窺える。ひなたちゃんが幼馴染みなので肩肘張らずに接することが出来る、ってのも良いところなのかも。まぁ、対するひなたちゃんの方は肩肘張るどころじゃないけども……やっぱりあかりさんが女神なんだよなぁ。カレー食いたし。

 で、零ちゃんの対局の様子がついにバレてしまう、なんてハプニングもありながら、ビデオ視聴ではさらに二階堂という唯一無二の存在も確認出来て、今回は本当に零君の幸せが噛みしめられる回となっております。いや、本人は迷惑そうにしてるけども……。零の立たされている状況を本人よりも理解し、さらにそこに厳しくも熱い言葉を投げかけてくれる真っ直ぐな二階堂。彼がこの後テレビの解説役に呼ばれるのかどうかは怪しいのだが……いや、かえってこういうキャラがお茶の間に人気になるかもしれないな。零ちゃん、そろそろ「親友」認定をOKしてあげてもよいのでは。零が声を荒げて怒れる唯一の相手が二階堂。つまり、壁も陰も全て取っ払って、腹を割って対話出来るのが二階堂。零本人はその大切さにまだ気付いていないようだが、きっとこの後、ありがたみが分かる時が来るのだろう。

 で、ここまでだったら本当に「イイハナシダッタナー」で終わるエピソードだったのだが……。ニャー将棋! これ、今週は歩・桂馬・金だったので、残る駒については次週以降に曲が流れるってことなんですかね。映像も楽しいし、川本家の皆さんで歌う楽曲も楽しすぎる。このキャストで歌が出せるっていうだけでも一大コンテンツですやん。いや、久野ちゃんがどのくらい歌うのか知らないけどさ。そしてこの「ニャー将棋」、なんと駒の1つ1つにオリジナルでCVが与えられているという謎……。今回出てきたのは野中藍と白石涼子でした。川本家が大沢キャスティングなのに対し、ニャー将棋は青二キャスティングですかね?(シャフトキャスティングやな)

拍手

 「どれだけ寝ても眠い」、ワシもやで零クン! 第6話。もう、いちいち零の言ってることがハートの深奥に刺さって、抜けなくて、辛い。

 最大の問題は、零はまだまだお若い高校生で「辿り着ける安寧」に行き着いてしまい、そこから動く動機を失ったということ。なおワシ(略)。しょうがないやん、ぬるま湯の中で生きていけるようになってしまったら、人間は努力もせんし、変化なんて求めないんや。零君は学校と対局以外は寝る。私はアニメと食事以外は寝る。つまり、挟み撃ちの形になるな。来るな社会、見ないぞ現実。戦え世界のニートたち。

 冗談はさておき(?)、前回判明した零の過去から、現在に繋がるまでの彼の「生き方」を確認したお話。でも、上では冗談めかして書いたことだが、彼の生きる指針の問題ってけっこう重大なことなのである。私は知りたい、世の中の多くの人たちは、何故今を生きているのかと。死にたくないから生きているのか、守るべき家族のために生きているのか、明日食べるご飯が美味しそうだから生きているのか。私の場合は明日やるアニメが面白そうだったり、明日新たに現れる声優が楽しみで生きている節はあるわけですが、残念ながら幼少期からハードモードの人生を生きることになった零にはそうしたモチベーションがほとんど無い。家族の葬儀の際には、生きることに必死になって何とか幸田家にすがりつくことで、「桐山零の人生」を選択することが出来た。あの時の「生きる」は、ただひたすら、家族3人の「死」という現実から目を背けるため、やぶれかぶれで選んだ道だ。そして、あの時ついてしまった「生きるための嘘」は、結果的に幸田家の姉弟2人の人生を歪めることになってしまった。カッコウの托卵に喩えられた彼の「生き方」は、ただ自分が生きれば良しというものではない。「他人の人生を台無しにしてまで、自分が生きるべきなのか」という問いになってしまっていた。そんな問題にまだまだ若僧の中学生が答えを出せるはずもなく、彼は家を飛び出して「何故そうしているかも分からない」生活へと転がり込んでしまう。寝て、起きて、将棋を指して。それでも世界は動いている。彼のまわりだけで何かが止まっているかのように。

 しかし、そんな零の生活にも何とか変化を与えようとしてくれる人間はちゃんと存在していた。今回登場した林田先生もその一人。幸運にも将棋好きで、プロ棋士としての零の立場にも理解を示してくれる上に、歯に衣(オブラート)着せぬ物言いでずけずけと大胆に零と接してくれる(多分)いい人。なんとも歪な零の高校生活も、理解のある教員のおかげで何とかやっていけているようだ。それにしても、ちょっとでも手を抜いた将棋を指したら「なんです、これは?」とか言って叩きつけてきそうな声の先生である。櫻井は今期も大忙しだなー。滝センは結婚経験があったが、こちらの林先生はどうなんでしょうね。声優界でも名うての独身貴族・櫻井孝宏が立派な大人の役をやっているのを何とも微妙な距離感で見守ってしまうな。

 さておき、そうは言っても遠巻きに気にかけてくれる教師1人だけでは、零の世界は大きく変わることもない。やはり最大の要因となりうるのは、川本家の人々ということになる。「どこへ行きたい?」の問いに答えたあかり姉さんの南国リゾートのイメージがやたらと具体的だったんだけど、この貧乏家族が南国リゾートとか行ったことあるんですかね? それとも、単にあかりさんのおっぱいが出したかったからああいう映像になったんですかね?(だとしたらありがとうございます) 「黙っててもご飯が出てくるところに行きたい」は普段から家事をしている人間なら定番のお願いですなぁ。

 そして、その妹のひなたも絶賛青春中。百円のマックシェイクに頭と懐を悩ませるのはいかにも中学生であるが、あれだけ真剣にやりくりを考えてるところにあっさりおごっちゃうのもどうなんでしょうね。ご飯の前に甘いものいっぱいとるとお母さん(仮)に怒られたりしないかしら。まぁ、その辺はあまり頓着せずにサラッと思いつきでお金出しちゃうあたりが零なんだろうけど。このまま良い雰囲気になる展開なのかと思いきや、なんと2人の前に現れたのは以前ひなたがお弁当を渡しそこねたあの野球イケメンではありませんか。ナニコレ、一体ここからどういう展開になるっていうのさ。この作品、あんまり色恋の話題は出てこないと思ってたんだけど、これってひなたと零で何か関係性が作られたりするんかなぁ。

 ちなみに、今回の作劇は相変わらず零の精神性を構築する深いところのお話ということで、もったいぶった抽象表現も多く用いられた画面構成だったが、ちょっと間を持たせすぎていてあんまり好きじゃないタイプだったのが残念。いや、原作でそういう演出になってるなら別にいいんだけど、流石に零が泳ぐシーンは尺取りすぎだった気がするんだよね。太陽のカットもやたら長かったし。本作は「シャフトらしいがシャフトなだけじゃない」作品作りが楽しいので、くどさも出しつつ、見やすい画作りを今後も続けてほしいもんである。

拍手

 ママ味あふれるかやのんにいだかれて頭を撫でられたい人生だった、第5話。もしくは久野ちゃんとお手々繋いで保育園から帰りたい人生だった。その場合、まず久野ちゃんを保育園に入れる必要があるけど、まぁ、何とかなるやろ。

 毎度の事ながら川本家の多幸感を導入にしてみたものの、今回はあんまりそっち方面は関係無く、ついに明かされた零の過去のお話。おおよそ予想していた通りの内容ではあるが、家族をいっぺんに失った原因など、かなりダイレクトでどうしようもないものだった。あの年齢の子供が、両親と妹をいっぺんに失ってしまったら、普通は一体どうなってしまうのだろうか。

 零の場合、様々な不幸が折り重なって、現状が構築されていったことが描かれている。一番の不幸は親族関係がグダグダだったことであり、病院の長男だった父親と、その座を狙っていた叔母の存在など、まぁ、ここまでは典型的な昼ドラ展開だ。そのまま施設送りになっていたら、おそらく桐山零の人生はその後も一切の起伏を持たず、ただただ陰鬱に、何の救いも、悲劇も無いままに収束していったのではなかろうか。しかし、彼には幸か不幸か、そうはならないルートが用意されていた。それが、父親のライバルだったいう幸田の存在。友人の友達を引き取り、実の息子同様に育てるという幸田の決断。それだけならばいっぱしの美談であるが、残念ながら、このルートにも3つの大きな不幸が折り重なっていたのである。

 1つは、幸田が「将棋を何よりも優先する」という行きすぎた人物だったこと。もちろん、人の心を持ち合わせぬ将棋マシーンなどではないのだが、問答無用で才能も好みも問わずに実子に将棋をやらせていたことはどこか歪んでいる。零を引き取った条件にも「将棋をやる」ことが暗に含まれていたようであるし、傍から見れば「実の子ではない零も分け隔てなく育てた人格者」になるのかもしれないが、幸田の存在は零をただ救い出したというだけではないのが難しいところだ。

 2つ目の不幸は、いざ引き取られる際に、零が「生きるための嘘」をついてしまったこと。つまり、彼は決して将棋が好きではなかったこと。そうなのだ、物事の上手下手は、好き嫌いと直結するわけではない。元々「忙しい父との接点」というやむにやまれぬ事情で将棋を始めた零は、才能こそあれ、別に将棋が好きなわけではなかった。しかし、葬儀の場では異様な親族間の雰囲気があり、そして何より、将棋盤を通じて心の対話が出来た幸田との繋がりを切ってはいけないという焦燥感もあったのだろう。子供ながらに、それを「契約である」と捉えた零は、ここで初めて嘘をついた。それが彼にとっての生存戦略であり、施設送りになったときの「ホッと出来ない」生活とを秤にかけた上での結論である。それが果たして正しかったのかどうか、答えはまだ出ていない。

 そして3つ目の不幸は、こうして嘘をついてまで「契約」した零に、将棋の才があったことである。もし、これで芽が出ない程度の才能、性格だったのなら、多少なりとも幸田との関係は変わっていたかもしれない。彼とて冷血なわけではないのだし、平々凡々とした「家族」として、かえって上手くやっていけた可能性すらある。しかし、幸田の性格を畏怖した零は、彼の恩に報いる意味もあったのだろう、将棋に真剣に取り組み、身につけてしまう。そしてそのことが幸田の家族をバラバラにし、彼自身の人生にも障害を生む結果となってしまった。将棋をやれば他人が不幸になる。しかし、その「他人」に迷惑をかけないようにするためには、もっと将棋をやるしかない。一度選んでしまった「契約」の中で、零は選択の余地を持たなかった。かくして、桐山零は今でも一人、寒々としたアパートの一室で将棋盤に向かっているのである。

 こうした零の生い立ちが語られることで、現在彼を取り巻く川本家や二階堂といった人々の重要性が改めて確認出来る。川本家とは、「家族を失った者どうし」という慰みがある。二階堂は、零の前に現れたまた別な「将棋を指す理由」を与えてくれる人物である。今はまだ澱のように淀んだ彼の将棋人生も、少しずつまわりに広がる「家族」の輪を経ることで、明るいものになっていくことを願うばかりである。

 今回は陰鬱な内容がほとんどだったために、久しぶりにいかにもシャフトらしい画面が多く見られた。そんな中でも川本家の猫軍団や、モモを襲った犬の謎のテンションなんかは相変わらずの抜け方で実に愛らしい。詰めるところは詰めて、抜くところは抜く。こういう作劇に助けられる部分は多いですね。しかし、「犬 小林ゆう」っていうキャスティングは何とも……あと、零の幼少期の声がゆーみんなんだけど、今回ゆーみんボイスも色んなところから漏れ聞こえて来てスーパーサブキャラ声優の面目躍如。

拍手

 もう「かわもとけ!」っていうタイトルでいいんじゃないかな、第4話。将棋アニメだと思った? 残念! 三姉妹日常アニメでした!

 だって可愛いしなぁ、Aパート、「ひな」。三姉妹の次女、ひなたが色気づいて頑張っちゃうお話。羽海野チカのデザインとしてはお馴染みのテンパりグルグルお目々がこれでもかと堪能出来るお話。そして、一応貴重な姉妹喧嘩(?)のお話でもある。今確認したらあかりさんとひなたの年齢差は10歳近いのね。これだけ離れているとやっぱり「お姉ちゃん」というよりも「お母さん」に近くなってくるのか(作中では全員「おねえちゃん」ではなく「おねいちゃん」と発音しているのは原作のこだわりなんでしょうかね)。まぁ、持ってる属性の差もあるのかもしれないけど。同じ血を分けた姉妹なのにポジションが違えば随分キャラも違うもんだなー、と思っているところに、「やっぱり姉妹だから似るものなんだね」っていうエピソードが差し挟まれ、嫌でもほっこりしてしまう。あかりさんがあれだけ家庭的で、何でも出来てしまうのは、あくまで自分の肩に家族の生活がかかっているからなのかしらね。ひょっとしたら下手だった料理を猛特訓した時期なんかもあったのかもしれません。いやー、でも料理が苦手な人間は「材料が揃ってるから何でも作れるわよ」とは言わないか。「家庭的」という言葉を煮詰めて固めたような存在、あかりさん。そして今はまだ青春真っ盛りのひなた。はっきりした対比のおかげであかりさんがまるでゴールインしているかのように見えてしまうが、彼女もまだまだ青春出来るし、しなきゃいけない身の上なんですけどね。とりあえず、幼馴染みの高橋君に「川本さんちの娘さんはどう思います?」って聞いてみたいね。「しらねぇ、あんな奴」みたいなテンプレな返事してきたらぶん殴りたい。

 Bパート、「ブイエス」。多少なりとも将棋アニメらしさも出していかないと。相変わらず元気な二階堂君により、零の日常は脅かされる。でも、二階堂君はよかれと思ってやってるのだろうし、実際、放っておいたらまた内にこもりそうな零を強引に外の世界に引きずり出す役目は重要である。無茶苦茶わがままなこと言ってるんだけど、どこか憎めない二階堂のキャラはとても素敵です。お坊ちゃん育ちのおかげなのか、根っこの部分で人間性が出来てるんだよなぁ。デブのくせになんか格好良いような気さえするのである。そんな彼の魅力を、幼児ならば一発で感じ取れる。モモちゃんの導きにより、二階堂が川本家に襲来。そして、彼の“ふくふくしい存在があかりさんのストライクゾーンとか何とか。デブ専……ってわけではないんだろうな。デブはデブでも汚いデブでは駄目なんだ。堂々と、風格と気品の漂うデブでないと。まぁ、国や文化によっては肥満って文化的成熟や社会的充足を表すステータスになったりしますのでね。生活の苦しい川本家からすれば、憧れの対象になるのも分かる気もしますけど。いや、あかりさんの場合はそうした社会的な背景は関係無く、本能的なものなんでしょうけどね。でも、あかりさんも立派ですよね。ボディの一部が特に。

 ほんわか川本家、そして愉快な二階堂という二段構えのおかげで、今回は零もネガティブなこと、意味深なことを言う機会はほとんど与えられなかったが、一応、夢に見るような不思議な女性の存在だけが一応気掛かり。完全に寝込みを襲われるビジョンだったが、過去に誰と何があったんでしょうね。零君、あんな性格の割に女性3人の家族に溶け込んでそれなりに上手くやっていけてるのはずるいわ。さっさとあかりさんの料理でふくふくしくなってしまえばいいのに。

拍手

 グッと来るなぁ、第3話。生き様で魅せられる格好良いデブって憧れますね。

 前回は将棋要素がほぼ無しという構成だったが、今回はAパートが将棋話、Bパートが家族のお話である。Aパート、前回颯爽と登場した愉快なデブ、二階堂晴信についてのお話。子供の頃の追憶から現在の関係性に繋がるが、基本的に零と晴信の関係性は子供の頃から変わっていないらしい。人生の逃げ道として無心に将棋を続ける零に対し、貪欲なまでに生の体現として将棋を追い求める晴信の熱量の差は体格以上にはっきりと表れており、子供の頃のエピソードを聞いてしまえば、もう彼をデブだなどと笑うことは出来ない。籠められた熱量がそのまま棋譜に表れ、だからこそ零に忘れがたい強烈なインパクトを残していくのである。基本的に人付き合いが苦手な零にとって、こうして良きライバルであり、良き友になれる人間がいるというのは非常に幸せなことなのではなかろうか。花岡さんに大事にされているのもよく分かる、好青年でございました。

 Bパート、激戦を制した零が「帰る」べき家、川本家。普段は三姉妹に猫を加えた圧倒的な萌えの巣窟みたいな場所になっていたが、今回はそんな中でもちょっとしっぽりしたお話。普段は零自身の生い立ちばかりに目がいってそちらの暗い要素を考えてしまうが、やっぱり死別の傷跡というのはどんな家庭にだって根深く残っているもので。お盆という1つの区切りをきっかけとして、それがポロリと感情の隙間から漏れ出てきたようなお話でした。どれだけ気丈に振る舞おうと、中学生にはまだまだ重たい現実だしね。こうして少しずつ心の内面を見せあうことで、零も川本家にまた少し近づけるのではなかろうか。

 今回はAパートとBパートで多少毛色の違うお話を組み合わせながら、そのどちらでも、色々と画的に面白い部分が多かった。やっぱり、今作における「シャフト演出の次の一歩」は長年シャフトを見てきた身としては非常に刺激的である。Aパートは盤を差し挟むライバル2人の様子を、2つの時代に分けて描く静かな動きを見せるお話。こちらは、赤青2つの風船がつかず離れず空をたゆたうイメージで2人の関係をゆっくりと表示している。そしてBパートは、普段ほわほわと明るい川本家のイメージを、送り盆の火でもってどこか寂しげに、作中の言葉を借りるなら「けだるげに」描くカットが印象的。おそらく原作の画面構成の巧さも大きいのだろうが、光源の見せ方や、陰影の取り方が何とも叙情的で、古き良き日本の伝統文化の有り様を魅せてくれる印象深いシーンになった。また、その後ひなたが1人で夜道を歩いていくシーンはいかにもシャフト的な構図が多いシーンだが、「物語」シリーズのように無機質な町並みでなく、前のパートからの家族的な温かみを残しつつも、うら寂しい夏の夜の空気を醸し出す絶妙な色の取り方が何とも印象的。「家族の温かみ」を離れ、一人号泣するまでに到るひなたの心情をそのまま切り出したような、絶妙な「無機」の取り入れ方だ。単にシャフト的な演出を万人向けに「丸く」するというのではなく、きちんとこれまで培ってきた独自性の妙味を活かしつつ、それを使ってキャラクターの心情ににじり寄る表現は大したものだ。こういう画で見せられるアニメがもっと出てくるといいなぁ。

拍手

 満を持して、11話、最終話。もし異なる時間軸があるのだったら、この2話を一週間おきでちゃんと見る世界も欲しかったものであるが、現実には一挙放送。とても分割して1話ずつ見ることは出来ないので、ここは一気に2本分。

 

○11話

 これまでも実に見事な絶望感を提供し続けてくれた最低最悪の地獄の使者キュゥべえは、今回だって一切の容赦無く、絶望の一言のみをつむぎ続ける。まどかがワルプルギスすらも凌駕する存在となり、全てを破壊し尽くす災厄となった原因は、それを回避しようと必死に抗うほむらの行動自体がもたらしたものであった。ほむらの能力のおかげで事象自体はリセットされ、何度でも繰り返されるが、そこに巡った因果は決して打ち消されない。つもりにつもった因果の芥は、いつの間にか、まどかを世界の中軸たる圧倒的存在にまで上り詰めさせていた。

 さらに、キュゥべえの弁舌はまどかにも等しく振るわれる。「人間は家畜の気持ちを汲むことがあるのか」と。これまで数多の悪役が吐き捨ててきたこの台詞だが、ここまで理知的に、懇切丁寧にその言の正当性を訴えた存在というのは初めてであろう。そのあげく、自らの正しさを補強すべく、キュゥべえはまどかを歴史の回顧録へと招待する。歴史の転換点となった「願いから始まり呪いで終わる」魔法少女達の人生の蓄積。それが一気にまどかに襲いかかり、まどかを徹底的に打ちのめす。ほむらとまどかは、別々の方向からその信念を打ち砕かれていく。

 「ループ」を封じられたほむらは、最後の堰を破られ、溜まりにたまった胸の内をまどかに吐き出し尽くしてしまう。繰り返す世界の中で、自分自身は何もかも失い、どこかが壊れた存在となってしまった。しかし、そこに残されたたった1つの「道しるべ」である、まどかという存在。全てを依拠するたった1つの願いがまどか自身であることを、最も伝えてはならないまどかに伝えてしまった。もう、後に残された可能性など無かったのだ。全てを失い、最後の戦いを迎えるほむら。持ちうる全ての武力をたたき込み、無理矢理にでも目的を果たそうと試みるが、これまで全ての希望を打ち砕いてきたワルプルギスは、それくらいでは打破できるはずもない。前にも進めず、後ろにも戻れない。絶望にうちひしがれるほむらのもとに、まどかが現れる。そして彼女は、「ごめんね」という絶望的な一言を漏らした。

 

 ラス前ということで、事実上のクライマックスはこの話数だった。様々な思惑と歴史が入り乱れた10話とは打って変わって、この10話において語られたのはたった2つのファクターだけ。まず1つは、ほむらの願いの顛末。キュゥべえにその存在を看過されたことにより、唯一残された時間遡行というツールを封じられるほむら。八方ふさがりの状態に置かれた彼女は、既にあの頑なな暁美ほむらではない。弱々しく、みんなに守られていた時代のほむらに戻っていた。伝えてもしょうがない事実を吐露し、後悔だけがそこに残される。

 そして、そんなほむらの願いを手に入れた「鹿目まどかという存在」こそが、もう1つのファクターにして、この物語の全て。意外だったのは、今回フォーカスがあたったのが「ほむらにとってのまどか」であり、さらにもう一つ「家族にとってのまどか」であったこと。言い換えれば、家族との接点は、魔法少女という要素を取り除いた、まどかの「世界との接点」と見ることも出来るだろう。「嘘も吐かず、悪いこともしないでそだった良い子」であるまどかが、次のステップとして宇宙存在にまで拡張してしまう狭間のエピソードとなっているわけだが、そのための橋渡しとして、家族という視点を導入し、まどかを世界と隔絶させる役割を果たした。

 まどかママの苦悩は実に痛々しい演出がなされており、前半では担任の先生との居酒屋トーク、そして後半にはまどかとの直接対話という2段構えで強く訴える構造になっている。胸を締め付けられるシーンの多い今回だが、一番辛かったのは、まどかに説得され、ママが彼女の背を叩いて送り出したシーンだろう。確かにまどかママは魔法少女について何もしらないし、娘の「隠し事」がどれほど大きなものかも知らない。しかし、これまで十数年間の娘との関係性において、そこに秘められた思いの大きさは感じることが出来たのだろう。娘を失うことも、ひょっとしたら予兆としてあったのかもしれない。だからこそ、愛娘の頬を叩くこともしたのだ。その上で、娘はずっと探していた「自分の願い」を確信していた。そんな状況で、実の親が自分の願いを優先させず、娘の思いを遂げさせることがどれほど辛い決断だったことか。あそこで抱き留めないことに、どれだけの勇気と優しさが必要だったことか。大小様々な悲劇が繰り広げられたこの作品、最も悲痛な強さを見せたのは、ひょっとしたらまどかママだったかもしれない。

 最終回の「大オチ」へと繋がる話数なので、これだけでは完結しない1本ではあるのだが、これまでこの世界を構築してきた全ての要素が一気に収束を見せる、実に印象的なエピソードとなった。この一ヶ月間で修正が入ったのかどうかは定かでないが、画面の質もこれまでの作品の中でも断トツの出来(2原を送っているのがサンライズとサテライトってのがすごい)。ワルプルギスとほむらの総力戦の馬鹿馬鹿しいほどの大迫力は「これ、劇場で見ないと」と思わせるだけのクオリティであるし、キュゥべえがまどかを巻き込んだ歴史のスクリーンや、不安を徹底的に煽り続けるいつも通りのイヌカレーも、最後の一暴れとばかりにやりたい放題である。「一ヶ月分の期待感を受け止めきる画面」など、本当ならば望むべくもなかったと思うのだが、それを実現させただけでも、スタッフには賞賛を送りたい。コンテを受け持ったのは、なんと「オカルト学院」の伊藤智彦監督ではないか。こんなところでいい仕事をしてくれるとは。

 

○12話

 そして最終話。

 ほむらの思いを全て理解しながらも、魔法少女となる決心をしたまどか。絶望感にうちひしがれるほむらだったが、その願いはほむらをも含む全ての魔法少女の願いの結実。「魔女になる因果の消滅」、それこそが、最大最強の魔法少女、まどかの願いとなった。

 まどかの願いにより、魔女は消え、悲劇は失われ、宇宙が入れ替わる。そして、鹿目まどかという個も消え去る。

 残されたのは結果だけ。魔女となるべきだった数多の魔法少女達は、その未来を否定されて消えた。魔女の運命を受け入れられず、魔女によって殺されたマミや杏子は、消滅の咎を背負わされた不遇の魔法少女として、その任務を果たし続けた。魔女になる因果を逃れることで願いすら打ち消されてしまうさやかだけは、その呪いのみがキャンセルされ、願った未来へと消えた。そして、全ての人々の意識から、鹿目まどかが消えた。唯一、彼女の覚悟と最期を見届けた、ほむらを除いては。全ての因果がキャンセルされ、鹿目まどかだけが消え去ったはずの世界。そこに残された魔法少女であるほむらの頭には、見慣れないリボンが巻かれ、彼女の手にした武器は、あの盾ではなく、弓矢へと変わっていた。そこに、何者かの「概念」を残しながら。

 

 さて、ご覧のような最終回を迎えたわけだ。この「オチ」については、おそらく賛否が入り交じって様々な意見が出ることと思われるが、先に私の感想を述べておくならば、一切の不満は無い。「いくら時間軸の因果が重ね合わさったからって、人類創世からのエントロピー云々をキャンセルするほどのエネルギー量はないんじゃない?」とか、「そもそもその願いに対応するシステムをインキュベーターが対応出来るの?」とか、根本的な疑問がたくさん出てきて、おそらくそれらを解決する術はないと思うのだが、それはこの1本の物語を見る上では不必要な心配であるし、脚本家と製作陣が作り出した「まどか」の世界は、それを説明するための舞台ではなく、「見せる」だけのものである。形の上では決着がつき、更に最低限の理屈もある。そして何より、「なんだかいい話」なのである。概念存在に昇華したまどかが幸せなのかとか、記憶を失うことがほむらにとって幸せなのかとか、心情面でも気になる面は多いのだが、それを本当に真剣に悩みたいなら、「火の鳥」あたりを読んで考えればいいこと。まどかは幸せであると言っているし、ほむらだって、手にしたかったものをきちんと手に入れた。そこに何の不満があるだろう。「魔法少女は、夢と希望を叶えるんだから」というまどかの言葉こそが、この作品の全ての結末を表しているのではないだろうか。

 脚本家が徒に問題を残すような妙なシナリオで意地を張らず、シリーズ作品として綺麗な答えを見せてくれた。それがまず、この最終回で一番嬉しかったこと。「終わるために終わった」と見る面もあるやもしれないが、ここまでの12本のエピソードに無駄が1つもなく、全てが綺麗に最終話に繋がっていたことを考えれば、長さにフィットした絶妙な着地点だったと見ることも出来るだろう。「世界再構築」というトンデモ展開にも関わらず個々の細かいエピソードにごまかしをつくらず、全てのキャラクターにエピローグを用意してくれていたのも嬉しい。さやかの存在だけはちょっと可哀想過ぎる気もしたけど……最後の最後で、魔女として死んでいった「あの未来」がリセットされ、「利己」に苦しんださやかが「利他」に還れたことだけでも、救われたと見るべきであろう(最終話の台詞に「なんの後悔も無い」を入れた底意地の悪さはちょっと気になるが)。

 マミが、杏子が得られた幸せは「普通の魔法少女」。魔女が消えても「魔獣」と呼ばれる瘴気の化身は存在し続け、そのためにインキュベーターと魔法少女という存在はあり続けたようだが、その先に不幸な未来は無い。あくまで「魔法少女として死ぬ」という未来が得られたのだ。ほむらの様子を見ると、キュゥべえのとの関係性も改善され、白い悪魔としてのキュゥべえも失われたようである。ちょっとふざけながらコミュニケーションを取れるほむらとキュゥべえのやりとりは、視聴者から見るとなんだかやるせない部分もありつつ、やはりどこか喜ばしいものに見えるのだ。

 そして、そんな魔法少女としての存在を残した上で、この物語の主人公、ほむらには、まどかの記憶が残された。多少ご都合主義のきらいはあるが、やはり彼女の中に生き続けてこそのハッピーエンドである。何が嬉しいって、まどかの弟の中にも、まどかの存在が生きていたこと。「まどか」がほむらたった1人で背負い続ける概念になってしまったら、ほむらの孤独な戦いだけがクローズアップされてしまうが、数は少ないとはいえ、鹿目家の家族たちには、わずかながらも「まどか」が残っていた。それを知ることが出来ただけで、ほむらには「まどか」が感じられる。孤独な戦いを続けてきた彼女には、ほんのささやかな贈り物であろう。

 最終回は概念宇宙に飛ばされたまどかとほむらがクライマックスに用意されたおかげで、アニメ的な見せ場がなかなか見えにくかったのはちょっと残念だったが、最後に弓矢を引き絞るほむらのシーンなんかは、これまでの鬱々とした作品の雰囲気をぶっ飛ばすような、期待感に溢れた最高の締めだったと思える。3話や7話を見ていた時点ではこんな気持ちで幕を下ろせるとは誰も思っていなかっただけに、本当にありがたい幕引きであった。

 とにもかくにも、1つの世界が無事に幕を閉じた。今は、それだけの安心感を噛みしめることにしよう。

拍手

  全ては収束、第10話。本当にネット分析班の的確さは頭が下がる。今回一気に回収された伏線は、おそらくリアルタイムで言うなら2〜3話くらいの時には推察されてたし、それを下敷きにして話題が進んでたもんだから、割と細かい部分まで「予定通り」になってるんだよね。あんまりそういうページとかは見てないつもりなんだけど……こんだけ話題作だと嫌でも目に入ってくるもんだから、「うお、すげぇ」って素直に感心してる。ま、1話のアレは割と明示的だったから、今思えば案外読みやすい展開だったのかもしれないけどさ。

 これまでブラックボックスだった「暁美ほむらの心情」が全て吐露され、曇りガラス越しで見ていたようなシナリオが全てオープンになった、ターニングポイントとなった今回。だが、むしろ今回のエピソードをどうこう言うよりも、これまでの話数を見直してほむらの行動を追う方が面白いのかもしれない。ま、ちょっと大変なので、今回はあくまで1話分の感想ということにしますけど。

 「ループ説」は既に各所で語られていたのでそのギミックを拾う意味は薄いと思うが、「何週目であったか」、そして「どの周回でほむらが何を得て、何を失ったのか」というのは、人格形成を考える上で重要なポイントだろう。一応まとめておこう。

 心臓を患い、病弱な少女としてまどかのクラスに転校してきた「1周目」のほむら。自分が「生きること」について悲観的だった彼女は、そこで初めて魔法少女のことを知り、この世界に足を踏み入れる。この時のチームは、マミが師匠でまどかがルーキー。憧れを持って見ていたほむらはこの時点ではまだ単なる傍観者だ。しかし、彼女が見ている前でマミはワルプルギスの夜との対決で殺されてしまい、無謀な戦いに単身挑んだまどかも力及ばずに息絶えた。そして、悲観と執念から、ほむらも魔法少女の世界へ踏み出し、時間逆行の力を手に入れる。

 「2周目」では、魔法を手に入れて願いがかなったことを素直に喜ぶほむら。出会い頭にまどかに自己紹介し、マミと合わせて3人で戦い抜くことを決意する。しかし、残念ながら彼女の魔法は、こと戦闘においては最弱レベル。なかなか戦闘では2人のサポートもしにくい。独自の研究で爆弾という自分の特性にフィットする武器を発見した彼女は、その力で最大の魔女を打破しようと意気込むが、その過程で、まどかがついにソウルジェムを穢され、魔女として発現することに。ここにおいて初めて、ほむらはキュゥべえの真の狙いを知ることになり、「共に戦う」選択をしてしまったことを後悔し始める。

 「3周目」にも状況は好転しない。「キュゥべえが諸悪の根源である」という真実は、仲間には全く伝わらない。この段階では杏子とさやかも魔法少女となっており、ほむらがどうにか働きかけてワルプルギスを打倒しようとしたことが伺える(当座の問題として、とにかくワルプルギスの夜を乗り越えない限りまどかに未来はないのだから、とにかく魔法少女たちは人員を増やして手を組むべきである)。自らの武器も強化するなどの努力を続け、ほむらは力による状況打開を模索し続ける。しかし、結果は最悪の方向へと向かってしまい、「最終周」同様にさやかが魔女化。最悪の事実を知ってしまった他の魔法少女達は暴走し、杏子がマミに、マミがまどかによって、魔女化を未然に防ぐために殺されてしまう。2人きりで挑もうと誓ったワルプルギス戦も、何とか打破にこそ成功したものの、2人にかかる精神的負担は大きく、2つのソウルジェムは同時に魔女化の危機に。そして、ここでまどかが自らの命を賭してほむらを救い出したことで、彼女の使命は望みをつなぎ止めた。まどかの意志を完遂するため、最愛の人を自らの手で葬り、ほむらは「4周目」へと飛ぶ。

 「4周目」のほむらの目的は明白。誰一人未来を受け止められないのだとしたら、「もう誰にも頼らない」。魔女を作らないこととは、すなわち魔法少女を作らないこと。目覚めてすぐにまどかに忠告をすると、全ての魔女を自分一人の手で撃破することを心に誓う。しかし、単身で戦い抜くには、ワルプルギスは強大すぎた。自らの危機を契機として、キュゥべえはものの見事にまどかをその手中に収めてしまう(第1話冒頭)。それでも、ほむらは諦めない。「私の戦場はここじゃない」。いつもと何一つ変わらない口調で「勝ち名乗り」を上げるキュゥべえを無視し、ほむらは孤独な戦いへと身を投じる決意をする。

 まどかを救えなかったほむらは、満身創痍の状態でついに「5周目」へ。しかし、徹底的に関係性を絶とうと先回りするも、やはりキュゥべえはまどかの下へ。マミは早々に討ち死にし、さやかの魔女化も発生してしまっている。残された最後の1つ、「まどかの契約」だけが残されている状態である。

 4回もの時間跳躍を繰り返したほむらの物語がヴェールを脱ぎ、この物語の真の主人公である暁美ほむらが姿を現した。それはあたかも、前原圭一からスポットがずれ、ようやく古手梨花が心中を語り始めたかのようである。

 何度となく繰り返す謀略と抵抗の物語だが、その本質は「ループ」ではない。その中で、少しずつ前進している部分にこそ意味がある。それはつまり、ほむら自身だ。一歩一歩魔法少女としての能力を高めていくほむら。ループをしても過ごした時間の経験値は蓄えられていくようで、最初はろくに打撃すら出来なかったほむらが、技術を手にし、武器を手にし、武力として単純に成長している。

 そして、ループを重ねるごとに積み重なっていくのは、「繰り返し」であるはずのまどかとの関係性である。「1周目」では「初めての友達」として最高の出会いを果たしたまどか。最後の最後まで「一般人」のほむらを気遣い、守り抜こうとしてくれた。「2周目」では一緒に戦い抜いた戦友のまどか。しかし、そんなまどかが魔女へと変貌する最悪の瞬間を目にすることで、ほむらは自分を責めさいなむ。「3周目」では、一度は2人で一緒に魔女になるのも悪くはない、とすら思ったほむらに対し、最後のグリーフシードを使い、まどかは自らの命をなげうってほむらを救い出す。「護りたいものがたくさんあるから、世界を滅ぼしたりして欲しくない」。親友のその願いを胸に、ほむらは辛い辛い戦いを続ける。そして「4周目」では、既に「魔法少女として」自らの命を救ってくれたまどかが、今回は「親友として」彼女を救う選択をし、それが最悪の結果に繋がってしまう。どの時間軸においても、まどかとほむらの接した時間は短いはずなのに、その全てにおいて、まどかはほむらの親友であり続けた。この関係性の重複こそが、ほむらを無謀ともいえる戦いに駆り立てる原動力になっているわけだ。

 「どうやって戦っているのか」が分かり、「何故戦っているのか」も分かった暁美ほむら。残された時間で、彼女が次なるワルプルギスとどう向き合うことになるのか、「5周目」の彼女に望みを託す物語は、「ワルプルギスの夜」と「キュゥべえ」という2つの脅威を前に、クライマックスを迎える。

 すべてが「説明」であるはずの今回だが、描くべきことがシンプルで伝わって来やすい内容だったおかげか、これまでのようなひねた盛り上がりに加えて、1つのドラマとして印象的なシーンが数多く存在している。マミの久し振りの復活(そして何度もの死)などはシリーズファンにしてみれば悲鳴のあがる代物であるが、ほむらが1人で努力し、少しずつ武器を改良し、戦い方を身につけていく修行パートなんかも、少なからず燃え上がれる部分だろう。なるほど、あの爆弾や銃火器は魔法ではなくて、あくまで現実にあるものを魔法で出し入れしていただけなんだな。女の子の細腕じゃ扱えそうもないものも多かった気がするけど……それくらいのフィジカルは魔法で何とかなるのかな? 

 バトルシーンにしても、今までのように「これからどうなるのかという不安」ではなく、「これまで何をしてきたかの回顧」を描くパートなので、画面が鮮明で素直に燃えられるダイナミックなものが多い。冒頭、ほむらが最初にひっかかったゲルニカ風魔女と、颯爽とそれを打ち抜くマミの銃、まどかの弓矢。2周目では謎のセーラー服お化けとの対決をマミさんが見事なサポートで支え、ほむらに「初白星」を提供する友情パワーも伺える。あのシーンを見ると、1話2話あたりでほむらがマミに対してきつくあたっていたことを懐かしく思えるだろう(実際は「まどかを契約に向かわせる全てのファクターを排除したがっていた」だけなので、本来、ほむらはマミに感謝と尊敬を抱いていたのだから)。

 そして、やはり最も印象的なのが、3周目でまどかとほむらが互いのソウルジェムを手に横たわるシーン。自分を犠牲にしてほむらを助けるまどかと、そんなまどかの願いを背負って修羅となるほむら。二人の友情が最も端的に表現されたこのシーンは、不覚にも目が潤んでしまった。まどかは今まで空気のような存在だった気がするのだが、今回たった1回「魔法少女として」登場しただけで、この存在感と信頼感はなんなのだろう。おそらく、ほむらがこれまで試みてきた数々の努力が「全てはまどかのため」であることが描写されていたおかげで、それが遠因となって「偉大なる魔法少女まどか」の存在を我々に浸透させていたのだろう。心憎い脚本である。

 そして、そんな健気な少女たちの対抗勢力、キュゥべえの悪辣さも、今回極まった。4周目で行われた「ほむらを餌にした契約交渉」は背筋が寒くなる迫力があるし、その後に行われた「勝利宣言」の熱の籠もらない様子も本当に恐ろしい。文句無しで、ここ最近のアニメでは最も残酷で凶悪な悪役だろう。

 こうして善と悪が二極化し、クライマックスへと突き進む本作だが、1つだけ気がかりな部分がある。「ループする時間軸」といえば、上にあげたように「ひぐらしのなく頃に」があるし、最近では「エンドレスエイト」が話題になったわけだが、全てに共通するポイントとしては「どうすればループが終わるのか」という部分。ほむらのループの場合は簡単で、とにかくまどかが無事な状態でワルプルギスの夜を乗り越えればいいということになるが、現時点では既に自分の意志で4回も時間跳躍を行っており、いうなれば「無制限のリセット」が可能な状態にある。つまり、「今回駄目でも次があるじゃないか」と視聴者に思われてしまうと、ちょっとインパクトが弱いのだ。「ひぐらし」では確か梨花の神通力が弱まって「これ以上のループが出来ない」という危険な状態になったし、「エンドレスエイト」はそもそもループからの脱却が目的で、「終了トリガー」を見付けるのがテーマだった。今回のループについては、何が「終了トリガー」として設定されているのか。

 考えられるのは、前々回キュゥべえが仄めかしていた「ほむらの能力看破」がある。4周目までのキュゥべえは、ほむらがどのようにして魔法少女になったのかについて言及しておらず、「自分の契約を経験していない魔女」としてイレギュラーであるはずのほむらに、さほど警戒はしていない。その結果、目の前で彼女に時間跳躍を許しているのだ。しかし、5周目の世界において、ほむらはあまりに深くキュゥべえの活動に干渉しすぎてしまい、彼に自分の能力を見破られることとなってしまった。もしここで、キュゥべえがほむらに対して何らかの対策を講じてきたとしたら。まるでパイツァダストを解除した吉良吉影のように、一時的にでもほむらの能力を「解除」してしまったら、ほむらは「6周目」へ向かうことが出来ず、今回のワルプルギスの夜が最後のチャンスということになる。おそらく、キュゥべえも何か狙っているのは間違い無いだろうし、ほむらとキュゥべえのまどか争奪合戦は、今回が山場となるのだろう。刮目刮目。

 今回は辛抱できずに蛇足で書かせてもらうが、ようやく本領を発揮出来た悠木碧、斎藤千和の師弟コンビの持つ迫力が素晴らしい。特にまどかはこれまでずっと怯えて振り回されるだけの役だったというのに、一転して「最強の魔法少女」となったおかげで、全てを守り抜くかのような大きさと暖かさを有し、ほむらの行動原理に大きな説得力をもたらしている。そして、そんなまどかの影響で少しずつ変わっていくほむらの内面性も、わずか20分の間で実に明示的に表示されている。だからこそ、ここには千和が抜擢されたということだ。4週分の経験を蓄え、我々のよく知っている「暁美ほむら」が完成したところで、「オープニングテーマ」が流れるという今回の構成も絶妙。あくまで、ほむらの誕生からこっちが、「魔法少女まどか☆マギカ」なのだから。

 行くも地獄、戻るも地獄のこの作品。同じ地獄なら……見なきゃ損?

拍手

 めくるめく巨悪、第9話。欲望とか、衝動とか、そういうものによって突き動かされる悪党っていうのは、まだ「分かる」からそこまで怖いものじゃないんだ。一番怖い悪役は、自分がまったく悪いと思っていない奴。

 前回の衝撃展開を受けてのエピソードなので、今回はシナリオライン上は静かに物語が進行した印象。最終的には魔法少女の席がまた1つ空席になってしまうという大事件が起こっているわけだが、前回のさやかのやりきれない最期を見た後だと、今回の杏子の最期は、本人の顔に浮かんだ笑顔のおかげでそこまで悲壮なものには感じられず、間違っていると分かっていても、後味は良い。このささやかな「救い」の物語が、次回以降のワルプルギスの夜による最大の災厄の序章でしかないとしたら、さらなる爆弾が恐ろしくなってしまうのであるが。

 今回1つ目のトピックは、当然杏子というキャラクターの行く末である。登場時は完全に敵対勢力として描かれていた杏子は、気づけば最も人間的な思考を有し、最も希望を感じさせてくれるキャラクターになっていた。杏子は物語に含まれない過去の部分で既に「失った物語」があったが、その部分はアニメではほとんど前景化されない。そのため、彼女の魔法少女としての活躍と、新しく得た大切なものを守るための信念の戦いのみが描かれ、この作品の中では最も「幸せな」扱いを受けている。こういう捻り方も脚本家の手の内だとは思うのだが、視聴後の爽快感は最初で最後なんじゃないかと思えるくらい貴重なものなので、今回の彼女の勇姿は、最後の励みとして心に刻んでおきたい名シーンである。

 思えば、あらゆる事象が倒錯したこの世界において、さやかと杏子という2人の魔法少女の人生は、最後の最後で綺麗に入れ替わって幕を閉じたことになる。「利他」を信念として生まれたさやかは、「誰かを救った分、誰かを呪っていく」とほむらがいう通りに、自分が救った以上の不幸を引き起こすことになってしまった。見返りの無い「利他」という精神が礎となった存在であったばかりに、彼女が生まれ変わった魔女は、その根源に利己の要素がない純粋な害意として存在している。彼女が命を賭して守ろうとした信念とは、真反対の存在に帰着してしまったわけだ。

 そして、そんなさやかと対峙する杏子は、元々「全ては自己責任である」という開き直りをみせた「利己」の象徴であった。それがいつの間にかさやかという「他者」を得てしまい、今回はその救出のためにまどかにまで頭を下げ、自分が一切得をしないさやか救出という無謀なミッションに挑むことになる。結局、それは不可能以外の何物でもなく、自分も含めて誰1人得をしないものであったわけだが、それでもわずかな「利他」の可能性を信じて、彼女は戦い抜いた。その最期は、まどかという他者を救い、さやかという他者を牢獄から解き放つための最大の自己犠牲である。個人の憎しみと慈悲が釣り合うというのなら、さやかの残した絶望は、杏子の生み出した希望と等価交換なされたのかもしれない。2人のシルエットが赤と青で絡み合い、1点に収束して沈んでいく描写が、2人の「完成形」を暗示しているようで実に印象的であった。

 そして、その果てには「魔法少女2人がソウルジェムを破壊して消え去る」という結果だけが残される。この「ジェムの破壊」こそが、地球上、宇宙上のエントロピーを無視した新たなエネルギー発現機会であり、宇宙の救済者たるインキュベーターの求めていたものであった。彼にとって最良の結果となった2人の魔法少女の愛憎劇は、全て計算のうちにあったものなのか。

 キュゥべえが恐ろしいのは、「感情がない」という自らの個性を認めつつも、それが「感情を理解出来ない」とイコールでは無いという部分である。これまでも「人間は訳が分からない」などの台詞を吐いて認識のズレを主張してきたキュゥべえだったが、今回の発言では、さやかの魔女化によって引き起こされた杏子の救出作戦が、ワルプルギスの夜を見越しての「魔法少女殲滅戦」の意味を持っていたことが明らかにされている。つまり、彼は「感情」というリソースに理解も示さないし、共有もしないが、それを前提とした上で利用することが出来るのである。杏子が理外の行動を取り、勝手に死んでいくことを、彼は理解した上で押し進めたのだ。そして、それが純粋な自分の目的のためであり、最大効率で行われたことに満足している。作意はあっても悪意が無いために、あれだけのことをしながら平気でまどかの枕元やほむらの部屋に現れることもできるのだ。本当に恐ろしい「悪役」である。

 キュゥべえの話す目的意識については、当然地球人ならば賛同出来るものではない。たとえ一切の嘘偽りがなかったとしても、宇宙規模でものを考えて献身出来る少女などいるはずがないし、そもそも彼の話の真偽を知る術もない。まだ宗教団体が「来世で幸せになれる」と説く方が身近に感じられるくらいだ。それでも、キュゥべえは事実を包み隠さず話せたことに満足したらしく、「宇宙を救うために死ぬ気になったら、また連絡しろ」という冷酷非情な台詞を残して消えた。そして、その前提として、ワルプルギスの夜というまどかの契約トリガーは仕込んであるのだ。完全に外堀を埋めてしまった状態で、まどかは宇宙規模の犠牲となってしまうのだろうか。

 もう、考えることもおっくうになるくらいひどい話満載の今作であるが、今回は久し振りに作画面での面白さが際立った。特に魔女さやかの生み出したイヌカレー空間は、荘厳さを持ちながらもさやかの「1人の人間」としての不完全さもイメージさせており、彼女の未練が画面一杯に広がっているような虚無感を与えてくれる。また、そこで必死に戦う杏子の派手な戦闘エフェクトも、彼女の大ざっぱながらも気骨に溢れる人柄を体現しているようであった。

 冒頭、杏子がさやかの「死体」を運んで線路を歩くシーンでは、足下の線路が何度も交錯したり、×印を描いてさやかと杏子の「交わり」を暗示している。いや、ひょっとしたら純粋に今の環境が「駄目だ」ということを表しているだけかもしれないが。ほむらが絶望的な宣告をした後に、画面上を電車が走り抜けるのが何とも切ない。前回のエピソードではさやかが魔女となる最後の一押しとなった「電車の走行」は、今回まどかたちの歩く向きとは逆方向に向かっており、さやかの意志が既にここにはないということを暗示しているようである。無機質なオブジェクトによる画面の流れの生み出し方は、久し振りにシャフトらしさが堪能出来た気がする。これ以上、「負への流れ」は見たくないとも思っているのだが……次週は、どうなる?

拍手



忍者ブログ [PR]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
ブログ内検索
カテゴリー
プロフィール
HN:
Thraxi
性別:
男性
趣味:
声優のこと全般
自己紹介:
関西在住の、アニメを見ることを生業にしてるニート。必死で好きな声優を12人まで絞ったら以下のようになった。
大原さやか 桑島法子
ーーーーーーーーーー
↑越えられない壁
沢城みゆき 斎藤千和 
中原麻衣  田中理恵  
渡辺明乃 能登麻美子
佐藤利奈  佐藤聡美
高垣彩陽   悠木碧
最新CM
[04/19 NONAME]
[04/17 NONAME]
[04/17 NONAME]
[04/13 NONAME]
[04/11 Serra]
バーコード