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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 さぁ考えろ、最終話。智恵を絞ってもしょうがない、イマジネーションを絞って考える。このアニメに描かれてきた意味を。

 今回新たに描かれた情報というものは、実はほとんど存在していない。つまり、今回はこれまで描かれてきた作品世界の「店じまい」、いわば答え合わせのような最終回であったはず。何が解き明かされたということもなく、何かが進んだ、終わったという印象もない。本当に「ただ夏休みが終わった」お話である。つまり、このアニメに籠められた意味は、全てここまでのエピソードで描かれてきていたということ。それを、「読み」「解かねば」ならぬ。もちろん、「解く」とは言っても明確な答えが存在しているわけではないだろう。あくまでもそこに見える絵は人それぞれであり、そこにどのような意味を付与するかを考えろ、ということである。それが制作者の意図に合致するかどうかは、また別次元の問題だ。

 さて、本当に今更の話だが、「グラスリップ」というタイトルは一体どこから来たのだろうか。英語表記では「GLASSLIP」となる。GLASSは当然「ガラス」であろうから、問題は後ろの「LIP」の部分。ここでそのまま「LIP」であるとすると、「くちびる」の意味になってしまって流石に意味が通らないので、普通に考えたら「SLIP」との組み合わせと見るべきだろう。辞書で確認すると動詞「SLIP」は様々な意味があるが、最もイメージの強い「滑る」の他に、「こっそり動く」「時が経過する」「滑り落ちる」「解き放たれる」「(記憶が)消える」「間違う、誤る」などがあるようだ。おそらくタイトル決定時に具体的にどのような意味内容で「SLIP」としたのかは明確に決まっていないのではなかろうか。あくまで、こうした意味を持つ動詞の総体を見ての名付けなのではないかと思う。

 さて、この一夏のドラマの中で、滑らかに「すべり、経過し、消えて、誤って」いた存在とは何だったか。最終話、ラストシーンまでの描写を鑑みるに、結局このお話は「沖倉駆という存在を読み解く」お話だったのではないかという結論に達した。その証拠に、最終話に至っても駆という存在には明確な「正体」が与えられておらず、ラストシーンでは登場キャラクターがそれぞれに夏休みを終え、新学期に向かっている姿が描写されているのに、駆の姿は一切描かれず、最終的には透子に声をかけた一人称視点だけが記録されている。当然、これまで駆の一人称視点などというものは無く、それどころか駆自身すら、自分のことを三人称視点から見ていた(いわゆる分身の術である)ことから、駆というのは、ひたすらに観察対象であり、読み解く側ではなく、「読み解かれる」側だった。透子も、やなぎも、何故か知らないが夏が終わると駆はどこかに消えてしまうのではないか、という不可解な疑念に駆られていた。確かに、フラッとこの街にやってきた駆は一度も登校なんてしたことがないし、このまま消えてしまってもおかしくないかもしれない。彼の父親も、「大人なのだから好きにすればいい」と彼に対しては自由を与えており、「消える」ことすらも是認しているかのようである(考えてみれば、沖倉家のどこか落ち着かない浮ついた感じは、親子3人に共通している)。しかし、「引っ越してきたばかりの高校生がいきなり消える」なんて事態はあるはずもなく、常識的に考えれば「2学期からよろしく」というはずなのである。それが危ういと感じられるということは、沖倉駆という存在が、それだけ危うく、不安定なものであったということの証左に他ならない。「滑り、つかめないもの」。それが駆だ。

 と、書いては見たものの、未だ彼の「示す」ものに答えは得られていない。漠然とした「青春の1ページ」と言ってしまえばそれまでだろうか。先週までの読解では透子と駆の見る「未来の欠片」は「心象」という更に漠然としたものであるという処理がなされてしまったわけだが、沖倉駆という存在は、そうした「心象」を肩代わりし、少しの不安と、少しの希望と、大きな不可解を抱えた、青春時代の心象そのものとも解釈出来る。だからこそ彼は、あらゆる知り合いとぶつかりながらも、どこか気になる様子を残す存在だった。どこまでも利己的で、どこまでも野放図でありながら、不思議と捨て置かれることもなく身近にあり、特に「恋愛感情」との関わり合いを強く持っている。今回駆と接触したのは透子以外ではやなぎだけであるが、彼女がわざわざ彼を屋外へ引っ張り出して対話した場所は、あの、雪哉が透子に告白した「ベンチ」である。彼女は一度、「坂道」で妙な空気になったこともあるが、常に恋愛感情を強く意識しながらの青春を歩む女性である。彼女が駆との対話に選んだ場所が衝撃の「ベンチ」だったことも、なんだか彼のスタンスを表しているようで興味深い。「やなぎだったらそこは日之出橋なんじゃ?」と一瞬思ったが、考えてみりゃ日之出橋は「やなぎと雪哉の場所」であって、それ以外の人間を介入させる余地はないかな。

 「沖倉駆は観察者ではなく、被観察者である」。この1つの転換によって、この話はまるっと姿を変えてしまう。普通、「恋愛アニメ」と言ったら全てのキャラクターが同じ世界に立ち、競い合うことで成立すると思ってしまうところに、まさか1人だけ次元を違えた存在が混じっているとは今まで考えてこなかった。そして先週までは、彼のアクティブな行動原理から、てっきり「彼が物語を紐解く」物語なのだと思っていた。しかし、あくまでもこの物語を読み解き、世界を「知る」べき存在は、「見える」側の代表である透子だろう。彼女は常に「駆が見える」存在であり、「駆のことを考え」「駆の介入を許す」存在である。駆の持つ「聞こえる」はいつしか透子へと譲渡され、透子は完全な観測者へ、駆はその透子の手によって観測される側へ。それはつまり、透子が、青春時代の1ページとして、自分や回りの友人たちの持つ心象風景と向き合う物語。作中ずっと駆が「分からない」存在だったのはむしろ当たり前のことで、彼を読み解き、この街の中、若い男女の中で解体することこそが、このアニメの真の目的意識だったのではないだろうか。

 

 うーむ、とりあえず一通り書いてみても、我ながら胡散臭い論調になっているとは思うが……多分、一回最初から見返さないと答えは出ない。いや、それでも答えが出るかどうか分からないけども……。しかし、おそらく制作側が意図している答えは存在している。無責任に意味の無いものを垂れ流しているだけではないはずだ。今回そう確信出来たのは、透子が2回目のピアノを聞くシーンが描かれていなかったことからである。普通に考えれば、最終回のあのシーン、透子が「たどり着けそうな答え」にすがるシーンなのだから、成功にせよ失敗にせよ、「透子の見た音楽」は視聴者に提示するのが普通である。「これが結論だ」と、一番分かりやすい形で見せて、決着をつけにくるはずだ。それが無かったということは、「そこも含めて、わざわざ見せずとも理解の及ぶ風景がある」と制作側が意図しているということである。「描かなくて良いから描かない」のである(まぁ、「書けない」という可能性も無いではないが)。さぁ、今一度この物語を振り返ってみるのだ。

 ……ごめん、時間無いんだ。とりあえず、ここまでで勘弁してくれ。余裕があれば、他の視聴者の得た「答え」も見てみたいものだなぁ。

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