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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 歴史たゆたう第6話。時代の動乱の中で、八雲は過去になってしまうのか、現代に踏みとどまるのか。

 高座で倒れ伏した菊さん。落語の時代を動かす大名人の異変に、楽屋裏は騒然。歳も歳だけに周りの人間だって心配していた部分はあったのだろう。誰もが最悪の事態を思い描き、慌てふためきながら対処に追われる。幸い、医学部崩れの萬月兄さんがいてくれたおかげで現場での対処は適切なものになったが、その場で解決するような事でもなし。病院に搬送され、あとは本人の生きる意志次第ということになってしまう。

 当然、愛弟子の与太は付き添いするはずだったのだが、幸か不幸か、菊さんの意地を貫き通した仕事ぶりと緞帳が間に合ったために事態は客席に伝わっていない。まだ残っているお客さん、自分たちを待ってくれているお客さんのために、与太は残ることを選択する。「お客が待っている」「落語をやらなきゃ」。この時の与太の心情は、一体いかほどのものだっただろうか。落語という存在、それを支えてくれるお客の存在、それらがかけがえの無いものなのは間違いなかろうが、全ては菊さんという存在があったからこそ、自分が出会えたものなのだ。師匠を失っては、与太郎の落語は成立しないのだ。だからこそ、そこは私情に任せて菊さんを追いたかったところなのだが、そこに一言、菊さんの口から何かが漏れる。その内容は聞かずとも分かることだろう。噺家が何よりも優先すべきもの。それを守れと、師匠は身を賭して示したのである。菊さんの言葉を魂で理解出来るのは、与太郎、そして小夏の2人だけ。「ここで落語が出来るのはあんたしかいない」。

 いわば「命懸け」の演目、「居残り佐平次」は樋口先生の言葉を借りるなら「とんでもないもの」だったという。鍛錬を積み、この日のために与太が磨き上げた大ネタ。その完成度はどんな大名人とも違った与太郎オリジナルというべきもの。記念すべき日のトリを務めるに不足のない出来だったのは間違いないはずだ。しかし、この「居残り」、演出上は何とも絶妙なポジションに落とし込まれている。ここで与太が「完璧な居残り」を完成させてしまうのは、どう考えてもおかしいのだ。本来なら心ここにあらずに状態なわけで、心情を考えれば与太郎の目指す「楽しい落語」なんて出来るような状態ではない。しかし、そこは菊さんに背中を押されて高座である。半端なものを出すわけにもいかない。良すぎれば与太の人間性が問われ、悪すぎれば噺家としての技量が問われる。そんな八方ふさがりの演目を、与太郎はスレスレのバランス感覚で成立させている。普段のように、噺の世界に埋没し、現実を侵食するような力は演出上浮き彫りになっていない。あくまで、「話をしている与太郎」にスポットが当たった状態で演目は進む。グルグルと渦を巻くように切り取られるカメラアングルも、どうしようもなく心が切り離された与太郎の焦りを表したものだ。しかし、だからといって魂が抜けるというのでもない。特に、主役である佐平次が突然過去を語り出して嘯くシーンでは、グッと汗を滲ませながら、彼の背中に迫るアングルがとられる。これは明らかに、与太郎が背中に背負った彫り物を思い起こさせる演出だ。噺の中で佐平次が背負い込んだのは多額の借金と仲間との約束。そして、現実世界で与太郎が背負い込んだのは、自分の過去と、それを受け入れて認めてくれた師匠との約束。現実に降り立った与太郎が高座の上でけじめをつける姿は、まさに、現代版の「居残り」なのである。奇跡的に繋がったこの奇妙なリンクによって、一世一代の「居残り」は稀代の高みへと上りつめたのだろう。

 こうして約束を果たした与太がこの後出来ることは、ただひたすら師匠の帰りを待つことだけ。状態はあまり楽観的な見方を許さない様子で、小夏の言葉を借りるならば「正念場」。落語界の至宝を「引き戻せる」のは、家族の役割だと萬月兄さんも釘を刺していた。もちろん、ここで言う「家族」という言葉に血の繋がりは必要ないことは言うまでもない。菊さんを彼岸へと誘ったあのみよ吉の幻影と、昔日の慚愧の具象となった助六に対抗出来るのが、その血を引いた小夏や信乃助、そして助六を引き継いだ与太であるというのもなかなかに因果な話である。萬月兄さんはそうした「家族」の繋がりからちょっとはずれて、蚊帳の外で寂しそうではあった。小夏に振り向いてもらえたことでちょっと報われたのかな。これまで登場した中では一番の活躍でしたし、松田さんのように「落語やってくれればいいのに」って思ってる視聴者も多そうだ。遊佐さんのネイティブ京都弁が格好良いよね。

 八雲が倒れたことで、ただでさえ忙しかった与太の日常は更に慌ただしくなった。そんな中で耳に入る、寄席の建て替え計画のお話。直接与太たちに関係のあることではないのだが、このタイミングで「歴史の切り替え」が訪れているというのも何とも因縁深いところで、どうしたって「時代が変わる」ことが「八雲の退場」と重なって見えてしまう。深夜のタクシーで萬月がともしたライターの灯り、そして楽屋で席亭が一服するためのマッチの明かり。今回は「火」が画面の中心に来る構図がかさねて登場するのだが、どうしたって、先週表れた「蝋燭の火」のイメージがそこに重なってしまう。そこかしこで灯っている「火」がいつかは消えることの暗示。それは長い歴史を刻んだ寄席そのものかもしれないし、そこで落語を支え続けた大名人かもしれない。与太郎の根拠のない明るさに救われている部分はあるが、得も言われぬ寂寥感は、時代の終わりをじわりとにじませている。

 そんな中、新しい時代に目を向ける者もいる。相変わらず与太郎を追いかけている樋口先生は、八雲の容態を気にしながらも、あの日与太郎が演じた「居残り」に新たな可能性を見出したと興奮気味。樋口先生の分析する「3つの型」の話はなかなか興味深い。ちょっと本筋から離れた話になるが、これって私も「声優という仕事」を見ている時に常々感じているやつだ。1つは純粋に技術を磨き上げ、芸の中に自分の存在を置く八雲タイプ。千変万化で優雅さを感じさせる演技の方向性といえば、それこそ石田彰の仕事ぶりや、後輩の沢城みゆきなんかの方向性だろうか。2つ目は「何をやっても○○」だが、ハマればこれ以上無い魅力に繋がるという助六タイプ。お客は皆、その「人」を見に来るという方向性で、作中のキャストなら小林ゆうは間違いなくこのタイプ。世間的には若本規夫あたりもこのカテゴリに入るだろう。そして、3つ目は「自分を必要とせず、役の全てに散らして世界が見える」という与太郎タイプ。言わば1つ目と2つ目の複合進化形みたいなデザインだが、個人的には大看板である川澄綾子や福圓美里あたりがこの方向性に近い気がする。男性でパッと浮かぶのは三木眞一郎あたりかな。本当に「演じる」ことが好きで、技術論や精神論を超えたところに何かを見出す、そういうタイプだ。この3つに貴賤があるわけではないが、樋口先生は「与太郎タイプ」の存在を落語家の中で初めて見出し、それを新しい時代の先駆けであると睨んでいる。正直、こんな状況で「次の時代」の話をするのも相変わらず空気が読めてない感があるのだが、先生の場合は悪気があってやってるわけじゃない、むしろ「落語の未来」を一心に追い求めるが故の言動なので致し方ないだろう。

 そして、そんな先生が最後に持ち込んだのが、なんと先代助六の映像が手に入るかもしれないという貴重な情報。この時代、音源ならともかくなかなか一昔前の「映像」を手に入れるのは難しかっただろう。特に活動した時期が短かかった助六ならなおさらのこと。演目はこれまた大ネタであり、あの日助六が魅せてくれた「芝浜」。この情報が、与太郎にどのような影響をもたらすことになるのだろうか。

 「芝浜」のサゲといえば、「また夢になるといけねぇ」である。目が覚めた先が夢かうつつか。彼岸と此岸をたゆたっていた菊さんは、どうやら夢ではなく現実に帰還したようである。涙ながらに目覚めた菊さんは、一体何を見てきたのだろう。目の前の景色を見た菊さんは、その世界のことを「未練」という。

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