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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 クるなぁ……第11話。いよいよもって核心に迫るお話。当然それはとても残酷で、とても苦しいお話である。

 ようやく蘇る智幸の記憶。彼女が失った死の記憶は、大体予想された通りのものになっている。スケートに人生を捧げた彼女は、若い身空でその人生を捨てることとなり、現実を許容出来ずに自ら幕を下ろすことを選んだ。正直、私自身が死を選ぼうなどと考えたこともないし、彼女のように全てを失ったと感じたことなんて人生で一度たりとも無いので、彼女が何故そのような心理になってしまったのかは理解できない。「スケートを失ったことに絶望した」人生であるというならば単純ではあるが理解も出来ようが、どうも彼女のモノローグはそういう描かれ方になっていない。生き甲斐を奪われたそのことは当然ショックだっただろうが、その後に自分の人生を考え、そこに何も「得られる」実感が無かったことで、彼女は「死にたくなった」のではなく、「分からなくなった」のではなかろうか。家族とはなんだったのか、友人とはなんだったのか。彼女の人生において、それらは全てスケートを介して存在するものであり、全てにおける基点となったスケートを失うことは、彼女の回りの世界を全て「分からないもの」に変貌させてしまった。人生とは何か、生きるとは何か、そして死とは何か。分からくなったから、彼女は散歩に出かけるのと同じように、死出の旅路への道のりを選択した。そこには希望も絶望もなく、ただの「喪失」だけが残されている。

 彼女がそうした記憶を失った状態であるにも関わらず「死んだ」という事実のみを覚えていたのは、ひょっとしたらそうした「死のとらえ方」が一般的な人間とは違っていたからかもしれない。普通の人間は、どれだけ急な死に様であっても、「自分が死んだこと」を理解する。そして、「死にたくない」と思ったり受け入れたり、とにかく自分の中で「死」に対して向き合う。ギンティの言っていた「死に直面した時に初めて考えること」というのがそれであろう。しかし、智幸の場合にはそうした「死と向き合うこと」すら存在しなかったのではなかろうか。彼女は死のうと思って死んだだろうが、そこには元々「分からない世界」「分からない生」があり、そこに「分からない死」が平等に与えられただけ。彼女にとってその行動は何か2つの世界を分かつ選択ではなかったのであろう。おかげで、彼女は記憶を失うことにはなるが、「死を選んだ」という記憶だけは残されたままでクイーンデキムにやってきたのかもしれない。

 こうして失われた彼女の人生が、今回はスケートのプログラムと共にゆっくりと立ち現れる。これまでの10話ではずっと黒塗りだった彼女の人生。同じように薄暗くモノトーンのスケートリンクでしなやかに動き出した彼女の人生が、スケーティングの速度と一緒に加速し始める。黒衣、黒髪、ずっとモノトーンだった彼女の回りに、少しずつ色がつき始める。フラッシュバックする様々な記憶と共に、彼女の人生が一気に画面に花開いていく過程は圧巻で、ただ無言で、1人の女性の記憶がなだれ込んでくるのを受け入れるのみ。ひょっとしたらこれが裁定者の受ける「記憶の奔流」なのだろうか。明るく楽しかった彼女の人生。活き活きと躍動するスケーティング。それらが素晴らしければ素晴らしいほどに、観ているこちらは締め付けられるような思いになる。それらは全て、失われた過去のものであることを知っているからだ。

 全ての記憶を取り戻し、彼女の演技は終わる。デキムとの一時で、彼女は自分が「失った」ことを語り、代わりにそれをデキムに与えることになった。死んでから分かることもあるし、生きているからといって全てが分かるわけではない。「死んでいないし、まして生きてすらいない」と漏らすデキムに対し、智幸は何か「生きた印」を与えることが出来たのだろうか。今回は、スケートシーンを含む全てのシーンが非常に緊迫感のある高質な映像で構成されているが、キーとなるシーンがいくつか、オープニング映像から採られているのがまた印象的だ。具体的には、メメントモリと名付けられた酒を飲む智幸のカット、エレベーターに向かうノーナのカット、そしてCパートの智幸を抱きかかえるデキムのカット。ここまで全て構成済みの状態で作品が提供されているのだなぁ、ということが実感出来ると嬉しくなる。

 そして、今回は智幸の物語と並行して、ウィーギンティではマユを巡る物語も展開されており、こちらも恐ろしいほどに重たいものになっている。いなくなったと思っていた原田のボディがどこからともなく現れ、マユには「原田を虚無から救うか、全く知らない人間を救うか」という選択を迫られる。原田が虚無堕ちしていたというのも驚きであるが、ひょっとしたらそれをとっておいてここで切り出してきたのは、本当に底意地の悪いギンティの悪辣な手口の1つなのかもしれない。他人の行く末を決めるという手に余る難行を押しつけられたマユ。彼女は結局、そんな無理難題を受けて原田を救う道を選んだのだろう。ギンティはそれを観て、「やはり人間とはどこまでも勝手な存在だ」というので、2人をまとめて虚無送りにすることを決める。これこそが既存の裁定。デキムが疑問を持った、人の血を必要としない裁定の形だ。マユは望まぬ形で結論を叩きつけられ、そのまま絶望と共に虚無へ堕ちる。最後に原田に意識が戻り、2人の魂が溶け合いながら消えていったことは、最後の救いを意味するのか、救われない2人の末路を描いただけなのか。

 ギンティの行った非情な裁定は、どう考えたってやるせないものだ。たとえマユでなくとも、あの場面で正解など出せるわけがない。そもそも正解がない。だからこそ彼女は、最後の最後まで自分を貫くことでせめてもの抵抗とした。原田がいなければ自分の人生など意味が無い。だから原田を救うことにどんな代償でも払うことが出来た。既に出来上がった彼女の人生に「原田がいなければどうするのだ」と問うことは、まったく意味が無いのである。彼女は自分の生と向き合う中で、それが自分の世界であると定めたのである。そして、ギンティの「職務」もまた同様である。彼は自分で何も決めない。ただ仕事として与えられたからこそ、裁定者の職務をどこまでも忠実にまっとうする。マユが自分で決めた「何も無い」死だったとするならば、ギンティは自分で決めない「何も無い」生である。

 他方、そうした「決める」という選択が出来なかったのが、智幸とデキムの側である。智幸は自分の生きる目的を決めたつもりであったが、いざそれを剥奪されると、全ての人生が意味を失ってしまった。彼女は「決める」ことが出来ずに終わった人生だ。デキムの方も、裁定者の仕事を与えられながら、それが正しいのかどうかは未だに迷っている状態で、決められない状態にある。マユの人生が正しかったと思う人間は少ないかもしれないが、少なくとも彼女は「考えて答えを出す」過程を辿った。そこにはきちんと「メメント・モリ」のメッセージが息づいている。今度は智幸の、そしてデキムの番だ。最終回で、ノーナさんはどんな幕引きを求めているのか。オクルスはどこまで介入するのか。緊迫の最終回である。

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