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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 明かされた真実、第7話。そこに秘められていたのは菊さんの犠牲の精神。松田さんの言った「師匠は墓場まで持っていくつもり」という台詞も、いよいよ墓場が差し迫ってきたこの時世には、何とも重たくのしかかる。

 本当に見ているだけでつらくなってくる菊さんの現状。何とか生きるか死ぬかの状態からは抜け出せたものの、一度倒れてしまったことによるショックは、業界全体を揺るがせただけでなく、当然本人の心情にも大きな影響を及ぼしている。なかなか話してくれないことを気にしていた与太だったが、菊さんが与太と話したがらないのは、本人が言うように「思うように声が出ねぇ」ところを見せたくないからだろう。素っ気なくあしらっていても腐れ縁で結ばれた愛弟子のこと。いつでも一番近くで師匠の落語を聞き、いつだって彼の言葉を聞き続けた与太には、自分が変わってしまったこと、噺家として決定的なものが失われたことは嫌でも伝わってしまう。だからこそ、菊さんは与太の前で声を出したがらない。では、菊さんは落語をやりたいのか、やりたくないのか。おそらくそれは本人すら分かっていないのだろう。

 彼が一番「本心」に肉薄した部分を見せられる相手といえば、結局は小夏なのだ。彼女は業界に関わっているとはいえ噺家ではないので、与太とはまた違ったスタンスで菊さんの話を聞くことが出来る。「声が出なくなり、高座に上がるのが怖いんだ」という菊さんの台詞を、小夏は「分かりきった建前はいらねぇ」と一蹴。これだって充分納得出来る理由だと思うのだが、小夏から見ればそれは「建前」であるらしい。肉体的な限界は、八雲を高座から引き剥がすだけの理由にはならず、「そんな理由であんたが落語を手放せるわけがない」と切り捨てる。そして、そこから漏れ出すように菊さんが語るのは、「落語をやらない安堵感と虚無感」。もう落語をしなくてもいいと言えば確かにそうだ。年齢から来る身体の問題が理由なら、どれだけうるさい外野陣でも無理に仕事をしろとは言えないはず。堂々と、合法的に引退宣言出来るこれ以上無いチャンス。これまで散々嘯いてきたように「自分と一緒に落語が死ぬ」「落語を殺す」ことが望みであるなら、この度の騒動は菊さんにとって必要不可欠なステップだったはずなのだ。しかし、そこで落語を手放すことが、果たして自分の望みだったのかどうか、それすらよく分からない。生まれてこの方、落語以外の生き方を知らなかった人生なのだ。そこから落語がすっぽり抜けて、空いた穴を埋める方法を知らないのだ。幼い頃は生きるための術として、みよ吉や助六生きた時代には皆を繋ぐ縁として、そしてみよ吉の死後は自らの罪を縛める枷として、常に菊さんの人生の中心には落語があった。生きながらにして「理由」を失っては、自分が何ものなのかすら定かではない。自分は落語が好きだったのか嫌いだったのか。何故落語を続けてきたのか。予想もしていなかった自分の気持ちの揺れ動きに、菊さんはまだ解決の糸口を見ない。

 一方、そんな菊さんの窮地を知ってか知らずか、樋口先生率いる与太郎・松田さんのコンビはあの因縁の地へ。独力でそんなところまで調べ上げた樋口先生すげぇと思いきや、なんと彼もみよ吉の故郷に因縁浅からぬ人物であった。落語に出会う以前にみよ吉に会っており、むしろそのみよ吉が落語への道しるべ。そんな樋口の人生にとっても1つのキーポイントとなった、亀屋旅館である。あの日の口演映像が残っているということで、与太にその全てを受け継ぐことが今回の1つ目の目的。見つかったのは、あの思い出の日の菊さんと助六の高座である。ここで描かれる2つの演目がまた印象深い。

 まずは菊さんの「明烏」。若かりしころの師匠を見てテンションが上がる与太だったが、白黒で画質も荒い当時のフィルム映像は、視聴者目線からすればどうしたって「過去の歴史」という印象が強い。事前に弱り切った菊さんの様子を見ているだけに「今」と「昔」の差はより一層強く意識されるものになっており、フィルムの中の菊さんが活き活きと、本当に「楽しそうに」落語を演じていることが、彼の現在の懊悩の理由を根底から支えていることがよく分かる。因縁でしかないと本人が思い込んでいた落語だが、やはりその隣に助六がいて、周りにみよ吉がいたこの時代は、間違いなく「菊比古の落語」には純粋な楽しさがあったのだ。あれだけ八雲の落語を見続けた与太が「こんな師匠見たことねぇ」と言っていたのも無理はないこと。今の八雲は、当時の菊比古とは全く違った目的意識で落語をやっているのだから。

 そしてフィルムは助六へと移っていくわけだが、ここでの演出の対比も非常に明示的で面白い。今回、実に久しぶりに「落語の中の世界」の映像が流れた。菊さんの演じる「明烏」の女郎屋での一幕である。この「落語の作中世界」の映像は本作において「落語の生々しさ」を表すものであり、いかに話に埋没した状態かを表すもの。過去の事例では菊さんの「鰍沢」なんかが印象深い。この時の菊比古はご存じの通り、まだ年若いにも関わらずすでに「世界を作る」落語の腕を持っていたということである。対照的に、助六の落語では「落語の中の世界」は全く描かれない。その代わりに、白黒だったフィルムは助六の登場とともに一瞬でカラーになり、映像を見ていた与太は気付けばその客席に座っている。これは、助六の落語における「助六中心の世界」を描いたものである。前回樋口先生が分析していた通りだが、助六は何をやっても助六。しかし、その「助六の姿」を見せることが最大の魅力であり、寄席の会場全体が彼の落語の舞台と言える。こうした違いが、今回フィルムを見ている時の映像ではっきりと差別化されるわけだ。伝説の「芝浜」は、見事な余韻を持ってすっきりと終わるところであるが、松田さんも与太郎も涙が止まらない。松田さんは懐かしさもあってだろうが、与太の場合には、ただひたすら、助六の作る世界に打ちのめされたが故の落涙である。また1つ、新しい「助六」が伝えられた。

 こうして過去の歴史を手に入れた与太だったが、残念ながらこの地はただの晴れ舞台ではない。忌まわしい事件の現場でもあった。どうにも野次馬根性が止まらない樋口先生のKY発言で何とももやっとした上映会だったが、その後の墓参りの際には、与太は八雲が語った「助六とみよ吉の落語心中」の話をする。だが、松田さんが実際に見た光景は、そんな八雲の話とは似てもにつかない内容だった。2人の死には小夏が関係している。というか、小夏が原因だった。子供のすることだし、それ以前のみよ吉の行いに大きな責任があったのは間違いないのだから小夏を責めるような話でもないのだが、小夏本人がこの事実をどう受け止めたらいいかとなると難しい。だからこそ菊さんは、小夏のことを考え、「自分が全て悪い」という罪の意識をそのまま歴史に塗り重ね、別な「心中」を作り上げていたという。そうでもしなければ小夏は生きていけない。そして、罪を被ることで、菊さん本人が慰められていた部分もあったのかもしれない。

 小夏が実際のあのシーンを今も覚えているのかどうか。それは分からない。おそらく、松田さんが言ったように記憶が曖昧なので菊さんが何となく語っている「事実」の方を信じているのではなかろうか。2人の何とも歪な関係性を知ってしまうと、今回冒頭の病院のシーンにおける菊さんの反応も、また違ったものに見えてくるのが興味深い。菊さんにとって、小夏は「助六とみよ吉の置き土産」であり、2人を失ってしまった今、菊さんは自分のなにもかもを犠牲にして、小夏の人生を救っているのだ。そして、そんなことは普段の生活でおくびにも出さず、小夏の憎しみも長い間受け続けていた。そんな菊さんが、いよいよ「墓場」が見えてきた現在、何を残し、何を持っていくつもりのか。何とも切ない「親子」の縁である。そして、そんな事実を知ってしまった与太郎は一体どうしたらいいのか。残念ながら、与太は馬鹿だからよく分からない。彼に出来るのは、ただただ小夏を抱いて泣き叫ぶことだけ。大きな子供を抱えながら、小夏は一体何を考えるのだろう。

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