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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 去る11月26日に、京都大学で行われた学祭イベント、「山本寛講演会」に行ってきました。個人的には曲がりなりにもファンをやっているつもりなので、わざわざやってきてくれたのに観に行かない手はないでしょう。多少体調コンディションが悪かったり、事前募集で定員割れを起こしている感じが不安だったり、色々と悩みもありましたが……

 でも、実際に行ってみたら、ちゃんと開会前にホールが埋まるくらいの客は入っていたし、2時間の講演会というしんどそうな中身なのに一切中だるみすることなく盛り上がったし、充分な成果が出ていたんじゃないでしょうか。そして、私としてもようやく「業界人」山本寛(以下、親愛の意味も込めてヤマカン)を生で見て、その生の声を聴くことが出来たので、色々と貴重な経験になりました。基本的に声の大きい人なので目新しい情報なんかは特に無かったのだが、彼の話を聞いたことで色々と思うこともあったので、今回はそれを多少なりとも真面目にまとめてみたいと思う。あの講演を聴いたら、「とりあえずネットでも声を上げてみればいい」という風にも受け取れたしね。

 ちなみに、別段メモを取っていたわけでもないので氏の発言については正確に再現出来るわけではないし、私の受け取り方によっては、発言者の意図を正しく受け取れていない場合もあることを先にお断りしておく。まぁ、でないとヤマカン絡みは色々と面倒ですからね。なお、細かい内容については、悪意があったり無かったりする様々なまとめサイトでも見られると思われるので、内容だけを知りたい方はそっちを調べることをお勧めする。


○山本寛という男の人となり

 彼の言葉を借りるならば「twitterや作品だけを観て、よくも人格まで理解したつもりになれますね」ということになるかもしれないのだが、講演を聴いての全体的な感想としては、大体想像していたヤマカン像の通りの人であった。そういう意味では、ヤマカンのこれまでの「顔の出し方」は割と真正直なものだったと言える。

 まず、先んじてネガティブな評価から書いておくと、やはり自意識は相当強そうである。自分のトークの中で「ヤマカンなら」とか「ヤマカン節を炸裂させますよ」とか「どうせヤマカンなんで」みたいなことを言っているのを聞くと、一人称が自分の名前の気持ち悪い女子を見ているみたいで、ちょっと引く部分はある。気位の高さも前評判通りで、言葉の端々には、聞く人によっては傲岸な性格であるようで嫌悪感を覚える人もいるんじゃないかな、という気はした。会場にいる人間が全員自分のことを知っている強い仲間か、明らかな敵のどちらかしかいないだろう、みたいな流れだったので、あまり詳しくなくて聞きに来たお客さんは(もしいたなら)どういう印象を受けたのかは気になるところだ。

 とはいえ、今回は古巣である京大アニメーション研究会(アニ同)へ久し振りに帰ってきてのイベントということで、多少なりとも身内感が強くなるのは仕方ないことであるし、根っからのファンや「刺激的なことが聞きたくてやってきた客」にしてみれば、そうしたヤマカンが見られる方が嬉しいのは事実。そういう意味で、ある程度ファンサービスとしてのキャラ作りもあるんだろうな、という気はする。

 そして、そうした細かい点を除けば、ヤマカンは実に大人であった。まず、基本的に賢い人間だろう、というのは間違い無くて、トークの運びや言葉選び、喋りのテンポなどが、恐ろしくこなれている。最近は講演の機会も多いと言っていたので慣れている面もあったのだろうが、アニメ業界の関係者で、2時間の講演でここまで客を飽きさせず、楽しさを提供出来る人間はそういないのではなかろうか。お客との対応も真摯なもので、なんだかちょっと難の有りそうな質問者に対しても一切手を抜かず、丁寧で大人な対応を見せてくれていた。ま、考えてみりゃあたり前の話で、それなりに世間に出て、しかも会社を興せるような人間が、社会的に不適合な態度を見せるはずもないのだ。「ヤマカンはちゃんとした大人だ」というのが、まず今回まとめるべき1つ目の印象である。

 そして、アニメ業界人としてのヤマカン。これはもう、純粋にアニメ好きなクリエイターだ。アニメを作ること、アニメを見ることにきちんと責任を持って臨んでいることは充分に伝わってきたし、その根幹にある感情が、「アニメが好きだからアニメを作りたい」という一途なものであることも分かった。氏の発言の中で「自分にとってのアニメは商売。金を稼ぐことを前提に話を進めるのは当然のことであって、『アニメがあれば何も要らない』なんていうクリエイターは信じられない」という主旨の言葉があったが、そういった割り切り方が出来るのも、「アニメが好きであること」「アニメに挑み続けること」は前提となっているからこそだと思う。

 ただ、難しいのは「アニメ製作者」としての顔を持ちながらも、同時に「アニメの評価者」としての顔も持ち続けなければいけないという部分。これはどんな世界でも同じことだろうが、作り手側に回った途端、何故か評価者としては口をつぐまなければいけないような風潮がある。これはおそらく、「自分で作れもしないくせに語るな」というよく分からない批判が飛び出して口を開きにくくなることがあるせいだろう。ヤマカンは、そうした難局に当たっても、出来うる限り口を開き続けているというのが1つの特徴だと思う。このあたりの「ヤマカンが発信するということ」については、また後で詳しく見ていこう。
 

○ヤマカンと京アニ

 個人的に面白かった話題の1つが、ヤマカンと京アニの関係性。この話題の前に京大アニ同での出世物語なんかもあったのだが、最終的に到達したのは、「ジブリの滑り止め」として入社させてもらった京アニだったそうで。一番大事なのは、ヤマカン本人はちゃんと「京アニには今でもとても感謝している」ことを明言していたこと。ハルヒからヤマカンを知り、らきすた騒動を見ていた身としてはどうしても不安になるこのあたりの事情だが、本人の口から「いい話」を色々と聴けたことで、あまり気にすることもないのだろう、と安心した。考えてみれば、なんだかんだで長いこと京アニの「1スタッフ」として所属していたのだ、その結末がどうあれ、彼が京アニで様々なものを学び、鍛えられたのは当然のことだろう。氏の口から「京アニはとても良い会社」との確認が得られた(ちゃんとそう言ったということをきちんと書いて欲しい、とも言ってたけどね)。ヤマカンは袂を分かったが、彼の中でもきちんと「京アニ魂」は生きているということだろう。
 

○ポストエヴァと、まどマギの話

 今回最も興味深かったのが、このトピックスである。端的にまとめると「10年に1作程度のスパンで業界に求められる、道標となるべき『大作』が、エヴァを最後に出てきていないことは、自分も含めた業界全体の懸念材料である。自分はハルヒとフラクタルで2度失敗してしまった。『まどかマギカ』は、そうした業界全体の閉塞感が故に、『ポストエヴァとなることを強制された作品』なのではないか」という論旨である。

 先に断っておくと、この議論において、私は決してヤマカンと同じ立ち位置に立つことが出来ない。なぜならば、氏が受けたという「エヴァインパクト」を私は受けていないためだ。エヴァは一応当時見ていたが、少なくとも、その当時の私の姿勢では、エヴァに価値を見いだすことが出来なかった。その後のことを考えれば、ヤマカンにとってのエヴァ(もしくはジブリ作品)は、私にとっての「妄想代理人」になると思われる。庵野秀明と今敏というと、「芸術家」と「技術者」くらいの違いがあると言っても過言ではない。つまり、私が求めるアニメの面白さは、ヤマカンの語る面白さとは(完全にではないだろうが)別物である。そのために、エヴァに続く時代、というテーマでは、多少なりとも私の見方はずれる。

 その上で、彼の言う「まどマギ」評は、非常に共感の持てるものだった。確かに、私は「まどマギ」の感想の中で、「まどかは時代の分岐点ではない」と書いている。手放しで面白い作品であったことは間違い無いが、その上で、これがエヴァに続くインパクトを与えるほどの変革をもたらすものではない、という意識があった。「まどマギは25話、26話と劇場版が無いエヴァ」というのは言い得て妙な表現で、12話で幕を閉じた「まどマギ」は、そこで世界を収束させ、のちの業界にまで波及する何かを持っているとは(少なくとも現時点では)言えない。

 そう考えてしまうと、やはりポストエヴァを未だ存在しないのか、という話になるのだが、私が考えた1つの試案をとして、やはりゼロ年代にもたらされたポストエヴァとは、「ハルヒ」だったのではないか、というのがある。ヤマカン自身は「ハルヒはポストエヴァを期待されつつも消化不良に終わった作品である」と語ったが、エヴァの結果とハルヒの結果が違うのは、時代の変化を反映したものと見ることも出来る。確かに、ハルヒにはエヴァのような売上の際立ちも無いし、一般層を巻き込んだ社会的影響も薄い。だが、ハルヒのもたらしたモデルは、確実にアニメ業界を変質させた。言い換えれば、後々のクリエイターに「ハルヒみたいなものを作りたい」と思わせた。その結果として例えば「けいおん」であったり、「まどマギ」であったり、複数のセールスに繋がるモデルが産み出されたと考えることは出来ないだろうか。

 「オタクの在り方」というのも、ヤマカンが終始こだわり続けた1つのトピックスであるが、現代の歪んだネット情勢の中で、「昔のオタク像」が戻ってくることは2度とないだろうし、その中で生きていく新たな「アニメ像」というものも変化せざるを得ない。もう、そこには「第2のエヴァ」は必要無いし、現れ得ないのではないかと、そう思える。具体的に考えてみると、仮に今のこの時代に「エヴァ」が現れたとして、当時のように、社会的な影響力を持つだろうか。想像するしかないことだが、私は「否」だと思う。やはり声の大きなネットの論調にもみくちゃにされて、「まどマギ」のように、もしくはそれよりも小さな火をともして、消えていくのではないかと思える。この2つの時代の差とは何かと言えば、真剣に見て、戦って、それを受け止めようとするユーザーの声が、相対的にどんどん小さくなっていることだ。ヤマカンが懸念している通り、ネットの影響というものは、確実に「傑作」を産み出しにくくしているのである。

 そうした世相を表した1つの答えが、「ハルヒ」だったのではなかろうか。ヤマカンはハルヒを「成功できなかった」と評し、「ハルヒとフラクタルで自分は2度も敗者になった」と語ったが、上記の考えを元にして、私は彼に自身を「敗者」と名乗って欲しくないと思う。ハルヒはハルヒなりの成功があり、そこに一助を与えたのは、間違い無く「作り手」としての山本寛であると、そう思うのだ。
 

○ネットの中で声を出すこと、アニメを批評すること

 地続きの話題になるが、最後のトピックスがこれだ。ヤマカンが様々なメディアで繰り返し主張することとして、「既に現在アニメの批評は一切機能していない」というものがある。具体的には、ネットというメディアの影響が非常に大きくなり、そこでは「情報の精度、意見の誠意」を無視した声の大きさだけが影響力を持ち、受け手にとっても作り手にとっても無価値なものとなってしまっている、という主旨だ。そして、この主張は確実に的を射ていると思う。

 元来アニメなんてものは「楽しいか否か」で判断するのが第一であり、少なくとも「勝ち負け」ではない、という彼の主張も正論だろう。そんなことは「楽しいアニメが見たい」とだけ思っている人間からすれば周知のことであるはずなのだが、それが何故か機能しなくなってしまっているのが、現代のネット世界である。続けてヤマカンは「売れるか売れないか、作り手側が気にするのは当然だが、受け手の皆さんがそれを気にして楽しいのか?」とも言う。これも正論だ。こうしてみると、彼は一から十まで正論しか吐いていない。その上で、ネット上では彼の悪評が目立つのである。

 個人的に、今回気になってヤマカンに聞いてみたいと思っていたことが1つあった。それは、「何故、あそこまで不利益しか生まないと分かっているのに、twitterを続けるのですか?」ということだ。私のように基本的にじっとしているだけのヤマカンファンからすると、彼が「余計なこと」をしでかして格好の餌を「アンチ」たちにばらまき、全然関係無いところで彼の創作物に傷がついてしまうことは、全く望んでいないのだ。本人も言っていたが、「ヤマカンが作ったから」「ヤマカンが関わってるなら」という理由から色眼鏡で見られるというのは、基本的にデメリットしかないはずなのだ。そして、賢明な山本寛が、それを理解していないはずはない。

 このことについて、今回の講演会では2つの答えが得られた。1つは、彼が「声を上げ続けないと創作が出来ない人間である」ということ。これはもう、生まれ持った難物としての性であるから仕方ないのだろう。「フラクタル」の制作中に、彼は一時つぶやくことをやめたのだが、その途端に歯車が狂ってしまったという。まぁ、本人がそう言うのなら仕方がない(個人的に「フラクタル」は評価出来なかったので何とも言い難いが、「フラクタル」の失敗は彼の上げた他の要因の影響の方がでかかった気もするのだが)。

 そしてもう1つ、彼は他の「批判者」と同じ土俵に立ち続けることで、上に上げたような「不毛なネット批判」に対する啓蒙を続ける姿勢にあったという。ヤマカンは時に批判的なツイートを特にコメントも付けずにリツイートすることがあるという(個人的に彼をフォローしてるわけではないのでよく知らないけど)。その意図を尋ねられた時、ヤマカンは「その発言をしたユーザーにも、自分の意見がネットの大海に晒されたものなのだ、ということを自覚して欲しいから」と答えた。ヤマカンの無茶なツイートはアンチの餌になる。そして、それを批判するようなツイートも、当然誰かしらの餌になる。そうした平等の構図を、彼は知らしめたいと思ったのだという。

 改めて聞いても、どこか間違っているように思える話だ。事実、そんなことをしてもまた餌が増えるだけだし、ヤマカンに何をされても、意に介さない批判者も大勢いるだろう。しかし、じゃぁどうしたらいいのか、と問われると、それはそれで答えに窮する。つまり、結局「評価者」であるというスタンスを維持し続けるためには、何が何でも声を出し続けるしかないのだ。ヤマカンは「既にネットの批評は意味を成さない」と言いながらも、そのメディアで声を上げ続けることで「発信することの無意味」を訴えかけている。実に倒錯的な状況であるが、彼にはこれしかできない。もちろん、その他の誰にも、これ以上のことが出来ない。とんでもない茨の道に、ヤマカンは自ら突き進んでいるということである。

 改めて、ファンの目線からは「そんな無茶はやめてほしいのに!」と思ってしまう。しかし、それを辞めると、業界の難物、ヤマカンはヤマカンでなくなるのだろう。声を上げずにただ黙って見ることなど、暴れ者の彼には出来ないのだろう。それならば、我々は彼の意図を必死に受け止めつつ、世の成り行きを見守るしかない。ただ1つ、ヤマカンの言葉を借りるなら「賢明であること」を保つ努力をしながら。
 

 最後に1つ。神前暁氏とは本当に仲が良さそうで何よりだ! 次も是非、タッグで作品作りをして欲しい。私は引き続き、次なる山本寛作品を待ち望んでいます。

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