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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 菊さんの優等生的な立ち居振る舞いってのは不自由な生き方よなぁ、第10話。それでも師匠はそんな息子の姿を見て救われながら逝ったのだから、孝行な息子ではあったよ。

 時代が進む。前回で助六・みよ吉の問題は一旦置いておいて、助六の失踪によって心を痛める八雲師匠の話に。まさか、というかやはり、というか、初代助六は八雲師匠との浅からぬ因縁を抱えていた。それも、菊比古と助六の関係性をどこかに匂わせるような因縁だ。菊さんは相方に「八雲はお前さんが継ぐんだ」と勧めるほどだったし、2人は互いの落語を認め合う関係性だったから良かったが、初代助六の場合、八雲は単にやっかみから襲名を妨げ、いわば卑怯な手段で横から掠めとってしまった形。そりゃぁ因縁という以外に言葉がない。これまで親父として立派な背中を見せてきた八雲が初めて吐露した、人間としての「汚い」部分。若かりし頃の八雲が人道に外れたことをしでかしたのは事実であるし、その後の初代助六の人生を考えれば、彼はその「弟子」に恨まれ、復讐されても文句を言えない立場にある。しかし、2代目の助六はそんなことはしなかった。あくまで芸を磨き、純粋に腕でもって八雲の名を奪い取ろうと勝負を挑んできた形だ。そして、そんな「息子」に対して、八雲はまたしても頑なになってしまった。過去の過ちについては悔いているにも関わらず、そんな過去の醜い自分の姿を責められているようで、息子に対してますます意固地になってしまう。彼のそんな心残りは、助六が失踪したことでずっと彼を苦しめ続けることになったのだろう。菊さんはそんな「父親」の姿を見て、本来なら助六のことを恨みがましくも思ったのかもしれないが、そこで出てきたのは師匠を労う感謝の言葉だった。それが菊さんなりの優しさ、彼なりの孝行なのだ。

 菊さんの心遣いも分かってあげてほしい。確かに八雲師匠はひどいことをしたし、許し難い部分は間違い無くあるはず。それでも、菊比古が「子別れ」を聞きながらつぶやいていた通りに、芸については敬われるだけのものを持っており、誰にも真似出来ないものをちゃんと身につけている。最初のうちは意地だけで簒奪した八雲の名だったのかもしれないが、悔い改めた後、八雲はしっかりと名前のために戦い、励み、今の地位を確立するに到ったのである。その努力については、誰も責めることは出来ない。彼の噺家としての矜恃は最後の高座にも表れており、既に思わしくなかった身体がどれだけ彼を苦しめていても、なんとしても高座を降りず、最後まで仕事をやりきってから力尽きた。彼の強さは、間違いなく本物だったのだ。だからこそ、菊さんもついていくことが出来た。

 そうして父親を失った菊比古は「本当に独り」になったという。彼の孤独を示す出番前の一コマの空虚な様子。そして、その「独り」という表現が単なる寂しさや空しさだけではなく、オンリーワンとなり、自分の芸を磨き上げて辿り付いた粋であることを表す「死神」の一席。これまで今作では数々の演目が語られてきたが、今回の「死神」は飛び抜けて気迫のこもったものに仕上がっていた。親代わりだった師匠の死の直後にこの演目をぶち上げるだけでもとんでもない胆力であるが、それこそが菊比古の弔辞だったのだろう。師匠の真似ではない、誰のものでもない「菊比古の落語」がそこにあると、世間に、師匠に、自分に見せつける一席。そこには「独り」になった自分の姿を見つめるもう一人の菊比古が存在しており、見て、語っているにも関わらず「菊比古の落語」でしかない。画面の切り替えはあたかも2人の人間が別々に高座を演じているかのように構図を変えずに切り替わり、菊比古の落語がどれほどまでに内面にえぐりこんでいるかが描かれている。私も個人的に圓生の「死神」はトラウマになるくらいに印象深い一席だったが、この菊比古の高座も、そんな落語の歴史に名を刻む一本になったのではなかろうか。

 別離を経て得られた純化と完成。これで菊比古の芸の道はひとまず落ち着いたといってよさそうだ。休みをもらい、いよいよ全ての清算に向かう菊比古。この時代、連絡先も分からない失踪者の足跡を追いかけるのは大変な苦労があったと思うのだが、それでも落語さえあれば引き寄せられてしまうのは皮肉な縁。辿り付いた場末のそば屋で、菊比古は聞き覚えのある「野ざらし」を耳にする。そこに刻まれているのは間違いなく、助六の血なのだろう。

 このお話も、結末が近いなぁ。

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 言葉も無い、第9話。もう、終始心の臓を鷲づかみにされているかのような切迫感。絶望感。分かっていたことだけども……。

 今回はもう、ただただ黙って見守るしかないお話だ。何が苦しいって、それぞれの言い分はいちいち分かるってことなんだよ。これまでずっと見てきたから、助六が言いたいことはとても良く分かる。彼の信念も、彼の先見も、全てがまっとうな熱意から来るものだし、表出のしかたが不器用ではあるものの、それをなんとかして協会のお偉方にも伝えてほしいという思いはある。しかし、今回正面衝突してしまった八雲師匠の言い分もまた分かる。「落語とは口伝である」ってのは今回言われるまで気付かなかった視点で、「落語を守ることは人の和を守ること」っていう論旨も、落語という文化を守る上で重要な考え方なのだろう。もちろんそれ以外の伝達方法もあるだろうし、その理屈が「変えてはならない」という戒めには直結しないことも分かるのだが、「信頼感と共感から始めろ」という師匠の信念も、伝えるべき落語の姿の1つなのだ。お互いに決して馬鹿なわけではない。冷静な状態で膝を突き合わせ、人格批判とはっきり分けて話し合う場があれば、ひょっとしたら円満な解決方法もあったのかもしれない。世の中には酒を飲みながらやっちゃいけない話ってのはいくつもあるもので、そのうち1つが、「真剣な議論」ということだ。

 勢いが先んじたために、助六の持つ八雲への憧れは落語の伝統論の前にかき消え、あっという間の破門。あまりにも時期が悪すぎたせいで、助六の転落劇は必要以上に無残なものに見えてしまった。師匠の方も、おそらく酒の席での勢いだったという負い目は残っていると思うのだが、そこにまた正論をぶつけられると、さらに意固地になってしまう。ほんのちょっとボタンを掛け違えた関係性なのに、一度固まってしまったらもう戻ることが出来ない。二人の間で翻弄される菊さんには、どうしようもないことなのだ。

 そして、みよ吉という女の人生が、この不幸な転落劇に噛み合ってしまった。菊比古に「裏切られた」みよ吉と、落語に「裏切られた」助六。2人の間に横たわる負の連帯感。そこで二人が慰め合うことを、誰が責められるというのか。二人とも、失ったものがあまりにも根深すぎるのだ。特に今回は、わざわざはっきりと別れを言いにきた菊比古と、桜吹雪の中で大見得を切るみよ吉のシーンが鮮烈すぎた。ここでも菊さんを突き動かすのは「正論」。分かっていることでも、人間にはどうしようもないことがある。それは酒の席の感情論だったり、男女の関係性だったり。一度離れてしまったみよ吉は、もう菊比古と同じものを見ることは出来ない。いや、結局二人は、一度だって同じものは見ていなかったのかもしれない。今回は冒頭パートにもあった「隅田川の川面」が何度も映し出される。たゆたう水、流れを止められない川、そして此岸と彼岸を隔てる流れ。人にはどうしようもない力によって、みよ吉と菊比古が隔たり、助六は落語と隔たる。彼岸の2人は、互いにみっともない姿で支え合うしかなく。

 そして、そんな2人の不幸に、渦中の菊さんも傷ついている。ずっと信じてきた「自分のための落語」だったが、そのゴールにあるのは、ずっと先を歩き続けてきた憎らしい兄弟子の背中だったはずなのだ。それがいつの間にか失われ、一切望まない姿で自分の目の前に転がっている。彼もまた、「裏切られてしまった」人間なのだ。「落語だけは続けてくれ」と必死に訴える菊さんだったが、助六の答えは「よく分からない」というどうしようもないもの。それも仕方ない。彼は「復讐」すべき落語に取り付く、その拠り所を失ってしまったのだから。高座に上がることすら出来ず、八雲の名前を継げなければ、初代助六の無念を晴らすことは出来ない。自分の芸を受け入れてくれない業界では、彼の目指す新しい時代は訪れない。もう、彼が落語をやる理由は無くなってしまったのだ。それが、「客のための落語」を選んだ彼の末路である。しかし、彼の戦いが無駄でないと一番信じたいのは菊さんだ。助六の意志を、今後の落語業界に何とか繋いでいかねばならないのだ。これからの人生に、菊さんは2人分の落語を背負い込むことになるのだろうなぁ。

 そうなんだよ、この作品のタイトルは、「心中」なんだよ……。

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 あまりに濃密な第8話。今回はホントに強烈なシーンの連続だった。1枚1枚の画に破壊力があって、じっとりとした動きの少ない世界でもアニメの見せ方ってのは色々あるもんだ、と再発見した気分。

 シーン1、八雲師匠と菊比古。すっかり自分の落語をものした菊比古の芸を見て満足げな師匠。相変わらずストイックな菊さんはそれでも芸を磨くことを忘れておらず、その延長線上にあるのは真打ちになるという大きな目標。彼にとっての落語は「自分のための落語」であるが、真打ちになることで「自分を作ってくれた」落語界への恩返しをしなければならないという目標も持っている。師匠からしてみればこんなにも孝行な弟子もいないだろう。しかし問題はもう1人。頭痛の種は無くならない。そして、菊比古の方にも問題が残っていないわけではない。自分が小姓として満州から引っ張ってきたみよ吉が、気付けば菊比古とくっついてしまっていることに責任の一端を感じている八雲。自分でひっかけておいて小言をいうのも憚られるが、「所帯を持つならちゃんとした女にしておけ」ということだけは菊比古に言い置かなければいけないらしい。当の菊さんは「それは間違っていると思う」と言いながらも、みよ吉とくっつくことが自分の芸をまっとうする道と相反するものだとは考えている。「自分のための落語」「落語のための自分」という関係性の間に、「みよ吉」というピースははまることがない。師匠の思惑とは違った次元で、菊比古自身もみよ吉を扱いかねていた。

 シーン2,縁日の宵。菊比古の不在で愚痴を言い合うために自然と席を同じくしたみよ吉と助六。共通の話題があれば話は弾むもので、唐変木の菊比古を話の肴に、2人はほんの少し距離を縮める。みよ吉の口から蕩々と語られる菊比古への思いは一片の迷いもなく、あまりにひどい菊比古の仕打ちに対しても、全てを分かっていると語ってじっと耐える彼女の姿はあまりにも甲斐甲斐しく、男心には憐憫を誘う。陰のある表情、気だるげな中にも信念を感じさせる語り口によって、みよ吉という女性の魅力は嫌でも高まり、そんな「不憫な女」を前にして、助六が放っておけるわけがない。彼女が菊比古に一途であることは重々分かっているし、そんなことをしても救いにもならないことは分かっているが、祭りの喧騒にもほだされたのか、思わず彼女を引き寄せて抱きしめてしまう。この時の助六の衝動は、けしからぬとは思うが、人として致し方ない部分もあっただろう。ここで放っておくようでは、彼は助六でなくなってしまう。

 しかしこれが天の配剤か、菊比古は旅から戻っており、一部始終を目撃してしまう。ここで単に菊比古が「勘違い」から激昂してみよ吉を攻め立てるだけなら、2人の関係に救いもあっただろう。しかし、菊比古は全てを分かっていた。みよ吉の気持ちも、助六がそうしてしまった成りゆきも、その全ての責任が、自分にあることも。この機を潮時と見定めた菊比古は、「一世一代の大嘘」に打って出る。素っ気ないそぶりでみよ吉をはぐらかし、彼女の想いを逆なでするような返答に終始する。どうにもならない菊比古にやるせなくなったみよ吉は思わず手をあげるも、ここで打たせてくれない菊比古の徹底した残酷さ。「覚悟を持て」と言い捨て、この局面が決定的な転機であることを伝える。そんな菊比古の決意を受け止めることなど出来るはずもなく、哀れな女は、ただ姿を消すしかなかった。

 これだけの愁嘆場、舞台の上の男2人には絶望的な隔たりが産まれるものだが、ことこの2人については、互いを責める結果にならないのがまた残酷なものだ。みよ吉が退場し、残された男二人のシーン3。相変わらず全てをわかり合った兄弟2人。今回の一件もあり、2人はようやく分かれて暮らすことになる。それは喧嘩別れでも何でもなく、はっきりと見えた互いの目標に向けて、いくらか違った方向へ歩き出すためのスタート地点として。助六は「客のための落語」を目指す。変化することも落語のうちであり、客のニーズに合わせてその瞬間瞬間で最も面白いものを提供するのが助六の役目。その目的のためには、菊比古がお目付役となって枠にはまっているわけにはいかない。対する菊比古は「自分のための落語」を貫く。自分を作ってくれた落語は業界そのものがもたらしたものであり、伝統ある落語という文化を守り、貫き通すためには助六のような自由闊達な落語を目標にはしない。「そんなものぁ落語じゃねぇ」とまで言い切り、変革を良しとせずに古きを貫く。しかし、「伝統と革新」という相反する目標を掲げた2人にも、通底する「落語が好きである」という部分だけは変わらない。この1点が守られている限り、どれだけ意見が食い違っても、2人は決して隔たることがない。これまでは目の仇にしていがみ合っていた部分でさえ、成長して互いが見えるようになった今では、各々を励みとしながら、切磋琢磨することが出来るようになったのだ。たとえその確執の中で、1人の不幸な女性が振り回されていようとも。何とも残酷な友情物語である。

 シーン4,助六の追想と八雲の名。ようやく明らかになった助六のオリジン。彼が最初に落語を教わった「師匠」はなんと遊楽亭の門をくぐったこともある人物であったという。片や夢破れて素人芸の日陰に追いやられた助六、片や大名人と謳われて落語界を背負って立つ八雲。あまりに明らかなその対比に、助六は野心と復讐心を燃やしている。かつて芸の世界から転げてしまった助六という名を腕一本で押し上げて、最後には八雲の名を奪い取るのだ。彼の落語に対する信念は、自分の信じる「助六の落語」で最終的に「八雲の落語」に成り代わること。そのためにこれまで、曲げず、折れずに戦ってきたのだ。そして、その夢は遠くない未来に見え始めている。菊比古の目にも、それは明らかなように思える。

 しかし、我々視聴者は知っている。八雲の名が最終的にどこへ辿り付くのか。助六はこのあとどうなっていくのか。そして、みよ吉は。

 八雲という「名」の重みに改めて向き合う師匠は、遊楽亭の系図を見つめ、その先に新たに刻まれるであろう名前を思う。落語業界は何を求め、何を選択するのか。菊比古が部屋で一人稽古している演目は「死神」。若者の夢は、未だ夢のまま。

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 流石に耳かきについてはどうかと思う、第7話。なんとなく「そういう」テイストも無くはない作品だが、そこまで緊密に仲が良いのは、ちょっと。そりゃ、みよ吉さんだってどん引きよ。

 今回は残念ながら落語パートはほとんど無いお話だったが、そこはドラマ部分とのバランスなのでしょうがない。一応、冒頭で人気沸騰中の2人の仕事が短く描かれており、ほんのちょっとの時間でも2人の芸の差があらゆる部分で見えてくるのが面白いところだ。

 前回までで順風満帆になった新進気鋭の若手噺家2人。その勢いはとどまらず、演芸場は2人のファンで埋まり、ラジオからも2人の高座が聞こえてくるようになった。八雲師匠も鼻高々で、これ以上無いくらいに、芸の道は充実している時期である。しかし、だからといって私生活まで順調かというとなかなかそうもいかないようで……今回は、菊比古を取り巻く2人の人間についての焦点がはっきりと分かるようになっている。言ってしまえば、トラブルの火種は「三角関係」。菊比古・助六・みよ吉という男2人・女1人の痴情のもつれだ。ただ、現時点においては奇妙なことに、その中心にいるのが菊比古である。つまり、1人の男を、一対の男女が取りあっているというヘンテコな状態(まぁ、今期だと「ハルチカ」も同じ構図(?)だが)。

 もちろん、助六は菊比古に対して恋愛感情なんか抱いちゃいないし、そこに何か気味の悪い特別な感情があるわけでもない。あくまでも単なる「兄弟」であり、だらしない助六は知らず知らずのうちに菊さんに依存しまくっているだけだ。楽屋でのごたごたは全部菊さんのおかげで何とかなっているし、金銭的な部分を中心とした私生活の問題だって、菊さんが管理してくれているからなんとか人並みの生活が出来ている状態。強いて男女の関係でたとえるなら、母親と息子みたいな依存関係である。対して、みよ吉が菊比古に向ける感情は(当たり前だが)まっとうな恋愛感情だ。生真面目で誠実、それでいて才能にも恵まれ、独特の花を持つ「芸人」としての菊比古に対してもみよ吉は純粋に好意を持っている。菊比古の方だってみよ吉のことを悪く思ってはいないはずで、普通の恋人同士と見れば、2人の関係はそこそこ上手くいっていたはずだ。

 しかし、時間は有限である。菊比古という1人の人間に与えられた短い時間では、彼は芸の道と色恋と、2つを同時に選ぶことが出来ない。そして、菊比古という男は、どこまでも「芸」が本筋の人間である。苦心の末に見出した「自分だけの落語」の道。ようやく歩み始めたその道で、回りからの評判も伴い、ついに師匠からも太鼓判。巡業への誘いは彼が1人前と認められた何よりの証拠であり、かつて戦時慰問に同行したのが助六だったことに心を痛めていた菊比古には、何よりの提案だった。自分で見つけ出した芸の道は、世間に認められるよりも何よりも、師匠から認められることが一番の目標だったのだ。念願が叶い、彼はますます芸の道を邁進することを決意する。そして、そんな「芸」を代表する人物が、長い苦楽をともにした助六なのである。

 今回、菊比古はみよ吉と助六というキーパーソンに何度も個別に会い、そのたびに表情を変える。始めは、だらしなくて迷惑ばかりかける助六に対しては本当に苦々しい顔をしており、夜道で飲みに行くことをせがまれた時には「面倒な男だねェ」と本音を口にしている。しかし、そうした悪態も全て信頼関係の一部でしかなく、呉服屋に連れていけば服が必要な当の本人よりもよほど楽しそうにショッピングを満喫しているし、耳かきを駆使して寝かしつけた助六を相手にも、本当に母親のような気遣いを見せる。そして何より、最後に2人で酒盛りするシーン。もう、このシーンでの菊さんのデレっぷりがあまりにも容赦無く、「どうあがいてもこの兄弟の関係性には何人たりとも立ち入れないのだ」と思わせるに充分過ぎた。「二人会をやりたい」という助六の頼みもいつの間にやら「多分いつの日かやるんだろう」と決定事項みたいに扱われているし、散々文句を言っていた助六の酒についても、なんだかんだで酌み交わすことになる。そして一番刺さった一言は、飲みながらポロリと漏れた「はやく真打ちになりたいもんだ」という言葉。「真打ちになる」という目標はもちろん2人で何度も語り合ったことがあるのだろうし、当座の目標としていくらでも口に出す機会があったのだろうが、菊比古は他のシーンで真打ちという言葉は肯定的に使っていない。師匠からの言葉を貰った時にも昇格が云々なんてことは考えもしなかったし、どれだけ人気が高まったと言っても、礼儀作法にうるさい彼は真打ちの先輩方を立てるため、決して自分の昇格なんて話はしてこなかった。それが、助六の前ではサラリと口から出てくるあたり、どれだけ2人が心を許しあった仲であるかが分かるというものだ。

 そして、決定的な違いが浮き彫りになるのは、やはりみよ吉との関係性。彼女が「真打ち」という言葉を出して菊さんをからかった時には、彼はにこりともせずに「馬鹿なことを」と一蹴するだけだった。どれだけ男女の関係性が深まっていても、結局菊比古はみよ吉の前で芸のことを真剣に話したりはしないのだ。元々「遊びは芸の肥やし」という考え方には否定的だった菊比古だけに、ストイックな稽古事に色恋は絡まず、公私を分けるように、芸事はみよ吉と関わらせないのだろう。そして、そんな線引きが、みよ吉には何よりも辛く、もどかしい。もっと菊比古の内へ内へ入りたいと思っているのに、線引きの厳格な菊比古はそれを許さない。挙げ句、上り調子の芸事を磨くため、どんどんプライベートが侵食されている状況。決定的になったのは彼が地方巡業の申し出を受け入れたことであり、これはすなわち、一時的とはいえみよ吉と会うことを捨て、落語のためだけに日々を過ごすと宣言しているようなものである。流石にそれをみよ吉に伝えることは後ろめたいのか、彼は決してみよ吉に巡業の話はしなかった。道ですがられた時にはおそらく「しばらくは巡業に行くから会えない」と言うべきかどうかは相当悩んでいたはずなのだが、最終的に彼が選んだ答えは何も言わないこと。どうにも、2人の間には大きな溝が出来てしまっているようだ。どうにもならない関係にみよ吉の紅も霞み、なんとも痛々しい有り様になってしまっている。これだけの冷遇を受けてなお、身の引き際を心得て、極力菊比古の迷惑にならないように振る舞うみよ吉の健気さも涙を誘うものである。

 みよ吉の前で見せるなんともいえず辛そうな表情、助六と2人でいる時の晴れやかな笑顔、それに、夜道で一人落語をそらんじながら歩く時の自然に浮かぶ笑みなど、今の菊比古には落語以上に大事なことなどあってはならない状態であることがよく分かる。このまま行くとみよ吉との関係性は……って、まぁ、将来のことは既に判明してるのだからおよその結末は想像出来るものであるが……なんとももどかしくて、切なくなるお話である。でもなぁ、師匠に声をかけてもらえた時の菊さんとか本当に嬉しそうだったし、現状が可哀相というのもなんか違うんだよなぁ。いつの世にも、ラブロマンスというのはもどかしいものです。

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 洋装のみよ吉は本当に美しくていらっしゃる、第6話。いや、それも大変結構だけど、今回は全体的に希望に満ちあふれていて、とてもとても良いお話になっていたと思います。一言でまとめると「菊さん可愛くてしょうがない」。

 これまでずっと燻ってきた菊さんの悩みが、すかっと晴れ渡る転機となるエピソード。もちろん、これまでの蓄積があり、悩んで悩み抜いたために得られるカタルシスなわけだが、やっぱりこうして晴れやかな気持ちで見ることが出来るエピソードというのは感無量だ。そこには「菊比古とみよ吉」、そして何よりも「菊比古と助六」の関係性がこれ以上無いくらいにはっきりと描かれている。

 注目すべきシーンを2つに絞ってしまおう。1つは、夜中の汚い相部屋、助六との対話。みよ吉との電車での会話のおかげで、自分に向いている芸の方向性のとっかかりを掴んだ菊比古が部屋で稽古に励んでいると、そこにいつも通り赤ら顔で入ってきた助六が「俺の言った通りだろ?」としたり顔に。それを見た菊さんは大きな衝撃を受ける。この時の彼の感情は、珍しくはっきりと台詞でも表されており、「この人はいつも先を行っている」と、これまで通りの羨望を漏らす。そしてそれ以外にも、手に持った扇子をぎゅっと固く握る様子から、にじみ出る悔しさが執拗に感じられるのである。嫉妬とも取れる「負け台詞」と扇子に籠もってしまう戦慄きを見ると、さぞかし悔しくて、助六のことが疎ましいのかとも思うのだが、もちろんそんなことは無い。助六の先見の明と抜群の勘を認めた菊比古はわずかに笑みも浮かべるし、フッと力を抜いた様子も見せる。嫉妬と羨望、尊敬と感謝、そうしたものが入り交じった菊さんのなんとも複雑な感情が、この静かなシーンの中に様々な表情で溶け込んでいるのである。助六が乱暴に口を付けて飲み込んだ鉄瓶の口にしたたる雫は、菊比古の悔しい涙を表すかもしれないし、ショックににじむ冷や汗を表すかもしれない。火鉢に突き刺さる火箸は、沸々と湧き上がる菊さんの情念と、そこに突き立てられた確固たる意志の表れかもしれない。狭い部屋の中で、助六の発した全ての言葉が、菊さんにとって重圧にもなり、励みにもなっていた。

 そしていよいよ新しい菊比古の時代が訪れる。今回は本作らしく、きっちりたっぷりと噺を聞かせてくれる構成になっており、前座を飾るのは助六の「お血脈」。なるほど、聞けば聞くほどに菊さんは「アタシには出来ない」と思わせられる、そんな軽妙な噺の進め方。石川五右衛門の大仰な芝居口調のギャップが笑わせどころの噺であり、助六が舞台上で客席との相互作用でどんどん高まっていく様子がはっきり見て取れる。この一席だけでもなかなかに贅沢な演目である。しかし、今回の真打ちはその次の高座だ。助六の仕事を見た菊さんは、またもそこから気分を落とし込みそうになった。「客のための落語」という助六の主義信条をまざまざと見せつけられ、そこに相容れない自分の芸に思い悩み、「なんのための落語か」と、内に内にこもってしまいそうになる。しかし、そこは昨晩も考えたこと。そして、頭の隅にはみよ吉という心強い理解者の存在もあったのかもしれない。ここでついに、菊さんは「アタシの落語」という言葉を発するのである。

 高座に上がり、思い通りの噺を進めていく菊比古。その表情は柔らかく、助六の言っていた通りに、艶っぽい登場人物の描写が次第に客の心を取り込んでいく。勢いに任せた助六の落語は、場面転換とともにコロコロとカット割りがかわるめまぐるしい落語だったが、菊比古の「品川心中」は、そうした助六の落語描写とは見事な対比を成している。非常に面白いのは、落語の「中の世界」の描写が少しずつ高座の菊比古に入り交じってくるわけだが、その溶け込み方がどちらか片方に振れず、曖昧な状態に入っていくところ。具体的に言えば、背景だけが廓のお座敷になっているにも関わらず、そこで噺をしているのは噺の中の女郎ではなく、あくまで高座の菊さんだ。彼が作品世界に埋没して、そこで対話を進める形になる。金蔵と女郎の切り替えについても、助六の話のようにカットで割るのではなく、自然に菊比古が演じているそのままを画面に投影させている。柔らかく、沈み込むように入ってくる菊比古の落語の情景としては、この演出が非常に効果的に働いている。そして、肝心の心中のシーンまで来ると、ついにその世界がはっきりと「作中世界」へと移る。あとはサゲまで一直線だ。これまで菊比古が噺をしたときに、ここまではっきりと作品世界が投影されたことは(後年の「鰍沢」を除けば)一度も無く、今回の演目が、これまでの菊さんの作りあげてきた落語とは全く違うものであることがはっきり分かるようになっている。本当に、見ていて退屈しない。

 ようやく手に入れた、「アタシの落語」。その見事な変化に舞台袖の助六もはしゃいでまわる。達成感に満ちた菊比古が最後に深々と頭を下げた時に、高座の板目に映り込む彼の表情が大写しになるのもなんだか不思議なカット割りだが、記念すべき一席となった高座から離れがたいほどの菊比古の高揚感が感じ取れる。そしてとどめは、帰りがけに「良かったよ!」と褒められた時の菊さんの返し。「ナ・イ・ショ」って、やっぱりあんたがヒロインだよ! 菊さん、可愛すぎるわー。本当に素敵な笑顔でございました。

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 菊さん可愛い、第5話。なんかもう、要所要所で萌えポイントを発揮しているぞ。最終的にあんな立派なおっさんになるって分かってるキャラのくせにこの愛らしさはなんなんだろう。ちなみに、今回一番の萌えポイントは、無言でひたすら墨を投げつけてくる菊さんです。

 何ともちぐはぐな助六と菊比古の関係性だが、今回みたいなお話を見ていると、その繋がりがどうやって維持されているのかが分かって面白い。最初に描かれるのは、ますますたがが外れて好き放題やり散らかしている助六の痴態。未だに菊比古と2人の貧乏所帯で生活しているにも関わらず、随分女遊びが派手になっている。そして、正反対のストイックさを維持している菊比古への対応もひどく無神経に見えるもので、それを正面から受け止める菊さんは不快感を隠そうともしない。おそらく、あの前半のもめ事シーンだけを見るなら、菊比古は本当の意味で助六のことを疎ましく思っていただろう。しかし、それが純粋な嫌悪だけではないのが辛いところで、これだけ遊び歩いている助六が、芸の道では自分よりも前を走っているのが悔しくて、羨ましくて、そして何より、そんなことに嫉妬してしまっている自分がみっともなくて、菊さんはイライラしてしまうのである。

 そんな劣等感を抱いた状態で、助六に突然噺をやるように指示し、その内容を目ざとく「女遊びばかりしているから品が無くなる」とくさしてみせるのも、なんとか自分が助六に指摘出来るポイントを探した精一杯の反抗心から来るものだろうし、何より、「助六がこんなところで終わる人間じゃない」という信頼があるからこそ、彼に注文を付けて、いくらかでも姿勢を正してほしいと思っているから。何とも甲斐甲斐しい態度ではないか。そして、助六の方はそんな菊さんの心中を知ってか知らずか、いつものようにあけすけに彼の領域まで踏み込み、好き放題に彼の信条を踏み荒らしてまわる。「愚痴くらいなら聞いてやる」と言っているものの、その愚痴だって助六が原因で出てくる部分が多いのだからひどい話であるが、彼は、菊比古がそんな自分との関係性以外にも、芸について思い悩んでいることを知っている。だからこそ、自分がやっかまれていることについては白々しくはぐらかし、なんでもいいから菊比古に刺激を与えようとしているのだろう。お互いに、無いものを知っているからこそ、それを補ってやろうという気遣いが産まれるのである。まぁ、お互いに素直じゃないのではっきりとしたアドバイスの形で現れないのはもどかしいところだが。

 しかし、そんな菊比古の人生にも大きな変化が1つ。彼の人生に欠けていた、新たな依存先としてのみよ吉の存在である。いつものようにみよ吉に対しても素っ気ない態度をとる菊比古だったが、するすると心に入り込んでくるみよ吉には、いつの間にか大きく心を許し、彼女のいうなりに身を任せてしまっている。彼が自分の足や杖について話して聞かせたのはみよ吉が初めてのこと。「既にお守り代わり」と言われた杖はみよ吉の部屋では一切その存在感を持たず、本来杖を持っているはずの左手には、今やみよ吉が抱かれている。杖のように依存する「お守り」代わりに、いつの間にかみよ吉が入れ替わっていることが端的に表された構図である。相変わらず艶っぽいシーンはドキドキするような緊張感が続きますわ。

 そして、そんなみよ吉に背中を押されたこともあり、ついに実現した若手芸人たちだけでの舞台演劇。みよ吉や助六のやけに盛り上がったテンションと菊比古の消沈ぶりの対比がすでに面白いが、このたった1度の舞台が、菊比古にとってどれほど大きな舞台になったかが見えると、これがさらに面白い。ただでさえ芸の道に迷っていた菊比古は、ギリギリになっても「帰る!」と言い出してしまうくらいに尻込みしていたものだが、助六によって無理矢理引きずり出され、天性の舞台勘と持って生まれた華によって、見事に大任を果たしてみせる。そして、この舞台上での菊比古の表情の変化が、余計な説明無しで淡々と描かれていく周到な構成。何度か「お客が自分のことを見ている」という台詞をつぶやく菊さんだが、同じ台詞でも、少しずつ声のトーンが変わっていく。そして、それに従って舞台上での彼の演技の抑揚もかわっていき、クライマックスにいたる部分では、客席の盛り上がりと完全にリンクして、脳内麻薬が出っぱなしの状態。ついに彼は、舞台の上で、自分が「魅せる」ことの意味、そして楽しさを認識した。それもこれも、助六が強引に舞台上に引きずりあげてくれたおかげであるし、みよ吉が乱暴に背中を押してくれたおかげ。2人の「ファン」の存在が、菊さんを1人の「芸人」として大きく化けさせた瞬間であった。

 1話たっぷり落語以外の舞台演劇を見せるという一風変わった回であったが、根底に流れるテーマ性に変化は無い。こうして芸の道に光が差す瞬間というのは何とも魅惑的。「少年ハリウッド」なんかでも同じような高揚感がありましたわ。ここから菊比古の快進撃が……始まるかな?

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 色気があるねぇ、第4話。こうして聞いてると林原めぐみってのはやっぱり恐ろしい存在だってことがよく分かるな。

 少しずつ回り始める歯車。今回は前半のメインが初太郎改め助六の「夢金」、そしてBパートがみよ吉登場編、という構成。まずAパートだが、いきなりボーイ姿の菊さんに驚く。あんまりそういうことをしそうにない人だったが、お金が苦しかったのでとにかく少しでもバイト代がいいところで働いていたんだろうか。高座がいつあるか分からないからあんまりがっつりバイトも出来ないだろうし、こういうときに融通が利くのはやっぱり飲食店なんだろうね。声優のバイト事情と似てるかもしれない。菊比古は基本的にイケメンなので、すらっと立っているだけでも固定ファンがついているようだ。元々踊りをやっていた人間だったわけで、所作が様になっているのはそういうところの影響もあるのかもしれないが、1つ1つのことに折り目正しいのはやっぱり性格なんだろうな。当時の風俗から考えると、そういう所作ってのは洋装にも映えるし、それで人気も出ていたんだろう。足が悪くて普段は杖を使ってるわけだが、バイト中くらいは杖無しでゆっくり歩くのは問題ないのかな。

 そしてそこに現れるのは相変わらず対照的な助六。ちょっとでも隙があると酒代の無心、師匠からもらった紋付きもさっさと質入れして飲んでしまうとか、まさに落語の登場人物そのまんま。実在の人物なら志ん生そのまんまだ。菊さんとしてはせっかくのイメージを保ってすました顔でこなしていたバイト先に助六が来るのは都合が悪いようで、いつも通りにシレッと「知らない人です」と片付けてるあたりはベリークールである。あのシーンだけ見ると「嫌ってるのかな」とか見えてしまう可能性もあるが、まぁ、単に仕事の都合だわな。菊さん自身は「アタシは嫌いですよ、あんな男」とか言いそうだけど、別にそういうことじゃないんだよな。小屋への雪降る道すがらの会話、ずっといがみ合ってるように見えるが、結局はじゃれ合ってるだけだからね。ボンをいじって面白がっている助六と、ため息混じりにそんな面倒な相方の面倒を見てやる菊比古。すっかり定着したこのコンビネーションは実に良いものだ。

 菊さんが助六に愛想を尽かさないのは、ひとえに自分の欲しいものを彼が持っているから。普段の生活の心配もせずに遊び歩く助六だが、噺の稽古はきっちりやっている。助六は何よりも落語が好きだから、そこでの手抜きは無い。今回の「夢金」については、映像自体はそこまで手の込んだものではなかったが、その分、袖で観ていた菊さんが演じる時、聞く時のポイントを解説してくれているので分かりやすい。演じている助六が楽しそうで、それを聞いている菊さんもやっぱり楽しそうだ。

 ちなみに、アニメの上での演出としては、今回の「夢金」はやけにカット割りが多かったのが気になるところだ。具体的には、落語の中でキャラが入れ替わるタイミング、実際には噺家が観る方向を上下と切り替えるタイミングが、カットを割って省略されている。つまり、右を向いた画、左を向いた画が動画で繋がらずに場面がポンと飛ぶのだ。この演出はもちろんこれまでにも見られたものだが、今回は特に多かった気がする。演出効果としては、各々のキャラがスパッと画面上でも切り分けられるので、話の筋が追いやすくなるという意味合いがある反面、切れ切れになると、実際の「演じ方」の描写としてはちょいと不足する。このあたりの取捨選択は演出の狙い方次第だろうが、今回は「夢金」というお話で2人の登場人物の演じ分け、切り替えがポイントになってくるところ。助六の言っている言葉を借りるなら、「菊比古をイメージしたケチ・強欲」なんかを1つ1つはっきり枠を切り取って浮き彫りにする狙いがあったと思われる。こうして、画にしてしまうと似たり寄ったりになりがちな高座のシーンでも、演目によって描き方が細部でかわるのは面白いところだ。今回は後半のみよ吉パートの艶っぽさから監督コンテかと思ったんだが、実際には田頭しのぶ氏という人の仕事。調べてみると「少ハリ」のキャット回なんかを担当していた人のようだ。監督の意図がしっかり伝わっているみたいだし、1つ1つの作業が丁寧なのは嬉しいことだ。

 そんなわけでBパートはいよいよみよ吉の絡みになるわけだが、とにかく「みよ吉という女」を描くことに全神経が注がれている。1つ1つの動作がやたらに蠱惑的で、最終的に菊さんもなびいてしまうのがよく分かる。そりゃま、普段から芸者仕事してる人なんだから男の扱いなんてお手の物なのだろうが、こんなんやられたらいくら堅物の菊比古でもクラッと来ますよね。単に押しの一手というだけでなく、菊比古の性格も良く見ていて、押したり引いたりけしかけたりはぐらかしたり、一筋縄ではいかない手練手管が実に厄介な女性。これに林原めぐみの声が加わって、何とも形容しがたい魅力がギュギュッと詰め込まれている。徳利を触るその手指の動きだけでもドキドキしてしまいますよ。さらに林原めぐみの小唄なんてレアなものまで聞けるし、こういうじっとりした男女の繋がりが見られるというのは、現代アニメではなかなか無いこと。日本伝統の「恋愛ドラマ」って、元々こういうところだよなぁ。

 「恋愛ドラマ」っていうくくりで考えるなら、みよ吉との関係に助六がどう絡んでくるのかは気になるところ。わざわざ助六に「みよ吉に呼ばれたんだ」って言っちゃうあたりが菊さんだよなぁ。どうでもいい事ですが、二人で火鉢に当たってるシーンでたばこを噛みながらしゃべる時の声の使い方がホントに上手い。結局、今作は贅沢過ぎる中の人の仕事を聞いてるだけでもだいぶ幸せなのである。それに負けないだけの画作りが出来てるスタッフは大したもんだ。

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 オープニングもついたぞ、第3話。椎名林檎+林原めぐみで何とも不思議な感覚に陥る曲なのだが、映像がついてつらつらと流れているのを見ると、不思議とこの作品にあっているような気もしてくる。何とも艶っぽい演目である。

 さて、菊比古の思いは色々とありながら、時代は確実に進んでいく。本人によるナレーションで進行していることからも分かる通り、本作はあくまでも八雲の視点から見た世界の切り取り方。全ての事象を漏らさずに描いているわけではない。しかし、そのおかげで彼の世界の見え方というのがよく分かるようになっており、その中でも特に重要なのが、「菊比古と初太郎」、そして「菊比古と落語」という2つの関係性だ。「水と油」と称していた初太郎との関係は、生活の質の違いによってある意味ではますます溝が深くもなっていく。学を積ませなければならないという師匠の気遣いも、芸の道に進みたい者にとっては良し悪しだ。次第に実力でも水をあけられるのを黙って見ているのは、そりゃ気持ちの良いものではないだろう。元々天賦の才もあった初太郎は場数を踏んで確実に実力を付けていくが、菊比古の方はなかなか芸の道も見えずに苦しむばかり。そんな状況で初太郎を見ていて、やっかみが先に立つのは仕方ないところ。

 しかし、それでも決して関係性が悪くなるだけではないのがこの2人の面白いところ。元々兄弟同然の付き合いをしており、一つ屋根の下で苦楽をともにした仲である。そして、本人がどれだけ意識的なのかは定かでないが、初太郎は「ぼん」と呼んで菊比古のことを可愛がってもくれる。同じ芸の道を志す者としての仲間意識は強く、菊比古の芸が良くなるためのアドバイスもくれるのだ(まぁ、それが上を行くものの余裕ととられたらそうなのかもしれないが)。そして何より、彼の芸は純粋に楽しい。それが菊比古にとっては大きな救いになっていたはず。彼のアドバイス、というか「女抱きてぇなぁ」という単なる欲望の吐露を受けて、菊比古の方も積極的に女性にアタックをしてみる。お千代ちゃんは素直に可愛い子である。この関係性の中で何かが芽生えたということは無かったのかもしれないが、将来的に八雲が身につける噺の中身を考えるに、女性関係でもなんでも社会の物事を知るための窓口を広げた経験は何よりも糧になっただろうし、それ以上に、彼の精神性を変えるのに大きな役割を果たしたことだろう。

 そして、戦争という避けようのない悲劇によって隔たれてしまう2人。菊比古は師匠や初太郎と別れることに加えて、落語そのものからも切り離されてしまうことになり、そこでついに、自分がこの道に入ってきて楽しかったのだということをはっきりと認識する。それ以前にも「元々芸の道は嫌いではない」と言っていたし、進んで三味をとって演奏してみたり、この世界にいることに満足感のあった菊比古は、自分の生きる道がこの芸の世界にあることをはっきりと認識するに至ったのである。結局、師匠とともに危険な前線へと送り出されることは無かったが、落語と切り離され、見知った世間と隔絶した数年間の中で、彼は胸の内にある感情を静かに、しかし確実に燃え上がらせていくことになる。この間に積んだ人生経験は、初太郎が戦地で暮らした数年間とどのような差を生むものなのか。

 「初太郎との関係性」で今回の見どころというと、まずは寝物語代わりの「あくび指南」が挙げられるだろうか。ここで「あくび指南」っていうあたりが流石で、聞いてたら「眠くなっちまわぁ」ってのがこの噺のオチ。とはいえどう考えても子守歌に向くような噺ではないはずなのに、菊比古はすんなりと寝てしまう。それだけに、彼がいつの間にか初太郎に、そして落語に身を寄せていたことが分かるというもの。そして、初太郎が復員し、夕日の中で抱擁を交わすシーン。2話の描写に引き続き、やはり日の光が菊比古の顔を照らしているのが興味深い。初太郎は夕日を背にしての帰還であるから、浅黒い肌がより薄暗く見えて、菊比古の白い肌との対比が著しい。この2人の生き様は常にこうして対比される。ただ、これが寄席の中だとそうもならずに、「黄金餅」をそらんじながら菊比古の首を鷲づかみにしている初太郎のシーンでは、2人とも同じように目を輝かせ、菊比古が何ともいえず良い笑顔を浮かべていたのが印象的であった。

 さて、こうしてまったく違った人生を歩んでいる2人の男たちであるが……次回はついに、林原めぐみボイスの謎の女性、みよ吉が登場。彼女の存在が、2人の男にどんな影響を与えていくのか……まだまだ波乱が続きそう。この緊迫感はどこまで続くのでしょう。

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 過去編突入、第2話。どうやらしばらくはこの八雲さんの過去話で展開していくようですね。三つの声が聞こえてくる八雲さん、時代の感覚が次第に曖昧になる変な感覚。

 今回も相も変わらぬ緊張感。畠山監督はよくもまぁこれだけピンと張り詰めた緊張感を毎回維持出来るもんだ。見終わった後にへとへとになってしまうんだよ。基本的にシナリオラインはおよそ予想のつくものであるから、今作で見るべき点は「どのように心情をみせるか」と「どのように落語をみせるか」の2点。後者については落語を知らない人はちょっと追いかけるのが大変かもしれないが、前者の方は普通にアニメの文脈で解題出来る部分だ。

 第2話はいわば「顔見せ」の段階ということなるだろうか。ここで描かれるべきは菊比古(後の八雲)と初太郎(後の助六)という水と油をなす2人の対比。冒頭、師匠の門前で出会うところから、この数奇な運命の2人ははっきりとした対比を成して描かれている。興味深いのは、どちらも「親に捨てられた」という暗い生い立ちが共通している部分。初太郎がどういう家庭環境だったのかは厳密には描かれていないが、普通に考えたらたとえこの時代だとしても辛い幼少期であるのは間違いない。「この歳じゃ辛いよな」と本人が言っていた通り、幼いながらに苦しい人生を歩んできたはずだ。そして、一見すると恵まれた家庭に生まれたように見える菊比古。実際、衣食住に足りないという経験は一度もしていないだろうが、それでも彼には親との隔絶という辛さがある。「捨てられた」と本人が認めている(もしくは思っている)時点で、2人の経験した「辛さ」は似たり寄ったり。その上で、初太郎の方は持ち前の明るさでもってそれを感じさせないように生き抜いているだけである。

 興味深いのは、門前で二人が初めて出会い、初太郎が手を差し出したシーンの光源の位置取り。普通に考えると、底抜けに明るい初太郎の方を「光」側、沈んだ表情の菊比古を「影」側に置きそうなものだが、このシーンでは菊比古の後方に真夏の太陽があり、門の陰になった初太郎が薄暗く、日なたから入ってきた菊比古の腕が真っ白に光って映し出される。言葉で見ると「最初からどん底で生きている初太郎が、暗い世界に菊比古を引きずり込む腕」に見えないことも無いのだが、このシーンで際だっている色彩は、どちらかというと菊比古の腕のあまりの白さ、江戸っ子っぽく言えば「なまっちろさ」である。陰にいる初太郎の方がよほど活き活きしており、日なたにいるはずの菊比古は汗を浮かべて今にも倒れそうで、何ものかに打ち倒されそうにすら見える。「綺麗な身」でありながら人生に行き詰まってしまった菊比古が、薄暗く、時に汚くすら見えてしまうような初太郎の「芸」の道に転がり込み、そこで新たな生命を繋ぎ始める、そんな始まりのシーンに見えるのである。

 その他、実際の落語との絡みでは、2人の初高座のシーンははっきりと対比を成して様々な側面から2人の違いを際だたせる。今回一番息が詰まるのは、当然菊比古の初高座だ。今回も石田彰の見事なさじ加減でもって、若かりし八雲がまだ何も分かっちゃいない菊比古として、流暢ながらも、上滑りする落語を見事に披露してくれている。初高座とはいっても、とちったり詰まったりしないあたりがいかにも彼らしい。口から言葉がすらすら出るのは真面目に続けた鍛錬の賜物なのだろう。しかし、その噺には魂が宿らず、演じている菊比古が一番焦りを感じている。「仔褒め」は典型的な与太郎話で、いかにも間抜けな登場人物の台詞のちぐはぐさを楽しむものだが、それが笑いに繋がらず、客の頭の上をスルッと抜けてしまう「無様な噺」は、この道の厳しさ、そして菊比古の当時の落語へのスタンスがはっきりと分かるものになっている。

 転じて、高座に上がるなり第一声からいきなり空気を掌握してしまう初太郎の初高座。彼の高座になった途端にカット数がグッと増え、彼の表情・芝居に合わせてカメラがぐんぐん動き、所作の勢いの良さがにじみ出る。でたらめな部分もありながら、彼のエネルギーは全ての客を引きこみ、気付けば菊比古にすら笑顔を与える。一瞬で吹きさった嵐のような「時そば」。強引極まりないオチの付け方、勝ち誇ったように引き上げる初太郎の顔と、それに呼応するかのように本人の意志とは無関係に浮かんでしまう菊比古の笑み。師匠には「まったく正反対」と言われていた2人の表情が、初めて一致した瞬間である。

 さぁ、ひとまず2人は「噺家」になった。次のステップは「どんな噺家になるか」だ。我々視聴者は、「名人」と言われる八雲の落語は知っているわけだが、現時点ではとてもそこに結びつくような様子もない。また、この後助六がどんな人生を歩むのかはまだ分からない。奇縁が紡ぐ2人の男の物語、この緊張感は、まだまだ続きそうだ。

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