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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 明かされた真実、第7話。そこに秘められていたのは菊さんの犠牲の精神。松田さんの言った「師匠は墓場まで持っていくつもり」という台詞も、いよいよ墓場が差し迫ってきたこの時世には、何とも重たくのしかかる。

 本当に見ているだけでつらくなってくる菊さんの現状。何とか生きるか死ぬかの状態からは抜け出せたものの、一度倒れてしまったことによるショックは、業界全体を揺るがせただけでなく、当然本人の心情にも大きな影響を及ぼしている。なかなか話してくれないことを気にしていた与太だったが、菊さんが与太と話したがらないのは、本人が言うように「思うように声が出ねぇ」ところを見せたくないからだろう。素っ気なくあしらっていても腐れ縁で結ばれた愛弟子のこと。いつでも一番近くで師匠の落語を聞き、いつだって彼の言葉を聞き続けた与太には、自分が変わってしまったこと、噺家として決定的なものが失われたことは嫌でも伝わってしまう。だからこそ、菊さんは与太の前で声を出したがらない。では、菊さんは落語をやりたいのか、やりたくないのか。おそらくそれは本人すら分かっていないのだろう。

 彼が一番「本心」に肉薄した部分を見せられる相手といえば、結局は小夏なのだ。彼女は業界に関わっているとはいえ噺家ではないので、与太とはまた違ったスタンスで菊さんの話を聞くことが出来る。「声が出なくなり、高座に上がるのが怖いんだ」という菊さんの台詞を、小夏は「分かりきった建前はいらねぇ」と一蹴。これだって充分納得出来る理由だと思うのだが、小夏から見ればそれは「建前」であるらしい。肉体的な限界は、八雲を高座から引き剥がすだけの理由にはならず、「そんな理由であんたが落語を手放せるわけがない」と切り捨てる。そして、そこから漏れ出すように菊さんが語るのは、「落語をやらない安堵感と虚無感」。もう落語をしなくてもいいと言えば確かにそうだ。年齢から来る身体の問題が理由なら、どれだけうるさい外野陣でも無理に仕事をしろとは言えないはず。堂々と、合法的に引退宣言出来るこれ以上無いチャンス。これまで散々嘯いてきたように「自分と一緒に落語が死ぬ」「落語を殺す」ことが望みであるなら、この度の騒動は菊さんにとって必要不可欠なステップだったはずなのだ。しかし、そこで落語を手放すことが、果たして自分の望みだったのかどうか、それすらよく分からない。生まれてこの方、落語以外の生き方を知らなかった人生なのだ。そこから落語がすっぽり抜けて、空いた穴を埋める方法を知らないのだ。幼い頃は生きるための術として、みよ吉や助六生きた時代には皆を繋ぐ縁として、そしてみよ吉の死後は自らの罪を縛める枷として、常に菊さんの人生の中心には落語があった。生きながらにして「理由」を失っては、自分が何ものなのかすら定かではない。自分は落語が好きだったのか嫌いだったのか。何故落語を続けてきたのか。予想もしていなかった自分の気持ちの揺れ動きに、菊さんはまだ解決の糸口を見ない。

 一方、そんな菊さんの窮地を知ってか知らずか、樋口先生率いる与太郎・松田さんのコンビはあの因縁の地へ。独力でそんなところまで調べ上げた樋口先生すげぇと思いきや、なんと彼もみよ吉の故郷に因縁浅からぬ人物であった。落語に出会う以前にみよ吉に会っており、むしろそのみよ吉が落語への道しるべ。そんな樋口の人生にとっても1つのキーポイントとなった、亀屋旅館である。あの日の口演映像が残っているということで、与太にその全てを受け継ぐことが今回の1つ目の目的。見つかったのは、あの思い出の日の菊さんと助六の高座である。ここで描かれる2つの演目がまた印象深い。

 まずは菊さんの「明烏」。若かりしころの師匠を見てテンションが上がる与太だったが、白黒で画質も荒い当時のフィルム映像は、視聴者目線からすればどうしたって「過去の歴史」という印象が強い。事前に弱り切った菊さんの様子を見ているだけに「今」と「昔」の差はより一層強く意識されるものになっており、フィルムの中の菊さんが活き活きと、本当に「楽しそうに」落語を演じていることが、彼の現在の懊悩の理由を根底から支えていることがよく分かる。因縁でしかないと本人が思い込んでいた落語だが、やはりその隣に助六がいて、周りにみよ吉がいたこの時代は、間違いなく「菊比古の落語」には純粋な楽しさがあったのだ。あれだけ八雲の落語を見続けた与太が「こんな師匠見たことねぇ」と言っていたのも無理はないこと。今の八雲は、当時の菊比古とは全く違った目的意識で落語をやっているのだから。

 そしてフィルムは助六へと移っていくわけだが、ここでの演出の対比も非常に明示的で面白い。今回、実に久しぶりに「落語の中の世界」の映像が流れた。菊さんの演じる「明烏」の女郎屋での一幕である。この「落語の作中世界」の映像は本作において「落語の生々しさ」を表すものであり、いかに話に埋没した状態かを表すもの。過去の事例では菊さんの「鰍沢」なんかが印象深い。この時の菊比古はご存じの通り、まだ年若いにも関わらずすでに「世界を作る」落語の腕を持っていたということである。対照的に、助六の落語では「落語の中の世界」は全く描かれない。その代わりに、白黒だったフィルムは助六の登場とともに一瞬でカラーになり、映像を見ていた与太は気付けばその客席に座っている。これは、助六の落語における「助六中心の世界」を描いたものである。前回樋口先生が分析していた通りだが、助六は何をやっても助六。しかし、その「助六の姿」を見せることが最大の魅力であり、寄席の会場全体が彼の落語の舞台と言える。こうした違いが、今回フィルムを見ている時の映像ではっきりと差別化されるわけだ。伝説の「芝浜」は、見事な余韻を持ってすっきりと終わるところであるが、松田さんも与太郎も涙が止まらない。松田さんは懐かしさもあってだろうが、与太の場合には、ただひたすら、助六の作る世界に打ちのめされたが故の落涙である。また1つ、新しい「助六」が伝えられた。

 こうして過去の歴史を手に入れた与太だったが、残念ながらこの地はただの晴れ舞台ではない。忌まわしい事件の現場でもあった。どうにも野次馬根性が止まらない樋口先生のKY発言で何とももやっとした上映会だったが、その後の墓参りの際には、与太は八雲が語った「助六とみよ吉の落語心中」の話をする。だが、松田さんが実際に見た光景は、そんな八雲の話とは似てもにつかない内容だった。2人の死には小夏が関係している。というか、小夏が原因だった。子供のすることだし、それ以前のみよ吉の行いに大きな責任があったのは間違いないのだから小夏を責めるような話でもないのだが、小夏本人がこの事実をどう受け止めたらいいかとなると難しい。だからこそ菊さんは、小夏のことを考え、「自分が全て悪い」という罪の意識をそのまま歴史に塗り重ね、別な「心中」を作り上げていたという。そうでもしなければ小夏は生きていけない。そして、罪を被ることで、菊さん本人が慰められていた部分もあったのかもしれない。

 小夏が実際のあのシーンを今も覚えているのかどうか。それは分からない。おそらく、松田さんが言ったように記憶が曖昧なので菊さんが何となく語っている「事実」の方を信じているのではなかろうか。2人の何とも歪な関係性を知ってしまうと、今回冒頭の病院のシーンにおける菊さんの反応も、また違ったものに見えてくるのが興味深い。菊さんにとって、小夏は「助六とみよ吉の置き土産」であり、2人を失ってしまった今、菊さんは自分のなにもかもを犠牲にして、小夏の人生を救っているのだ。そして、そんなことは普段の生活でおくびにも出さず、小夏の憎しみも長い間受け続けていた。そんな菊さんが、いよいよ「墓場」が見えてきた現在、何を残し、何を持っていくつもりのか。何とも切ない「親子」の縁である。そして、そんな事実を知ってしまった与太郎は一体どうしたらいいのか。残念ながら、与太は馬鹿だからよく分からない。彼に出来るのは、ただただ小夏を抱いて泣き叫ぶことだけ。大きな子供を抱えながら、小夏は一体何を考えるのだろう。

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 歴史たゆたう第6話。時代の動乱の中で、八雲は過去になってしまうのか、現代に踏みとどまるのか。

 高座で倒れ伏した菊さん。落語の時代を動かす大名人の異変に、楽屋裏は騒然。歳も歳だけに周りの人間だって心配していた部分はあったのだろう。誰もが最悪の事態を思い描き、慌てふためきながら対処に追われる。幸い、医学部崩れの萬月兄さんがいてくれたおかげで現場での対処は適切なものになったが、その場で解決するような事でもなし。病院に搬送され、あとは本人の生きる意志次第ということになってしまう。

 当然、愛弟子の与太は付き添いするはずだったのだが、幸か不幸か、菊さんの意地を貫き通した仕事ぶりと緞帳が間に合ったために事態は客席に伝わっていない。まだ残っているお客さん、自分たちを待ってくれているお客さんのために、与太は残ることを選択する。「お客が待っている」「落語をやらなきゃ」。この時の与太の心情は、一体いかほどのものだっただろうか。落語という存在、それを支えてくれるお客の存在、それらがかけがえの無いものなのは間違いなかろうが、全ては菊さんという存在があったからこそ、自分が出会えたものなのだ。師匠を失っては、与太郎の落語は成立しないのだ。だからこそ、そこは私情に任せて菊さんを追いたかったところなのだが、そこに一言、菊さんの口から何かが漏れる。その内容は聞かずとも分かることだろう。噺家が何よりも優先すべきもの。それを守れと、師匠は身を賭して示したのである。菊さんの言葉を魂で理解出来るのは、与太郎、そして小夏の2人だけ。「ここで落語が出来るのはあんたしかいない」。

 いわば「命懸け」の演目、「居残り佐平次」は樋口先生の言葉を借りるなら「とんでもないもの」だったという。鍛錬を積み、この日のために与太が磨き上げた大ネタ。その完成度はどんな大名人とも違った与太郎オリジナルというべきもの。記念すべき日のトリを務めるに不足のない出来だったのは間違いないはずだ。しかし、この「居残り」、演出上は何とも絶妙なポジションに落とし込まれている。ここで与太が「完璧な居残り」を完成させてしまうのは、どう考えてもおかしいのだ。本来なら心ここにあらずに状態なわけで、心情を考えれば与太郎の目指す「楽しい落語」なんて出来るような状態ではない。しかし、そこは菊さんに背中を押されて高座である。半端なものを出すわけにもいかない。良すぎれば与太の人間性が問われ、悪すぎれば噺家としての技量が問われる。そんな八方ふさがりの演目を、与太郎はスレスレのバランス感覚で成立させている。普段のように、噺の世界に埋没し、現実を侵食するような力は演出上浮き彫りになっていない。あくまで、「話をしている与太郎」にスポットが当たった状態で演目は進む。グルグルと渦を巻くように切り取られるカメラアングルも、どうしようもなく心が切り離された与太郎の焦りを表したものだ。しかし、だからといって魂が抜けるというのでもない。特に、主役である佐平次が突然過去を語り出して嘯くシーンでは、グッと汗を滲ませながら、彼の背中に迫るアングルがとられる。これは明らかに、与太郎が背中に背負った彫り物を思い起こさせる演出だ。噺の中で佐平次が背負い込んだのは多額の借金と仲間との約束。そして、現実世界で与太郎が背負い込んだのは、自分の過去と、それを受け入れて認めてくれた師匠との約束。現実に降り立った与太郎が高座の上でけじめをつける姿は、まさに、現代版の「居残り」なのである。奇跡的に繋がったこの奇妙なリンクによって、一世一代の「居残り」は稀代の高みへと上りつめたのだろう。

 こうして約束を果たした与太がこの後出来ることは、ただひたすら師匠の帰りを待つことだけ。状態はあまり楽観的な見方を許さない様子で、小夏の言葉を借りるならば「正念場」。落語界の至宝を「引き戻せる」のは、家族の役割だと萬月兄さんも釘を刺していた。もちろん、ここで言う「家族」という言葉に血の繋がりは必要ないことは言うまでもない。菊さんを彼岸へと誘ったあのみよ吉の幻影と、昔日の慚愧の具象となった助六に対抗出来るのが、その血を引いた小夏や信乃助、そして助六を引き継いだ与太であるというのもなかなかに因果な話である。萬月兄さんはそうした「家族」の繋がりからちょっとはずれて、蚊帳の外で寂しそうではあった。小夏に振り向いてもらえたことでちょっと報われたのかな。これまで登場した中では一番の活躍でしたし、松田さんのように「落語やってくれればいいのに」って思ってる視聴者も多そうだ。遊佐さんのネイティブ京都弁が格好良いよね。

 八雲が倒れたことで、ただでさえ忙しかった与太の日常は更に慌ただしくなった。そんな中で耳に入る、寄席の建て替え計画のお話。直接与太たちに関係のあることではないのだが、このタイミングで「歴史の切り替え」が訪れているというのも何とも因縁深いところで、どうしたって「時代が変わる」ことが「八雲の退場」と重なって見えてしまう。深夜のタクシーで萬月がともしたライターの灯り、そして楽屋で席亭が一服するためのマッチの明かり。今回は「火」が画面の中心に来る構図がかさねて登場するのだが、どうしたって、先週表れた「蝋燭の火」のイメージがそこに重なってしまう。そこかしこで灯っている「火」がいつかは消えることの暗示。それは長い歴史を刻んだ寄席そのものかもしれないし、そこで落語を支え続けた大名人かもしれない。与太郎の根拠のない明るさに救われている部分はあるが、得も言われぬ寂寥感は、時代の終わりをじわりとにじませている。

 そんな中、新しい時代に目を向ける者もいる。相変わらず与太郎を追いかけている樋口先生は、八雲の容態を気にしながらも、あの日与太郎が演じた「居残り」に新たな可能性を見出したと興奮気味。樋口先生の分析する「3つの型」の話はなかなか興味深い。ちょっと本筋から離れた話になるが、これって私も「声優という仕事」を見ている時に常々感じているやつだ。1つは純粋に技術を磨き上げ、芸の中に自分の存在を置く八雲タイプ。千変万化で優雅さを感じさせる演技の方向性といえば、それこそ石田彰の仕事ぶりや、後輩の沢城みゆきなんかの方向性だろうか。2つ目は「何をやっても○○」だが、ハマればこれ以上無い魅力に繋がるという助六タイプ。お客は皆、その「人」を見に来るという方向性で、作中のキャストなら小林ゆうは間違いなくこのタイプ。世間的には若本規夫あたりもこのカテゴリに入るだろう。そして、3つ目は「自分を必要とせず、役の全てに散らして世界が見える」という与太郎タイプ。言わば1つ目と2つ目の複合進化形みたいなデザインだが、個人的には大看板である川澄綾子や福圓美里あたりがこの方向性に近い気がする。男性でパッと浮かぶのは三木眞一郎あたりかな。本当に「演じる」ことが好きで、技術論や精神論を超えたところに何かを見出す、そういうタイプだ。この3つに貴賤があるわけではないが、樋口先生は「与太郎タイプ」の存在を落語家の中で初めて見出し、それを新しい時代の先駆けであると睨んでいる。正直、こんな状況で「次の時代」の話をするのも相変わらず空気が読めてない感があるのだが、先生の場合は悪気があってやってるわけじゃない、むしろ「落語の未来」を一心に追い求めるが故の言動なので致し方ないだろう。

 そして、そんな先生が最後に持ち込んだのが、なんと先代助六の映像が手に入るかもしれないという貴重な情報。この時代、音源ならともかくなかなか一昔前の「映像」を手に入れるのは難しかっただろう。特に活動した時期が短かかった助六ならなおさらのこと。演目はこれまた大ネタであり、あの日助六が魅せてくれた「芝浜」。この情報が、与太郎にどのような影響をもたらすことになるのだろうか。

 「芝浜」のサゲといえば、「また夢になるといけねぇ」である。目が覚めた先が夢かうつつか。彼岸と此岸をたゆたっていた菊さんは、どうやら夢ではなく現実に帰還したようである。涙ながらに目覚めた菊さんは、一体何を見てきたのだろう。目の前の景色を見た菊さんは、その世界のことを「未練」という。

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 鮮烈一閃、第5話。どこかのタイミングで現れるだろうと思っていた“もの”だが、この大舞台で、出てきてしまうものか。

 前回は心底晴れがましいお話で、助六としての成長、そして小夏との決定的な和解など、新しい時代に繋ぐ明るい展開ばかりのお話だった。随分珍しいとは思っていたが、もちろん、その先に訪れるものの前座だったのはある意味当然なわけで。

 与太郎が自分の殻をようやく破れそうな節目のタイミング、時機と見た菊さんは身を削るようにして助六の「居残り佐平次」を披露し、与太郎に最後の一山を設ける。難しい課題だったのは間違いないが、与太郎は持ち前の落語愛、そして樋口先生らの協力もあり、なんとか「自分の落語」の突破口を見出すに至ったようだ。正直、個人的には「居残り佐平次」がそんな大ネタだっていう認識はあんまり無かったのだが、樋口先生の話を聞く限り、ネタのスケール感よりも内容に肉薄するキャラクターの作り込みに特徴があるようだ。かくいう私は過去に聞いたことがあるのは志ん生のものくらいなので、あんまりバリエーションって分からないんだけども。何にせよ、あの菊さんが「諦めた」ってんだから骨のある仕事だったのは間違いないようだ。

 そして、そんな大仕事を披露する絶好の機会である親子二人会の企画がいよいよ進行する。飛ぶ鳥を落とす勢いの与太、そして今や落語会を代表する大看板となった菊さん。この2人の会ともなれば、落語会をあげて盛り上げるべき一大イベントである。周りの人間も当事者たちも、嫌でも力が入ることに。菊さんは良くも悪くもいつも通りの調子だったが、与太はここで大きくけじめをつけるために、以前菊さんが褒めてくれた背中の彫り物をしっかりと仕立てての大勝負。別に任侠に義理を果たすわけではないが、半端を咎めた師匠への筋を通すための仕事だろう。自分は自分で「我を通す」ということの表れがここに1つ見られる。2人会で与太が最初にあげたネタがあの因縁の「錦の袈裟」だったというのも、彼の決意表明ととることが出来るだろう。

 そして「居残り」を巡る菊さんとの問答でも、与太はある意味では「我を通して」いる。「我が無いのが自分」とは何とも不思議な話だが、遡って見れば与太をこの世界に踏み入れさせたきっかけが菊さん。そしてその菊さんは、「私の全てを引き継げ」ではなく、「八雲と助六の全てを覚えろ」と約束させたのである。つまり、そこには八雲があり、助六があり、そしてその後ろに与太郎がある。我を通すと言われても、まずは成立させなければならない「他」が絶対的に存在するのだ。だからこそ与太郎は「自分の落語」に迷っていたわけだが、樋口先生の言葉を借りるなら、「我を通すのも1つの型」。他人から無理強いされて「我を通せ」と言われてひねくり出した「我」にどれほどの価値があるかも分からないのだ。それだったら、「自分を空っぽにして」有象無象に引っ張り回されて作り上げる世界だって、一つの「我」と言えるのかもしれない。与太郎はそんな難しいことを考えているわけじゃなかろうが、菊さんだって「どうせこの馬鹿ァ大して考えちゃいない」ってんで、叱るのも無駄だと思ったのだろう。ガチガチに固い落語論なんかでぶつかることが無いのも、この師弟のいいところなのかも。

 そして明るい話はもう1つ。前回壁を越えた与太と小夏との関係性は、今回小夏と菊さんの間にも及んだ。元々女子供を楽屋に入れることを好ましく思っていなかった菊さんだったが、小夏の仕事ぶりを見て、ついに認める動きを見せた。思えば、菊さんが小夏に笑顔を向けてくれたのって2期目に入ってからだとこれが初めてだったんじゃなかろうか。「嫌なジジイ」だったが、彼は彼なりにずっと小夏のことを気にかけており、ようやく一人前になった彼女を見て、菊さんもフッと気を緩めたのかもしれない。

 こうして、与太は新しいステージに歩を進め、何とも奇妙な家族関係もここで円熟の兆しがあった。万事良しでここからが新しい時代だ、と思った矢先のこと……。

 菊さんが記念すべき高座にかけた噺は「反魂香」。死者の魂を呼び戻す香を焚き、先立たれた女房に会おうとする男の話。幽霊が出てくるとはいえ、基本的には賑やかに落とす噺。女房とのやりとりも艶があり、なるほど菊さんがやるに丁度良いし、与太との二人会にもしっくり来る演目である。しかし、ここ最近は寄る年波もあって体調を心配されていた菊さんには、どうにもこの噺は他の因縁がついて回ってしまった。

 今回の高座は、普段よりも広いホールでの催しということで、例えば舞台のライティングがやや陰影の強いものになっていたり、マイクから聞こえてくる声にいくらか反響があって会場の広さを感じさせるようになっているのが芸の細かいところ。そうしていくらか遠巻きにも見える菊さんの手元、最初は遠景からのカットが主だが、噺が佳境に入るにつれ、少しずつにじり寄って噺の中に没入していく。菊さんの指示で小夏が焚いたお香の煙は、当初舞台袖からたなびいていたが、気付けばその煙が菊さんの噺に取り込まれ、作中人物が焚いた手元から立ち上がるようになる。自然に作られていく怪しげな話芸の世界。八雲の作り上げる噺の真髄がここに表れているわけだが、あまりに真に迫った世界の有り様は、いつしか演者そのものを取り込んでしまう。菊さんが手元で焚いた反魂香。会いたかった女房が見えるというその煙の中に、ゆらゆらと浮かぶ忌まわしい面影。

 別に、会いたいと切に願ったとも思えぬ。そこに死者の意志が介在したなどというロマンチズムも無いだろう。しかし、菊さんにはそれが見えてしまった。長きに渡る彼の苦難の人生の中で、一番強く彼を冥土へと引き寄せる、あのみよ吉の姿が。噺の中の反魂香は「死者を現世に呼び出す」ものだったが、今の菊さんには、死者を引っ張り出すほどに現世に強い繋がりは無かったのかもしれない。香の力・噺の力は、いつしか生者を隠り世へと誘うものに。心のどこかに澱のように溜まり続けたあの日への後悔が、どうしようもなく菊さんを惹きつける。

 名人と呼ばれる八雲のこと、何とか噺だけはやりきってみせるのは意地の成せる業。倒れ伏した菊さんの前に立ちはだかるのは、もう1つの亡霊、助六の姿。彼は「あちら」へと菊さんを招き入れる。否、菊さんは、「招かれるべきだ」と未だに自分を責め続ける。2人を取り囲む蝋燭は、先代八雲を見送るようにして菊さんが産みだした「死神」の再演。未練もある。悔悟もある。しかしそれ以上に、先立った2人を想う、強い自責がある。落語を殺して自分も死ぬ。そんな菊さんの「心中」は、いよいよもって、その姿を現実のものにし始めた。

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 寿限無タイフーン、第4話。もう、一生分の寿限無を聞かされた気分。

 今回は今作には非常に珍しいエピソードになっている。まずもってオープニングとエンディングがちゃんとついていたというだけで珍しいんだけど、それだけ頭と尻がはっきり前後から切り取れるような内容だったと言えるのかもしれない。それにしても、4話目にして初めてのエンディングテーマだったわけだが……映像が謎過ぎてびっくりするな。「心中」のイメージからはかけ離れた映像で、すくすくと伸びゆく竹のイメージが表のテーマなのだが、そこから何故か無人の高座をイメージさせるパーツだけが舞い落ちるという。結局一周して怖いやつじゃん。「助六の落語」のあけすけな勢いを見せながら、最終的に「心中」のもの悲しいイメージに着地する、曲芸みたいな映像である。当然作劇は畠山監督本人が担当している。なんなんだろ、この人。

 そして、オープニングやエンディングの有無以外にも今回は割と特徴的なお話で、なんと、表立って悲しかったり、苦しかったり、思い悩むような要素が作中に(ほとんど)出てこない回なのである。前回からいきなり時代がすっ飛び、息子の信乃助の年齢からすると大体4〜5年後くらいだろうか。かつては真打ち昇進とともに芸の壁にぶち当たった与太郎だったが、周りからの激励の効果もあって無事にブレイクスルーを果たしたらしく、スキャンダルによる風評被害もどこ吹く風。再びあの当時の勢いを取り戻し、「助六の落語」にも身が入る。これだけの大人気になったのだから天狗になって芸をおろそかにしそうなものだが、根っから自分の「馬鹿さ加減」を理解している与太は決して今の自分に慢心することなく、テレビに出ながらもきちんと演芸場に顔を出し、忙しい日々の合間を縫って夜間の居残り練習まで欠かさないという。こうした彼の落語に対する真摯な姿勢が、新しい「助六の落語」を産みだすに到ったのだろう。

 また、この数年で小夏が楽屋に入るようになったのも大きな変化。ヤクザの親分との一件で無事に与太との間にあった壁がなくなり、「夫婦」になったのかどうかは定かじゃないが、少なくともわだかまり無く接することが出来る関係にはなったみたいだ。実の父、母、そして憎らしい八雲じいさんを育てた寄席の中に身を置き、彼女は何とか新しい生き方を見つけようと努力している。もちろん、落語が好きなことは変わらないのだし、一番近いところで与太郎を「見守って」「見張って」いられるポジションが色々と丁度良いのだろう。唯一の懸念材料は菊さんがチクチク小言を言ってくることくらいだが、まぁ、そこはしょうがない。信乃助の存在はまさに「子はかすがい」ならぬ「孫は接着剤」みたいなもんで、鉄面皮の菊さんだって、調子の良い信乃助の振る舞いには相好を崩さざるを得ない。

 今回1つ目の名シーンはやはりこの楽屋のシーンだろう。「寿限無が出来るんだ」と言ってまさかの一席を始めてしまう信乃助。それを見て与太が盛り上がるのは分かるのだが、なんとまぁ、小夏さんまで親馬鹿をフルに発揮して顔を上気させていた。今回は小夏が主人公のお話なのでとりわけ彼女の表情が細かく表現されており、すげぇ分かりやすい表現を使うなら「めっちゃ可愛い」です。この時のテンション上がった小夏さんも実に愛らしい。そして、そんな馬鹿親子のテンションが上がっているところにチクチクやりに来る因業なジジイ。こりゃぁまたピリピリしちゃうか、と思いきや。このじいさんも可愛い孫(?)にコロッとやられてしまうのである。菊さんの人生においては「子供」という対象とふれあう機会も他になかったが、やっぱり信乃助のことは大事に思っているんだろうか。なんか、信乃助の顔って小夏以上に助六に似てるんだよなぁ。ただ、流石にそれで年端もいかぬガキに負けてちゃ癪だってんで、高座に上がって「明烏」をかけるあたりが菊さん流。まぁ、流石にトリを務める大看板が前座話の寿限無ってわけにはいかないものね。正直、菊さんの得意分野ど真ん中であろう明烏は長めに聞いてみたかったところなんだけど。

 そして、団欒睦まじい与太のご家庭に更なるご褒美を提供するのが幼稚園での落語会だった。「園児が全員寿限無を唱えられる幼稚園」とか一周回ってホラーみたいな映像にもなっていたのだが、まぁ、子供っていこういう「意味の無いもの」を覚えるのが好きだからね。「スリジャヤワルダナプラコッテ」とかね。そして、子供だらけで礼節もしきたりも気にしなくて良いボランティアの落語会ってんなら、与太だって多少の無茶は許される場。千載一遇のチャンスで狙ったのは、なんと小夏を高座に上げてしまうことだった。なるほど、こりゃぁ他の場所では出来ないし、これだけお膳立てがあれば、小夏がはるか昔、楽しげに「助六の落語」をそらんじていたあの時代が再び戻ってくるには充分な場所だ。腹をくくって噺を始める小夏。その堂に入った仕事ぶりは流石の血筋である。最後には園児たちとのコール&レスポンスまでばっちり決めて、落語の楽しさに感無量。このシーンの真っ赤になった小夏さんもやたらに可愛いんです。もう、とにかく今週は色んな小夏姐さんが可愛いんです。画伯ボイスのキャラでこれだけの愛嬌を発揮したキャラって初めて見たかもしれないな。

 そして、この顛末が「女を高座に上げちまった事件」とかで後に尾を引く展開になるのかと思いきや、そこはきっちりわきまえている小夏さん。高座に上がったのはあくまでイレギュラーな場と割り切り、そこからの無理はしない。今後の憂いもなく、ただ小夏さんがちょっと幸せになれるだけのお話でした。たまにはこういうお話があってもいいよね。

 これだけで終わるなら本当にハッピーなお話だが……まぁ、流石に八雲パートもちょこちょこと。今週一番の緊張感があったのは菊さんと樋口先生のタクシーでの一連のシーン。菊さんは先生のことを評して「違和感」という言葉を使っていたが、それは彼の思う落語についての違和感なのか、それとも先生の言動と内実に関する違和感なのか。まぁ、控えめに言っても割と不躾な人なのは間違いないので、菊さんが警戒するのも致し方ないところなのかもしれないが、別に樋口先生の信念自体は今のところ間違ったものではないだろう。「自分の見てきた落語は自分と一緒に終わらせる」という菊さんの信念も個人の自由なので邪魔出来るものではなかろうが、樋口先生の「生き残る落語」の話だって至極まっとうな意見である。この対立はおそらく本質的に埋まることのないものだろう。どれだけ先生が歩み寄ったところで、菊さんの刻んできた歴史を完全に理解することなど出来ないのだから。しかし、菊さんが破り捨てた原稿用紙はあくまで「自分は落語に新しい命の可能性など見出さぬ」という決意表明であり、それは決して先生の野望を邪魔するという意味でもない。今後、先生は菊さんの人生観を変えて、協力を仰ぐことが出来るのだろうか。

 そしてラストシーンは助六の名を刻んだ扇子をじっと見つめる菊さん。パチンと閉じて後は暗闇。助六は、この世に求められている存在なのか、それとも菊さんの思い出の中だけにあり、闇に葬るべき代物なのか。答えはまだ出そうもない。

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 思い滾って第3話。2期目に入って主人公が菊さんから与太にスイッチしたことで、画面の勢いもガラッと変わってストレートにぶつかってくるお話になりましたな。

 前回は鬱々とした展開が続いたお話だったが、今回はパーンと打ち上がる花火のごとく、悩み苦しみが思い切りかっ飛ばされるお話。抱えに抱えて静かに沈んでいく菊さんの「非劇」と違って、与太郎は押しつけられた理不尽をどうにか吹き飛ばしていくだけのエネルギーがある。まぁ、まとめると「馬鹿は強い」になるのかな。

 樋口先生との親交は気付けば随分深くなり、最初は互いに敬意を表しながら探り探りの呑み友達だったのに、今回はお船の上ですっかり打ち解けた様子。与太は難しいことを考える先生のことを未だによく分かってない(というか考えようともしてない)みたいだが、先生の方は与太郎の人となりをプライベートな面からも理解しており、今では素直に「馬鹿ッ」なんて言える間柄。これでイラッとしないでケロッとしてられるのも与太郎の強みですな。自分が馬鹿だと思っているからこそ、偉い人の言葉もすんなり聞けるし、馬鹿だと割り切ってしまえば向こう見ずな無茶にも気合いが入るってもんで。ただ、馬鹿だ馬鹿だと言っても、与太の場合は「能なし」とは訳が違う。菊さん曰く与太は「耳が良い」のだそうで。敢えてアニメのテンプレ的に言うならば、これが与太郎の持つ主人公としての特殊技能ということになるだろうか。確かに言われてみれば、「話す」方の技能ってのは噺家の話題では欠かせないものだが、「聴く」方の能力ってのはあまり省みられることのない要素かもしれない。師匠からの口伝を基本とする落語文化において、内容の理解なんかよりも、話してもらったその「音」や「リズム」を引き継ぐ方が重要ってのは、案外面白い見方なのかも。

 そうして覚える「与太の落語」は、深い意味だとか意義なんてものを考えないだけに、紡がれれば楽しさに繋がってもいく。何しろ与太郎本人が「楽しくって」覚えている落語なのだ。それをそのまま流してやれば、お客さんだって楽しくなるに違いない。技巧も演出も繊細に組み上げられた「八雲の落語」とは根本的な理念が違うが、それが「八雲の落語の良さ」をきちんとトレスした「良さの再生産」であるならケチのつけようもないのだ。そして、この「快楽としての落語」が、与太の命運を握る最後の武器になろうとは。船上で謡うように繰り返していたのは「大工調べ」のクライマックスの部分。そして、これが元々身を寄せていたヤクザものの親分さんへの啖呵になるという。何という「生き残る術」であることか。

 今回の与太の行動は、周りのみんなが言っていた通りに無茶苦茶だ。我々視聴者目線から見ても、核心に触れるまでは「与太はなんでこんな危ない橋を渡ろうとしているんだ?」と戦々恐々。そして小夏を招き入れ、切り込んだところで「ゾッ」とさせられる。小夏がこれまで絶対に口を割らなかった秘密。一介の下っ端ごときが触れちゃならねぇ秘め事。与太は、そこに切り込まないことには自分たちの「家族」が成り立たないと腹をくくり、自ら死地へと突っ込んだ。与太が事前に何となく事情を察知していたのも驚きだが、そのままの勢いで親分さんを丸め込んで生き残ったのも驚き。与太郎は「師匠との約束があるから絶対に死なねぇ」と言っていたが、一体どれほどの勝算があって挑んだ勝負だったのか。……多分なんも考えてなかったんだろうなぁ……でも、自分が正しいと思ったことなので突っ走るしかなかった。「若いころのことを思い出すと自分でも背筋が寒くなる」とか言っていたくせに、やってるときはチンピラ時代の無茶と本質的には変わらなかったりするのだ。唯一変わっているのは、その無茶を引き起こした動機が単なる破れかぶれではなく、たくさんの守るもの、大切なもののためであったということ。守るものがあり、そのために積み上げてきたものがあったからこそ成し遂げられた「噺家調べ」だ。啖呵を切る際の勢いのあるアニメーション、そして関智一の名調子も相まって、実に「与太郎らしい」、活力滾る良いシーンになっていたと思う。

 すったもんだありながらも最後の壁をようやく超えて、その向こうには見えてくるものが2つ。1つは、小夏との新しい関係性だ。これまではずっと抱え込むものがあったせいで軋轢が残る状態だったが、この度の騒動で何もかもがすっきり。与太郎の本気も小夏に伝わったはず。小夏自身は自分の行動を「血の呪い」のように捉えている部分もあり、自分の弱さと向き合えないという負い目に繋がっていたが、与太郎はそれを打ち消し、気にしないと宣言したのである。小夏の目から見れば「自分の母親と同じ駄目な人生」であったが、幸い、隣にいる男は助六ではなく、与太郎なのだ。そこに、小夏の生きる新しい道が見える。そして、家族の新しい形が見えると同時に、与太郎の落語にも新しい道が見える……のかな? 樋口先生は何かを見出したようだが、当然与太さん本人は分かっちゃいない。彼の落語のブレイクスルーの成るや否や?

 そしてラストパート、ここまで全編が「与太郎風味」で締められた賑やかなお話だったが、最後は縁側でしっぽりと菊さんのリズム。相変わらず生気の抜けきったような残念な様子だが、別に生きるのが嫌になっているわけでもないのだろう。孫のような赤子のことだって、息子のような馬鹿弟子のことだって、彼は常に気にかけてくれているのだし。そして「与太郎の落語」のブレイクスルーを感じ取った師匠は、とっておきの難関として「居残り佐平次」を引っ張り出してきた。なんと菊さん本人は「ものにならなかった」と言って封印してしまったというこのネタ。まぁ、ネタの方向性はあまり菊さん向きじゃなかったというのはあるのだろうが、おそらく理由は別にあるだろう。それこそが、彼が久しぶりに額に汗して引き出しの奥底から引きずり出した「助六の居残り」である。流石の菊さん、信さんが得意としていたネタを彼のコピーとして板に上げることは出来るのだ。しかし、それはあくまで「助六の落語」であって、自分のものにしたという認証が得られなかったのだろう。「八雲」である菊さんが助六の落語を引っ張り出してもしょうがない。見せる場所もなければ自分でやりたくもなし、そりゃぁ封印するしかない。しかし、普段なら絶対に見せない「諦めの記録」を、与太の前では敢えて引っ張り出してきたのだ。弟子との約束の中には、「八雲と助六の落語を全て覚える」という項目があったはず。ここで菊さんは、いよいよ「助六」を引きずり出してきたのである。

 菊さんからすれば、人の噺をそのまま持ち出すなんてのは恥以外のなにものでもないだろうに、それを与太に見せるというのは相応の覚悟があってこそ。与太の方だってそれを充分に理解しているからこそ、両の眼を見開いて師匠の「決意」を見届けるのである。「与太の落語」は、この先の道に繋がっているのか。まて次回。

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 オープニングの心中感、第2話。正直、無茶苦茶怖いのだが、菊さんの抱え込んだ「心中」という言葉の重みがダイレクトに伝わってくる、本作には珍しいくらいにあけすけな映像。相変わらずの椎名林檎&林原めぐみの歌も相まって、1期同様になかなかショッキングな仕上がりである。

 1話目では与太郎を中心とした落語界の「隆盛」を見せたが、2話目に入ると、いきなり前触れ無しの「凋落」。与太郎の過去が掘り起こされ、順風満帆に見えた彼の真打ち生活に暗い影が差す。与太郎本人は気にしていない様子だったものの、世間的にはやはりスキャンダルの一種。寄席の雰囲気まで悪くなってしまっては、せっかく作り上げてきた与太郎のキャラにも影響が出てしまうもので。過去に菊さんや助六が飛び回っていた時には無かった新たな問題が、いよいよ与太郎の前に立ちはだかることになった。

 与太郎の人生、そして与太郎の落語については、山口勝平ボイスの蝶ネクタイ(アマケンという名前らしい)の弁が的を射ている。彼は確かに何らかの才能を持っているようだが、彼が落語に挑み続けるモチベーションは菊さんへの恩義がもっとも大きい。そしてそこに、小夏らを経由して入ってきた助六というもう1つの偶像が混ざり合い、八雲との誓いのこともあって、彼は「八雲」と「助六」という相反する2つの偶像に自分の中で折り合いを付けなければいけない。放埒な助六という偶像を追おうにも、彼は八雲との義理があるし、元々助六のような才を持つわけでもないので、ただひたすら噺の底力だけで民衆を惹きつけるまでには至らない。かといって八雲を追おうにも、これまた才に欠け、「八雲の芸」では身を立てられない事も分かっている。場末に産み落とされた助六の名にすがりつき、復讐の落語を振りかざして身を滅ぼした先代助六、落語に怨念に近い気持ちを抱き、実を切りながら自分の芸を磨き上げた八雲。どちらの人生も、1人の若者が背負うにはあまりにも重すぎるのだ。

 今回の最大の見どころは、当然一本まるまる展開した与太郎の「錦の袈裟」の一席。しかし、これまで菊さんや助六が演じて来た様々な演目と異なり、今回の高座では、与太郎が「噺の中」へ入っていく描写が一切存在しない。前座を務めた兄さんが滑ったということもあり、会場の空気はなかなか噺の中にまで入ってこない。客席の微妙な空気、そして焦りを覚え見せ場で「ぶちかます」ことに躊躇いながらも挑戦しようという与太郎の緊張感など、噺の中の景色が見えずに、ただひたすら、与太郎の「焦り」ばかりが浮き出るという、何とも痛々しいものに。菊さんに怒られた声の出し方も改善の兆しが見えず、自分でも足りないと思いながら噺を続けなければならないという、まさに針のむしろだ。考えてみれば、周りの誰の力も借りられず、ただその身1つで高座に上がる噺家というのも、何とも孤独な商売である。世間の風潮のせいで客席にいたはずの「味方」も次第に数を減らし、与太郎は噺に身が入らないことをますます思い知らされる。そして、彼の挑戦はものの見事に失敗してしまうのである。なんとまぁ、絵に描いたようなスランプではないか。

 こうして大きな壁にぶち当たった与太郎を、菊さんは実に冷静に、冷淡に見守っている。樋口先生のつてでもって家の外で出会う2人だったが、一目見てそれと分かる与太郎のスランプに、菊さんは一番欲しい言葉をかけてやる。やっぱり、菊さんは与太には優しいのである。まぁ、本人も真面目に頑張っていることは分かるからねぇ。弟子入りまでにあれだけすったもんだあったおかげで、多少のことでは動じないように菊さんの心の準備もできているのである。

 ただ、こうして角の取れた優しい菊さんだが、どうもその背景には、「丸くなった」というよりも「どうでも良くなった」という面が窺えるのが気になるところ。気付けば彼の背中には助六とみよ吉という重たい荷物がのっかったまま。そして「落語文化」そのものまでが彼の背中におんぶしている状況。生きるのに疲れて怠惰に身をやつすのも致し方ないだろう。もちろん、だからといって身を崩すような人間ではないのだが、落語にしろ、与太郎にしろ、小夏やその息子にしろ、菊さんが周りと接している様子は、どこか関係性が希薄に見えてしょうがないのである。

 そんな中で不思議と優しさがにじみ出るのは、強いてあげるなら小夏との関係性だろうか。幾らか時間が経っても未だにわだかまりの残る関係性だが、寝物語に紡ぐ「あくび指南」には、全ての「荷物」から解放され、不思議とやすらいだ菊さんの表情が見え隠れするよう。全てが綺麗に片付く関係性ではないが、せめて菊さんの生きやすい世界が残されていればよいのだけれど。

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 二期……だと……?! 最終話! そうか、この物語はここで幕ではないのか。恐ろしい話だ、またいつか、このアニメが帰ってくるとは!

 そうは言っても形式上は一端の幕引き。最終話は八雲の時代と与太郎の時代を繋ぐ挿話になっている。助六の悲劇の顛末を八雲の視点から語り、そこが1つの時代の終わりであることを告げている。

 「あの時代」の幕引きは、2つの「心中」だった。1つは当然、助六とみよ吉という、あまりに不器用で、みっともない人生を送った夫婦の話。人に依存することでしか生きられず、落語を憎んで死んでいった小さな女と、最後には自分の拠り所をそんな女に見出してしまい、落語と死別した男。その死に様はあまりにあっけなく、残された者たちにも複雑な感情を残すものとなった。

 そして、そんな夫婦の馬鹿馬鹿しい死を前にして、またしても「独り」になってしまった菊比古。落語協会の会長に、そして世相に背中を押され、嫌々ながらも八雲の名を継ぐことになった。その心境は実に複雑なもので、おそらく今回の事件がなければ彼は決して八雲の名を継がぬと意固地になっていたことだろう。彼には八雲の名は必要なものではなかったし、「助六が継ぐべき」という信念を揺るがすものはなかったからだ。しかし、その兄弟子がふいっとこの世から消えてしまった。そんな状態で宙ぶらりんになった八雲の名前。他の人間に継がせるわけにもいかず、その名に込められた因縁を背負い込めるのは菊比古ただ1人。最終的に、彼は八雲の名を継いだ。いや、彼にとってそれは「八雲を名乗る」ことに意味があったのではない。「菊比古を捨てる」ことにこそ意味があったのではないだろうか。「菊比古」の名前の隣には、いつも「助六」があった。菊比古の落語が成ったのは、ひとえに助六がいたからこそ。そんな因縁を持つ2つの名前のことを思えば、彼は菊比古という自分に蓋をして、八雲の名前を抱え込むことを優先したのだ。「菊比古」と「助六」。この2つの名前が常に一緒にあること、それはつまり、助六の死が菊比古の死を導くということ。これが2つ目に「心中」。

 こうして面倒な男が残していったものは、落語界に流れるわずかな寂しさと、一人娘の小夏だけ。小夏と菊比古の関係というのは、結局助六という男の存在あってこそのものであり、彼がいなくなって「かすがい」を失ってしまったあとに残るのは、ただの子供嫌いな男であった。そんな男が、結婚もせずに突然娘だけを引き取ることになり、その娘には、蓋をしたはずの過去の面影がどこまでもついて回る。そりゃまぁ、菊さんだって疎ましく思うのはしょうがない。「忌々しい」という言葉を何度も吐き捨てる菊さんを見ては、小夏だって当然反抗的になる。また、小夏が「落語をやりたい」と思い続けていることも、菊比古には苛立ちの種だった。何しろ目の前の落語はどこをどう聞いても「助六の落語」なのだ。自分がわざわざ名を変えてまでして棄ててきたものが、小夏の形を借りて目の前に立ち現れようとする。あげく、小夏はそうして助六の面影を残しながらも、その傍らにみよ吉の影も見せる。ろくでなしだった母親の口癖を、小夏は子供ながらに口に出す。助六との思い出以上に苦々しい1人の女性の記憶を呼び覚ます小夏は、まさに「忌々しい」という言葉でしか言い表せない、忌むべきものに成り果てた。こうして過去の亡霊を抱えながら、菊さんは「八雲」として、すでに意義を失った「自分の落語」の虜囚のような人生を過ごすことになる。

 そんな彼に訪れた不確定要素が、1話で描かれた与太郎だったわけだ。彼の活躍については、おそらく2期目で詳しく語られることになるだろう。今回は一足飛びで真打ち昇進という場面だが、彼は「血」に因縁があるわけでもなく、鬱陶しがられながらもきちんと八雲が面倒をみてくれたようだ。真打ちにまで積み上げた努力はきっと本物だろうし、弟子を取る気も無かったはずの八雲も「紋付きを誂えないと」とまんざらでもない様子。空虚で頑なな八雲の人生だからこそ、与太郎のような破天荒な人間がいくらか変化を与えていたのだろう。

 その傍らでは、相変わらずの関係性を続けていた小夏もいた。衝撃的なのは、改めて見るこの時代の小夏の面影が、あまりにも母親を色濃く映していたこと。元々器量の良い女だったわけだが、気付けば小夏も年頃を超え、どこか気怠げなみよ吉の面影を残し、さらにその片鱗に父親の風貌も見て取れるよう。そんな小夏は、未だに「助六の落語」を見ながら生きながらえている。「なんとしても助六の血を絶やしてはならない」というので彼女は誰とも分からぬ男の子を成したという。松田さんはそんな小夏の態度に心を痛めもするが、元々彼女の行動にさしたる興味もない八雲はあっさりしたもの。「時代の流れ」と彼女の意志を邪魔する様子もない。そしてそこに飛び込んでくる与太郎。小夏と一緒になることを提案し、さらに、助六の襲名までも申し出ることに。

 菊さんの苦労は、まだ終わらないのだろうか。どこまでもうねり続ける因縁に、落語業界の栄枯盛衰まで背負わされ、「八雲」の試練はまだまだ続く。

 2期目、いつ?

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 不器用な連中ばっかりだよ……第12話。この作品のタイトルを見れば分かっちゃいたことではあるが、やはり辛い仕打ちだ。誰が悪いってこともないのになぁ。

 今回も見せ場だらけのお話だが、AパートとBパートではっきりとその目的が分かれており、そのどちらにも目の覚めるような内容である。まずはAパート、二人会で演じられる菊さんと助六の一席。菊さんはあくまで前座の役割であり、わざわざ東京から持ってきた「八雲」の紋付きで上がらせた助六の高座が本番。ここで、満を持しての大ネタ「芝浜」。このネタを披露した意味は、Bパートのみよ吉との関係性が大きな役割を果たしているわけだが、それ以外にも、数年間のブランクを空け、本当に久しぶりに「やりたくねぇ」と言っていたはずの落語にも関わらず、こうして大ネタをぶち上げたあたりに彼の性分が窺えるだろう。流石に東京では真打ちを張っていた男。長年田舎の隠遁生活を続けていたものの、その腕は衰えず、これまで菊さんが見たこともないような新たな人情噺でさらに上のステージへと登っていた。「落語は人が作る」というのが彼の台詞であったが、まさに、稽古や日々の公演以外で培われた、「助六の人生」が集約された一席である。

 そして、多少メタな視点になるが、この「芝浜」のシーンは非常に冒険的な演出でもって構成されている。実際に見ている分には何も特別なところが無いシーンなのだが、「芝浜」というのは本来ならば最低でも30分、ものによってはたっぷり一時間は使おうという大ネタである。普通に考えれば、アニメの中にこれを押し込めるには、ほぼぶつ切りのダイジェスト状態にするしかない。しかし、今回のアニメの中では、助六がこの「速回しの芝浜」を違和感なく演じているのだ。確かに物語の要点だけを追うダイジェスト版になっているものの、そのピックアップに過不足が無く、限られたAパートの枠内で、自然に成立するギリギリのバランスを維持している。今作の高座のシーンはアドリブではなく、きちんと台本が用意されているらしいが、この台本を組み上げるのは相当な難行だったことだろう。さらに、これを演じて自然な呼吸を生み出す山寺宏一の手腕。彼の台詞にきっちり画で追いかけるスタッフの尽力。この辺りが全て集約されて、わずか10分そこらの「芝浜」が生み出された。簡単に見えるかもしれないが、これが簡単に見えてしまうことがむしろ恐ろしいことなのだ。サゲのワンシーンの余韻の持たせ方まで含めて、全てがパーフェクトだ。

 一転、そんな「落語」に心血を注ぎ込んだのがAパートであるなら、Bパートはタイトルから「心中」の要素を切り出したパートといえる。ラスボス的存在といえるみよ吉が満を持しての登場だ。それまで、菊さんと助六は和やかに講演会の余韻に浸っており、菊さんが「東京に来てみんなで一緒に住もう」と提案するなど、現時点で可能と思われる最大限の譲歩、雪解け案を提示している。昔とはすっかり変わった菊比古を見て、助六もまんざらでもない様子だった。しかし、そんな男2人の間にいるみよ吉はそんなに簡単ではない。菊比古を呼び出してしなだれかかる彼女には、これまでの波瀾万丈な人生で積もりに積もった澱のような「陰」が籠もっている。端的に言ってしまえば「今まで一緒にいた旦那を捨てて、昔惚れていた男に鞍替えしようとしている尻軽女」でしかないはずのみよ吉なのだが、彼女の依存性の性分は我々も、菊さんもよく知っている。彼女は決して悪女でもないし、ならず者でもない。本当に、「哀れな女」なのである。

 一昔前の菊さんならば、彼女の要求に対して「正論」で応えていたであろう。「今となっては助六が亭主で、小夏が娘なのだから、自分とは関わっちゃいけない」と、みよ吉をたしなめたことだろう。しかし、助六との関係でも分かる通り、菊さんも師匠との死別や田舎での共同生活を経て、随分変わっている。人としての度量も大きくなったし、助六たちが抱えている問題の大きさを理解し、それを受け入れるための最善の手を取ろうとしている。おそらく、菊さんの中には、引き続きみよ吉に対する愛情といったものは無い。一度は一緒にいた女だが、切れてしまった繋がりを戻そうとは思わないし、彼女の性分を分かった上で、「自分以外の何かを頼りにしてもらわなければいけない」と思っているはず。しかし、現状ではその理屈が彼女に通じないことも分かっている。だからこそ菊さんは全てに対して謝罪し、みよ吉の責める一言一句を受け止めた。かつてとは違い、柔らかく全てを受け止めてしまった菊比古を見て、みよ吉はかえって困惑した。あの頃のように固く正しい正論で自分を罰してくれない菊さんを見て、みよ吉はどうしていいか分からず、ただ目に涙を溜める。そして、菊さんはそれすらも受け入れる。

 パニックに陥ったみよ吉は、そんな菊さんの優しさを見ても、決してそれが自分の望んだ形でないことくらいは理解出来る。依存先を失う恐怖からか、「心中」を持ちかけるみよ吉。その様子は、かつてめったにいかなかった寄席に菊比古を見に行った際の「品川心中」を思い起こさせる。緊張感の走る2人の間に、唯一この問題を解決出来る人間、助六が割ってはいる。これまでずっといい加減に過ごしてきた助六だったが、菊比古が自分のことを思ってくれている気持ちを再確認し、自分がどれほど堕落し、情けない身の上だったかを痛感させられた。自分みたいなどうしようもない人間のことを、真剣に思い続けてくれている人たちの存在に気付いた。だからこそ、菊比古には申し訳ないことと思いつつ、そんな自分を支え、新たな落語を演じさせてくれた「恩人」であるみよ吉に、誠心誠意で頭を下げる。菊比古の望む落語家としての人生、みよ吉の望む落語のない人生。その二つから選べと言われたら、後者を選び、みよ吉についてきてほしいと。

 「芝浜」ならば上手くもいった話だろう。しかし、みよ吉にはそんな急激な環境の変化に対応するだけの度量はなかった。元々自分を失ってしまった女である。「落語が嫌い」という言い分にしたって、彼女は菊比古との関係性でそんな憎まれ口が出てきただけのこと。落語をやるとかやらないとか、そんなことは彼女のとって大きな問題ではなかったのかもしれない。ただ少なくとも、助六にとってはそれが誠意の見せ方だったのだ。一度は落語という夢を見ることが出来た。しかし、残りの人生を夢にしちゃいけない。それが彼の最後の高座の意味。しかし、その決意も、彼を巻き込んだ動乱の流れに抗うことは出来ず。一人の男と、一人の女が、互いに抱きしめ合いながら、その末路をともにした。一部始終を見届けたのは、またも「捨てられて」しまったという、菊さん一人。

 自分を心の底から必要としてくれる男が最後に現れて、みよ吉の人生は、救われたのだろうか。

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 夢の共演、第11話。落語にこんな演じ方があるなんて想像もしなかった。いや、そりゃ邪道には違いないのだろうが……涙が出るほど嬉しい、誰もが望んだ奇跡の一席だ。

 助六を追って四国の田舎くんだりまでやってきた菊比古。喧嘩別れってわけでもないが、互いに遺恨を残しての別離の果てでの再会劇、絶対に一悶着あるだろうと思っていたのだが、たとえ長年の隔絶があっても、この2人はどこまでいっても「血を分けた」兄弟であるようだ。小夏を通じてめでたく再会を果たした菊比古と助六。タイミングとしては、駄目亭主過ぎる助六に嫌気がさしてみよ吉が家を飛び出しているという最悪の状況なのだが、みよ吉には悪いが、この2人にとって彼女の存在は結局二の次なのだよな。ボロボロの屋根の下、すっかり腑抜けている助六だったが、懐かしのぼんの声を聞いて、怖じ気づくでも無し、気まずそうにするでもなし、一も二もなく飛び出して、年甲斐もなく抱きついてきた。対する菊さんの方はというと、流石に出会い頭に一発お見舞いこそしたが、普段から仏頂面の彼には絶対に出てこないだろう満面の笑みで、面倒な野郎からの抱擁を受ける。どれだけ距離を隔てても、どれだけ時を重ねても、結局この2人の関係性は変わらないのだ。互いに、一番の理解者であり、一番愛しい人間は、苦楽をともにした兄弟1人。

 再会の抱きつくシーンでは、東京で一人暮らしを始める前にジャズバーで互いに別れを言ったシーンとの対比で2人の心境の変化が確認出来る。助六の方は基本的に変わらないテンション、変わらない態度なのだが、かつて、まだ余裕が合った頃の東京では助六のハグに対して「臭い!」と叫んで拒絶した菊さんが、(おそらくあの生活態度だったらもっと臭くなってるだろうに)助六を受け入れている。長のお別れの果てのこと、流石にふりほどくのも不憫と思ったのだろうか。それとも、菊さんの方も抱きしめたいくらいの心持ちだったのか。とにかく、2人は一切含むところもなく、互いに喜ばしい再会を果たしたのである。

 菊さんの要件は簡単明瞭。「東京に戻って落語をやれ」。それに対し、助六は「落語なんかまっぴらごめん」とそっぽを向く。そりゃそうだ。あれだけの仕打ちで東京を飛び出してきた人間が、今更どの面下げて戻れるというのか。落語そのものに対する愛情は2人とも変わらずとも、助六は「落語業界」に嫌気がさしてしまっている。どれだけ落ちぶれたとしても、今更戻れと言われてハイそうですかと応えるわけにもいくまい。しかし、それでも菊比古は自分のわがままを押し通す。助六の落語は「客のための落語」、菊比古の落語は「自分のための落語」だったはずなのに、ついに彼は「アタシのためにお前の落語をやれ」とまで言い始めた。本当にわがままなぼん。しかし、業界に見捨てられた助六を東京に引き戻すには、それが一番手っ取り早い動機付けだ。周りの人間なんか知ったこっちゃないが、すぐそばには、助六の落語を最も理解し、最も求めている人間が常にいる。それだけでも、「客のための落語」をやるのには充分だろう。ブランクを理由に断る助六だが、それでも彼の態度からはまんざらでもない様子が窺える。助六が落語を手放せるわけがない。

 方々に手を尽くし、片田舎の過疎が進んだ村で落語が出来るように取りはからう菊比古。東京で大人気の真打ちの芸が、そこらのそば屋で(おそらくタダで)聞けるというとんでもない贅沢を味わえる村の人々がなかなか羨ましいが、流石にそれじゃまずいってんで、少しずつ小屋を大きくし、とりあえず旅館の舞台で2人会、というところまではこぎ着けた。きっかけはなんでもいいのだ。助六が高座に座り、噺を始めるとっかかりさえ与えられれば。

 すっかり夫婦のようになった助六と菊比古の共同生活。その間に入っている小夏は、あたかも「子別れ」で夫婦を取り持った「かすがい」の子供のように、2人の落語を少しずつ繋いでいく。ボロ屋の縁側で噺をねだる小夏に、菊さんは案外素直に答えてくれている。菊さんの小夏に対する感情ははっきりと示されたものではないが、本人の言葉を借りるなら「利害の一致」。助六に落語をやらせるために協力してくれるというのなら、彼女の存在を力にすることに迷いは無いだろう。気まぐれで「野ざらし」にこぎ着けたのは、そんな小夏に対する感謝の意味もあったのかもしれない。

 さぁ、ここで幕を開ける「野ざらし」の一席。何とも珍しい、菊さんのガラッ八もの。これまでいくつか菊さんの演目は聞いてきたが、なるほど確かに妙な心持ち。もちろん、うろ覚えだろうが不得手だろうが、菊さんはスッとこなしてしまうだけのスマートさがあるのだが、まぁ、ここは寄席で何でもない単なる縁側。忘れちまってしばらく思い出すのに頭を捻るくらいはご愛敬。そして、そんな情けない「弟弟子」を前に、助六もじっとしていられない。外野からは小夏の声がかかり、乱入する父親、パッと雰囲気が変わる八五郎。そのまま助六が得意の「野ざらし」を引き継ぐものかと思われたが、それで引っ込む菊さんじゃない。目の前には久しぶりに現れた助六の芸。思わずそこに自分の領分を合わせて殴り込みをかけ、気付けば囃したてる小夏と3人で一つ。これが落語なのかどうかもよく分からないが、思い描いていた理想の形には違いない。助六は客の求めに答え、菊比古は自分の望むものを満たす。二人の落語が、二人の手によって完成していく。あまりに贅沢なその時間に、二人の噺家の人生が充溢していくことがひしひしと感じられるのである。

 と、ここで終わっていれば大団円、助六の復活劇へと素直に繋がりそうな流れなのだが、残念ながらそうは問屋が卸さない。そう、助六が片田舎で隠遁し、腐ってしまった原因の1つにはみよ吉という存在があるのだ。小夏が毛嫌いしていることからも分かる通り、みよ吉と落語は恐ろしいほどに相性が悪い。それもこれも全部、落語に菊比古といういい人を取られてしまった憎しみから来るものであるが、元々みよ吉は、この作品では非常に珍しい「落語が好きじゃない人間」なのである。教育の方向性次第では小夏だってみよ吉と同じように落語嫌いになっていた可能性もあったとは思うのだが、カエルの子はカエル。寝物語にあの助六の落語を聞かされてちゃ、そりゃぁ好きになってしまうのも仕方ない。元々、みよ吉があまり母親らしい良い親ではないこともあり、小夏は父親にべったり。おかげでますますみよ吉は家族の生活が苦痛になっていくのだろう。結局、駆け落ち同然に転げてきた2人、舐め合う傷が癒えてくれば、その間を取り持つものもない儚い関係性だ。

 そんなところに、2人にとって因縁以外のなにものでもない名前、菊比古の文字が飛び込んできたのだ。「やっと来てくれた」と涙するみよ吉。彼女にとって、菊比古という存在は東京への未練、一番の愛情、一番の憎しみが凝り固まった情念のようなもの。長年忘れて暮らしていたというのに、今更また自分の前に現れたのだ。あまりのことに感情の処理も追いつかないだろう。しかし哀れなことに、菊さんにとっての目的はみよ吉ではなくその亭主の方。みよ吉がやけっぱちでくだを巻いているその時にも、菊比古は助六と小夏を東京に引っ張り出そうとしているのである。もしそんなことになれば、みよ吉はまた1人になってしまう。どこまでも依存を重ね続ける彼女が最も恐れることが孤独だ。菊比古という魔性は、またも彼女を涙に曇らせることになるのか。

 最後の一波乱、一体どうなるものやら。

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