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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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  なんだか分からないけど大戦争、第9話。盛り上がることには盛り上がっているみたいです。

 なんだかんだ言いながら毎週それなりに入れ込んで見ているこの作品なんですが、それでも今ひとつ入ってきてない中身がある。それが単なるこちらの見逃しなのか、それとも描かれていないだけなのか、判然としないのだわな。一番気になるのは、「結局フリュネの目的って一体何だったんだろう」という部分。最初に僧院を抜け出した意味は分かる。あれだけ過酷な人生を与えられたら、誰だって逃げ出したくなるだろうし、そうして逃げ出してしまったら、右も左も分からない状態になってしまって知らない男の子の家に転がり込むのも仕方ないだろう。そこでネッサを手渡したのも、とりあえず現段階においてフラクタルシステムの「鍵」たる自分に対する嫌悪感を示したとすれば分からないではない。

 が、結局彼女は僧院に戻ってしまった。彼女の中で大切なのは、「生みの親」であるバローたちの思い通りにならないことであるということなのか。ただ、普通に考えたらやっぱり自由の身になったのだから逃げ切りたいと思うのが普通な気がするんだけど。そして今回、彼女は自らの意志で再び僧院に帰ることを決意して旅立ってしまった。ま、今回はグラニッツとの触れ合いなどから志が変わったのだと理解出来るわけだが、どうにも行き当たりばったりな行動で、クレインでなくとも怒りたくなるのは仕方ないように思う。どうにもキャラクターに感情移入しづらい作品だ。

 それでもまぁ、クライマックスに向かっての決戦の雰囲気なんかは理屈抜きで盛り上がっている気もするので、何とか最後にきれいな着陸を見たいものです。

 でもさ、今回ものすごく気になったんだけど、Aパートのキャラクター作画がやたらおかしくなかったか? いや、崩れているってわけではないのだが……作監の個性が出すぎじゃなかろうか。クレインが女の子みたいになっとったがな。逆に面白かったわ。

 うん、それが言いたかっただけ。あとはどっちかっていうと裏番組だった「GOSICK」の特番の記事が書きたいです。あおちゃんが! あおちゃんがヤバイくらい可愛いよ! 江口君のものまねで必死に振りだけ付いていこうとするあおちゃんがヤバイよ! 身長半分くらいしかないがな!

 以上、作品すら飛び越えた感想でした。

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  カマトトチョップ! 第7話。でもさ、「筋肉バスター」がキン肉マンの技で、「ベアハッグ」が熊の技なら、「カマトトチョップ」はカマトトがやる技であって、カマトトを対象とした技ではないよね。

 すっかりグラニッツに溶け込んだクレインとネッサが、なんかよく分からないけど2人で街へと繰り出すエピソード。ネッサに感染したウイルスの影響で小型艇を墜落させてしまったクレインは、お尋ね者として狙われているともしらず、フラクタルの加護の下にある街、ザナドゥに保護される。そこで出会ったミーガンは、ドッペルは妖艶な女性だがその中身は高等遊民を気取るおっさんという一種のネカマ。更にミーガンが連んでいたコリンというイケメン風も、実際は集中治療施設の中で生活する身で、どちらもフラクタルの中でしか活動できない存在であった。偽りにまみれた街の中で、ネッサはクレインのために力を暴走させ、ザナドゥを覆い隠していたフラクタルを吹き飛ばすほどの能力を発揮。しかし、それを快しとしないコリンによって、クレインは狙撃されてしまう。折悪しく、僧院の追っ手であるバローもフリュネを発見し……

 

 色々と混迷してまいりましたな。今回のテーマは、前回のフラクタル難民達やロスミレの面々とは対照的な、「フラクタルの恩恵を最大限に受ける人々」である。「家を持たず、個々の関係性を重視しない」というこの世界の住民たちであるが、ドッペルという存在を介して「都市」は存在している。そして、そこはどこまでも「偽物」にまみれた、文字通りの「虚飾の街」。ドッペルの正体が全て嘘にまみれていたこともそうだし、ベッドから降りたら絨毯を突き抜けてしまったり、彫像に触ろうとしても一切触れられなかったりと、アンティーク趣味のクレインで無くとも嫌気がさしてしまいそうな、何とも空虚な世界である。この世界の住人たちはフラクタルを恩恵として享受していることになっているはずだが、本当にこんな世界が幸せなんだろうか。

 当然、この物語の方向性としては、「偽の情報なんかよりも本当の人と人との触れ合い」というテーマ性になっていくのだろうが、そのためにきれいな対比として出ているのが、「本当にいる人間なはずなのに触ることが出来ないミーガンたちドッペルの存在」と、「本当はいないはずなのに触れることが出来るドッペルとしてのネッサ」という対比。イメージとはいえ、ウイルスに冒されて病床に伏すネッサの方が、二重生活を送り続ける住民達よりもよっぽど現実味があるように描写されている。最後にネッサの力が暴走した後は、荒涼とした廃ビル群だけが残ってザナドゥの実体が何も伴っていないことも強調されていたし、ザナドゥの住民であるはずのミーガンの中のおっさんが、実際は二重生活で遊牧民として生きていたことも、フラクタル至上主義にかげりがあることを仄めかしている。シナリオも既に中盤を越えているわけで、このあたりで、何が正しくて何が間違っているのか、というストーリー全体の方向性をイメージづけていくのは大事な作業だろう。

 ただ、相変わらず「基盤となるべき価値観」が見いだせないために、なんだか説得力が無いのがこの作品の悩みどころである。確かに虚飾にまみれた街は疑問視すべき存在であるが、そもそも「その生活を享受する人々」という、クレインやグラニッツと対比的に描かれるべき存在が希薄であるため、「本当にフラクタルに感謝している人間がいる」という構図が見えにくいのである。特にミーガンは今回腐敗したフラクタルの象徴として描かれるべき人物だったはずなのだが、結局本体は隠遁生活を続けているわけで、あまり対比が上手く現れていないのだ。そもそも、ちょっとキチピーの入った自称芸術家なんてものはサンプルとして特殊すぎて、あまり参考にならないのである。一応、実体としては不自由しながらもフラクタル内での生活を謳歌しているコリンの方は、それなりの説得力があるとは思うのだが、それならコリンの方をメインにしてストーリーを構築すべきだったのではないかねぇ。今回の脚本、吉野さんなんだけどね。分かりやすさよりもムチムチ美女の出番の方を優先したのかしら? 色んな意味でけしからん話だ。

 でもまぁ、ネッサとクレインの関係性も次第に濃密になってきたし、狙撃で次回へ続く展開も気になるといえば気になる。流石にこれで本当にクレインに死なれるとちょっとどうしようもないけど、せいぜい生死の境をさまよって悟りでも開いて戻ってきて欲しいものだ。あとはフリュネとエンリっていう組み合わせが次第に馴染んできているのもいい感じ。フリュネはまだまだ謎な部分が多いのだけど、歯に衣着せぬ物言いのエンリと絡むことで、もう少し親しみやすいキャラになってくれればいいとは思う。

 今回の必聴ポイントは、なんと言ってもミーガン役の豊崎愛生だろう。こういう役をやるのは珍しくて、途中で「あぁ、豊崎だ」と認識できたのも、「クェイサー」や「プラネットスフィア」でのドラマを聞いて馴染んでいたおかげである。アンチ豊崎の人って、こういうのを聞いても「馬鹿の一つ覚え」っていうのかなぁ。これが識別出来るレベルなら、充分ファンだと思うんだけどな。

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  未だ世界設定に得心がいかない第6話。前回は取り立てて見るべき点も探せなかったのでレビューも描けず、今回はお話が動いたけど首を捻った。このまま首の角度が戻らないまま終わってしまったらどうしようかと心配になってくる今日この頃である。ま、まだ6話だからな。「まどか」でいうとさやかと杏子さんとどつきあってるくらいの頃ですわ。

 「圏外」へとたどり着いたグラニッツの一行は、大量の「フラクタル難民」と、ロストミレニアム(略してロスミレというのもどうかと思う)の一派であるアラバスターと遭遇。ここに来てようやく、グラニッツ以外の活動家の存在と、「フラクタルシステムが崩壊して、世界が末法の世になる」という設定が確認出来た。一応「難民」の存在については、これまでのクレインの行動などから理解は及ぶものであるが、実際何で連中があんなに困窮しており、救いようのない状態になっているのかは完全に納得出来るものではない。

 フラクタルシステムというのは、一種の情報ネットワークのようなものであるというのが私の認識で、身体に埋め込まれたターミナルを通じて回線が繋がっており、様々なドッペルの情報や、星祭りのアップデートなどが得られるもの。「触れられるドッペル」がイレギュラーであるのは、当然ドッペルが視覚情報だからで、フラクタルシステムが干渉できる脳機能は、視覚分野などの受容器官に特化されていると解釈できる。どれだけ技術が進んだとはいえ、触覚の電気信号のような高次の知覚現象までをもフラクタルで全て管理することは難しいということである。ネッサクラスだとがフラクタルを通じて映写・転送された「実際の事物としての存在」を持つものであるという仮定も不可能ではないが、例えば今回の水浴びのシーンでは、ネッサの周りだけは一切水面が動かず、水しぶきがたっていないことから、あくまで彼女達は「人間の視覚・聴覚情報としてのみ存在するもの」であることは確定的だ。

 そうすると、「ただの情報発信機関」であるフラクタルが破綻することで、人々がすぐに「難民」になるというのは不自然ではないだろうか。どれだけ情報ネットが優れていたとしても、結局、人は生きるために食べていかなければならない。それなら、人が生活する場所には「実物の」食糧があるべきだ。クレインの言葉を信じるならばそれは自然の食糧とはかけ離れたものであるらしいが、少なくとも実際の栄養素をフラクタルシステムを介して人体に発信したりは出来ないはず。それならば、一時的にフラクタルの恩恵を失った人たちでも、即座に食うに困るというのは変である。「よりよい生活」を送るためにフラクタルを求めるというのは分かるが、単なる発信基地の喪失が、ろくに歩くことも出来ないような貧弱な難民を生み出すというのは、ちょっと極端な状況に見える。

 また、新たに登場したロストミレニアム、アラバスターの存在も謎である。難民から無理矢理ターミナルを奪い取って仲間に組み込む、という強硬手段をとっているわけだが、生きる礎となっていたターミナルを勝手に奪われたような連中が、そこからすぐにロスミレの思想に共感するとも思えない。武器を持って脅して抱き込んだところで、新たな憎しみを生むだけなのではないか? 確かに「もうフラクタルは意味がないなら、フラクタル無しで出来る最上の生活を選ぶしかない」という開き直りをみせる人間もいるだろうが、それが全てとも思えない。すっかりフラクタルに依存しきった惰弱な人間たちを囲い込んで、どれほど意味があるものか。

 そして、今回登場したエッチさん(仮)の存在。彼はヴィンテージ趣味があるとはいえ、その思想はあくまでフラクタル依存。難民に絡まれる筋合いもなかっただろうし、ロストミレニアムとの関係性も謎だ。ぽっと出てクレインとだけ絡んだおかげで何となく存在が肯定されているが、一体どこから出てきて、これまで何をして生き、何を目指しているのかがイマイチ掴みづらい。そして彼が一時的に復元した「過去のフラクタル風景」も謎。たくさんの建物が並ぶような風景が再現されていたわけだが、「家を望まないフラクタルの世界」の住人に対して、何故フラクタルは「家のある世界」を提供していたのか。何故、崖下に突き落とすような危険な疑似映像を再生しているのか。まとめると、フラクタルとは何の目的であそこまで大規模な「欺瞞」を提供し続けていたのか。分からないことだらけである。こうした謎は、最後にちゃんとすっきりするんだろうか。

 ま、最終的に一番違和感があったのは、アラバスターの真実をしったクレインが慌てておっさんのうちに駆け戻るシーンなんですけどね。「偽の映像に騙されて崖下に落ちてしまう人間」なんておっかないものを見た直後にも関わらず、フラクタルが再生した偽の世界を全力で走れるクレインの無謀さ、そして、ちょっと前のタイミングで駆けだした奴は射殺されたのに、クレインは平気で背中を見せて逃げ出し、アラバスターはそれを完全に無視しているという矛盾。なんだか、1つ1つのエピソードの繋ぎが、すごく行き当たりばったりな気がしています。

 うーむ、少しずつこの作品に対する期待度が下がりつつあるのだが、ちゃんとクライマックスは用意されているのだろうか。作画もところどころ不安な部分があり、万全の体制とは言えない気がするのも心配である。クレインとフリュネが二人で競走するシーンの走りの動画なんかは割と面白かったので、どこか注意を引くようなこだわりはちゃんと残っているとは思うのだが……

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  何がなんだか、第4話。「おちんこ」みたいなアニメなら平気だけど、こういう作品は体調が悪いときに観るとキツイ場合があるので注意が必要。

 星祭り襲撃からフリュネの誘拐へと作戦を移行させ、そのまま大々的な進撃作戦にまで切り込もうとするロストミレニアム。そして、それに対抗して大軍勢を送り込んでグラニッツ一家を亡き者にしようとする僧院一派。対立構図は明確になり、人死にも出ているので表面的な盛り上がりは文句無い流れになっているが、未だに世界観がはっきりしていないのが困りものだ。あれだけの武装を用意していたスンダたちだが、今回ようやく僧院の連中からアジトを襲撃されることになったということは、これまでは特に活動していなかったということなんだろうか? 前回は星祭りの襲撃は過去にもやったみたいなことを言っていた気がするのだが……

 なんだかモヤモヤするのは、世界観というよりも世界規模がはっきりしないせいかもしれない。前回の疑問で「星祭りって、フラクタルシステムに関与している人間の一斉アップデートのはずなのに、参加してる人間がやたら少なくない?」というものがあったのだが、巫女であるフリュネがわざわざあそこに登場したことに加え、今回の襲撃で僧院の一番偉そうな女性(モーランという名前らしい)がロストミレニアムに対して対抗姿勢を取ったことを考えると、あの星祭り襲撃は僧院側からしてもかなり大きな問題になっていることが伺える。つまり、あの星祭りは、「数多存在する地域別星祭りの1つ」ではなく、「大々的に行われる星祭りという名のイベントの中心的位置」であるはずだ。にもかかわらず、参加者は大して多くない。この世界の住人はどこへ行ってしまったのか。

 このことの答えとして考えられるのは、「既にこの世界にはあんまり人間がいない」という可能性。60億を超える現在の地球人口ならば星祭りに集まった人間達はかなり少ないといえるが、もし世界人口が1万人を切るような世界だったと仮定すれば、あの規模の星祭りでも数カ所で済むかもしれないわけだ。そもそも、フラクタルの中心にいるモーランが既に「時間が残されていない」と言っていることから分かる通りに、フラクタルシステムが既に限界に来ていることは内部の人間にも周知であり、中枢部も隠すような意志が感じられない。この世界は、既に滅びを迎えた終局に位置しているのではないか? ただ、その場合にはクレインたちがあまりにのんびりしすぎている気もするのだが……これもフラクタルによる「洗脳」の一部と考えれば説明は出来る。

 ただ、そうした世界設定の悩ましさをさらに膨らませる存在がいる。フリュネである。説明不足なせいでイデオロギーが分かりにくいキャラクターが多い中で、飛び抜けて意味が分からないキャラクターがフリュネだ。突如単身クレインのところに逃げ出して来て、ネッサを渡して再び逃走。星祭りの舞台上に現れたにもかかわらず、とらわれの身から解放されたとたんにクレインにビンタ一発。さらに僧院の追っ手から逃げようと必死になっている。一体彼女は何を考えているのだろうか。もちろん、物語の中心にいるフリュネの言動については、後々説明がなされることになるのだろうが、僧院VSロストミレニアムという単純な構図でこの物語を追いかけようにも、どちらの陣営ともとれないフリュネが中心にいるせいで、そう単純な処理が出来ないのが悩ましいのだ。ネッサとの関係性もいっこうに説明される様子が無いし、このまま足下がおぼつかない状態でシナリオを進められると、追いかける側としてはちょっとしんどいのである。せめてクレインの言動だけでも一貫性があればまだ理解は追いつくのだが……彼にとって一番大切なものは、一体何なんだろうね。

 とはいえ、今回は作画の状態もよく、独特の構図をとったコンテワークがなかなか面白い。印象に残ったのは船から逃げ出したクレインとネッサがテクテクと道を歩きながらじゃれ合っているシーンで、クレインの背後に背景の流れを作りながら、歩くスピードに合わせてネッサの構図などをぐるりとカメラを回してうつす描写なんかが面白い。ちょっと歩く速度が不自然な気もするが、こういう動きを全面に押し出した描き方はなかなかアニメで見かけないので新鮮な感じがした。他にもネッサがフリュネをポカポカ叩くシーンのネッサの必死な表情なんかも可愛らしくて○。「ネッサは好きが好きなの!」って、シンプルだけどなんだかいい台詞です。

 中の人的に楽しかったのは、いかにも悪辣な敵キャラで見せてくれた宮本充。今期は「ドラゴンクライシス」にも出てきたし、彼のイケメンボイスを聞く機会が増えたのはちょっと嬉しい。三枚目や嫌らしい悪役でもイメージが膨らむ良い役者だ。

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  いきなり話が分かりやすくなった第3話。この作品は、本当はアニメオリジナルの貴重な作品だからゆっくりとその中身を吟味していきたいと思っているのに、制作者側が余計なフィールドで芳ばしい話ばかりを持ち込んでくるため、なんだか妙な見方を強いられているような気になってくるのが難点です。やっぱり、せめて放送中くらいは製作側は「とにかく作品を見て」っていうスタンスにして黙っていた方がいいのかもしれない。

 前回突如エンリに誘拐され、マグロ漁のごとき状態でアジトへと連れ込まれたクレインとネッサ。宙づりの状態でどれだけ飛んだのかはよく分からないが、あれだけ密着した状態でずっと2人きりっていうのはそれだけでドギマギシチュエーションであった気もする。その割にクレインにはそういう様子がなかったのが残念無念。そして到着したのは、フラクタルシステムから解放された一派であるロストミレニアムの集合した村落である。この段階で、ようやくこの物語の大きな構造が理解出来るようになる。1話の時点でクレインが漏らしていたので何となく予想はついていたが、人類全てを統べる「フラクタルシステム」の善悪を問うことで、体制側と対抗勢力がはっきりと分かれ、そこにイデオロギーの衝突が描かれる。骨董品好きでドッペルを毛嫌いするクレインもあまり体制側とは言えないスタンスだが、より明確に対抗意志を示すために「フラクタルターミナル」と呼ばれる受信器官を摘出した人々の様子を見て、さらに突っ込んだ状態でフラクタルと己の付き合い方を考えることが出来るようになるわけだ。

 クレインは最初の時点では、ロストミレニアムの主義主張にはあまり好意的でない態度を取っている。そらまぁ、現代でいえば突然原初の生活に帰った方が人は自然である、と唱える新興宗教にぶつかったようなものであるから、「フラクタルターミナルを摘出する」という行きすぎた教義に「一般人」であるクレインが抵抗を示すのは当たり前のこと。つれて来られた理由もよく分からないのだから、どれだけ興味深いものを見せられたとしても、そこに反感を覚えるのは当然の反応といえるだろう。しかし、そんな硬化した態度もたった1杯のスープで氷解する。合成食糧のみを糧としてきたクレインにとって、「普通の料理」は実に衝撃的だったというお話。ま、分かりやすい処理かな。

 「フラクタルは本当に必要なのか」という疑問が少しずつ芽生えていく中で、今度はいきなり「星祭り」の打倒に挑むことになる村の面々。説明を聞くと、星祭りは集団アップデートを目的とした一種の洗脳儀式であるという。だからこそ、悪しきフラクタルシステムを象徴する、確実に潰さなければいけない儀式であると。

 ふむ、話は分かる。分かるのだが、だからといって突然武器を手に乗り込んでいって、儀式を行っている巫女側だけでなく集まった一般聴衆すら無差別に撃ちまくる展開はいかがなものか。彼らの大義名分は「フラクタルでは得られない真の自由の獲得」であり、そのためにまず自分たちの体内からターミナルを摘出した。そこまでは個々人の選択なので問題無いのだが、そこから一歩進んで、今度はフラクタルに取り込まれた体制側の人間なら殺してしまって構わないという。流石にそれはおかしいのではないか?

 そもそも、あの星祭りというイベントの規模もよく分からない。バルーンがどうこう言っているってことは、あの祭りは全世界同時アップデートのタイミングであるはず。そうでなければ管理側にもかなりの負担がかかるだろう。にも関わらず、会場にはそこまで大勢が詰めかけていたようにも見えないし、管理側もそんなに厳重なチェックをしているように見えない。あくまで地方の催し物程度のものである。ってことは、世界各地で同様の「星祭り」会場が多数存在しているということ。そんな草の根活動を1つ1つ潰したところで、ロストミレニアム側にもそこまで恩恵があるとも思えない。そもそも、クレインが「星祭りの期日が早まった」ことを知らなかった時点で、「ターミナル所有者は全員確実に星祭りに参加する」というお題目も嘘になっているのだ。世界設定が明らかになっているようで、実はますますよく分からない状態になっていたりするのである。これはちょっと困る。

 事態はそれだけでなくさらなる混迷を極め、現れ出でたる2人目のネッサ(おそらく「本物の」ネッサ)、そしていつの間にか姿を消していたフリュネの再登場。この世界における正義とは何なのか。エンリやスンダは一体何がやりたいのか。そして、クレインが求めるべき「正しさ」はどこにあるのか。まだまだフワフワと設定の不安定さが漂う中でのお話は、今後も視聴者に色々と労苦を背負わせてきそうである。うーむ。今回は画面的にはそこまで面白いものが得られなかったのだが、ちゃんと視聴者を引っ張り込むだけの誘致要因を保持しきれるだろうか。

 今日のハイライト。ゆかち可愛い。あれだけフラクタルから逃れようとしていた連中が集まってるのに、トイレにはあんなハイテクな健康チェック装置を配備してるのね。でも、正直あそこで用を足すの嫌だな……

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  全世界の母親の声は全て同じになってしまえばいいと真剣に考える第2話。すげぇなぁ。前クールからカウントして、ものすごい数のママ役無双じゃないですか。砂戸家、結城家、高梨家、そして二鳥家……(あ、あとざくろの家も)。日本の理想の母親像は、大原さやかで確定しましたのでよろしく。

 ちょっとしか出ていないキャラの話はさておき、相変わらず画面の白さが目に眩しい2話目。導入が終わって少しはダラダラと見られる展開になるかと思いきや、相変わらず1話と同じく緊張感がずっと張り詰めた状態である。このコンテはホント疲れる……と思ったらやっぱり監督なんですね。しかも演出が別所誠人氏だ。なんかもう、今期はこの作品に全力で突撃でいいような気もしてきた。だって、面白い。

 相変わらず変態性癖のるつぼな気がする中学校。そこには人間的にも色々と面倒な連中が多く、些細なことでも先輩に気を使わなきゃいけなかったり、友達との関係でやきもきしなきゃいけなかったり、女装趣味の友人に配慮しなきゃいけなかったりする。この「すごくどーでもいいのに当人達にはすごく重要」な感じ、本当に中学生だなーという気がする。「先輩が挨拶したのに返さなかった」とか、そりゃ気になる人は気になるんだろうけど、ここまで大事になるような問題でもなかろうに。また、同じ班になった自分が心を寄せている人がクスリと笑った、なんていう些細なことでも、ものすごく印象的に見える瞬間がある。これまた青い春。そして、そんな「独特だけど普通の教室」の風景の中に、しれっと「女みてーだと言われて頬が緩む男子」とかが紛れ込んでいるのである。どさくさに紛れてヘアピンのプレゼントとか、男性担任に対して露骨に興味を持ってみたりとか、そっち方面の異常さは全力投球。なのに、友達との喧嘩みたいな日常風景に溶け込んで描写されているので、あくまでそれが「青春の悩み」に見えてしまうのである。ほんとのほんとに真性の作品だと思う。

 そんな風にして、異常な要素も、そうでない要素もない交ぜにして描かれているものだから、画面はともするとものすごく単調になる。喧嘩したり、歩み寄ったりしている姿にドラマはあろうが、それは決して絵になるものではない。単なる子供の悩みごとなら、ダラダラ垂れ流されても面白くはない。実際、この作品はBGMなどの音響もひどく少なく、画面の切り替えにしてもそこまでスピードはない。むしろ、1つ1つの場面を切り取ったアルバムのような、静的な「繋ぎ」の印象が強い。それにも関わらず、緊張感は持続している。この白い画面の中に、何か「気になる」要素が埋め込まれている。もうそれが何なのかは分からなくなってきているが、出来れば作品が終わるまでに、その正体をつかみたいところだ。

 ものすごくどうでもいいのだが、キャラクターと中の人に両方「千葉さん」がいるのがややこしい。作中で名前を呼ばれても「え? どっちの?」とか思ってしまう私はどうしたらいいんだろう。「え? どっちの……って、何でですかー!」とシャロなみのセルフ突っ込みを入れながら観る「放浪息子」。すまん、病気だ。それにしても、この作品の豊崎もまた上手いな。本当に器用な子やで。

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  引き続き世界観説明無しの第2話。こういう不親切さ、というか覚悟の決め方って、ものすごく引き込まれるか、「わっかんねーよ」ってことで早々に切られるかのどちらかになる場合が多い気がするんだけど、今作の場合、分からないけど切るのも癪っていう、何とも微妙なスタンスになっております。まだまだお話は進まないので、分からないことが一切ストレスになっていないのは助かるんだけど。

 1話はかなり気合いの入った作画演出で実に立派だと思っていたのだが、2話では流石にややペースダウンしたか、作画枚数は確実に落ちている。他のパートが高い完成度を誇るだけに、ちょっとでも油断するとその部分が浮き彫りになってしまうのは辛いところで、今回で言うなら、最初にクレインとネッサがチャリで駆け抜けるシーンの地面の描写が何か変。高速で移動していることをCG処理で表現しているわけだが、そこだけ浮いてしまっているように見えて、ちと気持ち悪かった。

 とはいえ要所要所でのがんばりは引き続き活きており、例えばキャンプベースでネッサが騒ぎを起こしてそこらじゅうでパラソルが飛んだりロボットがトチ狂ったりしているシーンなんかは、一斉に動く人いきれの様子が丁寧に描かれていて、それこそ劇場作品のような独特の趣がある。今回のコンテ演出はなんと神戸守が担当しているのだが、色んなものをまとめて動かすとなると手慣れたものであった。あとはネッサのとにかく騒がしいドタバタした動きとかかな。このあたりの中心となる要素がちゃんと描かれている間は、まだ中身のことは心配しなくてもいいような気がします。

 で、シナリオ面であるが、現状は正直あまり変化がない。世界説明が何もなく、「ドッペルって何?」「フリュネって誰だったの?」「クレインは何者?」などの疑問が完全に解消していないうちに「触れるドッペル」というイレギュラー要素を持つネッサが登場し、事態がさらに混迷している。今回のエピソードを最後まで観れば、この世界と現実の最大の相違点であるドッペルの存在意義というのは理解出来るようになっているのだが、先に埋め合わせておいた方が、ネッサの登場と暴れっぷりがより際立って面白かった気もする。時計塔での突然の消失とか、機械を暴走させてしまう性質とか、いきなり見せられても、どこまでがこの世界に許された現象で、どこからがイレギュラーなのかピンと来なかったからね。何となくくみ取れるレベルだから「視聴者の理解力の問題」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、不親切の誹りを受ける危険性は常に意識せねばなるまい。ま、どうしても穿った見方をしてしまうが故に出てくる不満点ではあるかもしれないけど。

 少しずつ見えてきたこの作品のバックボーンの1つは、どうやら「家族」「家庭」というファクターであるようだ。「フラクタル」を利用したドッペルシステムは、この世界独特の「自由」の概念を端的に表すツールであり、たとえ家族であろうとも一緒の時を過ごすなどというのは「信頼感を疑うこと」であり「自由を束縛すること」になってしまうという。それ故に、「家を持つ」ことに執着したクレインはこの世界でははみ出しものであり、他の人間連中は放浪するなり何なりして、とにかく家族と時間を共有することはない。しかし、それでは不都合も生じるというので、ドッペルが「自由な家族」を代理で受け持っているわけだ。何とも奇妙な光景であるが、おかげで「異端児」たるクレインに感情移入しやすいのは助かる部分。

 「触れ合い」みたいなものを探求した結果が、ドッペルであるネッサとの関係っていうのも妙な話だが、ここから先は、おそらく「自由とは何か」「関係性とは何か」みたいなテーマで面倒なお話になっていくのだろう。説教臭くなるのはごめんだが、今後とも注目していきたいテーマだ。

 ただ、1つ疑問だったのは、「家族同士一緒に暮らすなんて信頼していない証拠だ」とクレインは言われていたわけだが、わがままゆかちキャラのエンリちゃんは、普通にお兄さんと一緒に活動してたんだよね。ああいう兄妹も普通にいるってことなのかな。ま、ゆかちだからいいや。そして今回はぶっ飛ばし気味の花澤香菜劇場にも注目が集まる。やっぱり花澤はテンションあげ目で少し引きつったくらいの声が一番キュートだ。

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 相変わらず人多杉、な第3話。

 この作品、視聴すべき中心事象が見にくいから追いかけるのが大変なんですよね。一応村の医者と、夏野くらいを中心に追えばいいことは分かるのだが、ガンガン死んでいく村人達の素性と関係性がなかなか繋がらない。縦糸が繋がっている感じがあるので視聴する分に不自由はないのだが、これが2クール後にきちんと収束してくれるのかどうか、今から不安で仕方ありません。

 で、そんな不安な作品で記事を立てた理由がたった1つ。「あおちゃんすげぇ!」ということ。今回初登場となったキーキャラクター、桐敷沙子。そのキャストが悠木碧なのだが、その声の当て方が実に面白い。語尾の癖や独特のイントネーションの詰め具合なんかから「悠木碧である」ことは分かるわけだが、声のバックグラウンドが、これまでのあおちゃんとはまた1つ違った引き出しを開けている印象。これまで「幼女だったらあおちゃんだね!」と気楽に言っていたのだが、幼女でもこれだけの演じ分けのパターンを要するということを改めて認識し、これまでちょっと安易な聴き方をしていた自分を内省した。

 正直言うと、これまでのあおちゃんの演じ方にここまで「役に対する考え方」を感じてはいなかった。「紅」の紫役はほぼデビュー役ということで、たどたどしいながらも「基本の出来た子や」と思っていたくらいだし、同時期に勤め上げた「キルミン」のリコと「ダンスインザヴァンパイアバンド」のミナも、幼女とは言ってもスタンスが全然違うので、演じ分けをそこまで意識せずとも役が成立していた。

 ただ、今回の沙子役というポジションは、どうやらこれまでの「幼女役」とは少し違うらしい。持ち味であるあどけなさはこれまで通りに維持しつつ、舌っ足らずな側面がクローズアップされ、激昂した時のトーンとの対比もあり、平素の発声の時点で、リコとも紫ともミナとも違う声音になっている。「役者なんだから当然だろ」と言われればそうなのだが、きちんと登場シーンから「役の呼吸」を完成させて挑んでいることが分かって、改めて感心し直した次第である。この、役に対してストイックながらも純粋に楽しんでいる姿勢、やっぱりどこか沢城みゆきの影がちらつくんだが……ちょっと先入観が強すぎるか。

 この「屍鬼」という作品は、登場キャラクター数が多いせいか、中には妙なキャストが紛れ込んでいる。そんな中で、一際異彩を放つ悠木節が堪能できただけでも満足であると、そういう報告なのでした。

 作品に触れていないが……いいじゃない。声ヲタだもの。 

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  「終わっちまったよ……」と思わず呟いちゃった最終話。最後の最後まで、「さらい屋」は「さらい屋」であり続けました。この胸の中の気持ち、どこにどうしていいものやら。

 感情的になって酒を浴びていた弥一に、ついに八木が接触した。薄々感づきながらもはっきりとは問いたださない八木の口から、「誠之進」について語られ、自らの「家」が既に無いことを確認してしまう弥一。今更あの家がどうなっていようが、弥一の今の感情はどうしようもない。「もうふらふらですよ」というサブタイトルは、やけ気味になった現在の弥一の心境はもちろんのこと、憎き「弥一」を探し求めて途方に暮れてしまった彼の人生そのものが悲鳴を上げた台詞でもあるのかもしれない。

 そして、「ふらふら」の弥一に再び接触したのが、彼の人生を大きく曲げてしまった男、仁である。「くたばる前に」と言い置いて、仁は「弥一」の真実を語る。誠之進を拐かした計略に、「弥一」は一切絡んでなどいない。下郎に身を落とし、復讐に身を焼きながら生きてきた弥一の人生は、たった1つの嘘から生まれ、たった1つの告白でどうしようもなく壊れてしまう、脆いものであった。

 あまりの事実を突きつけられて自制を失った弥一は、そのまま仁を川に沈め、自らは「弥一」の墓に赴いて嗚咽するだけ。白いものが空を覆い始め、このままではただ、雪の中に泣き続けることしかできない状態。そんな誰がみてもやるせない状況ですら、「空気を読まずに」介入してくるのが、政之助という男なのだ。恥も外聞もなく彼にもたれかかる弥一。一夜の悲劇は、雪が止むのと同時に、空に上がっていったかのように溶けて消えた。

 いつも通り、梅の店に集まる五葉の面々。弥一がどうなったかはみんな気が気でない状態だったが、そこにメッセンジャーとして松吉が現れる。「五葉は、まだ終わらない」。矢も楯もたまらずに弥一に会いに行く政之助。彼が力なく転がる弥一に差し出したのは、初めておごられる側から差し出す側に替わった、たった1串の団子。政之助が差し出したものを初めて弥一が受け入れた。

 

 うーむ。終わっちまったよ……多分視聴後にほとんどの人間が思うが、「仁の始末は?」というのが最大の心残り。いや、弥一とマサが安定を取り戻せるならばお話としては構わないが、どれだけ酷いトラウマを植え付けられたとしても、衝動的に人を1人始末してしまったことに対する埋め合わせは出来ていない。「義賊」としてなりたつ五葉は人殺しなんて容認できるはずもないし、仁がメッセージを届けるだけ届けて退場したことは、流石にこんな短い時間で消化しきれるものではなかった。

 あとはまぁ、マサ×弥一っていう組み合わせが鉄板っぽく扱われていることに対する感情かな。マサの気遣いは良いのだが、今回のエピソードだけでは弥一があの絶望的な状況から立ち直る理由が見あたらないのだよね。確かに政之助があのシーンで弥一の墓にやって来る理由はなく、あそこで巡り会えたことに運命的なまでの「マサの気遣い」を感じることは出来るが、流石にそれで過去の一番辛い出来事が流されるかというと……うーむ。弥一の心のゴールがいまいち見えませんでした。

 ただまぁ、そうしたブラックボックスを描くための構成としては、今回も徹底的な「静けさ」を維持していたのは1クール見てきたファンにはたまらないもの。白刃きらめく刃傷シーンでも具体的な動きを見せないのはこれまで通りだが、最終回と言うことで、飛び散った血潮が画面上にへばりつくというキツめの演出によって、今回の「事件」が作中でも特別なものであったことを示唆している。そして、執拗な「静けさ」は最後の最後にまで影響を及ぼし、政之助が差し出した団子をほおばった弥一は、特に何かを言うわけでもない。ただ少しだけ相好を崩し、団子を受け入れただけだ。これまでの積み重ねがあればこそ、あのシーンは「エピローグ」たり得るのである。そう考えると、この作品のエンディングはやっぱりアレで良かったのかも。

 最後の最後まで、信じ抜く道を貫いてくれた本作。ずぶずぶと沈み込んでいくような視聴感は癖になりました。本当に、そんなものをわざわざ言葉を割いてまとめていくなど、野暮でござった。

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