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最近のアニメや声優、Magicに対する個人的な鬱憤を晴らすためのメモ程度のブログ。
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 サンダルさんの絶望的な存在感、第4話。結局あいつ何で居るのかさっぱり分からないんだよな。

 色々とざわざわするお話が続いています。今作を見ていると、どうしようもない不安感に襲われることがある。それはアニメとしての出来が悪いとかそういう意味ではなくて、「作品がどこに向かうかが分からない怖さ」みたいなのが常に付きまとっているのである。理由は大きく2つ。1つは、まずもって「町興し」というテーマそのものに正解が無いということ。例えば比較してみると、同じお仕事シリーズでも「SHIROBAKO」の場合、「スタッフが愛情を持って全力で作り上げた結果素晴らしいものになったアニメ」は現実でも過去に数多存在している。部活もののようなジャンルでも、「みんなの努力と愛情が実を結んだ成果が素晴らしくなる」ことは定番の流れであり、たとえどんなハプニングが起ころうとも、そこにはハッピーエンドが待ち構えていることが想像出来るからこそ、ある程度の保証を持って見ることが出来るのだ。「花咲くいろは」の喜翠荘再生記の場合、そこには四十万スイという絶対的存在があり、最終的には「喜翠荘の復活」ではなく、「スイの満たされた世界」がゴールに設定された。その結果、最終的に喜翠荘がその役割を終えても、四十万スイと松前緒花という2人の主人公(?)の成長と完成を持って物語はカタルシスを得ることができた。

 しかし、今作では今のところそうしたゴールが見えない。「SHIROBAKO」と違い、「どうしようもない田舎の町興しが成功した事例」が日本にはほとんど存在しない。もちろん探せばいくつかはあるのだろうが、それが我々視聴者の頭にテンプレとしてすり込まれておらず、例えば「何かがきっかけで間野山にめっちゃ観光客が!!」なんて展開になっても、「そんなうまい話あるわけないやんけ」という印象の方が先に来そうなのである。設定された問題は本質的に「SHIROBAKO」と変わらないはずなのだが、「上手くいった事例を全然知らない」という容認度の差は非常に大きいと思う。これですんなり国王が仕事を果たせてしまったら、日本むかし話と同じレベルのリアリティになってしまうだろう。では、「花咲くいろは」と同じように個人レベルの成長記として落とし込む流れはどうかというと、まぁ、現時点ではおそらくそちら側のゴールになるのだろうと思われるが、それでも、満たされる対象が今のところ由乃くらいしかいない。喜翠荘の場合と異なり、間野山は現状に不満を抱いている人間、「救われるべき人間」があまりに多く、ちょっとやそっとの展開ではハッピーエンドを感じるのは難しい気がするのだ。「結局間野山は寂しい田舎町だけど、みんな楽しくやってます」という終わり方は、けじめの付け方としては中途半端な印象になってしまうだろう。そんなわけで、現状この作品の「終わり」が見えていないというのが、漠然とした不安を抱く最大の要因になっていると思われる。

 おそらく、ここまでの流れから考えるに、「なんか色々上手いこといって間野山はそれなりに賑わいました」エンドを迎えないというのは間違いないと思う。町民はそれを望んでおらず、そんな上手い方法は素人考えで実行出来るほど甘くはない。今作は、その部分の最低限のリアリティは保持するはずだ。となると、やはり「由乃(たち)の成長と、由乃にとって望ましい間野山の姿」に辿り付くのがゴールになると思うのだが……一体どうなることやら。

 そして、予測がつかず不安になるもう1つの要因は、現時点では間野山の全容がさっぱり見えていないということである。例えば4話にして初めて登場した要素がいくつもある。間野山彫刻がそうだし、謎の変人発明家ドクもそうだ。まぁ、田舎といっても狭いわけではないので「出てきていない町民」がたくさんいるのは当たり前なのだが、視聴者に対して全ての要素が開示されていない状態が理論上ずっと続いてもおかしくないわけで(あとからいくらでも変な町民を追加出来る)、これも「あとが読めない」要因の1つになっている。極論すれば、「そういえば掘ったけど全然でなかった金山跡があったな」とかいう話になり、由乃たちが掘削したらザクザク金が出て突然人が押し寄せた、なんて展開だって不可能ではないのだ(まぁ、絶対やらないだろうけど)。「間野山とは一体何なのか」という情報開示がどこで「ゴール」になるのかが示されないあいだは、我々はポテンシャルの分からぬ間野山という土地に期待と不安を抱えながら見守るしかない。

 そして、そんな「知らなかった要素」が、今回登場した間野山彫刻だったわけだ。国の伝統工芸にも指定されているというそれなりの歴史を持つ無形文化。まぁ、言われてみればどこの田舎にも探せばそういうものはある気がするが、これがどの程度の可能性を持つ「パイ」なのかはまだ見えていない。単に由乃たちが素人判断で「すごくイイ」と言っているだけなので、その辺の温泉地にあるような割と陳腐なものなのか、それとも本当に人を魅了してやまないような独自の魅力を持つリソースなのか。おそらく早苗が兄弟子の人の様子に惹かれたところを見るに、そこには何らかの求心力はあるはずなのだが、まぁ、そんなもの1つで町興しにつながるならどこの自治体も苦労してないわけで。そして、この「伝統工芸」という武器をどのように使うかで水掛け論が起きるのもお約束。「伝統工芸を安売りするな」というプライド論、「使えるもんはなんでも使え」という商売論。ぶっちゃけ、どちらも別に間違ったことは言っていない。単に、お互いにプライオリティの置き方が異なっているだけなのだ。それ故に、普通はこの議論は解決を見ない。今後の展開としては「伝統に固執する頑固な職人すら唸らせるようなエポックメイキングな工芸品の用途」をワカモノでバカモノでヨソモノが見つけられるかどうかだが……普通に考えたら無理だよなぁ。ドクが開発したそれなりに手頃なパワードスーツを量産する方がよっぽど手っ取り早い収益源になるような気もするのだが……それじゃ間野山の復興にはつながらないのかね。

 やっぱり難しいよ町興し。手っ取り早く戦車走らせよう。あとはしおりさんのおっぱ(略)

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 小山茉美→井上喜久子→中原麻衣とかいうエリート声の家系、第3話。お婆ちゃんは一体どういうフォルムだったのだろうか。

 人、狸、天狗、みなそれぞれに何かを抱えている。まず第一戦は前回からの続きで狸VS人、矢三郎と天満屋の対決。地獄絵の真実を聞きようやく天満屋に対してアドバンテージを得たと思った矢三郎だったが、天満屋は拾い物のマスケット銃で形勢逆転。流石に本物ではないだろ? と思ったら、そういや二代目が落としたって言ってたもんな。ダイナミックな天狗つぶてのせいで手痛い二敗目を喫してしまった矢三郎。前回は催眠にかかって熊の姿で寺町商店街に出没させられるという恥辱を味わったが、なんと今回は「月を奪われる」というとんでもない仕打ち。この「月を取る」時のアニメーションも実に小憎らしいデザインで面白い画面。人だって幻術を極めればこのくらいの遠近法は無視出来るってことなのかな。

 一方的な展開になってしまった人と狸の戦い。しかし、矢三郎の周りのあれこれを聞いているうちに、寿老人だのなんだのと知っている名前が出てきて驚く天満屋。京都も狭い街でございますからな。そして出てきた弁天の名前。憤激する天満屋の様子を見ていると、どうも過去に手を出そうとして寿老人に怒られたっぽいな。弁天の名を聞くだけで喚き散らす天満屋だったが、まるでその声を聞きつけたかのようにして、我らがヒロイン弁天様のご登場だ。なんとも煽情的な衣裳で「欧羅巴の香り」を残した弁天様。真っ白なヒールで踏みつけられたら、後頭部だって大喜びだ。いや、天満屋は憤懣やるかたなしという様子だったが。一応、人VS人の構図ではあるのだが、片や人間をやめて天狗になってしまった身。対決というにもあまりに一方的。憐れ天満屋は月ならぬ星へと姿を変えてしまった。まぁ、生きてるらしいので大丈夫でしょう。久方ぶりの再会で「寂しかったと言いなさい」と迫る弁天に、素直に彼女に応えてみせる矢三郎。なんだかんだで、2人は相性が良いのだ。矢三郎は周りに敵を作らないタイプなのでね。でも、月はなかなか返してもらえなかったね。「月下美人」ならぬ、「美人下月」か。器用にコロコロと月を弄ぶ弁天の仕草を見ていると、世の男どももこんな風に転がされてきたのだろう、と勝手な想像をしてしまうな。

 場所は移って、下鴨一家の家族のお話。お母さん狸と矢三郎が向かったのは、京都の山でもとりわけ深くに入った狸谷山不動院。そこには母(桃仙)の兄という(何だかとてもめでたそうな)狸、そして、もうなんだかよく分からないものになっている祖母がいた。祖母は「目が見えない」という状態に加え、いわゆる痴呆みたいな状態になっているのだろうが、不思議と彼女との対話では老いによる悲壮さは感じられない。実にゆったりとしたテンポで進む母子の会話、そして同じことを繰り返す対話の中にも、何か年の功を感じさせるような物言い。山の中の時間が静かに流れる中、この街とともに歴史を刻んだ狸たちの交流が描かれる。どうも矢三郎ら孫たちのことはすでに認識の外にあるようだが、祖母も何かしら縁を感じる部分は残っていたらしい。3代の狸が人生を営むこの場所は、何だかとても尊いものに思えてくる。

 祖母から受け取った薬を矢二郎に届けに行くと、そこには井戸いっぱいの叡山電車が。……いや、よくわからねぇよ。「叡電にだけは化けられる」って……まぁ、1期最後のアレは確かに凄かったけども。どんだけ叡電好きだよ。下鴨神社だと微妙に叡電とロケーション被ってないぞ。でもまぁ、矢二郎も一応は化けるトレーニングを始めているようだし、薬についても「ありがたく使わせてもらう」と言っていたので、いくらか生活は前向きになっているようだ。あと、将棋大会にも出るってさ。意外とアクティブだが……狸だらけの将棋大会にカエルのままで出場するのかしら。

 そして、矢二郎の情報を聞いた矢三郎は今度は引っ越しした二代目のところへ。小さく映っていた看板を見ると、御池のホテルから烏丸丸太町へ移動した様子。赤玉先生と違って必ず都市部で生活するあたりが二代目らしい。実に見事なアイロン芸を披露し、まさに「折り目正しい」生活をしているご様子だ。相変わらずの様子の矢三郎は幸い(まだ)嫌われているわけではないようだし、素直な矢四郎と一緒ということもあり、二代目はちゃんと歓迎してくれる。アイロンがけを自分でやってたってことは、紅茶やお菓子の用意も全部自分でやってくれたのかな? 出町柳名物の豆モチ(たまこまーけっとのヤツだな)は「手が汚れる」のであまりお気に召さなかったようだが、矢四郎はだいぶ気に入られた様子。矢三郎に対しては憎まれ口も挟みながら、天狗VS狸の対話はそこそこ和やかに進んでいる……はずだったのだが。

 現れ出でたる弁天様。明らかな挑発行動は、浅からぬ因縁を臭わせている。エンディングの映像にあった対決は、やっぱり過去の出来事なのかねぇ。かたや父親から縁を切られた2代目天狗。かたやその父親の寵愛を受け、受けすぎたせいで人を捨て天狗になった女。まぁ、因縁が無いわけないな。見事なテーブルクロス引きから、容赦無く女性を床へと転がす二代目。弁天も、こんな仕打ちは今まで受けたコトがないだろう。メラメラと怒りが燃え上がっている様子がはっきりと分かり実におっかない。次なるマッチメイクは当然天狗VS天狗か。ホント、天狗って我の強い連中ばっかりだな。

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 結局「だんない」ってどういう意味なんだよ、第3話。基本的には「問題無い」なんだろうど、なんか「しょうがない」のニュアンスで使われてるとこがあった気がすんだけど。そもそも間野山って何県何地方なんだ。

 だいぶ主人公が活発に動くようになり、お話が前に進むようになってきました。これ、最後まで由乃のキャラ属性には「30社お祈り」はついて回るんでしょうかね。多分、彼女のアイデンティティを一番良く表してるのがその要素で、今回は多少前向きになって積極的に働きかけるようになっているのだが、何かが空回りしているような、肝心なところで外すような、絶妙な空気。自分の決めた道に向かって無謀に走り始める様子は「花咲くいろは」の緒花に似ているといえば似ているのだが、あちらは走り出したら一直線で不思議な引力を持った四十万の血を継ぎし者。残念ながら由乃さんにはそんな大それたエネルギーは無く、やっぱり「お祈り」属性がついて回る。まぁ、そんな彼女が少しずつ歩を進めていく物語になるのだと思うけどね。割と最初から優秀さが際だった「SHIROBAKO」の宮森とも違うデザインですよね(顔は似てるんだけどな)。

 さて、前回のまんじゅうプロジェクトは見事に玉砕したわけだが、今回はあそこまで無茶な目標が設定されたわけではなく、着実に「国王」としての視野を定めていかないと駄目ですよ、というお話。別にお飾りでも給料は出るのだろうが、そのあたりは一応前途に明るい未来を望みたい現代の若者である。せっかくならやれることをやろう、という前向きさは評価されるべきところだろう。まぁ、ひょっとしたら「町おこし云々」に何かしらの楽しさは感じたのかもしれないけども。前回のノリだったらサークル活動の一環みたいなものだと言えないこともないしな。

 しかし、そんな気持ちの前方修正にも関わらず、いざ眺めてみれば町の方が一切反応を示さないのれんに腕押し状態。住民は国王に興味はなく、町おこしにも興味はない。そうなんだよなぁ、田舎の人間ってこんなもんなんだよなぁ。よくアニメなんかで出てくる「町おこししたい村」のテンプレっていうと、村人が何か盛り上がるイベントとか、「変わるきっかけ」で一喜一憂しているような状態だと思うのだが、現実世界ではそんな村なんてほとんど存在しないんじゃなかろうか。結局、住民がなるようにしかならないと思っているからこその過疎だし、衰退なのである。かくいう私の地元も、駅前は急速にシャッター街になり、郊外型のモールにどんどん客を吸われて昔ながらの商店街は壊滅状態。地方自治体全体を見ても、高齢化が急速に進み、若い者は都会へ出て行く一方。地元に帰るたびに、店が潰れ、跡地に出来るのは老人ホームと火葬場ばかりという、絵に描いたような衰退の一途を辿っている。しかし、だからといって地元住民が何かするわけでもない。だって、何をしても無駄なんだもの。今更ちょっとやそっとの観光客が来たところで自分たちの日常生活に変化など起こらない。郊外型モールに客を取られているとはいうものの、住民からしたら「便利なものが出来てるから行く」だけであって、それで地元産業が衰退しようが知ったこっちゃ無いのである。「将来的に町全体はヤバいのかもしれないけど、今は生活出来てるし、無駄なことをする気はない」という本屋のにーちゃんが言っていたことが、まさに真理なのだと思う。

 そして、実際に「何をやっても無駄」という諦観は九分九厘正しい。最初にテレビのインタビュアーが言っていたことだが、町おこし、村おこしをやろうとして実際に成功した例なんて、失敗例の数の足元にも及ばないだろう。現在の日本のシステムでは、人口の一極集中は止めることが出来ない。もし、自治体を生まれ変わらせるとしたら、全ての住民の生活スタイルもろとも、新たな世界を作る必要がある。そして、地元住民にそこまでの犠牲を払う気などさらさら無いのである。だって町おこしっていってもなぁ。成功した例って何をもって「町が復活した」と言っているんだろう。観光人口が増えたところで労働人口が追いつかなきゃ意味無いし、流石に大量の都会の人間が移住してくるなんてこともないだろうし……。強いて挙げるなら、「地元の産物が有名になり、ブランドとして競争力を持てるようになった」とかかな?(それくらいなら私の地元も頑張っている) まぁ、地元経済も多少の影響はあるかもしれないが、それだっておそらくかなり限られた世帯の話。例えば「間野山のカブがめっちゃ売れる」という事態になったとしても、それで町全体が潤うようになるまで、相当な時間を要するはず。極論すれば、特産も、観光も、「町の復活」という結末に辿り付く道具立てではない気がするのだ。

 じゃぁ由乃たちはどうしたらいいのかというと……分からないですね。だって、実際作中で何も解決してないし。単に気持ちの悪い着ぐるみのなれの果てを全国のお茶の間にお届けしただけですし。まぁ、一応国王の露出が増えたので、多少の話題性はあるのかなぁ。この「何も成功してないけど由乃は少しずつ変わっている」という成長物語の過程も、なんとなく「花咲くいろは」っぽい展開ではあるね。緒花はいい女になったけど、喜翠荘は結局営業終了したんだよなぁ。間野山はどうなるかなぁ。とりあえず、名産品はパッとしないかもしれないけど、しおりさんの胸だけは本物だって信じてる。

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 クリアファイルはゲット済みやねん、第2話。残るポイント、六道珍皇寺は行った時にすでに参拝時間が終わってたから改めて行くとして、ちょっと足を伸ばす必要がある南禅寺、鞍馬駅をどうするかなんだよな……。せっかくだからコンプリートしたいなぁ。

 そんなわけで、京都を巡ってすでに自分の中では盛り上がりまくっている本作、2話目ということでオープニングもつき、阿呆の血もフルスロットルだ。オープニングは相変わらずのご陽気加減であるが、実写取り込みで次々に展開していく京都の町並みが楽しい。エンディングも弁天視点でそこかしこに出向いてるのだが、あっちは何かストーリーがありそうで気になるところだ。まぁ、今考えても正解は分からないし、とりあえずオープニングの愉快な映像をたっぷり堪能しましょう。

 そしてお話の方はというと、前回あれだけ引っ張った赤玉先生と二代目の対決は、なんと不成立であっさり終了。まぁ、あの二代目の性格からしてまともに取りあってくれるとも思えなかったけどさ。問題は、一体何がどうなって2代目と先生があんなに親子の関係を険悪にしてしまったのだろう、という部分だ。百年前に大喧嘩したとやらの話だったが、流石に実の父親に向かって「まだ死なぬのか」は強烈な一言。老いて天狗としての能力も失い、みっともない姿を晒す父親を見て、二代目は憐憫を覚えたのか、それとも本当にただ蔑むだけなのか。天狗は何を考えてるかよく分からないので、二代目の思惑はさっぱり分からんな。まぁ、先生は何考えてるか丸わかりなんだけども……。二代目役を務めるキャストは間島淳司。マジ兄は本当に見事な声音の使い分けが出来る人なのだが、こういうテイストの役はなんだか久しぶりに聞いた気がして、グッとさげ目のところに優雅さと、どうしようもない偏屈さが同居する二代目のキャラがすでに格好良く見える。

 んで、先生曰く「ワシの勝ち」だけど、事実上の不成立で天狗騒動は一旦幕引き。ここからいよいよ、2期の話に少しずつ足を踏み入れていく。どうやら京都の市中では色々と便利に使われているらしい矢三郎は、矢四郎に海星との関係性をつつかれたところから逃げるようにして、寺町商店街の屋根の上へ。この屋根の上の景色も、1期の見事なエピソードの印象が強いので「記念すべき場所」であるはずなのだが……まさかのラーメン屋。京都といえばラーメン屋。森見作品といえば屋台のラーメン屋。いやいやいや。相変わらず想像も出来ないような頓狂な情景をスルッと引き出してくる作風だな。1期では商店街の屋根の上から一面の桜並木へ、そして今回はうらぶれたラーメン屋台。このギャップな。一度でいいからマジで寺町商店街の屋根に登ってみたいものだ。本当にあんな景色(ラーメン屋は無いとしても)が広がってるんですかねぇ。

 現れ出でた新キャラは、久米田テイスト強めの怪しい親父。CVは島田敏。これまた際だってる。いかにも「狸らしい」人を食ったやりとりが続くが、最終的には初戦で敗れたのは矢三郎。この子、正面から化かすって言ってぶつかる時は案外真っ正直なのよね。話の成りゆきからして、熊ぐらいじゃどうにもならないことは想像出来そうなもんだが。あえなく返り討ちにあい、一歩間違えれば猟銃でもなく警察の銃で射殺されるところでしたよ。考えてみりゃ、こんだけ人外が暴れ回る京都の街を守ってくれる警察官って本当に大変だよな。すんでのところで救ってくれたのは、なんと美少女・海星さん。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ彼女の人間態が見えましたね。美少女ですよ。声だけでも美少女なのに。

 まさかの化かしあいに敗れた矢三郎。相手の素姓もよく分からぬまま淀川先生のお手伝いに向かうが、そこで出会ったのは謎の画家・菖蒲池先生と、その取り巻きとして再会した天満屋。うーむ、京都の町も広いようで狭い。いや、毛玉界隈が狭いだけかな? 菖蒲池先生も一歩間違えれば仙人じゃないかと思われるような俗世と切り離された人で、金曜倶楽部での淀川先生のすったもんだなんかもご存じの様子。そして、何故か天満屋にも好かれている。どうやら、菖蒲池先生が地獄絵に仏を描いたことで彼が「救い出された」らしい。となると、寿老人も実はかなりのやり手か。この街、でっかい怪異がおおすぎやしませんか? 一応の目星がついた矢三郎はさっそく報復に向かい、見事に計略があたったように見えたものの……どうやら天満屋は本当にただの人間なんですかね。そして、その人間は狸を「化かす」と。いやー、今回だけで矢三郎は銃口を2回も突きつけられてるわけですよ。今期はかなりハードボイルドな展開に……なってないけど。はたして、天満屋打倒は成功するんでしょうか?

 なんだか物語があっちこっちへ飛んで忙しいのだが、それでもつらつらと流れるどこか人を馬鹿にしたような空気は健在。今作を見ていると、本当に近所で狸どもが頑張っている様子が容易に想像出来てしまうので、なんだかワクワクするのは本当に近隣住民の特権だ。こうして文章を書いている今も、きっと夜の京都で何か馬鹿げたことが起こっているに違いない。みんなも、京都に来て確認したらいいと思うよ(そしてクリアファイルをもらえばいいと思うよ)。

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 P.A.作品だけで声を聞くことが出来る役者、それが西地修哉、第3話。何故か分からないが、「有頂天家族」でアニメデビューしてから「SHIROBAKO」で万策尽きて、こんどはこっち。役者の業界とアニメの繋がりって、いまいち分からんよね。

 さておき、第2話では色々と文句を言っていた作品の3本目。基本的なスタンスは変わらず、やっぱりどこかピントがずれているせいでシナリオラインはあんまり面白いとは思わないのだが、今回は2話目のように謎の根幹部分が理解不能だったわけではないので、一応納得できる範囲内にはある。「退出ゲーム」という試み事態は面白く、見ていても「そんな馬鹿な」とか「どうでもええわ」みたいな感情が、高校生にありがちな「よく分からない盛り上がり」を想起させてちょっと楽しかった。マジで完全アドリブの「退出ゲーム」をルールありで劇団員とかにやってもらったら面白そう。まぁ、あんなガバガバのルールだと何していいのかすらよく分からない気もするけども……。

 こうして、「なんかよく分からないユルい遊び」が出来るというのは、数少ない「日常の謎ミステリ」の利点ではあるかもしれない。人の生き死にを扱うミステリではこうして「どうにでもなるやん」的な状況設定は好まれないが、今回はあくまでもゲーム(の名を借りた茶番)だったわけで、その設定を活かして人情話を作るというのは、「ミステリ的な衣装」を何となく借りて物語を作りたい、というニーズには合っている。別にミステリにくくる必要も無いのだろうから、「何となく賢そうなことをやってる気がする」という意味ではゲームバトル漫画なんかにも近いのかも。これが格段に面倒だったり周到だったりすると、「嘘喰い」とか「アクマゲーム」みたいになるわけだ(いや、ならないかもしれないけど)。

 ただ、そうした「この作品ならではの利点」については何となく認めるものの、やっぱりお話の中身は噛み合ってない。まず、今回のお話の目的がマレンの過去の清算である理由が分からない。「吹奏楽部に入って欲しい」っていう部分から「マレンの悩みを取り除いてあげればいい」という結論に到るのは理解出来るが、そこに到る過程の部分が無いのであまりにも一足飛びだ。ハルタは森羅万象を一瞬で悟れる超能力でも持っているのだろうか。昨日の今日ですぐにマレンのアイデンティティに関わる一番デリケートな部分に踏み込んじゃう神経が理解出来ない。彼の過去話が漏れたとしたら流出元は旧友か先生ってことになるのだろうが、個人情報をなんだと思ってやがるのか。こんな茶番に巻き込まれ、センシティブな問題を公衆の面前で暴露されたマレンは確実に被害者である。

 そして、こうしたマレンの悩みとその改善を求める動機を認めるにしても、今回の茶番は全く必要無い。マレンの説得だけだったら、さっさと会議室にでも呼び出して今回展開したのと同じ説教を垂れればいい。わざわざ茶番を用意し、面倒な舞台でチカちゃんをテンパらせる必要はない。何故わざわざそんな舞台を用意したかというと、「その方がミステリっぽい」という描き手側の都合でしかない。「退出ゲーム」という何となく面白い題材があり、そこに何となく「退出することでハッピーエンドになる人物」を絡めたらこうなっただけなのだ。目的と手段が入れ替わっており、まさに本末転倒。マレンのために演劇があったのではなく、演劇のためにマレンという人間がこの世に存在した。これではお話として納得できるはずがない。あんなしょうもない叙述トリックが見せたかったのだとしたら……流石に舐めてるとしか思えないぞ。

 うーむ、肯定的な書き出しからスタートしてみたが、やっぱり駄目だった。何か今後プラスに働く要素があればいいんだけどなー。

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 俺に解けないパズルはねぇ! 第2話。いやー、懐かしいね、ファイブレイン。なかなかの秀作だったのに全然知名度が無いんだよ。みんな見ようぜ。

 先週の時点で「何アニメか分からないからどこにいくのか予想がつかない」と言っていたわけだが、どうやら正解は「吹奏楽アニメ」でも「学園青春アニメ」でも「ガチホモ三角関係アニメ」でもなく、「日常の謎解きアニメ」のようだ。もちろんその他の要素もあるのだろうが、少なくとも「全力で吹奏楽部の魅力を描こう」なんて方向性ではないようだ。ただ、残念ながらわたしゃ「櫻子さん」の時にもちょっと触れたが、あんまり日常の謎系は得意じゃないんだよね。「氷菓」からずっと(いや、そんなに作品数ないけど)。

 例えば今回のお話を例にとってみよう。今回与えられた謎は「一面真っ白なルービックキューブ」という謎。一応「一面真っ白なのにどうやったら正解が分かるのか」というのが問題なわけだが、実際にはそんなもんに正解があるわけがないので、「出題者は何を考えていたのか」という問題に還元される。つまり、結局は理屈の面で解決し得ない人の心の問題なのだ。謎解きというよりもカウンセリング、気の持ちようでいくらでも解決がある。今回、依頼人の成島さんはハルタが彼女の情に訴えかけるような演出を施したためにあれが「正解」であるかのように思わされたが、実際にはそんなことはどこにも書いていない。簡単にまとめれば「剥がれる塗料が塗られており、その下に正解が書かれていた」だけの話。もし成島さんが「白いままで解けるわけがない」と思い、ガリガリと爪で削ったり、何らかの溶剤で溶かしてしまっていたら、ハルタがやった「キューブに色を塗る」という過程は経ずに正解の文字列が現れてしまい、簡単に「メッセージ」まで行き着いてしまう。その場合、「なんや、単に隠していただけやんけ」で終わってしまうだろう。

 そして、実際に今回のパズルは「隠していただけ」なのである。成島さんは遺品だから絶対に傷つけまいと思っていたために「剥がす」という選択が出来なかったが、普通の人間が手にとれば、十人中九人は「上から色塗ったんだから、その下になんかあるだろ」と思うはず。真の正解がその一歩上をいけば謎としても、謎解きとしてもエレガントなのに、この話では、その十人中九人が思い至る第一歩こそが正解。つまり、何のひねりもない。せめて塗料の剥がし方に何か一手間あるとかなら意味もあるかもしれないが、本当にやろうとしたら塗料の性質を調べ、さらに剥離のために時間をおいて待つというあまりに地味な行程が待っている。そんなもん、正解を確信してからでないと出来るわけがなく、遺品を傷つけられない成島にとって、事実上正解など無かったのだ。まぁ、「油絵の具を塗る」なんて正解は普通行き着けるとは思わないが……とにかく正解を正常な思考から導けない時点で、そんなものはパズルとは言わないだろう。

 もちろん、だからこそハルタという外的要因が介入し、彼女の閉じた心をぶっ壊すというお話が成立するわけだが、今回のハルタの口ぶりでは「成島さんが自ら気付くべきだった」的なニュアンスになっている。弟君が、姉の克己を促し、自分の死後一人で歩けるように、一歩目のはっぱをかける目的だったように語られている。もし実際にそうだったら、弟君は何ともスパルタな人間だったということに。そして、「克己したら姉はこのキューブに油絵の具を塗ってくれる」と考えたと。訳が分からない。

 結局この手のお話は「ハルタが示したのはあくまでも『ハルタの考えではそう』なだけで、正解がない」というのがもやっとする原因。加えて今回は「白いキューブって言われてたけど、白いはず無いやん」というあまりに無体な選択肢が解答として与えられたせいでさらにもやっと。あんまりこの先の謎の展開にも期待が持てない気がする。まぁ、誰か人が死ねば……いやぁ、死なないだろうなぁ。

 救いがあるとしたら、タイトルの通りにチカとハルタの関係性は見ていて面白いってところ。「頭の悪いヒロイン」ってのは多々あるが、ここまで主人公にぼろくそ言われる下等扱いのヒロインってのはなかなかいない。ハルタのあまりにストレート過ぎるチカディスが際だっている。ここまで悪く言われたらイラッとする部分はあるのだが、ハルタの場合はマジで女の子に興味なさそうだからしょうがないんだよなぁ。ホモ強いなぁ。

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 さぁ考えろ、最終話。智恵を絞ってもしょうがない、イマジネーションを絞って考える。このアニメに描かれてきた意味を。

 今回新たに描かれた情報というものは、実はほとんど存在していない。つまり、今回はこれまで描かれてきた作品世界の「店じまい」、いわば答え合わせのような最終回であったはず。何が解き明かされたということもなく、何かが進んだ、終わったという印象もない。本当に「ただ夏休みが終わった」お話である。つまり、このアニメに籠められた意味は、全てここまでのエピソードで描かれてきていたということ。それを、「読み」「解かねば」ならぬ。もちろん、「解く」とは言っても明確な答えが存在しているわけではないだろう。あくまでもそこに見える絵は人それぞれであり、そこにどのような意味を付与するかを考えろ、ということである。それが制作者の意図に合致するかどうかは、また別次元の問題だ。

 さて、本当に今更の話だが、「グラスリップ」というタイトルは一体どこから来たのだろうか。英語表記では「GLASSLIP」となる。GLASSは当然「ガラス」であろうから、問題は後ろの「LIP」の部分。ここでそのまま「LIP」であるとすると、「くちびる」の意味になってしまって流石に意味が通らないので、普通に考えたら「SLIP」との組み合わせと見るべきだろう。辞書で確認すると動詞「SLIP」は様々な意味があるが、最もイメージの強い「滑る」の他に、「こっそり動く」「時が経過する」「滑り落ちる」「解き放たれる」「(記憶が)消える」「間違う、誤る」などがあるようだ。おそらくタイトル決定時に具体的にどのような意味内容で「SLIP」としたのかは明確に決まっていないのではなかろうか。あくまで、こうした意味を持つ動詞の総体を見ての名付けなのではないかと思う。

 さて、この一夏のドラマの中で、滑らかに「すべり、経過し、消えて、誤って」いた存在とは何だったか。最終話、ラストシーンまでの描写を鑑みるに、結局このお話は「沖倉駆という存在を読み解く」お話だったのではないかという結論に達した。その証拠に、最終話に至っても駆という存在には明確な「正体」が与えられておらず、ラストシーンでは登場キャラクターがそれぞれに夏休みを終え、新学期に向かっている姿が描写されているのに、駆の姿は一切描かれず、最終的には透子に声をかけた一人称視点だけが記録されている。当然、これまで駆の一人称視点などというものは無く、それどころか駆自身すら、自分のことを三人称視点から見ていた(いわゆる分身の術である)ことから、駆というのは、ひたすらに観察対象であり、読み解く側ではなく、「読み解かれる」側だった。透子も、やなぎも、何故か知らないが夏が終わると駆はどこかに消えてしまうのではないか、という不可解な疑念に駆られていた。確かに、フラッとこの街にやってきた駆は一度も登校なんてしたことがないし、このまま消えてしまってもおかしくないかもしれない。彼の父親も、「大人なのだから好きにすればいい」と彼に対しては自由を与えており、「消える」ことすらも是認しているかのようである(考えてみれば、沖倉家のどこか落ち着かない浮ついた感じは、親子3人に共通している)。しかし、「引っ越してきたばかりの高校生がいきなり消える」なんて事態はあるはずもなく、常識的に考えれば「2学期からよろしく」というはずなのである。それが危ういと感じられるということは、沖倉駆という存在が、それだけ危うく、不安定なものであったということの証左に他ならない。「滑り、つかめないもの」。それが駆だ。

 と、書いては見たものの、未だ彼の「示す」ものに答えは得られていない。漠然とした「青春の1ページ」と言ってしまえばそれまでだろうか。先週までの読解では透子と駆の見る「未来の欠片」は「心象」という更に漠然としたものであるという処理がなされてしまったわけだが、沖倉駆という存在は、そうした「心象」を肩代わりし、少しの不安と、少しの希望と、大きな不可解を抱えた、青春時代の心象そのものとも解釈出来る。だからこそ彼は、あらゆる知り合いとぶつかりながらも、どこか気になる様子を残す存在だった。どこまでも利己的で、どこまでも野放図でありながら、不思議と捨て置かれることもなく身近にあり、特に「恋愛感情」との関わり合いを強く持っている。今回駆と接触したのは透子以外ではやなぎだけであるが、彼女がわざわざ彼を屋外へ引っ張り出して対話した場所は、あの、雪哉が透子に告白した「ベンチ」である。彼女は一度、「坂道」で妙な空気になったこともあるが、常に恋愛感情を強く意識しながらの青春を歩む女性である。彼女が駆との対話に選んだ場所が衝撃の「ベンチ」だったことも、なんだか彼のスタンスを表しているようで興味深い。「やなぎだったらそこは日之出橋なんじゃ?」と一瞬思ったが、考えてみりゃ日之出橋は「やなぎと雪哉の場所」であって、それ以外の人間を介入させる余地はないかな。

 「沖倉駆は観察者ではなく、被観察者である」。この1つの転換によって、この話はまるっと姿を変えてしまう。普通、「恋愛アニメ」と言ったら全てのキャラクターが同じ世界に立ち、競い合うことで成立すると思ってしまうところに、まさか1人だけ次元を違えた存在が混じっているとは今まで考えてこなかった。そして先週までは、彼のアクティブな行動原理から、てっきり「彼が物語を紐解く」物語なのだと思っていた。しかし、あくまでもこの物語を読み解き、世界を「知る」べき存在は、「見える」側の代表である透子だろう。彼女は常に「駆が見える」存在であり、「駆のことを考え」「駆の介入を許す」存在である。駆の持つ「聞こえる」はいつしか透子へと譲渡され、透子は完全な観測者へ、駆はその透子の手によって観測される側へ。それはつまり、透子が、青春時代の1ページとして、自分や回りの友人たちの持つ心象風景と向き合う物語。作中ずっと駆が「分からない」存在だったのはむしろ当たり前のことで、彼を読み解き、この街の中、若い男女の中で解体することこそが、このアニメの真の目的意識だったのではないだろうか。

 

 うーむ、とりあえず一通り書いてみても、我ながら胡散臭い論調になっているとは思うが……多分、一回最初から見返さないと答えは出ない。いや、それでも答えが出るかどうか分からないけども……。しかし、おそらく制作側が意図している答えは存在している。無責任に意味の無いものを垂れ流しているだけではないはずだ。今回そう確信出来たのは、透子が2回目のピアノを聞くシーンが描かれていなかったことからである。普通に考えれば、最終回のあのシーン、透子が「たどり着けそうな答え」にすがるシーンなのだから、成功にせよ失敗にせよ、「透子の見た音楽」は視聴者に提示するのが普通である。「これが結論だ」と、一番分かりやすい形で見せて、決着をつけにくるはずだ。それが無かったということは、「そこも含めて、わざわざ見せずとも理解の及ぶ風景がある」と制作側が意図しているということである。「描かなくて良いから描かない」のである(まぁ、「書けない」という可能性も無いではないが)。さぁ、今一度この物語を振り返ってみるのだ。

 ……ごめん、時間無いんだ。とりあえず、ここまでで勘弁してくれ。余裕があれば、他の視聴者の得た「答え」も見てみたいものだなぁ。

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 ムズい、第12話。正直、現段階ではお手上げの状態。いくらでも勝手な「意図」を付与していくことは出来るエピソードなんだろうが、さて、何が正解と言えるのか……ラス前でこれをぶっ込んでくるのはすごい英断だなぁ。

 これまでとは何もかもが「逆」になった不可思議な町の景色。あらゆる要素がこれまで描かれてきた物語の中にあるものばかりなのだが、何かが少しずつずれていく。アナザーストーリーとしては短いほんの十数分ほどの「異世界」であったが、何も分からずに見ている身にはものすごく長く、ハラハラする時間だった。一体何がどうなっている? この世界は何を語るべくして生まれている? このタイミングで入ってきた訳は?? 本当に1秒でも目を離したらそのままおいて行かれそうな、とんでもない緊張感。多分、その中には「このままだと全てを放り投げてこのアニメがぷつりと切れてしまうのではないか」というイヤに現実的な不安もあったのだと思う。幸か不幸か、今回もちゃんと幕引きはいつも通りの町の風景に戻ってきてくれたわけだが、わずかな期間の旅路の意味は、いまだ謎のままである。1つだけ確かなことは、あの世界は、「欠片」だったということだ。

 何もかもがちぐはぐだった不思議な世界、敢えて「異世界」と呼ばせてもらうが、この異世界の中では全て少しだけが違う。ずっと夏だったはずの景色は冬になり、花火が打ち上がるのは何故か雪の中。町を訪れる異邦人は駆ではなく透子だ。駆は、透子をこの異世界へ迎え入れるホスト役を果たすためか、現実の駆よりもいくらか話しやすく、笑顔も見せるようになっている。他の面々ともきちんと話が通じているし、そのポジションはまるで、現実世界の透子のようでもある。この異世界の「冬」がどのくらいの時期を想定したものなのかは定かではないが、たとえば祐と幸の関係性をみると、これは現実世界の「後の時間」のように見える。祐から幸へのアプローチはいつも通りと言えるが、幸の反応や、2人の割とストレートな距離感からは、既に完成した2人の人間関係が見て取れるのだ。これはやなぎと雪哉の関係にも似たような空気がある。これが「現実の続き」の「冬」であるとしたら、透子と駆の存在を除いてしまえば、まさに「未来」の欠片である。

 しかし、そうなると不可思議な部分もある。例えば雪哉の膝のこと。ぼんやりとした表現にしていたのでどちらとも取れるが、「怪我をしたら元も子もないからな」と走り出したということは、この雪哉は「怪我をしていない」ように見えるのである。つまり、「怪我をせず、陸上でドロップアウトもしない、あの夏の松葉杖の無かった雪哉」ということになる。祐と2人で山登りを達成したはずの幸も、今回は部屋で体調を崩して花火を見に行くことが出来ない状態にあり、「夏の一幕」が削られているようである。つまり、この世界は「人間関係こそ完結しているものの、あの夏の何かが足りない」という世界。それなのに、唯一透子の中で決定的に「足りていなかった」はずの駆との関係性だけは、不思議とこちらの世界の方がスムースであり、駆だけが「町」と「透子」を繋いでいたというのも不思議なところだ。

 一体何故このような異世界、「未来の欠片」が創造されたのか。その答えは、結局「未来の欠片」が一体何なのかが分からないと解答は出ないのであるが、やはり駆が独りごちていたように「心象風景」というのが一番近いニュアンスということになるんじゃないだろうか。自分が感じている漠然とした「印象」が実体を伴って現れるもの、それが「欠片」。もう、こうなってくると全てイメージだけの読み解きになってしまうので唯一解など出るわけもないのだが、「何となく感じていることじゃないの?」という程度で収めておくと、一応これまでの「欠片」にも何となく説明はつく。一番の問題となっていた「カラスの群れ」については、騒がしくなってきた身辺に対する不安や、自分の周りで次々に進展していく人間関係への焦燥感のようなものが透子をかき立てたものであると理解出来るし、「だまし絵に落下する駆」も、メンバーの中で風当たりが強くなっていく駆への不安感、自分も阻害しているのではないかという疑念の具象化と受け取れる。そしてなんといっても「雪」である。前回は透子のいないところでも具現化していた「雪」だが、やはり、これは「不安」の象徴であり、駆の言葉を借りるならば「孤独」の1つの具現化であろうか。前回の読み解きでは「雪は決して冷たいだけではない」という真逆のことを書いた気もするのだが、今回の「冬の花火」の情景を見ていると、やはりどうしてもネガティブな要素は無視出来ない。透子にとっての「孤独」は、回りの仲間達が自分の与り知らぬところで新たな人間関係を作り出していくことへの焦りや疎外感が主な原因であると考えられるので、そうした面々の回りに「雪」が生まれたことは、彼女の「当たり前の孤独」の表れであると理解出来る。

 そしてなんといっても「駆とのキス」である。これまで垣間見てきた欠片の中でも一際異彩を放っていたあの「欠片」が透子の心象であるとするなら(そしてそれを至極単純に理解するなら)、それは自身にすら認識出来なかった恋心の表れということになるのだろう。キスシーンはやはり「孤独な」雪の中、雪哉のせいで「恋愛感情」を強く意識させられた美術準備室でのことであった。「何故あんな危ない駆に心を寄せることがあるのか」と言われれば、やはり「同病相憐れむ」というのが納得の行く説明で、2人とも、「自分の内面を外部刺激として無意識に受信してしまう」という奇特な悩みの持ち主ということになる。積極的にその「欠片」の問題に挑み、これまで自分では読み解けなかった「孤独」へのアプローチが一歩先んじている駆にあこがれを抱くことは、そこまで理解出来ない心の動きではあるまい。彼女の心はいまやすっかり「雪」に覆われ、町1つまるごと創造するに至った。そんな中で唯一「見えて」くれるのが駆であるという今回のエピソードが、最も分かりやすい透子の「中身」といえるのではなかろうか。

 今回こうも壮大な「欠片」の旅に出た理由は、どうやら「深水の工房で作られたガラス」と「沖倉の家系を形作った音楽」という2つの外部刺激の重なり合いに原因があるようだ。駆が影響を受けた様子がないのは、彼が最近「欠片」を聞かなくなったためか。しかし、彼も前回は花火が「見えて」いたんだよなぁ。2人の「欠片」は、最終的に共有出来る感覚にいたるのだろうか。今回は本当にこの2人についてしか描かれなかったので、最終話も後はこの2人の問題を片付けるだけ、ということなのだろう。

 期待半分、不安半分でドキドキしながら一週間待つべし。

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 今回の殊勲賞は間違いなく陽菜ちゃん、第11話。別に律儀に全部食べなくてもいいのにね。他の容器に移して取っておくとか、最悪捨てちゃってもしょうがないと思うのに、ちゃんと全部食べる陽菜ちゃんは偉い。

 前回までの突き放した展開とは違い、今回はどこか1点に収束しつつあることが強く感じられる「まとまり」の突端という印象のエピソード。このアニメでは既に悪のりになりつつあった止め絵演出もほとんど無く、1つ1つのシーンの意味はかなり取りやすくなっている。今回のコンテ演出が篠原さん1人の作業ってのが分かりやすかった要因なのかも。今更ながら「この作品における四隅のトバシは強い陽光の演出」ってことを確認出来たし(ほんと今更だな)。

 既に3つの物語のうち、2つはエピローグの段階に入っている。既に長い長い後日談の様相であり、細かく紡がれるそれぞれの断片は、既に「6人の物語」ではなく、「3組の物語」としてほぼ完成している。最終形が見えずにたゆたっているのは透子・駆のペアのみである。

 今回最も分かりやすく「動いた」のは祐と幸のペア。幸の方から「山に登りたい」という無茶なお願いが提案され、当然、祐の方は一も二もなくこれを承諾、彼女がかつて成し得なかった「自力での山登り」にチャレンジすることに。ここで、幸にとっての目的は「山に登ること」それ自体ではない。もちろん、検査入院で身体に大きな異常がないと分かり、多少身体に負荷をかけてみたいという気持ちが出たこともあるかもしれないが、最大の目的は「祐と2人で登ること」であり、祐の前で、新しい自分の姿をしっかりと見せ、その上で自分の気持ちを確認することにある。自分のこれまでの「汚い」行いについて自問し、それを隠し立てせずに祐に打ち明けて、認めてもらいたかったのかもしれない。俗世を離れ、なんとか自力で登った山の上で、彼女は改めて祐に「謝罪」し、月を媒介とした文学的な告白イベントとは別に、きちんと人としての義理を通したわけだ。祐はそんな幸の姿勢とメッセージを当然のように受け止め、器のを大きさを見せた。まぁ、彼の場合は「何も考えてないんじゃないか」とか思われてしまうかもしれないが、荷物を持って登ってあげる姿勢、そして下山の時の彼女をおぶって降りてくる姿など、実は無神経に見える祐こそ、幸の求める「素直な気持ちの接し方」をしてくれる人物なのだろうと確認できる。「見えていないということは、怖い」。改めて打ち明ける幸に対しても、祐は接し方を一切変えなかった。正直、幸は透子への思いを完全に捨てられたとは言えない状態なのだろう。月の下で自分の姿を透子に「聞こえる」ようにした後も、彼女はまだ自分の姿が見えていないかもしれない。そしてその状態は何よりも怖く、悲しいのである。そのことを一番分かってくれるのは、同じように幸が「見ていなかった」祐である。彼の姿は、まだ幸の目に完全に「見えて」いるかは定かじゃない。しかし、おぶって山を下りる2人の距離に、次第にはっきりとその姿が見えてくるのだろうという安心感があった。

 言葉少なに互いの信頼感を確認し合ったのが、やなぎと雪哉のペア。今まではやなぎの一方的なアプローチであったため、やなぎは雪哉が部活で何をしていたか知っていたし、一緒に走って、彼の見た景色を追いかけることが出来た。しかし、そんなやなぎの姿勢に返礼しようと思い立った雪哉は、やなぎについて何も知らない。廊下でそんな話をする2人のポジショニングが象徴的で、2人は「見える」位置で並んで話していたはずなのに、自然な流れでやなぎだけが自室に入って雪哉には「見えなく」なる(それ以前の位置取りも、やなぎは雪哉の後ろから階段を登っているので「見えない」位置なのである)。そして、部屋の中から顔を出して「練習見に来る?」というわけだ。結局、このペアについても幸と祐のペアと同じく、互いの立ち位置を確認し、前に進むための第一歩を見つけ出すことが目的となったのだろう。わざわざやなぎのダンスレッスンを見に行ってこっぱずかしい思いをする雪哉。それでも、帰りの電車で口から出てくる台詞は随分前向きで、素直なものである。そしてついに、彼は「透子ともう一度話をする」とやなぎに切り出すのである。一度は告白した透子に何を言い出すのか、もうそれは明らかだろう。やなぎにそれを伝えた場所は、二人にとってはそこが定位置、日之出橋の上でのことであった。

 さて、2組は片づいたのに、残る一組は相変わらず謎めいている。今作で一番分からないのは当然駆だが、透子さんもやっぱりちょっとおかしな感性。突然家に帰らず美術準備室で一夜を明かすことを決めてみたり、問題解決の糸口として「駆の母親のピアノ」を聞くことをあっさり承諾したり。どうも、前回のキスではっきりと意識するに至ったみたいだが、透子は大した理由はなくても「駆は自分と一緒にいてくれる人」であると認識したようなのだ。駆の方は「透子が好きなんじゃなくて謎が解明したかったんじゃないかなぁ」という話を聞いているのにも関わらず、そう思ってしまっているのはどうしようもない。もちろん、自分の中では解決した問題だとは言えないわけで、そうした重大事をまとめ上げるための猶予をもらったのが、一晩の美術準備室だったのかもしれない。まぁ、一人でぼんやり思索しようと思っていたのに、隣に当の本人がいたのは計算外だっただろうが……。そして、駆の方も自分のはっきりしない動機を「透子への好意」であると認定した。それを真っ先に報告したのが母親ってのもどうかと思うが、今まで宙ぶらりんではっきりしていなかった「お互いへの気持ち」が、今回ようやく明文化され、形として現れたわけである。

 そして、何故かスムースに展開されるご両家面談の儀。「息子が女の子を連れてうちにくるよ」でおかーちゃんとか親父さんがちょっと浮かれるのはすごく分かるけど、「娘が男のうちの母親のピアニストに招待されたからついていくよ」は、お父ちゃん、きな臭いものを感じていいと思うんですけどね。深水家はおおらかなご家庭だ。今回2人の家庭の邂逅で色々とはっきりとしたイメージモチーフがあり、深水家の「光」という職業意識が持ち込んだ花瓶を中心としたライティングに現れ、それに対抗して沖倉家が司るのが、今回のサブタイトルである「ピアノ」に象徴される「音」である。2人の「未来の欠片」にもこのテーマははっきりと出ており、互いに何かを求めていても、「光」と「音」のモチーフが対象として一致しなかったためにすれ違いが起こっていたのかもしれない。

 そう、ずっと透子ばかりが見えて悩んでいた「雪」については、「音」を伴わないものだからこその困惑である。これまでの数話の間ずっと透子(と視聴者)を悩ませてきた「雪」であるが、ひょっとしたら我々にも大きな勘違いがあったのかもしれない。この真夏の陽光の輝きの中でアニメが展開すると、どうしても「雪」というモチーフは冷たく、暗い印象になりがちなのだが、今回、幸・祐ペアややなぎ・雪哉ペアの関係性が深まり、成就したシーンでも、この雪はちらちらと姿を見せていた(4人には見えていないので、あくまで「欠片」の一部である)。つまり、あの雪というのは決してネガティブなものではなく、何らかの「感情の純化」によって得られる心象風景なのかもしれない。「光」と「音」は非常に刹那的なものであり、一瞬の産物であるからこその美しさであるが、「雪」のように存在が具象化し、そこに「積もる」要素が生まれることで、瞬間的ではなく、何か長期的な感情の蓄積が見え始めるのではないか。それこそが、駆の訴える「孤独」という一時の感情を乗り越える鍵になるのかもしれない。

 ……と、ここまで無難にまとめてはいるが、次回予告で衝撃の一言が発せられたので次回の展開に全く予想がつかない。自己紹介するメンバー全員は別にいいのだが、「私が見えるの?!」ってどういうことだ? このアニメ、大どんでん返しとかあるのかな? 何が起こるか、次回の花火を待つしかない。

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